〜霧〜



 男達の手当てをして、箕郷達はまた先に進み始めた。
 三時間ほど歩いた頃、急に霧が出てきた。数分もしないうちに一メートル先も見えないようになったしまった。
「司?誠?」
 箕郷は二人の名前を呼ぶが、返事が返ってこない。逸れたのだ。
「どうしよう…」
 急に心細くなった。今までクロアナで一人になったことなんて一度もなかったから。見知らぬ土地、見知らぬ場所。しかも今は右も左も解からない霧の中。
 どうしたらいいのか解からない。
 こんな中で歩き回るのは危険だと思い、とりあえず近くにある木の根元に座り込む。
「二人とも、何処にいるんだろう」
 泣きたくなってしまった。二人がいつも一緒にいたし、こんな風に霧の中で何分も過ごすなんて初めてだ。
「霧が晴れるまでずっとこうしてなきゃいけないのかなぁ」
 いつ晴れるとも知れない霧を前に不安はます。
「何処に行っちゃったのかな……」
 小さな呟きは霧にかき消される。


「どこだ?ここは」
 霧の中を彷徨い歩いて、いつの間にか霧から出ていた。小さな広場のように山の中の一角に木々が全く生えていない。
「箕郷や誠とまで逸れたし…」
 そう呟いたのは司。司もまた幼い頃にクロアナを出てきたので、地理には全然詳しくない。
「箕郷は、誠と一緒にいるといいが…」
 あまり信用できないにしても、クロアナについては誠が一番詳しい。皆ばらばらになっているよりはいい。
 司は叢に腰を下ろす。
 やはり、一人になって不安なのだろう。自然、独り言が増える。
「俺も情けないもんだな」
 司は溜息を吐く。知らず知らずのうちに誠を信用していたのではないか。否、信用したくなくてもしたくなる。変な言い回しだとは思うが、司自信の意志としては誠は気に入らないし、信用できない。気に入らない理由としては私情が混じっているが、でも何故か嫌いにはなれない。
「嫌いって割り切れたらまだマシなんだろうな…」
 自分でもよく解からなかった。箕郷に言った時も「信用出来ない」としか言えなかった。「嫌い」とは言えなかった。
 誠を気に入らない理由ははっきりしている。
「誠を、箕郷に近づけさせたくない」
 箕郷は、少なからず誠を気にかけている。それが気に入らない。ようは誠に妬いているのだ、自分は。
 でも、信用出来ないのは、誠の嘘。性格も笑顔も全て嘘だ。分厚い面の皮を被って自分達の前で笑っている。あまりにも綺麗過ぎる、誠の笑顔。綺麗で、男でも見惚れてしまいそうな笑顔。でも、それは嘘だ。司には解かった。
 司の他にも一部は気付いているだろう、誠の嘘に。けれどその笑顔は完璧で解かっていても騙される。
 だから、信用出来なくさせるのに、信用したくないのに、でも心の何処かで誠を信用している。
 それは多分、誠が笑顔の間に垣間見せる素顔。
 その素顔があまりにも悲しげで…あまりにも切ないから。素顔がもっと酷いものなら、誠を嫌いになれたのだろう。
「だから、あいつはよく解からないんだ」
 本当は寂しいくせに、誰より皆に近づきたいくせに、本当の自分を見せるのを怖がって嘘で固めている。
 だから完璧な嘘に綻びが出来て、時々本当の顔を見せる。その反面、人を傷つけてもなんとも思わない残酷さを持っている。
 冷然とした瞳で敵を切り捨てる残虐さ。だから、誠は何が本当なのか解からない。誠の垣間見せる寂しさも、残酷さも本当なのか、それともどちらも嘘なのか。よく、解からない。
 でも、今作り上げている顔が嘘なのは解かる。だから……。
「箕郷が真実を知ったとき、どう思うか」
 箕郷は少なからず誠に好意を抱いている。だから、本当の顔を知ったときに、悲しむだろうか、怒るだろうか。どちらにしても箕郷にそんな気分を味あわせたくはない。
 箕郷は、司の全てだ。十二年間、ずっと想い続けてきた。
 箕郷がいなければ、今の司は有り得ない。十二年前、初めて箕郷に会った時から、その気持ちは変わらない。その時を忘れない。
 箕郷は覚えていなくても、司には大切な思い出だ。何にも変えられない大切な人……。


