〜告白の夜〜



 窓の外は薄暗くなっている。もう夕暮れ時だ。
 誠と謙は、ただ話した。この八年の事を。けれど本当に話したいことはこんな事ではないと、お互い解かっていた。
 誠は、ただ切り出す勇気がなく、謙はその誠を理解していたから。
 だから『答え』は求めなかった。
「う…ぅん…」
 寝ていた箕郷が小さく声を漏らして目を覚ます。
 むくりと起き上がってしばらくぼーっと周辺を見回し、それからはっと二人を見る。
「あ、えっと…今の夢?」
 その箕郷の様子に謙は微笑んで立ち上がる。
「夢だが、実際にあった事だ。どうかな?今の気分は」
「解かんない」
 本当に解からない。色んな感情がごちゃまぜになっていて、解からない。
 どうして誠が謙の事をそんなに大事に想っているのか、どうして謙は誠を欲しがっているのか。はっきり言えば、まだよく解からない。ただ一つ解かる事は、誠は、謙のためだけに護達の処にやって来て、謙のためだけに生きている。その中で迷っているのは彼を傷つけるかも知れないと言う事実と、少なからず護達を大切に想っているからだ。だから、裏切る事も選び取る事も出来ずに迷っている。
「まぁ、何にしろこれで解かっただろう。俺と誠の関係が」
「…うん。でも、どうして誠が此処に?」
 箕郷は誠の方を見て言う。本当に解からない、といった顔だ。
 謙は薄く笑い、誠の代わりに答える。
「君を迎えに来たんだそうだよ」
「え、私を…?」
 箕郷は驚いて誠に尋ねる。
「まさか、此処まで無謀な人間だとは思わなかった。わざわざ一人で敵地に乗り込むなんて」
 誠は溜息混じりに言う。冷ややかな表情。
 迷惑をかけたのだろう。苛立っているのかも知れない。箕郷はしゅん、と落ち込む。
「素直じゃないな。心配だったと正直に言えばいいだろう。八年前の方がまだ素直だった。おや、帰るのか?」
「謙さんっ」
 誠は少し顔を赤くして言う。
「ご迷惑をおかけしました。それじゃぁ失礼します」
 箕郷を連れて出て行こうとする誠を謙は腕を掴んで引き止める。
「『答え』はもう少し待った方がいいかな?」
 そう言えば、誠はびくっと肩を震わせる。
「あ………っ、フロレアの王と軍の総司令に伝わっている言葉を教えてください。でなければ『答え』ることは出来ません。それぐらいなら、いいでしょう?」
 誠はそう言い、恐る恐る謙と視線を合わせる。
 呑まれる訳にはいかない。大切な事だから。傷つけたくないから。
 箕郷は二人を伺う。世界を救うために、その方法を示した言葉。その言葉を知らなければ『答え』を出せないと、誠は言う。もっともな言葉だろう。だけど、これは先延ばす為だけの言葉だと、箕郷にも解かった。謙にも解かっていただろう。だが、誠の言葉を否定する理由もない。
「いいだろう、教えよう。とりあえず座り直さないか?二人とも」
 微笑しなばら謙はもう一度座るように促す。箕郷も誠も言われるままに座る。
 謙も座り、それから口を開く。
「詩のような物だ。よく聞いておけ」
「はい」
「 世界が揺れ  破滅に向かうは  この世の者に因りて
  揺れた世界を救うは  異界の者也
  地 海 空の宝玉は  この世を留め
  風守人が持つ宝玉は  世界を安定に留める
  聖なる獣と共に  世界は永遠に保たれる」
 謙はすらすらとその詩を詠う。
「これで半分だ。後の半分はカルミナにあるだろう。どうかな、聞いた感想は」
「異界…というのは箕郷達の世界、『サミロン』の事か。四つの宝玉、これを集めなければ世界は守れない…?」
「そういう事だろう。恐らくカルミナの方にはその場所が伝わっているのだろうな。異界の者である彼女にも協力して貰わなければならなくなるだろうな」
 謙は箕郷を見ていう。
「私…?」
 協力といっても何をしたらいいのか解からないのに。異界の者といったら確かにそうなのかも知れないけれど。
