Secret relation 3



 普通科の屋上にいつものように来てはいたけれど、いつものように読書、という訳にはいかなかった。
 化学のノートと教科書を広げて、問題を眺める。
 解くのではなく眺めているだけだ。化学式なんてちっとも頭の中に入ってこない。
 化学は今日の午後一にあるから、今やっておいてしまわなければいけない。それは解かっているのだけれど。
 ふう、と溜息を吐く。
 苦手なものは、やっぱり苦手だ。
 もう一度溜息を吐いたのと同時に、吉羅さんが顔を出した。相変わらず扉はキィキィと五月蝿く鳴っている。
「何をしているんだ?」
「化学の課題です。やってくるのを忘れていたので」
「それなら教室ですれば良いだろう」
 呆れた顔で言われる。
 確かに、こんなところではやり難いだけだということは解かってはいるのだけれど。
「だって、吉羅さんに会いたかったから」
 解かっていても、此処に来る理由なんてそれしかない。
「梅雨の季節になったら、此処には余り来られなくなるし、そうなったら吉羅さんともなかなか会えなくなるでしょう?その前に、会える日があるなら少しでも会いたいんです」
「……」
 僕の言葉を聞いて、吉羅さんは呆れの中に困惑の表情を滲ませる。ちょっとストレートすぎたかな。
 困らせたい訳じゃないし。
 だけどそれも一瞬で、すぐにまたいつものポーカーフェイスに戻った。そして僕の前に広げられている教科書とノートを覗き込む。
「化学か」
「はい」
「全然進んでいないように見えるが」
「進んでません」
「……」
 あ、また呆れた顔してる。
「苦手なんですよ。理系全般」
「だが、しない訳にはいかないだろう」
「ですよねえ」
 全く危機感の無い僕の言葉に、今度は深々と溜息を吐いた。言葉に出来ないほど呆れているんだろう。
 吉羅さんは座り込んで僕の顔を見る。
「…何が解からないんだ?」
「教えてくれるんですか?」
「こうして無駄に話していたところで、何も終わらないだろう」
 教えてもらえるなんて、思っても見なかったから嬉しい。一気にテンションが上がる。
「ええと、ここの化学式なんですけど」
「ああ、これは…」
 説明を始めた吉羅さんの声を聞きながら、視線はつい顔へと引き寄せられる。決して長くは無いけれど綺麗に揃っている睫が伏せ気味になっていて、瞳に翳を落としている。それが吉羅さんの赤い瞳をより濃い色に見せていて、まるで血の色のようだと思う。
 そして、吉羅さんから発せられる声も僕の意識を奪う。淡々とした声が心地よくて、中身は右から左へと流れて行って、ただただその声を聞いていたいと思う。
「おい、聞いてるのか?」
「すみません」
 だから、不機嫌そうな声でそう言われても、余り悪いという気にならない。それでも、怒られたい訳ではないから謝るけど。
 反省していないのはきっとバレバレだろう。
「真面目にやる気が無いようなら教室に戻ってやりなさい」
「いえ、すみません、やりますっ」
 追い払われるのは流石に嫌だ。真面目な顔を作って頭を下げる。
 教えてもらえるのは本当に有り難いし。
「…まあいい」
 全く反省しているとは思っていないような顔で、それでも追い払われずには済んだ。やっぱりただ呆れられているのかも知れない。
「そういえば、吉羅さんは苦手な教科とかあったんですか?」
「…古文や漢文は苦手だったな」
「へえ…僕、逆に文系全般は得意なんですよ。もし吉羅さんと同じ年だったら、教え合ったりとか出来たかも知れませんね」
 勿論現実にはそんなことは有り得ないのだけど、想像するだけならタダだ。
「くだらない事を言ってないで、問題を解きなさい」
「ちょっとくらい良いじゃないですか」
「君の場合、ちょっとではなくて、さっきからずっとだが」
 確かに、ずっと脱線ばかりしている。でも、それも吉羅さんと一緒に居られて浮かれているからだろう。口に出せば、絶対に追い払われるだろうけど。
「だって、嬉しいんですよ。吉羅さんにも苦手な教科とかあるんだと思ったら。何でも完璧に出来そうなイメージだし」
「苦手だと言っても、別に成績が悪かった訳じゃない」
 ふと、少し拗ねたように、言い訳でもするかのように、何処か不貞腐れたような表情でそう言われて。
 胸がときめくのを抑えられない。
