第六話 〜緑陽〜



 月読の元に来て一月が過ぎた。怪我ももうほとんど治っている。
 しばらく絶対安静と言われている伊斯許理度売命に、月読はいくつかの書物を持ってきてくれた。本を読んでいると時間が忘れられて、どんなものでも読んだ。
 本が読み終わると次の本を月読は持ってきてくれる。その繰り返しの日々だった。
「大分良くなってきたみたいだな」
「はい、ありがとうございます」
 月読に言われ、伊斯許理度売命は微笑んで頷いた。
「イシコリ、今日は外に出てみないか?晴れていて外の空気が気持ちいい」
「外へ?」
「ああ、少し歩いて体力もつけた方がいいしな」
 月読の言葉に、けれど伊斯許理度売命は些かの不安を感じる。
「でも、いいんですか?オレは…」
「気にすることはない。誰にも何も言わせはしないさ。それに、此処でお前の顔を知っている奴はほとんどいない。問題はないよ」
 月読は微笑みながら言う。
「ただ、どうも変な噂が立っているがね」
 含み笑いを浮かべて言う月読に伊斯許理度売命は首を傾げた。
「変な噂…ですか?」
「どうも、周りに私は稚児を迎え入れたと噂されているんだな。これはもう、お前の運命だな、イシコリ」
 月読は面白そうにクスクスと笑う。伊斯許理度売命は笑い事なのだろうかと思いつつ、敢えて突っ込みはしなかった。
 その噂を聞いたとき、スサノヲはかなり怒っていたが、月読は笑い飛ばしてしまうらしい。本当に兄弟なのかと思うほど容姿も似ていないし、正反対の性格をしている。
 ただ、二人ともとても優しい。
「まぁ、その噂もそのうち消える。神王宮に居る限りどうにかなると思っていたんだが、姉上もスサノヲもどうにもならなくなった今、私が世継ぎを残さなければいけなくなったからな。否、違うな。初めからその覚悟は出来ていたんだ」
「月読様…?」
「私もね、姉上とスサノヲの関係には薄々気づいていたから。流石に兄弟だからな。私が世継ぎを残さなければいけないんだろうと思っていた。まぁ、この事態で、五月蝿い長老達が早く世継ぎを残せと余計に言ってくるようにはなったんだが…。最初からそのつもりだったが、近いうちに妻を迎え入れる。そうなると稚児だとか妾だとかそんな噂はすぐに消える」
 月読は懐かしそうに笑いながら、そう言った。
 その様子を見て伊斯許理度売命はふと気づいた。この人は、大切な肉親を、二人同時になくしてしまったも同じだということに。



 緑の空気はとても気持ちがいい。
 日の光はとても暖かく、瑞々しい香りがする。
「うわぁ、気持ちいい」
 結姫は思い切り深呼吸しながら言う。
「最近はずっと家の中に居たからなぁ」
 那智も嬉しそうに駆け回る。
 此処は都からも程遠くない、小さな森の中の広場だった。小川が流れ、木々が光を和らげてくれる。緑の色は目に優しい。
「本当に気持ちいいですね」
 圭麻もふわりと笑って言った。
「もっと早くこうしときゃ良かったな、暗い家の中に居たらそりゃ煮詰まる筈だ」
「そうだね」
 泰造の言葉に結姫もくすくすと笑う。
 那智は小川に駆け寄り、裸足になって水の中に入った。冷たいけれど気持ちいい。めだかがたくさん泳いでいて、その姿を見るのも可愛い。
 圭麻も那智の様子に気がついて傍に寄る。
「ほら、圭麻も入ってみろよ、気持ちいいぜ」
 那智は圭麻の腕を引っ張った。バランスを崩した圭麻は、そのまま小川の中に入っていく。バシャンッと水しぶきが上がった。水の中に座り込んでしまったので服はびっしょり濡れてしまった。だけどなんだか楽しかった。本当に気持ちいい。
「あ〜あ、ほら、立てよ、圭麻」
 泰造が、傍に寄って、腕を差し出すと、圭麻は掴まり立ち上がった。
「見事にびしょ濡れだな」
 隆臣は呆れたように言う。圭麻は照れたように笑う。
「結姫、タオル持ってきてるか?」
「うん」
 結姫は頷いて圭麻に駆け寄ってくる。
「ほら、上着脱げよ。いくらなんでも秋口だから風邪ひく」
 圭麻は言われるままに上着を脱ぐ。隆臣は結姫から受け取ったタオルでぐしゃぐしゃと圭麻の髪の毛を拭く。
「うわッ、やめてください、隆臣ッ」
「これぐらい拭いて丁度いいんだよ」
「自分で拭けますって!」
 圭麻は抗議するが、隆臣は止めようとしない。圭麻が慌てるのを楽しんでいるのだ。
「ほら、終わった」
 ぱっと圭麻からタオルを離す。
 圭麻はほっと息を吐いて、みんなはその様子に笑った。



