第九話 〜失いたくないもの〜



 教会に行った夜から数日が過ぎた。
 一ヶ月の穏やかな日を、何かが忍び寄る気配を感じながらも知らない振りをした。
「微妙に長い間が空くと変な気分だな」
 ペトロが呟く。
「ダリス、どうしてるかなぁ」
 イザヤは溜息を吐く。
「何かそれだと恋する乙女みたいだぞ、イザヤ」
 からかったユダが頭に一発ゲンコツを受けた。
「いってーーっ!何するんだよ!!」
「馬鹿なこと言うからだ」
 ふんっと鼻で笑って言う。
「とぼけてるのはお前も同じだ」
 エリヤがイザヤに言う。
「あ〜あ、エリヤ、お前最近ピリピリしすぎだぞ。大体ダリスが…」
 ガタンッ!
 大きな音にイザヤがびくっとする。椅子が盛大な音を立ててこける。
 エリヤはイザヤを睨みつけて部屋から出て行く。
 イザヤはエリヤが出て行ったのを見送ってはぁ〜っと溜息を吐く。
「大体、ダリスが心配ならそう言えばいいんだ」
 ぼそっとさっき言いかけたことを言う。
「素直じゃない」
「エリヤにとってダリスって一体なんだろう…」
 ペトロが言う。
「特別…なんだろうなぁ」
 ユダはペトロに答えるように言う。
「…ダリスの事に関しては、お前達よりエリヤのことは解かるつもりだけどな。ダリスを見てると不安になるんだよ。自分のことじゃなく、ダリスが……ダリスが何を考えているのか、ダリスは、すぐに俺達と離れようとする。何処かへ、飛んでいってしまいそうな不安がどうしてもあるんだ」
 イザヤは言う。
「だからイライラしてんだよ。ダリスは次男なのに後継ぎになったから、母や兄に疎まれてるみたいだし」
「家族が居ても幸せって訳じゃないんだな」
 ユダが言う。イザヤは苦笑する。
「心配なんだけど、言えないんだよなぁ。言うなって気配が身体中から出てる感じ」
「だから余計にああなるのか」
 ペトロは納得したように言う。
「まぁ、あのダリスに何か言えるのはヨハネぐらいだろうなぁ………ってそんな顔顰めるなよ」
 ヨハネの名前が出てきただけでペトロとユダは不満そうだ。
「あいつは気に入らないんだよ!」
「あいつ、八つ当たりであんなことしたんだぞ!?」
 ペトロとユダが言う。
「あの人も寂しいんじゃない?」
 お茶を入れてきたマリアが言う。
「だって、彼には家族も仲間もいないんでしょう?」
「……ああ、そうだな」
 家族は教皇に殺されて、自分達のような仲間も居ない。
 だったら、彼にとってダリスとの出会いはどんなに救われただろう。
「そう言えば、エリヤは?」
 マリアが部屋を見回してもエリヤは居ない。
「ああ、イザヤが怒ら…っんぐっ」
 言いかけたユダの口をイザヤは塞ぐ。
 マリアはそれを理解して苦笑する。
「エリヤは多分屋上に居るよ」
 ペトロがマリアに言う。
「そう…。今は行かない方がいいかもね」
「そうだな…」


 下を見れば車が道路一面に走っている。
 車のクラクション音に人のざわめきの声。どうしてこんな平和な世界に自分達は紛れ込んでいるのだろう。
「ダリス……」
 どうしてダリスは自分たちに関わってくるのだろう。
 何も気にせず、普通に暮らせるのに。自分達と何の関係もなく……。
「ピリピリしてる、か。そうかも知れないな」
”大体ダリスが…”
 次の言葉が何なのか、解かっていた。だから聞きたくなかった。
 イザヤには自分が何を考えているのか知られてしまう。
 きっと、ダリスに対して同じ事を感じているから。
 あの夜を思い出す。月と星と湖。夜の光がダリスを映し出す。
 一瞬目を奪われたあの時、あの夜からダリスは自分の心を侵食していった。
「俺には解からない。お前が何を考えているのか…。ヨハネなら、解かるのか?」


