「天照様、伊斯許理度売命を此処にお連れしました」 スサノヲは膝を付き、頭を垂れる。これが礼儀だ。 伊斯許理度売命も先刻教わったように頭を下げる。スサノヲは横目で見ながらその様子に感心する。姿勢も違和感なく、振る舞いも申し分ない。これなら長老達が文句を言う隙もないだろう。 「ご苦労様です。随分な長旅になったでしょうが、これで天ツ神も四人揃いました。スサノヲ、こちらへ」 天照に呼ばれてスサノヲは立ち上がる。 天照の御前へ行けるのは弟神であるスサノヲのみ。スサノヲは天照の方へ向かっていく。 眩い光の中でどのような会話が交わされるのか、誰にも解からない。ただ知っているのはスサノヲと天照だけ。 スサノヲが天照の光の中から出てくると、伊斯許理度売命は反射的に顔を上げた。それは未だに許されていない。その事に伊斯許理度売命自身気づいていたのだろうが、スサノヲの姿から彼は目を逸らさなかった。その彼の様子にスサノヲは笑った。 「真にこの勾玉を継承する者だな。これの力が解かるか」 スサノヲは伊斯許理度売命の傍に歩み寄り、勾玉を手渡す。光るその石を伊斯許理度売命は不思議そうに眺めた。 「勾玉は四人の天ツ神と天照様、そしてこの建速須佐之男命の六人のみが許されし徴。これを真に継承出来る者だけが持つ事を許され、そしてこの世の輪廻の中で繋がっていく事の徴でもある。勾玉はお前の心の象徴となろう。そして、お前の力を最大限に引き出す導き手にもなろう。それをどう扱うかはお前自身が決めることだ、天照様はお前がそれを正しく使うと信じておられる。その期待に答えられるか?正しき事にのみ使い、天照様に永遠の忠誠を誓うか?」 スサノヲの言葉に伊斯許理度売命は深々と頭を下げた。 「―――はい、誓います」 スサノヲは微笑んだ。これでいい、伊斯許理度売命は間違ってはいない。彼は正しくこの勾玉を扱うだろう。 「伊斯許理度売命」 天照に呼ばれて伊斯許理度売命は深々と頭を下げる。 「これから、よろしくお願いしますね」 「―――はい、勿体無いお言葉、ありがとうございます」 「それでは、もう下がってよろしいです。旅の疲れもあるでしょう、ゆっくりお休みなさい」 今度はスサノヲ共々、その頭を垂れ、そして退出した。 問題はまだあった。 伽耶に圭麻の事を知らせるかどうかということだ。 伽耶は婚儀を間近に控えているし、圭麻が此処に居るということが知れたら心を乱してしまうかも知れない。そして、会えば確実にショックを受けるだろう。圭麻は何も覚えていない。そう、伽耶と過ごした時間は圭麻の中には存在しないのだ。 結姫達は話し合った結果、伽耶には婚儀が終わるまでは黙っていることにした。酷いことかも知れないと思う。けれど、圭麻のことを考えると、どうしても伽耶にそれを告げることは出来なかった。 「なぁ、伽耶さんの婚儀の日、どうするんだ?オレ達は呼ばれてるけど、圭麻一人置いとく訳にもいかないだろ」 颯太の言葉にみんな考える。そうなのだ、伽耶の婚儀にはみんな出席する。となると、圭麻を一人で置いていかなければならなくなる。そうするのは本意ではないし、連れて行くのもどうかと思う。 「オレだけ残るのは?」 隆臣の言葉に颯太は首を横に振る。 「誰か一人欠けても伽耶さんは心配するだろう。それは出来ない」 「じゃぁ、どうするんだよ?」 那智は颯太に突っかかる。どうしたって解決策なんて見つからないではないかと。 「圭麻だって、一人で留守番ぐらい出来るだろ。