小高い丘に気持ちのいい風が吹く。 風に髪がなびいて気持ちがいい。晴れ渡った空は綺麗な蒼穹を描いた。 「久しぶりだな、スサノヲ」 声を掛けてきた人物にスサノヲは顔を顰めた。黒を貴重とした服を自然と着こなし、その黒い髪と黒い瞳も相俟ってこの青空の下では一種異様なものに見えてもおかしくはないのに、それでも自然な爽やかさが彼の周りを包んでいた。 「その顔はないだろう、久しぶりに会う兄に向かって」 苦笑を浮かべながら月読はスサノヲに一歩近づく。 「天珠宮に行っても姿が見えないから探したんだ」 「オレに何の用があるんですか、兄上様?」 「別に用というほどのものはないんだけどな。弟の顔が見たかった、というのじゃダメかな?」 黒い長髪を高い位置に一つに束ねてあるので、その髪は綺麗に風に流される。黒い瞳はとても理知的に見えた。 「気持ち悪いことを言わないでくれ」 「酷いな、それは」 ふと、スサノヲの横に居る伊斯許理度売命に月読は視線を移した。 「それが噂のイシコリか?」 「噂っていうのはなんですか」 月読の言葉にまたスサノヲは顔を顰めた。 「彼はお前の稚児だって噂が神王宮の方まで来ているぞ。浮いた噂がないからそういう話も出てくるんだろうが、成る程、可愛いじゃないか」 月読の視線に伊斯許理度売命は戸惑うようにしてスサノヲを見上げる。 「ちゃんと挨拶していなかったな、私は月読。天照の弟でスサノヲの兄だっていうのは知っているだろうがな」 「はい。始めまして、伊斯許理度売命と申します」 伊斯許理度売命はぺこりと頭を下げる。 「礼儀正しい。お前が気に入るのも解かるな」 「本当にオレをからかいにきたんですか、兄上」 「違うよ、私の公式接見にも顔を出さないから長老達が渋い顔をしていた。夕食は三人でとろうと姉上が言っていたぞ。それで長老達にも文句は言わせないからとな。久しぶりに兄弟三人で食事をしようと」 「兄弟三人滅多に揃わないのは兄上が神王宮に引き篭もって中々天珠宮にやってこないからでしょう」 「私は夜を治める者だ。太陽と居ては収まりが悪い。まぁ、長老達の目を気にしなくていいのは楽だがな」 月読は肩を竦めて見せる。 「取り敢えず、伝言はしたぞ。夕食は来いよ。もし良ければ伊斯許理度売命も連れて来い。私もゆっくり話してみたいからな。これから長老と打ち合わせがあるから今は無理なんだ。滅多に合わないと皺寄せも激しくて困るよ、本当に」 そう言いながら月読は丘から降りていった。 見送るスサノヲに、伊斯許理度売命は呟いた。 「素敵な人ですね、月読様は」 その言葉にスサノヲは本気で嫌そうな顔をした。 「本気で言ってるのか?お前は」 そして最後に、深々と溜息を吐いた。 「みなさん、よくいらしてくださいました」 伽耶は嬉しそうに結姫たちに話し掛ける。今日から伽耶の婿となる彼ともとても仲が良さそうだった。 「おめでとう、伽耶さん」 「ありがとうございます」 微笑む伽耶は本当に綺麗だ。客を迎える衣装に着替えてきてからは、ただもう大騒ぎとしか言いようのない宴会で、先刻までの神聖な雰囲気は何処へやらといったところだが。 「みなさんの事は伽耶から伺っています。天ツ神の方々ですね」 伽耶の婿、そして新しい月読となった彼はゆったりと微笑んだ。落ち着いていて、聡明そうで、高天原にいい治世を布いてくれそうだ。 「月読様、とお呼びすればいいんでしょうか」 颯太の問いかけに新しく月読となった彼は微笑んだ。 「そうですね、これからそうなるでしょうし、そうお呼びください」 「月読と呼ばれることに違和感を感じないのか?ずっと圧政を布いていた月読と」 「隆臣、失礼だよ」 「いえ、良いんですよ。月読と呼ばれることには別にどうという感慨もありません。あくまで役職名であるのだから、それはこれから先何代も続いていくこと。以前の月読が圧政を布いていたと言うのなら、そのイメージを誰かが払拭しなければいけない。月読は治世をするもの、そのイメージが悪いままではこの世界に未来はないでしょう」 隆臣の問いかけにも月読は笑顔で答えた。落ち着いた雰囲気は本当に夜の空気のようだ。 「そういえば、天ツ神は六人ではないのですか?一人足りないようですが…」 今度は月読の問いかけにみんながはっとする。 「アンタには関係ないことだ」 隆臣は月読を睨みつけた。何故だか解からないが気に入らない。 「隆臣っ。あの、いろいろ事情があって…」 「…してはいけない質問をしてしまったようですね。すみません」 結姫が取り成そうとすると、月読は微笑んだ。