圭麻は慌てて伽耶を抱き上げた。 「伽耶様…どうして…」 この時間、伽耶は部屋で寝ているはずだった。何も知らないで…。なのにどうして此処に居るのだろう。そして、何故自分を庇うのか。 圭麻は問いながらも伽耶の傷を確認する。急所は外れているが、出血が酷い。それに、このままでは跡が残ってしまうだろう。 「わたしは…圭麻さんの事が、好きだから…」 伽耶は少し息を乱しながらも答える。 「今日は、少し騒がしくて、目が覚めて…だから探しに来たの。そうしたら、お父様が圭麻さんに…わたし、圭麻さんには生きていて欲しいから……」 圭麻は何も言えなかった。言える言葉など無かった。 伽耶が自分に対して好意を抱いているのは薄々気づいていたが、それを自分は表面化するつもりなどは全く無かった。知らぬまま、そのままで終わっていって欲しかった。 伝えられる事の無いまま、この神王宮を去る日が来るのを願っていた。 応えられないのを知っているから。 「愚かな。こんな裏切り者を庇うとはな」 「なっ!」 「結局、伽耶も馬鹿だったということだ」 「ふざけるなっ!!」 圭麻は怒りに目を見開く。 「貴方は、酷い人間だった。誰も顧みないし、誰が傷ついても何とも思わない。だけど、貴方は、彼女だけは愛していた筈だ!闇に呑まれてそんな事も忘れてしまったんですか!!唯一、貴方が愛情を注げたのは彼女だけだったのに!!」 そうだ、だから、だからこそ月読はまだ人で居られたのだ。娘を愛していたから。 まだ人間らしい感情が残っていたから。けれど、今はどうだろう。娘が傷ついて、倒れているのを見て笑っているのだ。 常の月読なら、圭麻に対して罵声を浴びせるかも知れないが、娘に向かってそんな言葉を吐くような人間ではなかった。今はもう、欲望の権化でしか有り得ない。 「それがどうした?そんな愚かな娘などもう要らんな。可哀想に、痛いか?楽にしてやろう」 月読はもう一度この機械を伽耶に向ける。 迷っている暇は無い。伽耶は月読から離した方がいいだろう。圭麻は伽耶を抱き上げ、泰造に渡す。 「圭麻?」 「逃げてください。早く!!」 泰造の疑問符に、圭麻は泰造を押し出して言う。 「行こう」 隆臣は泰造の肩を叩く。皆出て行こうとすると、圭麻は那智を呼び止める。 「那智、貴女なら彼女の怪我を治せる筈です。貴女の力なら」 圭麻の真剣な瞳に、那智も頷いて、そのまま走っていった。 其処に残されたのは月読と圭麻、そして倒れて気絶している護衛だけだった。 神王宮を出て少し離れた林に着くと、泰造は伽耶を木に凭れさせて下ろす。 「伽耶さん、大丈夫ですか?」 「はい…」 少し息が荒いが意識ははっきりしいている。 伽耶とは皆初対面だが、噂はそれぞれ知っていたので初めて会う気はしない。月読の一人娘。とても美人という噂はあちこちにあったが、本物を見てもそう思う。 綺麗な人だ。 「那智…圭麻が言ってたけど…」 「ああ、何となく解かる。大丈夫、治せる!」 那智はにっと笑い、それから息を吐いて瞳を閉じた。 胸の底から湧き上がってくる熱さがある。出来るという確信があった。那智は瞳を開き、伽耶の傷口に手を添える。 ほうっと薄明るい光が傷口を包み、傷は癒えていく。完全に傷が癒えて、那智が手を離すと、その手にはしっかりと勾玉が握られていた。 「よっし、これでもう大丈夫!」 「ありがとうございます」 伽耶は微笑んで礼を言った。そうするとますます美しさが際立つ。 そして、都一の美人と言われる伽耶が圭麻の事を好きだというのは、かなり意外な事実である。 「伽耶さんはこれからどうするの?」 結姫は伽耶に尋ねる。 伽耶は真剣な瞳で結姫を見つめ返す。 「わたしは、神王宮に戻ります」 「え?でも、戻ったらどうなるか…」 「はい、お父様はわたしを殺すかもしれない、だけど、もしかしたらまた神王宮に戻って生活する事が出来るかも知れないから…。それに、圭麻さんの事も気になるんです。どうなっているか、心配で…」 「うん」 あの後、圭麻が月読とどうなったのか解からない。ひょっとしたら殺されているかも知れないと思うと、伽耶はすごく不安だろう。それは自分達も同じだ。 圭麻に、もしもの事があったら…。 「それでは、わたしはもう行きます」 伽耶はゆっくりと立ち上がり、ぺこりと五人にお辞儀する。心配だったが、止める事も出来なかった。気持ちが解からない事は無かったから。 大切な人が危険な目にあっている。すごく心配で、すごくもどかしい。