子供じゃないんだぜ?」 泰造が溜息を吐いて言う。 「精神年齢は全くの子供だ。しかも圭麻は、例え泥棒が来たとしてもにっこり笑ってお茶なんか出したりして歓迎するような奴だぞ?」 隆臣の言葉に誰も反論出来ず、苦笑いを浮かべた。 「それでも、うちに盗るものなんてないから、大丈夫だと思うけど。それに、ずっと誰かが一緒だから圭麻も息が詰まってくるんじゃない?一日一人にしてみても大丈夫だと思うよ、きっと」 結姫の言葉に、みんな考える。圭麻を一人にすることに過敏になっているのは自分達でさえおかしいと解かっているのだ。この不安は何処から来るのだろう。 多分、否、きっと。 圭麻を一人にしたら、また何処かへ居なくなるのではないかと、そう思ってしまうのだ。いつも圭麻は無垢で純粋で、人を和ませるけれど、いつだって何処かへすり抜けてしまう。片時でも目を話せば何処かへ消えてしまいそうなのだ。 「まぁ、仕方ない。一日だけだ。圭麻に話して、留守番していてもらおう」 颯太は溜息を吐いて言う。みんなも渋々頷いた。何度話し合ったとしてもこうするしかないのだ、結局は。 伊斯許理度売命はスサノヲについて廊下を歩く。 天照に誓いを立てた翌日、伊斯許理度売命はスサノヲに呼ばれたのだ。 「他の天ツ神を紹介する。気楽な奴らだから緊張することもないだろう」 スサノヲは笑って言った。 天珠宮を出てすぐの小高い丘。すっかり天ツ神達の集会所になっているその場所にスサノヲは伊斯許理度売命を連れて向かった。スサノヲより一回り小さい伊斯許理度売命は歩幅が違う所為か、小走りで着いて来る。その姿がやけに微笑ましい。 「おーーい、スサノヲーーーーーっ!!」 丘の上から呼びかけて手を振っているのは天宇受売命だ。スサノヲはその姿に苦笑する。 スサノヲはポンッと伊斯許理度売命の肩を叩いてから走り出す。伊斯許理度売命も走って着いて行く。 「お前はいつも元気だな、ウヅメ」 「悪いかよ」 「そうは言ってないだろ」 スサノヲは苦笑する。 「ほら、紹介する。天ツ神の最後の一人だ、伊斯許理度売命」 「よろしくお願いします」 伊斯許理度売命はぺこりと頭を下げる。 「本当に小さいな。タヂカラオから話は聞いていたけど。ウヅメより小さいんじゃないか?」 布刀玉命が言う。 「あ、ホントだ、オレより小さい。可愛いなぁ、お前」 「オイコラ、あんまりせっつくなよ。まだお前らの紹介が終わってないだろうが」 天宇受売命に顔を近づけられ、戸惑っていた伊斯許理度売命を庇いながらスサノヲは言う。 「悪い悪い」 「全くな。ほら、紹介する。右から、天手力男命。コイツはお前を迎えに行った時にも会っただろう」 「よろしくな」 天手力男命に快活に言われて伊斯許理度売命も微笑を返した。 「そんで、この五月蝿いのが天宇受売命」 「五月蝿いは余計だろ、スサノヲ」 「最後に、布刀玉命。解からない事はオレが居ないときはコイツに聞け。他の二人は当てになんねぇからな」 「?…はぁ」 伊斯許理度売命は曖昧に頷く。 「当てになんねぇってのはどういう意味かなぁ?スサノヲ?」 「そのままの意味だろ」 不満そうに天宇受売命が言うと、布刀玉命が嫌味を言う。 「川に落とすよ、タマちゃん」 「タマちゃんて呼ぶなよっ!!」 制裁、とばかりに天宇受売命は布刀玉命のきちんと整えられた髪をぐちゃぐちゃと掻き回す。その様子に他のみんなは苦笑いを漏らした。 「まぁ、あの二人はいつもあんなもんだ。気楽にしていいし、お前の仕事は物を作ることだ。