 一体自分に何が出来るのだろう。何の力もないのに。
「もう外も大分暗くなったな。早く帰った方がいいだろう」
「はい」
 そうして三人は立ち上がる。
「『答え』は次に会う時でいい」
「…はい」
 謙は優しい瞳と優しい声音でいう。そこから表される感情はこんなにも優しいのに、言っている言葉は誠に酷な選択を強いる。だから、誠は迷うのだろう。手放したくなくて、見放されたくなくて、だから傷つけたくなくて迷ってしまう。
 謙はどんなに誠に酷い事をしていると解かっていても『約束』を取り消したりはしないのだろう。取り消せば、誠は生きる意味をなくしてしまうのだから。
 箕郷は誠と一緒に謙の家から出る。誠は箕郷に一瞥もくれずに歩き出す。箕郷はその後を追って歩く。
 聞きたい事があった。
 でも、聞いていいことか解からなかった。
 それでも、聞かずには居られなかった。自分と決して視線を合わせない誠に。
「誠は、今も、死にたいと思ってるの?」
 誠はその問いにようやく箕郷を振り返った。その緑の、綺麗な瞳がようやく箕郷を映した。
 それは、今にも泣きそうな、哀しい瞳。
「俺は、あの人が居なければ生きている意味がない。どんな道を選んでもあの人を傷つけてしまうのなら、死んでしまった方がいい」
「そんな…ダメだよ」
 誠の言葉に箕郷は搾り出すように言う。
「何がダメだって言うんだ?俺なんかが生きていても良い事なんて何一つないっ」
「ダメだよ!そんなのダメだよ。皆、悲しむのに。護や聖だって、亜希や麻希や要も私も司も…あの謙って人だって悲しむのに、そんな風に考えちゃだめだよ!!」
 箕郷は叫ぶように言う。涙が溢れてきた。哀しくて。何か解からないけれど、とても哀しくなって。
「ダメだよ…」
「それでも俺は…だめなんだ。どうしようもなくて、ただの我侭だと解かっていても、それでも俺は―――…っ!!」
 その時、叫ぶ誠の口を何かが塞ぐ。
「近所迷惑だな。こんな時間に叫んだら人が集まる」
「謙さ…っ!」
 誠は目を見開いて謙を見る。
「話すならもう少し小さな声で話すんだな。嫌でも聞こえてくる」
「…すみません」
 誠が謝ると謙はその頭を撫でる。こんな時の誠はやけに子供っぽく見える。
「どうして…」
 俯く誠が呟く。
「どうして、誰も傷つけずに済む方法がないんだろう…」
 その願いは、叶えられないのだろうか。


 綺羅に話を聞いて、皆それぞれの想いを抱いていた。
「ショック?」
 綺羅の神殿の中庭で、空は尋ねる。人影は二つだけ。
 辺りは静かで、虫の鳴く声以外は全くしない。その虫の声さえ微かなものだ。
「いや、予想通りってとこかな。安心した」
 聖は言う。
「只者じゃないとは思ってたしなぁ。護達は驚いてたみたいだけど、解かってたよ、何となく。あいつは人を殺してきたんだってな。この八年、ずっとあいつの一番近くに居たんだぜ?」
「ふ〜ん、八年双子やってればそれぐらい解かるもんなの?」
「さぁねぇ…。俺の場合、一目で解かったぜ。あいつの目を見た瞬間に、こいつ、人殺して来たんだって、だけど、それとは別の目的をもって此処に来たんだって。それから、こいつは俺が守ってやらなきゃいけない奴だってな」
 それを聞いて空は鼻で笑う。
「守る?貴方が?」
「そりゃぁさ、剣の腕だって、『力』だってあいつの方が上だし、頭もいいけどさ、だから、俺はあいつと正反対で馬鹿だから、決められる。あいつが迷っているような事も決められる。あいつに足りない物を俺は埋められる。あいつが泣きたくても泣けない時は俺が泣いてやる。笑いたい時は一緒に思い切り笑ってやるよ。俺はこういう勘はいいんだ。俺はあいつのために生きてる、俺があいつを此処に引きとめてる。誰でもない、あいつを迷わせて、此処に居させてるのは俺なんだよ。護にも亜希にも麻希にも出来ない、俺にしか出来ないんだ」
 聖は空を見据えながら言う。
「カッコイイね。イイ男じゃん、思ってたよりずっと」
