どうして、こんな事になってしまったのだろうと、何度も思った。 けれど、後悔したってどうしようもないのだ。 「大丈夫か、イシコリ」 「…はい」 スサノヲの問いかけに伊斯許理度売命は微笑んで答えた。 天照に対する反逆は万死に値する。それでも、二人はそうせずには居られなかった。ただ、天照を本当に幸せにしたいだけなのだから。 本当ならもっと簡単にいっても良かった。力だけで言うならば明らかにスサノヲの方が上なのだ。矢張り戦略が物を言うのだろうか。あちらには布刀玉命がいる。 どれだけ頑張ろうと邪魔が入る。 そして、伊斯許理度売命が共に居れば、スサノヲはそちらも気にせずには居られない。邪魔なのかも知れない、と何度も思った。それでもスサノヲは笑ってくれる。それが嬉しくて、どうしようもないのだ。与えられた手を離すのは、とても難しい。 「イシコリ、明日行く。着いて来るか?」 「…はい」 今は、スサノヲと離れることがどうしようもなく怖い。何時の間にか居なくなっているのは嫌だった。だったら共に行ったほうがいい。 傍に居れば邪魔になるかもしれない。いざという時は切り捨てていってくれるといい。何より怖いのは大切なものを失うことだ。 母が死んだときも何も出来ず、ただ見ていることしか出来なかった。失うことの怖さを、あの時嫌というほど知ったのだ。泣いてもすがっても死んだ者は戻っては来ない。だったら、どんなに嫌でも離れて邪魔にならないところに居たほうがいいではないか。いつかは戻ってくるかもしれない。 どうしたらあの鏡を壊せるだろうか。壊すことが出来るのはスサノヲしかいない。けれど、スサノヲの力を最大限に引き出すには、一体どうすればいいのだろうか。 自分の取り得は物を作ることだけだ。他には何もない。武術だって出来ないし、戦略を考えるだけの知識も何もない。 一体どうすればいいのだろうか。 ふと気づくと、圭麻は物思いに耽っている。 一体どうしたのだろうかとみんなが心配に思っても、圭麻は曖昧に笑って答えない。そして、夜月を見ている時間が増えるのだ。 「一体、どうしたんだろうな」 那智が呟く。圭麻の様子がおかしくなるとみんなも何だか気分が沈んできてしまう。 「伽耶さんに、本当のことを言った方がいい時期が来たのかも知れない」 「え?」 颯太の言葉に結姫は問い返す。今それになんの関係があるというのだろうか。 「いや、婚儀も終わって落ち着いたし、今のうちに本当のことを話したほうがいいと思うんだ。それに、圭麻が月を見るようになったのはあの婚儀の夜からだろう?事情を話して、伽耶さんと…月読様に会った方がいいんじゃないかと思う」 「あいつに何の関係がある?」 隆臣が颯太に問う。 「解からない、だけど月と月読は密接な関係にある事は名前からも誰だって解かる。それに、ひょっとしたら昔のことを思い出しかけているんじゃないかと思って」 「だから、それにあいつと何の関係があるんだ?」 「解からないって言ってるだろう。何をイライラしてるんだよ、隆臣。これはオレの予測でしかないけれど、何となく、隆臣の反応を考えても…隆臣には悪いかも知れないけれど、あの月読様は、初代月読様の生まれ変わりなんじゃないかな」 颯太の言葉にみんな驚く。 「え?でも…月読様って言ったらさぁ、滅多にオレたちの前には現れなかったじゃねぇか」 那智の言葉に颯太も頷く。 「そう、滅多に現れなかった。イシコリが来てからは一度しか天珠宮に来られなかった。けれど、月読様と会ったことは、ひょっとしてイシコリの中で何か大きな印象を残したのかも知れない。それに、隆臣があんなに突っかかるのは、あの人が初代月読様の生まれ変わりだからじゃないのか?月読様の容姿はオレはあまり覚えていないんだけど…」 颯太が隆臣を見ながら言うと、隆臣は溜息を吐いた。 