 寝台から立ち上がろうとすると、足がふら付いた。倒れそうになるのを月読が支える。
「あ、すみませんっ」
「しばらく歩いていなかったから足が弱ってしまったんだな」
 慌てる伊斯許理度売命に月読は苦笑しながら言う。
「大丈夫、自分で立てますっ」
「そうか。倒れそうになったら掴まっていい。無理はするなよ」
「はい、大丈夫です」
 伊斯許理度売命は微笑む。それにつられて月読も笑った。
 外に出れば光が眩しかった。
 目が眩んでふら付くとまた月読が支えてくれた。
「ありがとうございます」
「少しずつ慣れていくといい。すぐには無理だろうがな」
 月読の言葉に伊斯許理度売命は頷いた。
「イシコリ、今度からお前に教師をつけようと思う」
「え?」
 驚いて目を見開き、月読を見つめると、その視線を感じ取って彼は微笑んだ。
「お前が勉強熱心なのは読書量を見ていればよく解かる。必要な戦法や、他の技術、いろいろなものを教える教師をお前につけようと思っている。私が四六時中お前の傍に居る訳にもいかない。政治の勉強もするといい、そして、一通りの勉強が終われば私の傍で実際の人々の動きを見てみるといい。お前には役立つ筈だ」
「いいんですか…?」
「いいから言っているんだ。どうもお前は積極性に欠けるからな、言ってやらないとどうにもならないところがお前の欠点だ。何もずっと傍に居ろと言う訳でもない。ただ、政治を学べ。そうすれば自然と見えてくるものがある筈だ。そして、お前を生かす道具を作れ。スサノヲのために、お前自身のために」
 月読の顔は真剣だ。本当に天照を助けようとしている。
「しかし、今そんなものを作っても、次の時代に渡せるかどうか…」
「何、そんなもの、神王宮の宝物庫にでも仕舞い込んでしまえば誰も手は触れないさ。何なら禁呪の札でもつけて置こうか」
 月読のその言葉に伊斯許理度売命は苦笑した。
「真実を知っているのは私とお前とスサノヲだけ。だから大丈夫さ、天ツ神と名乗れば神王宮になどすぐに入り込める」
 それでいいのだろうかと思いつつも、月読は平然と笑いながらそれを口にした。だから、伊斯許理度売命も素直に礼を言うことにした。
「はい、ありがとうございます」



 あっという間に夕暮れ時になった。
 楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうものだとつくづく思う。
「あ〜、まだ帰りたくねぇなぁ」
 那智はみんなの気持ちを代弁するように言う。
「そうだけど、もう日も暮れちゃうし、帰らなきゃ」
「夜の森は危険だしな」
 結姫と颯太の言葉に那智は不承不承という感じで頷いた。
「でも、こんなにはしゃいだの久しぶりだなぁ」
「うん、また来ようね」
 泰造の言葉に結姫も頷いて言う。
 西の空は紅に染まっている。東の空はとうに夜の色をしていて、星も瞬いていた。
「早く、帰ろう」
 暗くなる前に。
 夜は危険なものがたくさんいる。こういう自然の多いところなら尚更だ。
 どんどん日が沈んでいく様子を静かに見つめながら、早く帰らなければ、という思いと、帰りたくない、という思いがみんなの中にあった。
「帰ろう、手紙の返事も来ているかも知れない」
 颯太の言葉に、やっとみんな歩き出した。
 冷たい風が吹く。
 すっかり夜の風だ。昼間はまだ少し暖かいのに。
 そう思うと圭麻が小さくくしゃみをする。
「風邪ひいたか?やっぱり」
 隆臣の言葉に圭麻は苦笑を浮かべる。
「いや、別に寒いわけじゃないですよ?」
「やっぱり早く帰った方がいいな。お前はとっとと寝ろよ」
「隆臣はすぐそうやってオレのこと子ども扱いしますよね」
 圭麻の言葉に隆臣は笑う。
「子供じゃねぇか」
 今度は、何も言い返さずに圭麻は笑った。