「サンキュ。実際もっと時間あると思ってたんだけどなぁ、そうはいかないみたいだし。俺がいなくなったらあいつを引き止めておくものがなくなっちまう。その前に残しておかなきゃいけない」
「見ててあげるよ、あんたの生き様」
 空がぽんっと聖の肩を叩く。
「男付きに言われてもなぁ…」
「あら?バレてた?それにしても、すごい自信だよね、あんだ」
「ちげぇよ、これは自信でも過信でもなくて確信だ。だってさ、あいつ俺にしか喧嘩ふっかけてこねぇもん」
「…そういえば、誠が誰かに喧嘩売ってるの、見た事無いわ。売られた喧嘩は買う方だけど」
「ふっ、あいつらしいな」
 聖は笑う。
「もっと時間が欲しいな。俺があいつを守ってやんなきゃいけないのに」
「麻希ちゃんはいいの?」
「麻希には守ってくれる奴、いっぱい居るだろ。あいつには俺しかいねぇもん。空達だってあいつを守ってやる事なんで出来ないだろ。支えてやるしか。あいつを此処に引き止めて守っていけるのは俺だけなんだよ」
「確かにね。私達は誠についていってるから、守るのは無理だわ」
 空が苦笑する。
「ま、誠が初恋ってのはそういう事だな。守らなきゃいけないと思ったから。でも実際『恋』は麻希だよ。誠はまた違うしな」
「私達はどうしても誠に甘くなるから…。誠の決めた事に絶対否定なんか出来ないから、誠には、叱ってくれる人が必要なのね」
 静かな闇の中で二人は笑った。
 きっと、自分には自分の出来る事があるから。だから、自分に出来るだけの事をして、その人を想っていこう。
「誠と箕郷が帰ってきたぞ」
「要…。んじゃ、行こうぜ」
 知らせに来た要と、聖は連れ立って歩いていく。
「誠を守る、か…」
「何だよ、聞いてたのか?」
 要の呟いた言葉に、聖は不満そうに言う。
「確かに、俺には無理だな」
「でもお前は、戦いの時、誠を支えてやれるだろ。俺には出来ねぇもん」
「当たり前だ」
「お前なぁ」
 聖は呆れたような声を出し、それから要と二人で笑い、神殿の中に入っていった。


 誠と箕郷が綺羅の神殿に戻れば、箕郷は航にこっぴどく叱られた。
「無事に帰って来れたから良かったけど、もし何かあったらどうするつもりなんだ?もうこんな無茶はするな!!」
「ごめんなさい」
 箕郷はしゅんっとして謝る。航が本気で起こっているから、反論も出来ない。めったに起こらない航がこんなに怒っているのだから、本当にすごく心配をかけたのだ。やっぱり無茶が過ぎたのだろう。
 すぐ傍に居る司も美也も不機嫌そうだ。隣に居る誠は完全に怒っている気配がする。帰る途中も気まずくて、何だかそれだけで疲れてしまった。
「もう、こんな事はしないな」
「…はい」
「ならいい。皆心配したんだ。他の皆にも謝っておくんだ」
「はい」
 航の言葉に箕郷は頷く。本当にちゃんと皆に謝っておこう。心配をかけてしまったんだから。
 その箕郷の隣で、誠は溜息を吐いた。
 帰ってきた時の皆の空気は変わっていた。自分に対する視線が、一体どんなものなのか何となく解かった。気詰まりした空気が嫌だった。
 皆そうなのかと思うと、嫌で仕方ない。
「お、誠!」
 其処にえらく能天気な声が掛かる。聖だ。
「聖〜、俺がまだ誠と話してないんだけど〜〜〜〜」
「祐、お前は後だ、後!」
 聖は祐を押しのけて言う。
「っとに、我侭だよね、俺に考えてる事読めない人間なんてお前ぐらいだよ!」
「へ〜ぇ、そりゃ光栄だね!」
 べーっと舌を出しながら聖は誠の腕を掴んで皆と少し離れた場所に行く。
 皆は祐の放った言葉に呆然とする。
「あ、あの…、考えてる事が読めないって…?」
 箕郷が恐る恐る尋ねると祐は笑って言う。
「ああ、つまり俺の常識範囲外の人間で解からないって事だよ」
 それは褒めているのだろうか、貶しているのだろうか。
 どちらにしても、聖が只者じゃないという事なのではないのだろうか?
