会った瞬間に。 体中にビリビリと電流が走った気がした。 その感情が何なのかよく解からなかった。 怒りなのか、悲しみなのか、同情や哀れみなのか。全部、違うと思った。そんな単純なものではなく、それほど難しいものでもなく、しかし、この感情を表す言葉は知らなかった。ないのかも知れない。 少年は酷い格好だった。 体中のいたるところに虐待の跡があり、服は擦り切れ、ぼろぼろで、ところどころは破れたままになっている。古く、薄くなっていて、今の季節ではかなり寒いだろう。服そのものも、肘丈、膝丈までしかないのだから。 そんな状況下で、少年の己を見上げる瞳は聡明でありながら純粋で無垢だった。 幼い少年だった。否、幼く見える少年だった。敬愛する姉が己と然程変わらぬ年頃だと言っていた。己とて年頃にしても大柄な方ではない。しかし、そんな己よりも一回り以上小さかった。明らかに、栄養が足りていないのだ。 彼をこのような目に合わせた村人への怒りも、少年への哀れみも湧いては来なかった。けれど、やはりその傷は痛々しく自然と上着を彼にかけてやる。 姉には「彼を救ってやってくれ」と言われていた。破壊神である己に誰かを救う事など出来る筈はないと思っていた。 けれど。 ひょっとしたら。 彼に必要なものを与えられるかもしれない。 「伊斯許理度売命」 少年の名を呼ぶ。かけてやった上着は彼には大きすぎる程で、すっぽりと埋まってしまいそうだ。 「天照様の命だ。お前の匠の腕は高天原においても最高のものと認められた。お前はこれより天珠宮にて四人の天ツ神の一人として天照様を御守りする任が与えられた」 少年は少し目を見開いた。信じられないとでも言いたげに。 「オレが…天ツ神の一人に?」 少年の発した声は酷く透き通っていた。 「オレにどうしろってんだよ、一体」 隆臣が顔を顰めて言う。 「何言ってんだよ、何時だってイシコリの面倒を見るのはお前の役目だろ」 「そうそう」 「別に隆臣も嫌じゃないんでしょ?颯太や泰造だったら兎も角、圭麻だもの」 皆が挙って言うのに加えて結姫に駄目押しされる。 永遠に消える事の無い太陽が出来てから一年。圭麻を見つけたはいいが、圭麻は十歳より以後のことを全く覚えてはいなかった。 自分が何をしたのか、隆臣達のことさえも、何も覚えてはいなかったのだ。仕方がなかったとも言える。圭麻は両親の死を目の前にして完全に伊斯許理度売命に意識を明け渡していたから。しかし、圭麻は両親の死のことも覚えてはいなかった。ひょっとしたら伊斯許理度売命がその記憶を消してしまったのかも知れないとも思う。自分がいなくなる代わりに、圭麻が人生を新たに始めるチャンスを作り上げたのだ。 それはいい、それはいいのだけれど。 見ている方はかなり危なっかしいのだ。何も覚えていない圭麻は以前のイシコリそのもの、否、それ以上に危なっかしい。精神年齢は十歳なのだから仕方ないとも言えるのだけれど。一年の間よく無事に過ごせたものだと誰もが感心してしまった。 「兎に角、圭麻の精神が今の年齢に追いつくまでは隆臣が面倒見るのが一番良いと思うよ。圭麻もその方が安心できると思うし」 「何時の話だよ、それは。ていうか、来るのか、そういう時が」 結姫の言葉に隆臣が反論するとみんな苦笑を返す。 伊斯許理度売命という前例があると、そんな日が来るとは到底思えない、というのだ。 「ある意味、今のままでいる方が良いのかも知れないな…」 颯太が溜息を吐きながら言うとみんな、はっとしたような顔をする。変わってしまったイシコリは、見ている方が痛々しいほどだ。ならば、今のまま、純粋なまま、そうしていられる方がいいのかも知れないと思う。 「あの、皆さん、どうしたんですか?」 外に出ていた圭麻が部屋に戻ってきて、中の様子がおかしいのを感じ取ったのだろう、おずおずと声を掛けてくる。今、圭麻は一緒に暮らしている。再会したあの時、何も覚えていない圭麻を何とか言いくるめて一緒に暮らすように仕向けたのだ。結姫は「何だか詐欺師になったみたい」と愚痴を溢していたが、けれど、あのまま放っておいたらもっと性質の悪いのに引っかかっていてもおかしくは無い。 「ううん、何でもないよ。ただ、これから出掛ける時は隆臣に一言言ってからにしてね。みんな心配するから」 「?…はい」 一瞬戸惑ったような顔をしたが、それでも圭麻は笑顔で頷いた。こういう処は素直で可愛い。否、元々可愛いのだけれど。 今の圭麻を見ているとよくもまぁ、あそこまで変わったものだと思ってしまう。それだけ圭麻も必要に迫られたのだろうが。今の圭麻を見ていると酷くほっとしている自分達がいる。 小さな少年を己と同じ馬に乗せた。