 霧の中、なんだか妙に冷える気がして足を止めた。もうすぐ夜が来るようだ。
 昼頃霧に包まれて、もう六時間も霧は消えない。
「おかしいな、やっぱりこの霧…誰かが作為的にやっているような…」
 風で霧を吹き飛ばそうとしたがダメだった。普通の霧ではない、最初にそれは解かったが…。
「逸れたのはまずいな…」
 人を不安にさせる作用でもあるのか、無意識に感じる重圧。人の思考の何処まで入り込んでくるのか…。
「歩き回ってても仕方がないけど、待っていてもこの霧は晴れそうにないしな」
 弱気になっている暇はない。夜になる前に二人を見つけたい。夜の山の中は危険だ。夜行性の猛獣が目を覚ます。せめて、二人一緒にいてくれればいいが、恐らくそれはないだろう。
 探すしかない、当てもないが…。
『誠』
 はっと声がした。耳から聞こえたのではなく、頭に直接…。
「綺羅!?」
 その声は紛れもなく綺羅だった。恐らく、ずっと自分達を見ていたのだろう。直接ではなく、間接的に……。
『困っているようだね。ふふ』
 笑い声。明らかに面白がっている。誠は長い溜息を吐いた。
「趣味が悪いですね。ずっと見ていたんでしょう」
『箕郷はそこから東に二キロのところにいるよ』
 誠の言葉を全く無視して綺羅は言う。
「司は?」
『それじゃ、がんばってね』
「え…ちょっ、綺羅!?」
 誠が呼ぶのも聞かず、綺羅はもう応答しなかった。
(何考えてるんだ、あの人は)
 頭痛がしてきそうだった。勝手な通信。
 それでも、考えていても仕方がないと、誠は東へ歩き出す。
(絶対何か企んでるな、あの人は)
 歩きながらそう思うと溜息が出てくる。もともとこのチームだって綺羅が面白がって決めたのだ。おかげで司はいつも不機嫌だ。こちらとしてはたまったものではない。
 誠は早足で歩く。走るのは前がよく見えないから危険だが、日が暮れる前に合流したい。別にいくら綺羅でも嘘はついていないだろう。
(嘘…か)
 嘘つきは自分。何もかもが全て嘘だ。きっと自分が皆といるのは何かの間違いなのだろうとさえ思う。自分は、相応しくないのだ、皆といるには。消えてしまいたい。この、霧の中に。でも…それを許さないものがある。
(まだ…『約束』が……)
 今も残る言葉の重圧。それは否定することを許さない。消えることはなかった、八年たってもまだ…。死ぬことさえ許されない『約束』。
 もう二キロぐらい歩いたはずだ。誠はあたりを見回す。
(いた…!)
「箕郷!!」
 名前を呼ぶ。箕郷は声に反応してこちらを向く。
「誠!」
 箕郷は走りより誠に出来つく。
「こわかっ…誠も、司もいなくて…」
 箕郷は泣いた。一人で何時間も霧の中にいて、心細かっただろう。誠は落ち着くまではと思い、箕郷の髪を撫でてやる。まるで子供をあやしているようだと思ったが、口にはしなかった。
 カサッ
「箕郷!」
 草を踏む音が聞こえたすぐ後、司が現れた。
 司は早足で近づき、誠から箕郷を引き離し、誠を睨みつける。
「司?」
 箕郷は訳も解からず涙目のまま司を見る。誠は司の反応に苦笑する。
(素直だなぁ)
「別に、俺が泣かせた訳じゃないですよ」
 わざと見当違いな事を言う。司はそれを聞いて思わず箕郷を掴む手を緩め、箕郷は箕郷で真っ赤になっていた。
 誠はあまりにも解かり易い反応に声を出して笑った。
「何で笑うの!?」
 箕郷はさらに顔を赤くする。
「いや、二人共、あんまり素直だから…」
 誠にとっても、こうしているのは居心地がよかった。嘘のない、素直な人達。それが、八年前の誠には新鮮だった。けれど、此処に入りきれない自分。嘘で固められた自分の心。たまらなく高い壁が誠の目の前にあった。
 けれど…皆に近づけないのはそれだけじゃないと、誠にも解かっていた。八年前交わされた『約束』と未だ見出せない自分の『答え』。それが誠の中で大きく残っている、誠の全てを拘束し、また支えている。
 『約束』がなければ今頃、自分は生きて笑っていないだろう。『答え』を見つけていたら、こんなに中途半端なまま心を苦しめていないだろう。否、『答え』がまだ選べるからこそ『約束』が生きているのだ。
「誠?」
 いつの間にか笑いを止め、ぼーっと考え込んでいた誠に箕郷が心配そうに声をかける。
「あ、いや。何でもありませんよ」
「そう?」
 笑顔をつくり、言う誠に単純に納得する箕郷とは逆に、司は不信そうな視線を向ける。
「まだ、霧が晴れませんね」
 話題をそらして誠が言う。
「あ、そういえば…何だろ、もう六時間ぐらい経つよね、霧が出てから」
「あっちに霧の出てないところがあった。最初は霧が晴れたのかと思ったが、どうも違うみたいだな」
 司の指差した方向は北東。霧が出ていないというのなら、そこに行こうと誠が言った。
 そして、本当にその一角、1平方キロメートル四方だけは全く霧が出ていなかった。
 箕郷達はとりあえず、そこで野宿することに決めた。