 祐の笑顔に、それ以上聞く事は誰にも出来なかった。

「綺羅に全部聞いた」
 誠は聖の言葉に目を見開いた。予想していた事だったが、それを直接伝えてくるとは思っていなかった。けれど、聖ならそれもするだろう。彼は正直だから。
「どう思った?」
 不安げに訊いてくる誠に聖は笑った。
「お前らしいんじゃねぇ?何か大変な事に関わってんのは何となく解かってたしさ、まぁ世界規模なのには驚いたけど…。人殺してきたって、俺達のこと利用したのだって、今目の前に居る誠が、俺がどう考えてんのか気にしてるだけで十分だろ。俺はお前の腕を放したりはしねぇよ」
「聖・・・」
「お前が嫌がったってこの手は放さない。いくら困っても放したりはしねぇよ。もし放して欲しいんなら俺の腕を引きちぎっていけよ」
 嬉しかった。聖の言葉が。嬉しくて笑みが毀れた。
 ああ、まだ自分は笑える。聖が居るなら、聖がこの手を放さないで居てくれるのなら、まだ此処に居られる。
「聖…もう一度、やり直してもいいか?」
「無理はすんなよ」
「ああ」
 此処に繋いでいてくれるのなら、何度でも仮面を被り直そう。聖が理解してくれるのなら。
 目の前にある、たった一つの縄がある限りはまだ自分は大丈夫だ。暖かくて優しい聖の言葉は、いつだって自分の心を溶かしてくれる。守ってくれている。
 それが嬉しかった。だから、まだ此処に居る。言葉は乱暴でもその温かさを感じるから。
 他の皆に見られている事に気づいてはいたが、それでも笑みは隠せなかった。
「皆、お前のために泣いてんだぜ?表には出さないけどさ」
 聖の言葉に誠はどきっとする。先刻、箕郷が泣いたのを思い出して見透かされた気分になった。
「亜希は、今麻希と護が慰めてるけど、あいつらも泣きたいのは同じだ。何も知らないし、表面の誠を信じてきたんだからな。他にも泣いてる奴はいっぱい居るよ。おまえの本当の姿に気づいていなかった事に泣いてる」
「……」
「お前も泣いてるな。いっつも」
 溜息を吐いて聖は言う。
「まぁ、その時は出来るだけ俺が傍に居てやるし、じゃなかったら、要とか司が居るだろ」
 聖がぽんぽんっと頭を叩く。
「お前も大概子供っぽいよなぁ」
「お前には言われたくないな」
「それはどういう意味かなぁ〜?」
「そのままだろう」
「ったく、其処が子供っぽいっての。あ〜こういう事話したいんじゃなかったな。そうそう、亜希の処に行ってやれよ」
「え?」
 聖の言葉に誠は目を見開く。聖にはいつも驚かされる。
「行って、告白されて、きっぱり振って諦めさせてやれよ。亜希の気持ちには気づいてたんだろう?」
「良いのか?幼馴染振るのを奨めて」
「亜希にはお前と付き合うなんて無理だよ。あいつの気持ちは憧れみたいなもんだよ。アイドルが身近に居て恋してるのと勘違いしてるんだ。んでそのアイドルがイメージと違ってショック受けてんの」
「…酷い事をすらすら言うな」
「事実だろ。振ってやるのが親切ってもんだろ?それに俺、実際亜希は一度痛い目見た方が良いんだと思うし。夢を見続ける事なんてできねぇんだよ。お前も、辛いんだろ?」
 聖は、心を読める訳ではない。それでも、人の心の動きをよく見ている。そして自分の勘を信じてそれだけで行動している。
 まるで動物のような、でも人の感情をちゃんと持っている、暖かい人間だ。
 誠は微笑む。
「行ってくる。何処だ?」
「女子部屋」
「解かった」
 そうして誠は皆の集まっていた部屋から出て行った。

 箕郷はずっと誠と聖の様子を見ていた。他の皆も見ていただろう。
 ずっとピリピリしていた誠が、聖と少し話しただけで笑った。とっても嬉しそうに。何を話しているのかは聞こえなかったけれど、誰にも誠に声をかけられないでいたのに、聖は気にした風もなく誠と話していた。いつもと同じように笑って。
