第五話 〜先見〜



 自分だけ生き残ってしまったことが何より辛かった。
 それだけは嫌だったのに。また失ってしまったのだ、大切なものを。
「イシコリ」
 呼ばれて顔を上げると月読が立っている。聡明そうな黒い瞳は苦笑いを浮かべていた。
「少しはまともに食事を取らないか。こっちとしては作ってもらっている人間に申し訳が立たない」
 この部屋に入ってくるのは月読だけだった。見張りもいない。
 何故かは解からないが、月読は他の人間を誰も伊斯許理度売命に近づけようとはしなかった。ひょっとしたら危険人物として扱われているのだろうか。
 何も言わない伊斯許理度売命に、月読は溜息を吐いた。
「何か食べ物を喉に通さないと元気になるものもなれない。食べる気があるなら、じぶんで剥いて食べろよ」
 そう言って果物と、短刀を一つ、寝台の横に置いた。
「月読様」
 部屋の外から誰かが呼ぶ声がする。月読は立ち上がる。
 伊斯許理度売命は月読が部屋を出て行くのを見送った。
 生きていることの意味が見出せないでいる自分に食事が取れる筈がなかった。月読が置いていった果物も無駄になるだろう。
 伊斯許理度売命は、果物の傍に置かれた短刀を手に取る。
 やけに重く感じた。それだけ体力が落ちているのだろうか。生きている自分に意味が見出せないのならば、死んでしまえばいいのだ。本当はあの時死んでしまっていたのだから。死んで、生まれ変わってまたスサノヲと一緒に鏡を壊しに行けばいいのだ。
 そう思って、伊斯許理度売命は短刀の刃を手首に食い込ませた。血が溢れ出してくるのを何の感慨も浮かばずに見つめていた。確実に自分の血を奪い取っていく傷。頭の血がだんだん引いていくのが何となく解かった。
「何をしているっ!!」
 怒鳴り声が聞こえた。伊斯許理度売命は視線をそちらに移す。月読は慌ててこちらに駆け寄り、短刀を奪い取った。
「誰か、医者を呼べ!!」
 ふと、薄れ行く意識の中で、初めて月読の怒鳴る声を聞いたな、と思った。



 圭麻が倒れたことでみんな焦っていた。
 何が圭麻にとって一番いいのか解からないのだ。
 医者を呼んでみても圭麻が倒れた原因はさっぱり解からなかった。どうしてこんな事になってしまうのか解からない。どうしたらいいのかも。
「圭麻、大丈夫かな…」
 結姫は不安そうに呟く。
「大丈夫だろ」
 那智も言ってはみるものの説得力がないのは十分に承知していた。
 圭麻が、目を覚ますのかも解からなくてどんどん不安になってくる。
「んっ…」
 圭麻が声を漏らすのにみんなはっとする。
 薄っすらと目を開く圭麻にみんなほっとする。
「圭麻、大丈夫?」
 結姫が問い掛けると圭麻は僅かに微笑んだ。
「大丈夫です」
 それからゆっくりと身体を起こす。
「びっくりしたんだよ、いきなり圭麻が倒れたって言うんだもん」
「すみません、驚かせて。急に頭痛がして…」
 苦笑いを浮かべる圭麻はいつもと変わりがないのに、みんな安心する。何かが少しずつずれていっているような気がしてみんな不安が隠せないでいるのだ。
「圭麻、もう少し寝てろ。倒れたばかりだからな、安静にしていたほうがいい」
「はい…」
 隆臣の言葉に圭麻ははにかむような笑みを浮かべた。取り敢えず何ともないようだった。けれど、何がそんなに不安なのかは誰にも解からなかった。
 記憶を、思い出して欲しいのかどうかさえ誰も解からない。何が正しいのかも誰も解からないで居るのだから、どうしようもない。
 ただ、みんな圭麻に笑っていて欲しいだけなのだ。
 多分。