 夜。薪を燃やし、闇の中で火はより一層赤々と見え、周りは更に暗さを増した。
 箕郷は一人、火の前に座っていた。先刻から誠と司は何処かに行ってしまっていない。一人、霧の中でいたときはたまらなく寂しかったのに、今は信じられないぐらい寂しさなど微塵も感じなかった。火の暖かさがある。
 自分の居場所もはっきりしているし、二人ともちゃんと帰って来ると解かっているから。そして、箕郷はさっきのことを思い出す。
 動揺していたとはいえ、誠に抱きついて泣いてしまうなんて。
「誠、呆れちゃったかも」
 かなり恥ずかしい。でも、誠の顔を見て凄く安心したのだ。霧の中で一人でいたら、そりゃ誰だって心細くなるだろうけど……。
「あれって、ひょっとして子供扱いされたのかなぁ…」
 ひょっとしなくても、子ども扱いされたのだろう。子供扱いされたくないと思ってもあれじゃ無理だろうなと思う。
「二人共、まだ戻ってこない…」
 霧の中、見捨てられたのかとさえ、思った。司はともかく、ある意味誠なら自分を無視して先に行ってしまいそうだ。何時間も霧の中にいてそう思った。
 だから、誠が自分を見つけてくれたとき、嬉しくて、緊張の糸が切れてしまったのだ。
「お腹すいたぁ」
 はぁっと溜息を吐きながら、見当違いの全く関係ないことを言った。


「綺羅様」
 白い神殿の中、冷たい響きを残す声で、神とさえ呼ばれる人に仕える唯一人の人間、葵は主の名を呼ぶ。
「さっき、どうして誠さんに司さんの居場所を教えなかったんですか?」
 非難めいた声音だった。
「すぐに来ることが解かっていたからね」
 綺羅は微笑を浮かべて答える。
「だとしても、誠さんに聞かれたのだから、ちゃんと答えるぐらいしてもいいじゃないですか」
「そうだったかな?」
 綺羅は笑ってはぐらかす。
「綺羅様!!」
「冗談だよ。あの二人には喧嘩でも何でもして早く分かり合って欲しいからね」
「?どういうことですか?」
 綺羅は楽しそうだ。
「二人共、まだまだ発展途上だからね、特に誠はまだ自分をどんな人間にするか決めかねてる。司はきっかけが無いだけだ。これは二人にとって大事なきっかけになるんだよ」
「誠さんと綺羅様は以前からお知り合いだったんですか?」
 葵はずっと気にかかっていたことを聞いてみる。あの時二人の会話ではどうも知り合いらしい。
「ああ、誠は私にとって大事な子だからね。本当は手元に置いておきたいんだけど、あの子が望まなくてね」
「大切な子?」
「そうだよ、私の願いを叶えてくれる子だ…」
 優しい声音は静かに闇に響き、消えた。