馬の鬣をしっかりと掴むように促して、裸足の少年に暖かい毛布を包ませてやる。 寒さの厳しい北の地方で少年のこの格好はあまりにも厳しすぎた。しかも今は冬の最中。雪も積もり、この寒さの中であの格好で凍え死なないのが不思議なほどだ。己と同じ馬に乗せることを着いて来ていた者達は渋ったが押し切った。この少年を一人にしてはいけないと、己が傍に居なくてはいけないと感じていた。 「スサノヲ」 比較的親しい、天ツ神の一人で天手力男命が、馬を寄せて声を掛けてくる。 「どうしたんだ、らしくないな。お前が誰かにこんなに優しくしているところを見た奴なんて今まで一人だって居ないぜ、きっと」 「だろうな」 溜息を吐いて同意する。そう、建速須佐之男命とは破壊神、荒ぶる神である。人を殺して当たり前、誰かを優しくする必要も義務もない。たった一人忠誠を誓うのは姉だけ。他の長老達はどうでもいいし、敬意を払うだけの価値もない。比較的親しいのは天ツ神の者達で、それでもただふざけ合ったりするだけで優しくしたことなどは一度もないだろう。 ![]() 其処で思う。 此れは、優しさなのだろうか。 彼に義務を感じているだけではないのか。 では、何が義務なのだろうか。 解からない。今まで単純で明快な答えしか出してこなかった。殺すか、殺さないか。大切か、そうでないか。好くか、厭うか。 しかし、この伊斯許理度売命は何もかもが当て嵌まらない。何だというのだろう。聡明さの中に含まれた無垢さと、一種の激しさをもその中に伺えた。 彼は、何だ。 「どうしたんだよ、一体」 考え込んでいるのを見かねて天手力男命がもう一度声を掛けた。スサノヲは一瞬少年と天手力男命を見比べて、視線を前方に移して呟いた。 「さぁな」 「隆臣」 呼ぶ声に振り返る。 ああ、どこかでこんな事があったかな、とふと思う。否、そんなことはどうでもいい。 「何だ?」 「オレは…本当に此処に居ていいんでしょうか」 少し途惑ったような声で圭麻は問う。 「何か不満でもあるのか?」 「いえ、違います。その逆で…みんな、いい人たちで、オレなんかが此処に居て良いのかと、本当に、どうして…」 「自分のことをなんかって言うなよ、馬鹿」 隆臣は圭麻を小突く。痛くないようにやったから、圭麻も少し目を瞑っただけでまたすぐに隆臣を見た。圭麻の問いはどうしても答え難い。真実を言えばまた圭麻を悩ませる事になりかねないだろう。 しかし、それを問わずにも居られない気持ちも解かる。十歳の時の記憶のまま、ずっと時間が止まっていたに等しい圭麻には、何もかもが解からない事だらけだろう。伊斯許理度売命のことを、本当に全く覚えていない。隆臣にとってそれは少し物寂しくもあったが。 「いいんだよ、細かい事は気にすんな。オレ達がお前に此処に居て欲しいからお前は此処に居るんだぜ?オレ達から誘ったことにケチつける気か?」 「いえ、そんな事は…」 「なら、気にするな。考えすぎるとろくな事にならねぇぞ」 「はい…」 圭麻は納得した訳ではないだろうが、それで収めてくれた。突っ込まれても答えられないのだから仕方が無い。それにしても、何故自分に聞きに来るのかと思ってしまう。こういう事は他の奴に聞いて欲しい。自分は下手な誤魔化しが出来ない。颯太あたりなら適当な嘘をでっち上げてくれそうなものだと思うのだけれど。 「ただ…みんながオレの事を知っているようなのに、オレがみなさんの事を知らないなんて、少し寂しいと思うんです。オレの記憶は十歳の時のまま途切れていて、気がついたら十五歳になっていて、五年の間も自分が何をしていたのか解からなくて、ずっと手探りで生きてきて…そんな時、貴方に声を掛けられて、とてもほっとしたんです。何故だか解からないんですけど…」 隆臣は驚いて声も出なかった。 ひょっとして、もしかしたら。伊斯許理度売命の記憶は圭麻の底に残っているのだろうか。 有り得ないことではない。何しろ、幼い頃から伊斯許理度売命と圭麻はずっと共存していたのだ。十歳からの記憶を消して、それまで過ごしてきた断片を消し去ったとしても何処かに綻びが生じてしまうだろう。圭麻の中にイシコリの何かが残っていたとしてもおかしくは無いのだ。 ならば、自分達と一緒にいれば、いつか圭麻は思い出すのではないだろうか。過去を。自分のしてきた事を。 それは、とても魅力的な発想であり、望みでありながら、どうしようもない痛みを呼ぶものだった。 天珠宮に着くと、伊斯許理度売命はまず水を浴びて着替えをさせられた。あの格好のままでは天照の御前に行く事は出来ない。 伊斯許理度売命は仕立ての良い服を着せられて途惑っている。こんな服を着たことなど一度もないだろう。その様子を見てスサノヲは笑う。 