「まったく、とんでもない自殺志願者だな」
 目を覚ました伊斯許理度売命に、月読は開口一番にそう言った。
「私も傍に短刀を置いていったのはまずかったが、ためらいもせず自分の手首を切るとは…本当にどういう神経をしているんだ、お前は」
「本当に…何処かおかしくなっているのかもしれませんね…」
 伊斯許理度売命は皮肉な笑みを浮かべた。
「死んでしまえば良かったんです、あの時に。オレだけ生き残って、何になるというんだっ」
 悲痛な叫びに月読は眉を顰めた。
「オレなんて、助けなければ良かったんです。あのまま、死んでしまえば―――」
 バシンッと小気味いい音が辺りに響いた。
 月読が伊斯許理度売命の頬を叩いたのだ。呆然と自分を見つめてくる伊斯許理度売命に、月読は溜息を吐いた。
「全く、私は人を殴ったのは初めてなんだぞ。お前も、天珠宮に来てからは殴られたのは初めてだろう。あいつらはお前を甘やかしていたからな。というか、甘やかしすぎたのかな」
 月読は苦笑を浮かべ、それからまた顔を引き締めて真っ直ぐに伊斯許理度売命を見た。
「お前は生きている。それはどうしたって変えられない事実だ。それ以前に生き残ってしまったものはどうしたって仕方がない。それも運だ。生き残ったものは生き残ったんだ、どうしようもない。それを悲観することこそ馬鹿らしい。私はお前に言ったはずだ。どんなに暗い闇の中にも希望はあると。それの意味をお前は解かっていないらしいな」
「何があるというのですか、今のこの世界にッ!!」
「この後に繋ぐ標があるさ」
「え…?」
 月読の言葉に伊斯許理度売命は目を見開いた。
「全ての事情を私に話せ。スサノヲは天照を裏切るような真似は絶対にしない筈だ。そして、イシコリ。お前もそんなことはしない奴だと私は思っている。その考えは今も間違っていないと思っているし、信じている。お前は私にスサノヲを見損なって欲しいのか?」
「そんなことは…」
「だったら話せ。全てを」
 月読の言葉に、伊斯許理度売命は目を閉じて俯いた。



 いい加減にどうするか決めなければいけない。
 月読のこと、伽耶のこと、圭麻のこと。溜めておくのはいけない。
「伽耶さんに圭麻が居ることを話そう。そして、月読様にも」
 颯太が言った。
「こんなことをしていたったどうしようもない。圭麻も思い出したがっているようだし、月読様は何かの切欠になるかも知れない」
「それが上手くいかなかったらどうするんだ」
 隆臣の言葉に、颯太は溜息を吐く。
「上手くいこうがいくまいが、どうせそうするしかないんだ。伽耶さんにずっと黙っている訳にもいかない、月読様にも本当のことを話してしまったほうがいい。そして、圭麻にも。黙り続けることは圭麻にいい影響を与えないということはもう嫌というほど解かっているだろう」
 颯太の言葉に、今度は隆臣が溜息を吐く。
「確かにな。黙っているのも限界だ。だからといって、今すぐどうこう出来るのか?伽耶に会いに行くのも簡単じゃないぞ」
「伽耶さんは会ってくれると思う。問題は月読様だけど…」
「神王宮に圭麻を連れて行くのか?」
「まず、事情を話しに行った方がいいかな…」
「少数の方がいいんだろ?」
 那智が言う。
「うん、だけど、多分みんなで行くんだろうなぁとは思うよ。絶対みんな行きたがるだろ、隆臣以外は」
 颯太が苦笑する。
「解かってんじゃねぇか」
「まぁね。問題はいつ行くかだけど…」
「圭麻が倒れたばかりだからな、もう少し様子を見よう」
「それには文句はないよ」
 話を纏めるとみんなは頷く。
「取り敢えず、ニ、三日様子を見て、みんなで行こう。隆臣はどうせ残るんだろう」
「ああ、あいつを一人にしとく方が心配だからな」
 隆臣は頷く。
 最早すっかり圭麻のお守りが板についているな、と隆臣は苦笑してしまった。