だから、直ぐにでも其処に行きたいと思う。 伽耶の後ろ姿を見ながら、五人は逆の方向に歩き出した。 またあの小屋に戻ろう。 あの小屋に戻って、また対策を練ろう。今どんな状況か解からないから、何も出来ないけれど、だけど、もし解かったら、もし圭麻が生きていて、捕らわれているのだとしたら救いに行かなければいけない。 圭麻は一体何なんだろう。 笑顔で人を騙すと思ったら、今回は信じられないほど真剣に人を見る。何かを切実に願っている瞳が、それが何か解からないけれど、叶えてあげたいという気持ちになった。 信用できないと思っていたのに、何故だろう、彼を信用してしまうのは。 今、彼はどうなっているのだろうか? パリンッ、と一つのグラスが割れた。 黄色の石が入っているグラスだ。 此れで、あと一つ…しかし、それを見る者は誰も居なかった。部屋の主は不在だったのだ。 一週間後。 穏やかな日だった。 しかし、未だに神王宮の様子は掴めないで居た。まだ月読を殺せていない、圭麻がどうなっているのかも解からない。状況はどんどん悪化していっているように見える。 「どうにかして神王宮の様子を知ることは出来ないのか?」 隆臣がイライラした様子で颯太に尋ねる。 「何とも言えないな。圭麻が生きているのかどうかも解からないし…」 「あいつは、死んだりしない」 「オレもそう思うよ。だけど、あの状況だと…」 あの状況だと、それは希望的観測にしかなり得ないのだ。 それを隆臣も解かっている筈だ。だからこそ、イライラして早く真偽をはっきりさせたいと思っている。隆臣が圭麻に拘る理由は解からないが、自分達よりも遥かに気にかけているのは解かる。 那智が力を使えるようになって、幾分かの記憶がまた蘇ってきた。それは泰造も同じ事で、那智も昔の記憶を共有する事になった。 誰かが目覚めるたびに、段々と記憶が蘇っていく。圭麻は目覚めているのだろうか、その可能性が高い。だからこそ、何かしら考えて動いているのだろう。けれど、それでも圭麻は昔と違いすぎて、記憶が噛み合わない。ただ穏やかに微笑んでいた少年は、歳月の間に変わってしまっているのだ。それは、まだ自分達が思い出していない過去の記憶の中でなのか、それとも今過ごしてきた人生においてなのかは解からない。 隆臣が目覚めれば、全ての記憶が蘇るのだろうか?まだ解からない事がたくさんある。圭麻の事、隆臣の事、結姫の事…。 そう、結姫の事も考えなければいけない。 彼女が何者なのか。 憶測だけでは何の結論も得られない。けれどその憶測がどこかで確信に近いと感じている。 この一週間、この小屋の中では暗い雰囲気が漂っていた。 気になる事が山積みで、そしてそれを一つも解決できない腹立たしさが皆の心を暗くしていた。 颯太は溜息を吐いたどうしたら良いのかなんて解からない。 ガタッと小屋の外で物音がする。 皆一瞬のうちに警戒する。コンコン、とドアを叩く音がする。 「誰だ?」 泰造が低い声で尋ねる。 「わたしです。伽耶です、開けてください」 「伽耶さん?」 颯太が驚いてドアを開ける。 「どうしたんですか?どうして此処が…」 「鏡を…鏡を持っていますよね?」 「鏡?」 颯太の問いに、伽耶が自分のポケットを探り、鏡を取り出す。 「神華鏡です。神獣鏡と対になる鏡、此れが貴方がたの場所を教えてくれました。誰か、神獣鏡を持っていらっしゃるんでしょう?」 「あ、あたしが…」 そう言って結姫も自分のポケットから神獣鏡を取り出す。 「でも、どうして伽耶さんがその鏡を?」 「此れはずっと神王家に伝わっていた物です。次期天照となる者がこれを所有する決まりになっているのです」 「そっか、伽耶さんは月読の一人娘だから、次の天照に…」 結姫が納得して頷く。 「それよりも、お願いします、神王宮に来てくださいっ、圭麻さんが――…」 「圭麻がどうしたの?」 必死な様子で言ってくる伽耶に結姫は尋ねる。 「今、お父様に捕らえられています。地下牢に繋がれて…。助けてください、お願いします、わたしには出来ないから…っ!!」 伽耶は震える手で結姫の肩を掴み、縋りつく。隆臣は、そんな伽耶の腕を掴み結姫から引き剥がして尋ねる。 「地下牢?オレ達が捕らえられていたところか?今、あいつはどんな様子で居る?」 「詳しい事はわたしにもよく解かりません。近づかせて貰えないから…。ただ、お父様は、わたしが戻った後、圭麻さんを殺しはせずに地下牢に閉じ込めたんです。