楽しくやっていけばいいさ」 スサノヲの言葉に、伊斯許理度売命は素直に頷いた。 伽耶の婚儀の前日、圭麻に留守番をするように頼んだ。 「兎に角、知らない奴は家の中に入れたらダメだからな。絶対だぞ」 「はい」 にっこり微笑んで頷く圭麻に本当に解かっているのかと多少不安になる。 「だけど、みなさんが伽耶様と知り合いだとは知りませんでした。どうやって知り合ったんです?」 「ん?まぁいろいろあったんだよ、いろいろ…な?」 泰造は苦笑いを浮かべて颯太に振る。 「ああ、本当にいろいろ過ぎて説明できないな」 颯太もまた苦笑を浮かべた。ある意味事実である。 「食事は長持ちするものを置いておくから、ちゃんと食べてね。それから、あんまり外を出歩かないこと。変な人についてっちゃだめだよ」 結姫の言葉に圭麻はまた頷く。 「はい、それはいいんですけど…いくらなんでも、オレ、一応十六歳ですよ、そんな風に言わなくても大丈夫ですよ」 「まぁ、それはそうなんだけどなぁ」 圭麻の言葉に那智は苦笑を浮かべる。だって、過保護になるのは仕方ない。なんたって圭麻相手だ。 「それだけお前が心配だって事だよ。言うこと聞くだけ聞いとけよ。ていうか、それで守れてなかったら立派なガキだからな。帰ったら楽しみにしてろよ」 「……」 隆臣の言葉に圭麻は黙り込んだ。 みんなはくすくすと笑う。 やっぱり圭麻は素直だ。純粋で、可愛くて、いつまでもそのままでいて欲しい。それが我侭な願いだとみんな解かってはいたけれど、どうしようもなくそう思ってしまう。 今の圭麻の笑顔に嘘が全くないことが、嬉しくて仕方がないのだ。 「まぁ、ふざけるのはこのくらいにして、明日は留守番よろしくな。オレは出来るだけ早く帰ってくるつもりだからさ」 隆臣が笑って言うと圭麻も頷いた。 「はい」 圭麻が嘘のない笑顔で笑う。それがどんなに幸せなことか。 だから、思い出さなくていいのだ、多分、きっと。思い出してしまえば、また笑えなくなってしまうかもしれないのだから。 「イシコリ、これ直せねぇかなぁ」 天宇受売命が伊斯許理度売命の元にやって来て言う。 「え?何ですか?」 「これ、この首飾りなんだけどさ、切れちまって。お気に入りだから捨てたくないんだよ」 「綺麗ですね」 天宇受売命の言葉に反応して、伊斯許理度売命は笑って言う。天ツ神の中では最早アイドルと言ってもいい存在になっている。何と言ってもあのスサノヲからして伊斯許理度売命を特別扱いしているのだからどうしようもない。他のみんなも伊斯許理度売命の笑顔の可愛さに甘やかしてしまう。 「ああ、やっぱりお前、可愛いなぁ」 天宇受売命の言葉に苦笑を返すと、伊斯許理度売命は首飾りを見る。 「大丈夫、これなら直せますよ。直したら後で届けに行きますね」 「本当か?ありがとな、イシコリ」 快活に笑う彼女に、伊斯許理度売命も笑みを返す。 天宇受売命は自然とみんなを元気にする空気を持っている。まるで輝く光を放っているようだとすら思えるほどだ。 「何だ、ウヅメ、お前此処にいたのか」 「あ、タマちゃん」 「タマちゃんはやめろって言ってるだろ!!」 「それに、タヂカラオもどうしたんだよ」 「無視するな!!」 天宇受売命は布刀玉命の抗議をあっさり無視して言う。いつも天宇受売命にからかわれていて、その所為で胃痛持ちになっているという噂があるが、真偽は定かではない。 「オレはスサノヲに用事。