 教会の中を静かなざわめきが支配していた。
 有名な貴族が教会に来る事は珍しくないが、今回は少し違う。
 彼が来た時はいつもざわめきが起こり、ひそひそ話が後を絶えない。
 彼と教皇の面会の折、ヨハネも立ち合うことになった。
「では、エリヤは何もせず逃亡したと?」
「ああ、私を殺すのは無理だと悟ったのだろう。はははは…」
 教皇のくだらない話を聞かされても呆れた顔は見せない。
 ヨハネは教皇の言葉を聞いて笑ってやりたい気分だった。
 彼、ダリスは、それを聞いて何を思っているのかは解からないが、別にどうでも良いのだろう。
 十六歳という若さで、貴族の中でも上流の階級であり、落ち着いた物腰、仕草、そして顔立ちの良さも手伝って、年頃の女性は彼のことを噂し合う。
「ところで、教皇様。工場の水質汚染についての事ですが」
「……それは私には何も出来んと言わなかったか?くだらない事を蒸し返すな」
 教皇の機嫌は一気に急降下する。
「そういう訳にはいきません。これ以上こんな事を続けると―――」
「続けるとどうなると言うのだ!?そんなこと私は知らん!!」
 教皇の怒声にだも、ダリスは怯む様子もない。
 ざわめきのもう一つの理由。彼の言動は妙に教皇の癇に障るらしい。
 何処の貴族も教皇の機嫌を取ろうとするのに対して、ダリスは全く教皇の機嫌など気にしない。
 ある種の尊敬の念と、恨みなどが入り混じるざわめきが彼の周囲を付きまとう。
「とっとと出て行け!!くだらない事を言うのならな!!!」
「話にならないようですね。それでは」
 そう言うとダリスは部屋から出て行く。
「教皇様、僕もそろそろ…」
「ああ、出て行け」
 ヨハネは部屋から出ると自然と溜息が漏れる。
「君は教皇を怒らせることを趣味にでもしているのか?」
 相手を見ずにヨハネは言う。
「別にそういうつもりは無いんだが」
 ダリスはヨハネが出てくるのを知って待っていた。今は壁に背をもたれて腕を組んで立っている。
「そういう風にしか見えないよ。此処じゃ目立つな、僕の部屋に行こう」
 ヨハネはダリスが自分に何か話したいのに気づいていた。
 周りには誰も居ない。誰にも知られずに部屋に入ることが出来た。
 ダリスは戸を閉めてから部屋の中を一度見回す。
「寂しい部屋だな。エリヤ達のところの方がまだ物が置いてあった」
 本棚が角に一つ。備え付けのベッドには使った様子はなく、椅子が一つと毛布一つ。それに窓の横の角に机が置いてある。
 生活としての温かみを感じるのは、腰掛椅子と毛布だけだ。
「必要性を感じないんだよ」
「ベッドも使わないのか?」
 椅子が一つしかないので、ヨハネはダリスにベッドに座るように促す。
「慣れないんだよ。椅子に座って寝るのが一番楽なんだ」
「―――そうか」
「で?」
 ヨハネはダリスに用件を話すように言う。
「次がいつかはもう知っているな?俺が行く事も」
「うん」
「俺に何かあっても気にしないで欲しい」
「何かあるの?」
「その方が俺にとっては都合がいい」
 ダリスのそれを聞いて溜息を吐く。
「僕は君の考えを否定するつもりもないし、出来る事なら協力する。僕は今は君のために此処に居るんだからね。だけど、君の無茶を尊重するつもりは無いよ。一人でなければいけないと言って、それでも僕に関わってくるのは何故かな?」
「さぁ、何故だろうな」
「君の本当の目的を知ったら、エリヤ達は黙っていないだろうな」
「――――だからダメなんだ」
 ヨハネはふっと笑って、ベッドに座っているダリスに近づく。
「馬鹿だね、本当に。こんな、馬鹿でお人好しな人間、見たことが無い」
 ダリスの左頬に手を当てて顔を上げさせる。
 その時のヨハネの瞳はいつになく優しいものだった。
「わざわざ危険を冒して、こんな事を伝えるために僕の所に来るんだから」
「ヨハネ」
 ダリスは口を開く。いつだって彼は視線をそらしたりなどしない。ダリスの真正直な部分が伝わってくる。
「俺はお人好しなんかじゃない。自分のために他人を利用しているんだ」
「今更僕にそんなのが通じると思ってるの?」
 ヨハネはダリスの隣に腰を下ろす。
「僕は良く知ってる。君は馬鹿で、お人好しで、他人のために命だって投げ出す。それは僕やエリヤ達のためでなく、君の父親の遺言のためだという事も」
 ヨハネが話した後、暫くの沈黙が下りる。
「俺はたった一つのことのために生きている。それにお前達を巻き込んでいるんだ」
「此れは僕達が関わらなければいけないことだよ。初めて君に会ったとき、決めたんだよ。君が死ぬのなら、僕も一緒だ」
「だめだ。そんな事は」
「何がダメなんだ?此れは僕が望む事だ。君に指図する権利はないよ」
 そう言うとヨハネは立ち上がる。
「そろそろ帰りなよ。もう暗くなる」
「―――ああ」
 ダリスも立ち上がり、そのまま視線を合わせずに出て行く。
「あんまり馬鹿なことはしないでくれよ」
「ああ」
 ダリスは振り向かない。ヨハネはその背中に視線を送り、部屋の戸を閉めた。
「………馬鹿」
 ダリスと会って、自分は変わっただろう。
 こんなに誰かの心配をするのは初めてだ。
 もし、エリヤ達が死んだとしても自分は冷ややかに見つめているだろう。しかし、それがもしダリスだったら自分はどうするだろう。想像する事すら出来ない。
 取り乱すのは間違いない。
 ダリスはすっと自分の中に入ってきた。当然のように。
 抗いたくなるようなものじゃなく、心地よいもの。
 彼の瞳が全てを動かす。全てが動かされる。それに抗う人間は一人も居ない。
 けれど全てを受け入れるわけにはいかない。抗わなくてはいけない、自分が。でなければ、彼は自分の思うように突き進んでしまうだろう。
 それだけは絶対にダメだ!
 一番恐ろしいのは彼が自分の動かした運命の歯車に飲み込まれてしまうことだ。それこそ本当に抜け出せなくなる。
 だから自分がブレーキをかけなければ。
 知っている。彼の行動の全てを制限する事は出来ない。
「それでも失うわけにはいかない」
 一人だと思っていたって、彼は決して一人じゃない。