鎖で繋いで…わたしは神王宮に戻る事を許されましたけど、ほとんど自由に動けなくて、今日、やっと神王宮から抜け出してきたんです。多分、今圭麻さんはお父様に拷問を受けているわ。今のお父様はとても容赦ないから、何をするか解からない…」 伽耶が一人で神王宮を抜け出してくるのは大変だっただろう。それだけ圭麻の事が心配で仕方がなかったのだ。何も出来ない自分がどんなに歯がゆかっただろう。 「解かった。出来るだけ早く助けに行く。中まで手引きできるか?それから、出来るだけ早く神王宮に戻れ。気づかれているかも知れない、早く戻った方が安全だからな」 「はい」 隆臣がそう言うと伽耶は大人しく頷く。けれどその瞳には決意の色が宿っていた。喩え、自分の父親と敵対する事になっても圭麻を救いたいと思うのだろう。 「三日後に神王宮に行く」 「解かりました」 伽耶はもう一度頷き、そして小屋から去っていった。 「いいな?三日後で」 隆臣は伽耶を見送った後振り返り、その意志を曲げるつもりもないくせに確認の為に訊いてくる。それに皆も頷き、今度は圭麻を救いに神王宮に行く事になった。 月読を殺す目的も忘れた訳ではないが、今は圭麻を救う事が最重要事項だった。 隆臣も、もしそれが圭麻以外の人間だったなら、きっと見捨ててしまっていただろう。隆臣は、そういう残酷さが己の中にある事を自覚していたから。けれど、圭麻を見捨てる事は出来ない。それが何故だかは自分でも解からないけれど。 あの瞳が気になって仕方ない。どこかで見た事があるような瞳が。 一度、明るい陽だまりの中でその瞳を見てみたいと思った。だから、何の関係もなく穏やかに過ごせる時間の中で。 暗い地下牢で、圭麻は鎖に繋がれていた。重い足枷と手枷が身体の自由を奪う。膝立ちになる格好で、だらんと気だるげにしている。 荒い息を吐いて、無数に付いている傷を、腕の傷を舐める。 見張りの人間はその様子を見て手負いの獣のようだと思っただろう。 傷つきながらも、その瞳は強く輝いていたし、その紅い瞳はまるで人のものではないようだった。一瞬、本当に獣ではないかと思わせるほど鋭い瞳で見張りを睨みつけた。 見張りの人間は、傷つけられる事がないと解かっていながらもその瞬間その瞳に怯えた。射殺されそうなほどの強い瞳で見つめられれば誰だって怯えるだろう。 圭麻はその反応を見て微かな笑みを漏らす。 馬鹿馬鹿しい。 月読は何を考えているのだろうか。あの時、すぐに殺されると思ったのに、こんな所に捕らえて、こんなまどろっこしい事をして。 飼いならすつもりだろうか。そんな事は絶対に無理だという事は月読にも解かっているだろう。それとも、それが解からないほど馬鹿なのだろうか。今の月読は、月読であって月読ではない。善悪の判断もつかない、そして深い考えも起こさない馬鹿な男に成り下がったのだ。己の闇に呑まれて。 愚かな男だったが、其処まで馬鹿な男でもなかったのに。 そう考えていると、地下牢の前に月読がやってきた。 「気分はどうだ?」 「最悪ですね」 圭麻は月読からふっと視線を剃らす。 「ずっとこんな格好をさせられたら疲れますから」 「随分と大きな口を叩くな。今自分がどんな状況か解からないでもないだろう」 「解かっていますよ。だから、何故貴方がオレを殺さないのかが解からない」 「知りたい事が山ほどあるからな。お前はとうに覚醒しているらしい。教えろ、どうして私ではあの剣を扱う事ができないのだ?」 そんな事も解からないのか、と罵ってやりたい。 しかし、今それが出来る状況ではない。痛みは別に何でもない。しかし、彼らが来るまで持ちこたえなければならないのだ。 こんな傷のこんな痛みなど、大したことは無い。自分が今まで知らず知らずのうちにしてしまった事に比べれば。こんな痛み、代償としては低すぎる。 「あの剣は、あの方にしか扱えない」 「あの方とは?」 「解かっているでしょう」 圭麻は応えるには応えるが、そっけない返事しかしない。 「忠誠心か?」 「どうとでも取ればいい」 圭麻はきつく月読を睨みつける。 相手がどう考えようと構わない。己は己の責任を取るだけなのだから。誰に憎まれようと、誰に恨まれようと、そう決めた。 「まぁいい。お前が此処に居て捕らえられていると知れば、あの者達もやって来るだろう、それまではそうしているといい」 その月読の言葉に、圭麻は顔色を変えることは無かった。 逆に、都合がいいとさえ思った。 そうだ、また此処に来れば、その時こそ…。 ――――あの方が目覚めるだろう |