 最近、セックスの時以外でもこうして表情を見せてくれるようになって、それが少しずつでも心を許してくれている証なのだと思えば、嬉しくない筈が無い。
 引き寄せられるように、キスをしようと顔を近づける。目が合って、僕の意図を察しただろうに避けられる様子も無い。
 それなら遠慮なくこのまま、と更に顔を近づけた時。
 キィ…、と扉が開く音がして、咄嗟に離れる。
「お、何だ、こんなとこに居たのか」
 そうして扉を開いて現れたのは、できれば一番来て欲しくなかった人だ。
 …自分の反射神経の良さに感謝だ。そして、セックスしている時でなくて本当に良かった。
 僕でさえかなり焦っているのだから、吉羅さんの方は尚更だろう。座っている位置が金澤先生に背を向ける格好になっているから、そちらからは見えないのが幸いだ。
 完全に固まっている。
 どう反応したらいいのか、思考が追いついていないのだろう。
「って、加地も居るのか。こんなとこで何してんだ、お前ら」
 こちらの動揺にまるで気づかず、金澤先生が問いかけてくる。
 ちらりと吉羅さんを見やってから、金澤さんの問いに答える。こういう時の対処は、多分僕の方が得意だ。
「何って、課題を教えて貰ってるんですよ」
「教えるねえ、珍しいこともあるもんだ。こいつは人に物を教えるのは不向きだと思うがな。それにしたって、前から二人で此処で会ってたのか?」
「ええ、偶然此処で会ってから、偶に」
 不審そうな顔で問われて、それににこやかになるように意識して答える。
「…何だよ、俺のことは邪魔者扱いしといて、加地は良いのか」
「加地君は別に、邪魔ではありませんから」
 吉羅さんはそう答えて振り返る。何とかいつも通り対応できる時間は稼げたらしい。
「何だよそれ。酷い言い草だな」
「事実ですから。コーヒーを淹れろだの、相手をしろだの、彼は絡んで来たりはしませんからね」
「うっ…」
 思い当たるのか、金澤先生が言葉を詰まらせる。僕としては吉羅さん相手にそこまで我が侭を言えることが羨ましい。
「って、今日はそういう用件で探してたんじゃねえよ」
「だったら何です?」
「校長が探してたんだよ。つーか、せめて携帯ぐらい持ち歩けよ、理事長室に置きっぱなしにすんな」
「一人でゆっくりしたい時にあんなもの持ち歩く訳無いでしょう」
「持ち歩かなきゃ携帯の意味がねーだろうが!大体一人って言ったって加地が居るんだろうが」
「彼は良いんです」
「…」
 多分、吉羅さんにとっては何気ない言葉が、金澤先生の次の言葉を止めた。
 そして僕も、内心で浮かれるのを止められなかった。
 別に深い意味は無いと解かっていても、まるで僕のことを特別だと言ってくれているようで。そんな風に言われて、浮かれない訳が無い。
「…どうしたんです?」
 次の言葉が出てこない金澤先生を訝しそうに見遣って、問いかける。
 本当に、自分が何を言ったのか、解かってない。
「あー、いや。何でもない。それより、校長のとこ行けよ。まだ探してるぞ、多分」
「…それはそうですね、戻りますよ」
 そう言って立ち上がり、僕の方を振り返る。
「加地君」
「はい」
「課題はちゃんとやりなさい。じゃあ、また」
「はい」
 また、と。そう言って、吉羅さんは扉の向こうへと消える。
 今の言葉を反芻して。
 また、此処で会おうと、そう言っているのだろうと理解はするけれど、金澤先生にこの場所を知られて、今まで通りなんていうのは無理だろう。
 次からはいつ、金澤先生が来るか解からないのだから。
「おい、加地」
 その金澤先生に声をかけられて、はっとする。
 何だ、まだ居たのか。
 なんて思うのは失礼すぎるだろうか。でも、てっきり吉羅さんと一緒に戻ったんだと思ってしまっていた。
「何ですか?」
「お前、吉羅とは仲良いのか?」
 そう聞かれて、考える。
 あんなことまでしているのだから、決して悪くは無いだろう。むしろ良いと言っても間違いは無い筈だ。
 けれど、金澤先生の前で、はっきりと断言する自信は無かった。
「多分、良い方だとは思いますけど」
「…ふーん」
 あれ。
 何か、今。
「それが、どうかしましたか?」
「いや別に。あいつって、なかなか人に心を許さないっつーか、懐かない猫みたいなところがあるからな、ちょっと意外だってだけだ」
 慌てて取り繕うように、そう言われて。
 まあ、それもそうか、とも思う。