全く怒ってはいないらしい。先の月読とは大違いだ。 「あの、それでは他のお客を迎えなければいけないので、失礼します」 伽耶と月読は頭を下げて五人の前を後にした。 「オレは帰るぜ。挨拶も終わったしな」 「隆臣…」 そう言って帰っていく隆臣を、結姫は呼び止めることが出来なかった。元々こういう雰囲気の場所は好きではないから、仕方がないのだけれど。 「どうしたんだろう」 理由もなく、誰かに突っかかるような人ではない筈だ。 食事の席はスサノヲははっきり言って苦手だ。 こういう風に大仰に構えなければいけないのが何より嫌なのだが、今回は断ることも出来ない状況だった。長老達が居ない分まだマシなのだろうが。 今回席に着いたのは四人だ。 天照は御簾の外には出て来れないが、其処に居ることはその光から解かる。そして月読と建速須佐之男命、月読に呼ばれた伊斯許理度売命も同席した。 「ところで兄上、一体何の用があって天珠宮に?」 スサノヲは月読に尋ねる。余程の用がない限り月読は天珠宮には赴かない。スサノヲは来訪の理由をまだ尋ねていないことに思い当たり、それを口に出した。 「ああ…、最近いろいろと物騒でな、姉上に御注進を申し上げに来たんだ」 「物騒?」 「闇が、高天原全土に蔓延してきている」 月読は重々しく答えた。 「正体不明の闇が人々の心を蝕んでいく。平民も、上位の者とて例外ではない。否、上位の者の方が欲が強い分危ない。闇は欲望を食いつぶし、そしてどんな手段も選ばず目的を果たそうとする。神王宮の者ももう何人かな。そうなると殺すしかなくなるところが惜しい。大部分は人の心の問題だけに、手の出しようもないし、治す方法などありはしない。そして、欲望のない人間など居はしない」 月読の言葉にみんな食事の手を止める。 「我らとてそれは例外ではないのだから洒落にならない。時代の流れというものなのだろうな。人々の欲望は増すばかりで押さえることを知らない。今後世界がどうなるか考えると憂鬱で仕方がないよ」 一つ、溜息を吐いて月読は苦笑してみせる。 「イシコリ、全然箸が進んでいないじゃないか。ちゃんと食べないとただでさえ小さいのに、成長しないんじゃ話しにならないぞ」 「あ、は…はいっ」 話題を変えて伊斯許理度売命に月読は言う。伊斯許理度売命は慌てて箸を持ち直した。その様子にその場に居た三人は笑みを誘われた。 宴会は明け方まで続いた。 みんなくたくたになって家に帰ってきたのを見て隆臣と圭麻は苦笑した。 「早めに引き上げときゃ良かったんだ」 「それはそうなんだけどなぁ」 「豪勢な食事が目の前にあるのに帰れるかっ!!」 那智の言葉にみんな苦笑する。泰造も頷いている様子に、つまりはこの二人があとの二人を引きとめていて帰ることが出来なかったのだろう。 「そういえば、新しい月読様はどのような方だったんですか?」 「ああ、とても良さそうな方だったな。落ち着いているし、聡明そうな瞳をなさっている。高天原を良い方向に導いてくれるだろう」 圭麻の質問に颯太が答えると、圭麻は嬉しそうに微笑んだ。 「そうですか、良かった」 「どうして」 「良い方が治世を布けば、世界も自然と上向きになるでしょう」 「うん、それはそうだな」 圭麻の嬉しそうな様子にみんな笑みを誘われる。 「それはどうだかな」 水を差すように隆臣が言った。矢張り何処か隆臣の様子がおかしい。 「隆臣、どうしたの?何で月読様のことを悪く言うの?さっきだって失礼なことばかり…」 「五月蝿いな。オレだって何でだか解かんねぇよ、そんなの。ただ、何か気に入らないんだよ、あいつ…」 隆臣はぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回す。そう、一番よく解かっていないのは隆臣自身だ。何がこんなに引っかかっているのかさっぱり解からない。 「つまり、確たる理由はないと」 「ああ、そうだよ!!」 颯太の言葉に隆臣は自棄気味に頷く。 「それだったら内心どう思っていてもあんまり反発しない方がいいんじゃないのか」 「解かってるよ、それぐらい。ただ何か条件反射のように口が開いてさぁ」 嗜めようとする颯太に隆臣は溜息を吐いて言う。 その様子に思わず圭麻は苦笑する。 「何だよ」 「いえ、何にしても、ただ黙っていることが出来ないんでしょう、隆臣は。それは新しい月読様のことが気になるということですよね?」 「変な言い方は止せよ」 圭麻の言葉に隆臣は嫌そうな顔をする。 「でも、事実でしょう?」 「ああ、そうかもな…」 隆臣は今度はもう反論もせずに頷いた。