 暗闇の中、便りとなる明かりは薪に火を灯した松明だけ。
 誠と司は二人歩く。司は、誠と話をしなければいけないと思っていた。自分のために。
 誠は司に呼ばれるままについてきた。司が何を話そうとしているか、大体検討はついていた。先刻の反応もあからさまだ。
 暫く歩いて、二人は立ち止まる。
「誠、俺が何で呼び出したか解かってるだろう?」
「まぁ、大体は…」
 司の雰囲気は静かだが怖いものがある。けれど、誠はそれをいっこうに気にした様子は無い。
「お前は、箕郷のことどう思ってるんだ?」
「別に嫌いじゃないですけど、特に好きというわけでもありませんよ」
 司の聞きたいことをストレートに返す。無駄な話をするつもりは無い。出来るなら気まずい空気は早く取り除きたい。
「俺は、箕郷のことが好きだ。出来るなら、お前に近づけさせたくない」
 重い空気は相変わらずだ。
「俺は…司の素直なところは好きですよ」
「え?」
 いきなり突拍子の無いことを言われて司は一瞬困惑する。
「素直で、まっすぐなところが羨ましい。俺にはきっと真似できない」
「俺を素直だなんて言うのは、お前ぐらいだ」
「そうですか?貴方はすごく自分に正直な人だと思いますけど。さっきも…」
「嫌味を言っているのか?」
 司は眉間にしわを寄せる。誠は苦笑する。
「違いますよ。だから、俺に威嚇する前に、さっき俺に言ったみたいに告白したらどうですか?」
 司にそう言い、誠はもと来た方に戻っていった。司はしばらく其処に佇んでいた。


 誠は司より先に箕郷の所に戻ってきた。
「あれ?司は?」
 箕郷は司がいないのに気付き、誠に聞く。
「そのうち、戻ってきますよ」
 誠は何事も無かったように微笑んで答える。
「司と何話してたの?」
「別に、特に何っていう話はしてませんよ」
 誠は、笑顔で嘘をつく。そんな自分が嫌いなのに…。
(結局、俺は何も変わらない)
 変わろうとしても変えられない。変わったつもりだったけど、全く変わっていなかった。
 箕郷は誠が司と何を話していたか気になったが、別になんでもないというのなら、これ以上聞いても仕方が無いと思う。さっきの司も何か変だったし、誠は何か解かっているみたいだけど、自分はさっぱり解からない。どうして司はあんなに誠を嫌うのだろう。


 翌朝。
 司はあの後、ほどなく帰ってきて、ずっと何か考えているようだった。
 けれど、誠と二人で話す前とは明らかに空気が違っていた。なんと表現したらいいのか解からないけど…。
 それはさておき、霧はまだ晴れていなかった。
 明らかに異常だと物語っているようだ。
「何だろう、この霧…」
 箕郷は何が何だか検討もつかない。
「誰かが何かの目的で俺達の邪魔をしたいんでしょう」
「誰が?」
「それが解かれば苦労しないんですけどね」
「それもそうか…」
 箕郷は溜息を吐く。
「とりあえず、この霧を何とかしないと…。この1平方キロメートル四方だけ霧が出ていないのも気になります。霧の無いところに何か手がかりがないか調べましょう。霧の原因が何なのか、解からないうちは下手に霧の中に入らないほうがいいですから」
「うん」
 すでに霧の所為で山道からも外れてしまっていた。今ではどちらが山頂なのかも解からない。
 霧を何とかしなければならない、先に進むには。

 一体、誰が何のために、この霧を操作しているのか……そして、先に進まなくてはならない。亜希を助けるために。そして、二つの国の平和を取り戻すために。


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