 事情を全て話すと月読は一つ、溜息を吐く。
「成る程な、姉上が闇に呑まれているのではないかというのは想像していたが、そういうことか」
 伊斯許理度売命は全て事情を話し終えると黙り込んだ。
 月読は少し考えてから言った。
「イシコリ、私の下で戦いの勉強をしてみないか?」
「え?」
 伊斯許理度売命は驚く。とても月読の発言だとは思えなかった。
「武力だけが戦いではない。策を練り、人を傷つけずに勝つのもまた戦いだ。私は夜を治める者。邪な者を監視するのが私の役目だ。だが、私はスサノヲと違い、武力はない。だから頭で戦うのだ。お前にはそちらの方が向いていると思うし、その才覚もあると思う。どうだ、私の下で戦いを学ばないか」
「しかし月読様、オレは人殺しです。たくさんの人を殺し、生き延びて、それなのに、オレはそんな資格は――」
「私は私のために言っているんだ。姉上があのような状態では私は高天原全土を治めなければならなくなった。今回の混乱の後始末もしなければならない。姉上を救っている暇もないが、出来ないだろう。今生とは言わない、姉上だけでなく、今後の天照もまた同じようになるだろう。お前達は互いの蟠りを解かない限り生まれ変わり、そして戦い続けるだろう。それも勾玉の縁というものだ。だから頼むのだ。また生まれ変わったときに、いつか、必ず天照を救って欲しい。スサノヲと共に。ここで学ぶことをそれに役立てればいい。どうかな?」
 伊斯許理度売命は、少し考え、それから頷いた。
「…はい、解かりました。お願いします」
 深々と頭を下げる伊斯許理度売命に月読は微笑んだ。
「そう思ってくれれば良かった。お前が気がついた時には言わなかったが、スサノヲはお前を庇っていたよ。瓦礫から守るようにして。スサノヲが守った命だ。今この時に出来ることを果たせ、イシコリ」
「スサノヲ様が…?」
 イシコリは驚いて目を見開いた。
 あの時、スサノヲは気絶していた筈。それなのに、自分を庇ったというのだろうか。
「目が覚めた直後に言うと、本当に後を追いかねない気がしたから言わなかったんだがな。スサノヲはそれだけお前を大切にしていたのだろう。お前は奴が身体を張って生き残らせたのだから、それに見合うだけの働きはしないとな」
 月読の言葉に、イシコリは泣きたい気分になりながら頷いた。



 伽耶と月読宛に手紙を出した。
 所用があるので、一時で良いからお目通り願えないか―――。
 そういうものをもっと丁寧に颯太が書いて送った。
 返事がいつ来るのかは解からない。二人とも忙しい身。その二人と同時に話したいとなればそれなりの調整も必要だろう。そう考えると早めに出した方がいいという事になって、早々に手紙は出した。
「あとは返事を待つだけか」
 泰造は溜息を吐いた。これからどうなるのだろうか。さっぱり解からない。事情を全て話すことが正しいのかどうかも解からないのだから仕方がないのだけれど。
 ただ、みんなどうにも煮詰まってしまっているのだ。これ以上は無理だ。
 はっきりとした目標がないことがこれほど辛いとは知らなかった。今までは天照を守ること、それが一番大切なことで、その為に何をするかということが重要で、ただ信じるように戦ってきて。
 それがなくなると、あとは圭麻に関することだけれど、何が正しいのか解からない現在の状況では何も決められないのだから。
「上手く行くといいんだけどなぁ」
 那智も溜息を吐く。
「大丈夫だよ、きっと」
「そうそう悪い方には転ばないだろう。会いに行って、全ての事情を伽耶さんたちに話してから考えるというのもいい」
 結姫と颯太の言葉に何となくみんな息を吐く。
 考えすぎて頭がごちゃごちゃしてきているのだ、みんな。
「返事がくるまでにはもう少し時間があるだろう。みんなで出かけないか」
 みんなが、一番驚いたのはその言葉を発したのが隆臣だということだった。
「変な顔するなよ。圭麻にもオレたちにも多少は息抜きが必要だってことだ」
 隆臣が苦笑しながら言う。その言葉に颯太も笑う。
「そうだな、明日にでも息抜きに何処かへ行こうか。自然の多いところがいい」
「うん」
 颯太の言葉に、みんなは頷いて、笑った。

「手紙?」
「ええ、結姫たちから手紙が届いたんです。近いうちに会えないかと」
 伽耶の言葉に月読は少し考える。
「伽耶はいつが空いている?」
「二日後は比較的空いています」
「そうか、なら私もそれに合わそう。そう返事を出しておいてくれないかな」
「お会いになるんですか?」
「また、会いたいと思っていたんだ」
 伽耶の意外そうな言葉に、月読は苦笑を浮かべながら言った。



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