圭麻に今更何を反論しても仕方がないのだから。 月読は一泊だけして帰るようだった。 自分達とは住む場所の違う人だ。彼が住むのは夜の世界。 「久しぶりに会えて嬉しかったよ」 月読は笑ってスサノヲに言う。 「やめてくれよ、頼むから」 純粋な兄弟としての愛情表現としても、こういうのは苦手だ。嫌そうな顔をするスサノヲに月読はまた笑う。 「姉上のことは頼むな。お前が彼女の一番傍に居る」 「解かってるよ。兄上も身体を壊さないように」 「ああ」 月読の微笑みは不思議だ。本当に月の様に落ち着きながら、優しさをくれる。スサノヲも兄と会話をするのは苦手だが、別に嫌っている訳ではない。 「イシコリにも会えて良かった。一度スサノヲのお気に入りを見ておきたかったんだ」 「はぁ…」 月読の言葉に伊斯許理度売命は曖昧な笑みを浮かべる。 「これから先、世界は暗い方向へと向かっていくと思う。それは多分、どうしたって止められないことだろう。まぁ、これを長老たちに聞かれるとたまったもんじゃないんだがな」 月読は苦笑を浮かべる。 「ただそれは、完全な闇に閉ざされる訳ではない。いつの世界も光なくして闇というものは存在し得ない。否、光がなければ闇というのも知らずに済む、と言った方が正しいのだろうな。例え周りがどんなに暗くても、光は何処かにある。闇に閉ざされている世界でさえ、希望は何処かにあるものだ。イシコリ、君はそれをよく知っているね?」 月読が何を言いたいのかはよく解からなかった。しかし、ただ月読の言葉は己が日々実感している事だったので、伊斯許理度売命はただ頷いた。 それを見ると月読は嬉しそうに笑った。 「そう、だから君に会えて良かったと思う。そういうことを知っている人間が居るだけで少しずつ世界は変わっていくものだよ。それに多分君は………否、止めておこう。また、会えるといいな。この世界の何処かで」 そう言って、月読は去っていった。 何を言い残そうとしていたのだろうか。解からないけれど、ただ、月読は不思議な人なのだと、伊斯許理度売命は思った。 ここ最近、圭麻の日課は夜月を見上げることだった。 月には自然と心が惹かれる。そうする事を誰も止めないし、多分止めてもやめないだろうということも何となく解かっていた。 圭麻は忘れてしまっている日々を思い出したかった。結姫たちとの生活には全く不満はないけれど、何処かで置き去りにされているような気がしてならなかった。 そして、そう感じることが日々多くなっていることに気づく。そういう時に月を見上げるととても落ち着いた。みんなの優しさとはまた違う暖かさを感じる気がして。そして、月を見ているうちに、何かを思い出せそうな気がして。 「また外に居るのか」 呼ばれて圭麻は振り返り、微笑んだ。 「隆臣」 無邪気に微笑む圭麻に隆臣は苦笑する。 「昼間の空も好きだけれど、夜の空も好きです。昼間見えなかったいろいろなものが見える」 圭麻は空を見上げながら話す。 「あまりにも眩し過ぎると何も見えなくなるんですよね、きっと。強い光は悪いものを消してくれるけれど、きっと、オレだってその光に触れれば焼かれてしまうんだ」 「圭麻…」 隆臣は、圭麻の言葉に驚いた。ある意味天照を否定するような言葉だ。圭麻は一度だってそんな言葉を言ったことはない。それが不思議でならなかった。 「あ、勿論光は好きですよ。明るくて優しくて。ただ、夜、太陽の光を反射して輝く月の方が、オレにとっては優しい気がするんです」 「優しい、か…」 隆臣はそんなことは考えもしなかった。スサノヲで居た時代、太陽が全てだった自分には。月はいつも離れていて、何処か身近には居ないもののように感じていた。 そして、政権を握っていた筈の天照は、長い年月の間にいつの間にかそれを月読が代わって行うようになっていた。 隆臣にとって、月読は天照の政権を奪った者だ。だからかも知れない、あの月読が無性に気に入らないのは。 「月は、ただ太陽を反射しているだけです、ただ、その光を素直に返しているだけなんです、隆臣…」 「何が言いたい」 「解かりません…ただ、何となく…」 それきり圭麻は黙り込んでしまった。その様子に隆臣は溜息を吐いた。 「まぁいい、冷えてきた、家の中に入れよ」 「はい」 隆臣の優しい言葉に、圭麻は微笑んだ。 「天ツ神は六人」 月読は呟いた。 「勾玉を持つ者。天照大神、建速須佐之男命、天宇受売命、天手力男命、布刀玉命、そして、伊斯許理度売命…」 一つ、溜息を吐いた。 「さて、どうするかな…」 |