 帰り道、ダリスは考えていた。
 心臓が早鐘の様に鳴って、顔は熱くなっていた。それでも、考えていた。
“君が死ぬのなら僕も一緒だ”
 その言葉がダリスにいつにない動揺を生んでいた。
 だめだ。落ち着かなくては。
 一緒ではいけない。一人でなくては。
 本当は心の何処かで無駄だと解かっていた。けれど、それでも一人でなければいけない。
 ヨハネは何を考えているのだろう。未だ掴めない部分がある。
 自分を動揺させる言葉を知っている。
 止めようとしている。でもダメだ。
 そう、ダメなんだ。
 俺は、一人だ。


「エリヤ、そろそろ中に入らないと…」
 マリアが屋上にいるエリヤに声をかける。
「……ああ」
 エリヤはマリアの方に歩いてきて一瞬、目を合わせる。
「エリヤ、私ね、ちょっとダリスに嫉妬したの」
 エリヤは立ち止まり、マリアを見る。
「エリヤは、彼しか見てないから。彼がエリヤにとって何より大切だって解かるから。彼と何があったのか、私は知らないけれど、それでも、私は……」
「ダリスは、俺に何とかできる人間じゃない。その意志も、想いも全てが俺の知らないところに隠れている。俺の手には負えない人間なんだ、ダリスは」
 エリヤはそのまま階段を下りていく。
 マリアもその後に着いて行く。
 後、二週間で一ヶ月経つ。


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