 月読が、教師となる人物を連れてきたのは、翌日のことだった。
 用意がいいな、と思わず伊斯許理度売命は感心してしまう。
「へぇ、彼が噂の。可愛いですね、案外あの噂は本当なんじゃないんですか?」
 教師は笑いながら探るような瞳で月読を見て言う。その視線に月読は肩を竦めた。
「酷いな。彼に対しても失礼だ。それに、私はそんなに困ってはいないよ」
「どうでしょうかねぇ」
 くすくすと笑う教師に月読も笑みを浮かべた。
「イシコリ、彼はとても信頼できる人間だ。聞きたいことがあったら何でも彼に聞くといい」
「はい、ありがとうございます、月読様」
「じゃぁ、私は仕事があるからこれで失礼する」
 月読はそう言い、踵を返して出て行ってしまった。
「本当に月読様はどう思っていらっしゃるのやらね。あの方はなかなかご本心をお見せにならない。そうは思わないかね」
 初老に差し掛かったように見える教師に、伊斯許理度売命は曖昧な笑みを浮かべた。
「けれど、月読様があんたを連れて帰ってきたときは誰もが驚いたよ。月読様は肉体労働などなさらない方だ。それを月読様は供の言うことも聞かず、自分で瓦礫の中から掘り出して、ご自分の背中に負って帰っていらしたそうだからね」
 その教師の言葉に伊斯許理度売命は目を見開いた。
 月読が、そんなことをするのだろうか。その様子を見て教師は笑みを浮かべた。
「君は聞いていなかったらしいね」
「はい…」
「まぁ、そういう事を仰る方ではないな。不思議な方だ。いつもはとても優しい方だが、こうと決めるととても厳しい、誰にも有無を言わせぬ力を持っている。高天原を治めるには十分なお方だろう」
 そう、月読は高天原を治める事になった。これは、偶然なのだろうか、必然なのだろうか。天照の神殿は別の場所に変えられたと聞く。そして、神王宮を政治の中心とすると。
 天照はどうなったのだろうか。そして、その後を継ぐべき者はどうするのだろうか。
「まぁ、そういう話はもう横に置いておこう。始めましょうか」
 教師の言葉に伊斯許理度売命ははっと意識を戻す。そして頷いた。
「よろしくお願いします」



 家に帰ると伽耶からの手紙が届いていた。
 明日、三時に神王宮でお待ちしています。そういう内容の手紙だった。
「明日か、意外と早かったな…」
 颯太が呟くように言う。
 圭麻は家に帰った途端に寝入ってしまった。久しぶりに疲れたのだろう。横目に圭麻の寝顔を見ながら隆臣は言う。
「いってらっしゃい、と言っておこうか?圭麻には用事が出来たとでも言っておけばいいだろう」
「ああ、今はまだ悟られたくないからな、どうなるかも解からないし」
「…何ともならなかったらそれはそれで仕方ないさ」
 隆臣は苦笑を浮かべながら言う。
「本当に、寝顔も可愛い奴だよなぁ」
「寝顔もっていうのがあんまり意味がない気がするぞ、泰造」
 泰造の言葉に颯太が苦笑しながら言う。
「だって実際そうだろ。ガキみたいに幸せそうな顔して寝てる」
「ずっと、そうであればいいんだよな、オレたちはさ」
 泰造に続いて那智が言うと思わずみんな笑ってしまう。
「まぁ、そうあるためにも何とかしないとな。月読様がどういう方か実際にはよく解からないという問題もあるし、というか、話してどうなるかということも実際はよく解かっていないんだよな、オレたちは」
 颯太が苦笑を浮かべて言う。
「計画性もへったくれもねぇなぁ、それじゃ」
 泰造も笑う。
「初めからそんなものないだろうが、圭麻に関しては。あいつはいつだって予想外のことしかしないんだから」
「言えてる」
 そうしてまたみんな笑った。願わくは幸せでありますように。
 苦しんだ分だけ、きっと人は幸せになる権利があるのだから。



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