「成る程、よく解かった」 そして、隆臣は苦笑する。 「まさにそっくりだよ。あれは月読だ」 この様子を見れば誰が元あったものを思い浮かべることが出来るだろうか。 建物は全壊し、直前に助け出された天照以外はみんな死んでしまったと言われている。 神王宮でも噂になったスサノヲと伊斯許理度売命の反逆はこんな結果をもたらしてしまった。様子を見に来た月読は溜息を吐いた。 「こうなることは、何処かで解かっていたのかも知れないな…」 一度助け出された後の天照に会いに行ったが、彼女とは一言の会話をなすことも叶わなかった。闇に呑まれてしまったのかも知れない。しかし、それでは何故彼女はまだ光輝いているのだろう。 理由を知っているだろうスサノヲも伊斯許理度売命も、今はもういないとあってはどうしようもないのだけれど。 ふと、瓦礫の崩れる音がして振り返る。やけに細い手が目に付いた。 駆け寄って瓦礫を退ける。力仕事は得意ではないが、それでもすぐそこに見えている者を放り出すことは出来ない。 全て退け去ると、月読は目を見開いた。 そして、一つ溜息を吐いた。 「馬鹿だな、本当に…」 泣きたくなるほどに、馬鹿だと思った。こんな風にしか出来ない不器用さがどうしようもなく愛しいのは贔屓目があるからだろうか。 闇の災厄はまだ始まったばかりである。そして、今は光も大した役には立たない。そう結論付けることすら嫌なことだが実際にそうなのだから仕方がない。 天照に高天原の治世は出来ない。世継ぎの選出もまだだったというのに、こういう事態に陥ってしまったことが何よりの失敗だったのだろう。 失われた者は大きすぎる。 しかし、その馬鹿な弟が残してくれたたった一つの光を、どうしても守らなければいけないのだと、月読は悟った。 この世界に絶望などしてはならない。そうすることは許されないのだ。この世界に生きている限り。初めから、知っていたことだ。 「問題は、月読様が以前の記憶を持っているかどうかだな」 颯太は溜息を吐いて言った。 「どうやって確認する」 「直接聞くのも問題があるだろう」 そう言っていたところに、圭麻が部屋に入ってくる。はっと振り向くと、圭麻は戸惑ったような顔をする。 「あ、お邪魔…でしたか?」 「いや、そんなことねぇって」 泰造が明るく言う。 「そうそう、くだらない話してたんだ、別に構わないって」 那智も言うが、そんな誤魔化しは無駄であることはみんな気づいていた。圭麻は聡い。とても。 だからこそ、気づいていても、それを表面に見せようとはしない。 これでは溝が深まっていくばかりでどうにもならないではないか。 隆臣は気まずい雰囲気に溜息を吐いた。 「圭麻、別に邪魔ってことはないんだよ。いつだって出来る話なんだからな。ただ、結構深刻な話だったからお前が入ってきてびっくりしたんだよ。ていうか、お前が悪いんだぜ?最近物思いに耽ってばかりで理由も言わないんじゃ心配にもなるだろう。そんでもって本人が入ってきたんだから誰だって驚く。違うか?」 「いえ…」 ともすれば責めるような隆臣の言葉も、率直だからこその真実性がある。どうすれば圭麻が安心するか、それにはどんなやり方がいいのか、大体解かっている。彼はイシコリと何も変わらない。 ただ、嘘を吐かれるのが苦手で、そして優しくされることに怯えながらもそれを求めていて、誰かに嫌われることをひっそりと避けている。 隆臣は本当のことを話した方が圭麻のためになると踏んだのだ。 「理由があったら話して欲しい。でなければみんな心配する。解かっているだろう?」 「はい…」 隆臣の言葉に圭麻は目を伏せた。 「どうしても話せないなら追求はしない。だけど、誰もお前を嫌ったりはしないし、居なくなったら嫌だと思うからこうやって話し合ってる。解かるよな」 「はい」 圭麻が少し安心した様子を見せたのに隆臣はほっと息を吐いた。 