「結構似合うな」 「そうでしょうか…」 「まぁ、その服もすぐに合わなくなるだろう。此処ではちゃんと食事が出来る。交代制の自炊だけど資金は全て天珠宮が負担しているからな。お前がそんなに小さいのは栄養が足らないからだろう。ちゃんと栄養を取ればすぐにでかくなる」 「はい、ありがとうございます」 スサノヲの言葉に伊斯許理度売命はぺこりと頭を下げる。 「礼を言う必要などない。お前はお前の存在価値に見合った評価を受けているだけだ。そしてこれからもそれに見合うだけの仕事をお前がしていけば良い。天照様を御守りし、そして高天原の為に良い道具を作っていけばいい」 「はい」 伊斯許理度売命は嬉しそうに微笑んだ。初めてみる笑顔にスサノヲは瞠目する。彼はこんな風に笑えるのか。あんな扱いを受けていながら。 「天照様の御前に案内する。礼法は解かるか?」 「いえ…」 伊斯許理度売命は不安そうに言う。まぁ、知らないのは当然だろう。こんな事になる予測などついている筈はないし、ろくな勉強など出来なかっただろう。まぁ、それはこれから先学ばせていけばいい。彼は頭が良さそうだからすぐに身に付けるだろう。今は天照の会見に必要な知識だけを教えておけば良い。 「取り敢えず、天照様の御前で粗相のないようにだけ教えておく。お前は話し掛けられた時にだけ応えれば良い。他の事はオレが話す。御前に行ったらオレより少し斜め後ろに片膝をついて、ついている方と逆の腕を胸の前に持っていき、空いている方の手は地面につけておく。その格好で天照様の許しが出るまで顔を下げておくんだ。いいな?」 「はい」 スサノヲがやって見せてやると伊斯許理度売命は真剣にその様子を見ながら頷く。まぁ、彼なら大丈夫だろう。多少失敗しても天照は多目に見てくれる。問題は相席する長老達だ。そもそも伊斯許理度売命を天ツ神の一人にする事に反対していた者達だから少しでも失敗を見つけて非難する可能性が多々ある。彼らを見ているとそれほど血統が大切かと嘲笑ってやりたくなるのだが。 伊斯許理度売命は失敗はしまい。頭のいい少年だ。自分に向けられる敵意もきっと感じ取るに違いない。それを察すればそれなりの対応も出来るだろう。 「じゃぁ、行こうか」 「はい」 スサノヲは伊斯許理度売命を促し、歩き出した。 買出し当番は圭麻と隆臣だった。 矢張り圭麻は市場のおばさん達には人気があるようで、結構いろいろな物をまけてくれたりサービスしたりしてくれる。いつの時代も変わらないものだと隆臣は苦笑する。圭麻はそうやってサービスしてくれるのに対してかなり遠慮している様子だったが、それですらおばさん達には可愛く見えるのだろう、快活に笑ってさらにおまけしてくれる。そこまでされると圭麻も苦笑いを浮かべて礼を言うのだ。 「やっぱりお前と買出し行くとサービスしてもらえるから楽だよなぁ」 「…やっぱり?」 隆臣の言葉に圭麻が疑問符を返す。圭麻は誰かと買出しに行くのはこれが初めてだ。それなのに「やっぱり」と言われるのは矢張り隆臣達が自分のことを知っているのだということを思い知らされるようで、圭麻は複雑な気分だった。 隆臣も隆臣で失言だったな、と思う。以前のことを仄めかす様な事は極力避けているつもりだが、ぽろりと零れてしまう事がある。否、結局圭麻が思い出す事を望んでいるのだ。圭麻の、伊斯許理度売命としての記憶を思い出してくれるのを。圭麻自身に何ら不満はないとしても、彼と自分達では何処かずれのようなものが出来てしまっているから。迂闊に言葉に出す事が憚られてしまう。 圭麻はじっと隆臣を見ている。何とかして誤魔化さねばならない。隆臣は一つ溜息を吐いて言った。 「お前はこの年頃にしちゃやたらと笑顔振り撒いて可愛いもんだから市場のおばさん達に可愛がられるだろうなって思っただけだ」 「可愛い…ですか」 隆臣の言葉に気恥ずかしさと少しの不満を含ませた言葉を返す。誤魔化されたとは思ったが此れは触れてはいけない事なのだと思い、圭麻も追求はしない。 「不満か?」 「オレは男ですよ。可愛いと言われても嬉しくありません」 隆臣の問いかけに少しむっとしたように圭麻は返す。隆臣はそれが可愛いのだと思うのだけれど。反応が矢鱈と素直で。 「いいじゃねぇか。それもお前の個性だろ。可愛いっていうのだって褒め言葉なんだから有り難く受け取れよ。それで得してんだからさらに言う事はない。そのままでいろよ」 圭麻はまだ不満そうだったが、隆臣の言葉に反論はしなかった。その様子に隆臣は笑う。 互いが傍にいるのがあまりにも自然で、圭麻はそれが不思議だった。だからおかしいと思っても何も問わなかったしそれでいいとも思っていた。 けれど。 何処かで、何かが、軋み始めていると、そう、感じた。 |