お前最近いつも此処に居るからなぁ」 「ていうか、スサノヲはイシコリに甘いんだよ、確実に」 「どうでもいいだろ、そんな事。で、用事ってのは何だよ」 「明日の演習のこと。出るんだろ?」 天手力男命は主に兵士の訓練をしている。平和な高天原に争いごとがあるとも思えないが、それでもしておくにこしたことはない。スサノヲは破壊神。武道に関しては天手力男命といい勝負、五分五分といったところで、よく演習にも顔を出している。 天宇受売命は得意の歌と踊りで人々を癒し、布刀玉命はその知力で政治についての意見や、幼い子供達に勉強を教えたりしている。それぞれの仕事をしながら、それでも暇を見つけてはお互いに会いに行くのは矢張り天ツ神の繋がりというものなのだろうか。 「ああ、そうだ、スサノヲ、さっきそこで噂聞いたんだけどさ、今度、月読様が訪問なさるらしいぞ」 天手力男命の言葉に、スサノヲは目を見開いた。 「兄上が?」 結婚式当日。 実際の婚儀は夜に行われるが、昼間には宴会が催されて、婚儀の出席者はそこで清めの酒を飲み、食事を楽しむのだ。 食事が終われば、神殿に向かい、夫婦となる二人は清廉なる服装をし、神の下に契約をする。 静かに歩む伽耶の姿はとても綺麗だった。隣を歩く、結婚相手も元は近い親族である。月読の家系である黒い髪と黒い瞳は人々を魅せる。 この夜、彼は月読となる。 伽耶の婿になるとはそういうことだ。 どういう経緯で彼が選ばれたのかを知る者は伽耶と本人以外の者は誰も居なかった。幸せな結婚なのかどうかすらも誰にも解からない。傍目から見れば必要に迫られて親族の中から選び出したようにも思えるが、それに伴うよそよそしさは二人の間には全く感じられなかった。 主役の二人の美しさに人々は心を奪われる。これぞまさに聖なる誓いであろうと誰もが噂するだろうは想像に難くない。 一番上座に座り、二人は御酒を酌み交わす。お互いに話はせず、あくまで静かに契約するのだ。 二人が御酒を飲み終わると、二人は両側に揃って座る客にそれぞれ酒を振舞う。静かにみんなが酒を飲み、言葉は一切交わさない。そして、全員が酒を飲み終わることで、そこに居る全ての人が二人の結婚を認め、正式に夫婦となることが許されるのだ。 ひとまず婚礼の儀式が終わると二人は退場し、本格的に客を迎える衣装に変える。そして、一夜越しで宴会を催すのである。 「伽耶さん、綺麗だったね…」 結姫は溜息を吐いて言った。 「ああ、本当にな」 隆臣も先刻の余韻が残っているのかやけに素直に答える。それだけ素晴らしかったのだ、あの二人の空気は清廉で、これが本当の儀式なのだと思わせる。 「まぁ、あとは騒ぐだけだ、堅苦しい儀式も終わりだし、主役二人と挨拶をしたらオレは早々に帰らせてもらうか」 隆臣は一口酒を飲み干しながら、家に残されている圭麻のことを考える。婚儀は終わった。伽耶にいつ圭麻のことを話すのか。考えながらも答えが出ないだろう事も知っていた。しばらく、もうしばらく待っていたほうがいい。 そのうち考えるのも馬鹿らしくなってきて宴会の空気に隆臣は呑まれていった。 誰も居ない部屋は空虚に思える。 みんなが居るときはとても賑やかで、夜の静けさも忘れてしまうほどだ。 圭麻は冷える空気の中表に出て空を見上げた。 綺麗な月が出ている。 「…月……」 その輝きは心惹かれるものがある。何かが強く、圭麻の心を押した。 けれど、それが何なのかは解からない。ただ、その月の輝きに、この月が沈むまでこうやって見ていようと、ただ圭麻はそう思った。 |