 帰って来た時、他の皆も自分と同じ事を聞かされたのだと解かった。誠に対する視線で。それが痛かった。何故あんな視線を向けるのだろう。気まずいのは確かに解かるけれど、何だか特別なものを見るような視線。なんて息苦しいんだろう。
 誠は、この視線を感じてどう思っただろう。
 普通に接してくれた聖を、どんなに嬉しく思っただろう。どんな言葉を言ったのかは解からないけれど、誠は聖の傍に居るだろう。まだ、此処に。
 羨ましいと思った。
 自分には解からないから。どうすれば誠は傍に居る事を許してくれるのだろう。
 誠は何を望んでいるんだろう。自分は誠を怒らせてばかりだ。
 何も出来なくて無力だ。皆に迷惑ばかりかけている。馬鹿みたいな無茶をして、皆に心配かけて、誠の機嫌は損ねる。
 最悪だ。何の役にも立たない。聖みたいには出来ない。
「箕郷」
 声を掛けられてはっとする。司が目の前に居る。何時の間にか他の皆はこの部屋から出て行っていた。
「誠の事を気にしているのか?」
 箕郷はどきっとして、目を見開く。
「あまり、一人で頑張ろうとするな。お前はお前らしく居ればいいんだから」
 司はそう言い、部屋を出て行く。
 涙が溢れてきた。
 司は、こんな自分を好きだと言ってくれる。なのに、さっきから自分は誠の事ばかり考えていた。
 何で、上手くいかないんだろう。
 司が想ってくれているのは嬉しい。だけど誠の事も気になる。怒らせてばかりだけれど、誠に嫌われたくない。
 誠には、嫌われたくない…。


「お姉ちゃん。そんなに落ち込まないでっ」
 麻希は必死に亜希を慰める。さっきからずっと亜希は泣いている。自分が何も気づかなかった事に。
 麻希も護も、亜希に比べれはショックは少なかった。亜希が連れ去られてから、誠が要と戦う姿を見たし、何かを抱え込んでいるのは薄々は気づいていたから。けれど、亜希はその事を知らない。知っていれば、もう少しショックも少なかったかも知れなかった。
 いきなり、ガチャッとドアが開いた。
「誠…帰ってきたのか」
 護が呟く。亜希もはっと誠を見る。涙に濡れた瞳が誠を映す。
「亜希と二人にしてもらえるか?」
 誠の言葉に、麻希と護は一瞬戸惑ったが、結局部屋を出て行った。
 しばらく嫌な沈黙が流れたが、最初に口を開いたのは亜希だった。
「私…捕らえられている時に、謙って人と会ったわ。誠さんの事を知っているみたいだと思ったけれど……本当に知り合いだったのね」
「あの人が…?何か言ってたのか?」
「誠さんが霧の中に居るって、そんな事を言っていたわ」
「そうか…」
 あの人はずっと見ていたのだ、自分を。目を離すことなく自分を見ていた。
「誠さん、私、貴方の事が好きよ?初めて会ったあの時から…っ!」
「亜希…」
「ずっと、貴方の事が好きだった…でも、ダメなのね?ずっと解かっていたけど、私は…っ」
「亜希、俺は、君の夢を保ち続けていられるほど、強くない」
 誠は呟くように言う。
 夢は、いつか覚める。
「俺は、それほど君を想う事は出来ない」
 どうでもいいと言ったら嘘になる。まやかしでも良いからその夢を守りたいと思ったのは本当だった。亜希からは、今まで知らなかった女の子の香りがした。ずっと傍に居た空とは違う、しとやかで優しい香り。その夢見た少女を守りたいと思った。
 けれど、無理なのだ。現実はいつか知られる。夢を見続ける事なんて出来ない。憧れは、いつか冷める。
「ごめんなさい。ずっと無理をさせていたのね、ごめんなさい…」
 亜希は泣く。憚ることなく泣き続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
 謝りながら、誠の事を想って亜希は泣く。
 長い夢はもう覚めてしまう。八年越しの夢。誠を慕っていた気持ちに嘘なんて無かった。ただそれは『恋』とも『愛』とも違う『憧れ』だっただけ。今泣くのは、彼の真実を見ようとしなかった自分への罰。彼を苦しめていた自分への罰だから、謝り続ける。