目を覚ませば寝台の上だった。 此処が何処なのかさっぱり解からなくて、今までのことが全て夢だったのではないかと思えてくるほどだった。 しかし、辺りを見渡しても、全く見覚えのない風景だった。 寝かせられている寝台は上等の物だったし、着ている服も質素だが素材は良かった。置いてある物も高級さが滲み出てきていてまるで自分とは異質なものだ。 あちこち傷だらけになっているが丁寧に包帯が巻かれている。一体どうしたのか解からなくて混乱する。自分は、死んだのではなかったのだろうか。 あの時、天珠宮の全てを壊して。 「目が覚めたのか?」 問いかけられた声にはっとする。 「月読様…?」 どうして、という言葉は発することが出来なかった。どうしてこの人が此処に居るのだろう。むしろ、何故助けてくれたのか。自分は反逆者だ。 もし、あの時生きていたとしても、殺されるのが当然ではないのだろうか。なのに、何故。 その伊斯許理度売命の様子に、月読は薄く笑う。 「混乱しているようだな」 月読は寝台に歩み寄り、椅子に腰掛ける。 「順を追って説明しようか。君は、スサノヲと共に天照に反逆した。そして、天ツ神たちに追い詰められた君は、天珠宮を破壊した。間違ってないね?」 「…はい」 「君は死ぬつもりだったんだろうが、それは出来なかった。私は生きている君を見つけた。本来ならば目を覚ます前に殺してやったほうがいいんだろうが、私は君を神王宮に連れて帰った。君には聞きたいことが山ほどある。死刑にするならばその後でも遅くはないからね」 伊斯許理度売命は「死刑」という言葉にぴくり、と反応する。 「怖いか?」 「いえ…」 月読の問いかけに伊斯許理度売命は首を横に振る。その言葉に月読は笑った。 「しかしまぁ、よくあれだけ壊したものだな。しかもそうした張本人が生き残ってしまったとは皮肉だな。今は身体を静養させろ。また後で事情を聞きに来る。いろいろと事後処理に追われて大変なんだ、こっちは」 月読は、言うだけ言って席を立った。 優しさも、懐かしさも。 何処かにあるのに、それが解からなくてもどかしい。 みんなに心配をかけてしまっているのは本意ではない。けれど、どうしようもない。我侭を言うことは憚られて、何も答えを見つけ出すことが出来ないで居た。 「圭麻」 呼ばれて振り返ると隆臣が居る。最近いつもそうだ。圭麻が不安定になっているのを悟っているから出来るだけ傍に居ようとしてくれている。 「隆臣…」 「どうした?」 不安が、どうしようもない不安が時々襲ってくる。こうしているのは夢ではないのかとすら思えてくるほどの。傍に居ることは幸せなのに何も知らない自分にはそれを受ける権利はないような気がして、仕方がないのだ。 「どうして、傍に居てくれるんですか?」 圭麻は尋ねた。隆臣がそれを答えるのを避けているのも知っていた。それでも聞かずには居られなかった。どうして、何故自分なんかを…。 「お前は、オレたちにとって大切な人間だからだよ」 「解からない、オレは何も出来ない」 「それでも、大切なんだ。お前が笑っているだけでオレたちは幸せだし、それだけでいいんだよ、本当は。何もなくて」 隆臣は言う。けれど、それでも圭麻の不安は晴れない。 「隆臣は、違うことを望んでいるんじゃないんですか?思い出すことを望んでいるんじゃ…」 「思い出して欲しいと思わないことはないけど、オレにはお前が笑っていることのほうが大事だ」 「解からない…解かりません…っ」 ズキリ、と頭が痛んだ。 目が眩んで、どうしようもない。 ズキズキズキと痛みが続いて、思わず頭を押さえた。 「おい、圭麻?」 様子がおかしいのに気づいて隆臣は圭麻の名前を呼ぶ。 「頭…痛っ…」 「圭麻!」 ぐらっと圭麻の身体が倒れて、隆臣は慌てて圭麻の身体を支えた。その時にはもう、圭麻は気絶していた。 |