 誠は精一杯この馬鹿な自分に応えようとしてくれていた。最初に夢から覚めたのは聖だったと思う。次は麻希、そして護も、それぞれの本当の『恋』を見つけて夢から覚めていった。自分だけがその夢を手放せなくて、甘えていた馬鹿な自分。気づくべきだったのに、気づいて居たはずなのに知らない振りをした。誠が誰の目の前で一番生き生きしていたのか、自分は知っている。ずっとその自分の愚かな夢を守っていてくれた誠の心を守っていたのは聖だった。いつもいつも真正面から誠とぶつかって受け入れていた。
 それも出来ない馬鹿な自分に誠はもったいなさすぎる。
 だから、ただ謝り続ける。
「俺も、ごめん。君の想いに応えられなくて、ごめん…」
 亜希は首を横に振る。誠は悪くないと。
 けれど誠も自覚していた。自分と亜希は似ている。捕らえきれない夢を見続けている。だから、その夢を守りたいと思ったのだ。
 自分と比べれば、亜希の夢はどんなに可愛いものだろう。自分はその捉えきれない夢を未だ冷めることなく追い続けている。きっと自分のこの夢は、一生覚めないだろう。自分を此処に引き止めてくれている聖が居なければ、自分はとっくにその夢の中に溺れてしまっていただろう。
 この馬鹿な自分を許し続けてくれている聖が居なければ。
 誠は泣いている亜希を見つめる。
 亜希の事は嫌いじゃない。好きな方だと思うし、大切だと思う。
 けれど自分は、亜希よりも聖の方が大切だし、聖より謙の方が大切だった。
 馬鹿みたいにすれ違い続ける自分達。
 どうして、皆悩んで苦しんでいくのだろう。
 どうして、上手くいかないのだろう、人の気持ちは……。


 誠は裏庭に出ていた。
 妙に気分が落ち着いている。謙と話して、皆に本当の事が知られて、逆にすっきりしてしまったのかも知れない。それに、そんな中で聖は自分の事を認めてくれた。まだ、此処に居られるのだと思うと、それだけで良いような気がした。
「あ、誠。やっと見つけたっ」
 声を掛けられて其方を見る。何となく嬉しそうな顔をしてこちらに寄ってくるのは祐だ。
「ん、憑き物が落ちたような顔してるねー、聖が気にしてなかったのがそんなに嬉しかった?」
「…お前は何時も簡単に言うな。確かに、聖が気にしてなかったって事が一番嬉しかった…」
「素直だ」
「悪いか?」
「ふっふっふ、だから聖はいいんだよねー♪」
 祐は楽しそうに言う。祐も聖を気に入っているのだろう。しっかり前を向いている聖は、誰が見ても羨ましい。
 偏見で人を見ようとはしないし、自分の中にある価値観は決して曲げようとしない。そういう、真っ直ぐなところがとても安心させられる。迷ってばかりの自分に、ただ急がなくても良いと其処に居る事を許してくれる。
 何時の間に、自分はこんなに弱くなったのだろう。けれど、それが嫌というわけではなかった。
 誠にとって強いという事の方が大きなネックを伴っていたように思う。もし、自分が普通に暮らしていけたなら、もし、風守人なんかでなかったなら、今此処にこうしていることは無かっただろう。何も関わらず、何も知らずに居られたのかも知れない。
 誰とも出会わず、全く違う出会いが自分を待っていたのかもしれない。
 そう考えれば自嘲せずには居られないだろう。誠は、今の自分を不幸だとは思っていない。むしろ幸福だとさえ思っている。大切な人達が居る。そして思う。自分は、好きな人間と嫌いな人間を、あっさり分けられる人間だと思っていた。
 けれど、今ではよく解からない。
 何故か、決められなかった。今まで暮らしてきた護達は好きだった。暖かくて、普通に暮らしていて、そんな空気を与えてくれた彼等に感謝すらしていた。聖はその中でも特別だったけれど、最近出会った航達はどうだろう。何時も一生懸命で、何か自分に出来る事を必死で探している。皆自分をはっきりさせていて、それが好きだと思う。
 じゃぁ、箕郷は?
「悩んでる?」
 その声にはっとする。祐が此方を見て笑っている。
 決められないのは彼女だ。
 彼女の事はよく解からない。感情の起伏が激しくて、けれどしっかり者で、一生懸命で無茶ばかりする。一生懸命な人間は嫌いじゃない。むしろ好意さえ持てるのに、彼女の行動は時々酷く自分を苛立たせる。
 今日の事だって彼女は突然謙の元に向かった。どうしてそんな事をするのだろう。詮索などしないで欲しかった。けれど、彼女は自分の事を知りたいと思ったのだ。その感情に悪意はなくて、だからどうしたらいいのか解からなくなる。ただ苛立ちばかりが募っていってしまう。
 こういう事は初めてだった。
 彼女は聖のように自分の考えている事を直感的に理解できる訳じゃない、けれど、彼女は知ろうとするのだ。必死で、自分の知らない事を理解しようと一生懸命になる。
「解からない…」
 呟いても何か応えが出せるわけではない。
「誠は、箕郷の事が好き?それとも嫌い?」
「…解からない」
「解からないのなら、少なくとも嫌いではないという事だよ」
 嫌いじゃない。確かに、嫌いじゃない。
 彼女の泣く姿が頭の中に焼きついている。どうして、自分の為に泣くのだろう。亜希もそうだ。けれど、亜希が目の前で泣いていても、箕郷が泣いて、叫んだ時の衝撃は襲ってこない。彼女に泣かれて、叫ばれた言葉が苦しかった。『死』という言葉に怯えてすら居るようだった。他人にでも敵にでさえも優しくする。
 そう、彼女は『死』というものとは関係のない世界で生きてきたんだ。それは美也や由宇も同じだろうけれど、なのに箕郷はその『死』をよりリアルに自分の事のように感じる事が出来るのだろう。
 今までに誰か大切な者を看取った事があるのかも知れない。
「一人の事でこんなに頭を悩ませるのはあの人以来初めてだ」
 誠は溜息を吐く。
 彼女は嫌いじゃない。けれど、自分の仮面が剥がれた時、彼女の言葉は容赦なく自分に突きつけてくる。避けたい部分、誰かの自分に対する想い。誰かへの思いやり。自分の今まで欠いていたものを、彼女は突きつけてくる。今まで自分は誰かに対して思いやった事など無い。その必要など無かった。ずっと誰かを傷つけてきたのだから。仲間は大事だった。けれどそれは自分のためだった。いつだってそうだったのだ。自分にとって大切なものに対してだけだったのだ。けれど彼女は彼女自身を傷つける存在にさえ優しくする。
 そう、俺はきっと彼女も傷つける。
 彼女は自分と一緒に居る事に耐えられなくなるだろう。自分の事を理解しようとするけれど、限りなく万人に優しい彼女は、自分が誰に対しても深い牙を持っているのに耐えられなくなるだろう。
「俺は……戦いから離れた方が良いのかも知れない」
「誠が決める事だ」
「…ああ」
 此処に居れば、結局誰かを傷つける。
 自分は誰かを傷つけたいわけじゃない。けれど、傷つける必要が出来なたら、自分は迷わず傷つける事が出来るだろう。
 それが解かっているから。

 どうすれば一番いい…?


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