 でも。
「まあ良いや。お前も早く教室に戻れよ。そろそろ昼休み終わるぞ」
「そうですね」
 頷きながら、頭ではさっき感じたもの、見たものを確認している。
 金澤先生も戻って行って、一人になって。
 問いかけの意味を考えて。僕の答えに対して浮かべた表情を思い返して。
 あの、表情は。
 まるで、嫉妬しているみたいだ。
 まさかと思えば思うほど、そうとしか思えなくなってきて。
 もし本当にそうなら、僕に勝ち目なんて殆ど無いって事になる。
 あの二人は両想いで、僕の入る隙なんて、無いって事になるじゃないか。
 そう考えて、首を振る。
 僕の勘違い、気のせいだって可能性もある。
 それに、吉羅さんと金澤先生は別に付き合っているという訳じゃない。
 もし両想いだとしても、気持ちを告げていないのなら何も無いのと同じことだ。
 だったら、何かある前に吉羅さんの気持ちをこちらに向ければ良いだけのこと。それだけのことだ。
 まだ、何も終わってない。
 だから、諦める必要なんかない。
 そう自分に言い聞かせて。
 結局課題を終えることも出来ないまま、心の奥底にある不安を、必死で宥めていた。



 また、と吉羅さんが言ったから此処に来たけれど。
 当然のように吉羅さんも待っていてくれたのだけれど。
 隣に座ったまま、暫く無言が続くと、もうどうしたら良いのか解からなくなる。
 吉羅さんがさっきから何か言いたそうににしているのは解かるのだけど。
 やっぱり、此処でしていた事に関する事だろうか。それなら、僕が口火を切ったほうがいいのかも知れない。
「流石にもう、此処でああいう事は出来ませんよね。いつ金澤先生がやってくるか解かりませんし。それどころか、変に怪しまれる前に、会うのも止めた方が良いかも知れませんね」
 我ながら、なんて自虐的なことを言っているんだろうと思う。止めたいなんて、全然思っていないくせに。
 それなのに、そういう言葉は次々と僕の不安という形を現して溢れ出てくる。
「何も無かったってことにした方が、吉羅さんにとっても良いでしょう?金澤先生に勘繰られたりしたくないでしょうし」
「私は、君との関係を終わらせるつもりは無い」
「…え?」
 今、何て言った?
 吉羅さんが言い難そうにしていたのは、そういう事じゃなかったんだろうか。
「だって、此処ではもう…」
「解かっている。だから、今日はこれを渡したくて来たんだ」
 そう言って渡されたのは、カードキーと住所の書かれたメモだった。思わず、まじまじと吉羅さんの顔を見つめてしまう。
「これって…」
「私の住んでいるマンションの住所と、部屋の合鍵だ」
「良いんですか、こんなの僕に渡して」
「良いから渡しているんだ。それに、これは前から考えていたことだ」
 そう言いながら、でも矢張り気まずそうだ。くしゃりと髪をかき上げて、視線を逸らす。
 そんな仕草にさえ色気を感じているなんて言ったら、怒られるだろうか。
「ずるい事を言っているのは解かっているんだ。それでも、君との関係を終わらせたくない。金澤さんのことが好きなのは、今でも変わらない……それでも、君に対する気持ちが、無い訳じゃない。だから……」
 もう良い。
 もう十分だ。
 腕を掴んで引き寄せて、そのまま唇を奪う。
 もう、これ以上何も言わなくたって良い。
 あんなに言い難そうにしていたのは、僕に対して引け目を感じているからだろう。金澤先生が好きなのに、僕と関係を続けたいと思っていることそのものが、自分を『ずるい』と感じてしまっている原因なのだろう。
 でも、今の僕にしてみれば、そんなのは大した問題じゃない。
 思う存分、吉羅さんの唇を味わった後、その目をしっかりと見据えて問いかける。
「早速、今日使っても良いですか?正直、今すぐあなたを抱きたいぐらいなんですけど」
「今日…?」
「駄目ですか?」
「…いや、大丈夫だ。今日は特に予定も無い」
 その答えを聞いて、思わず顔がにやける。もう、今夜が楽しみで仕方ない。
 だけどそんなしまりの無い顔を見られたくは無いから、口元を手で覆い隠して話を続けた。
「何時ごろに行けば良いですか?」
「八時には、帰っていると思うが」
「じゃあ、八時に行きます」
 そう告げて、もう一度触れるだけのキスをした。


 午後八時。
 辺りは既に夜の闇に包まれていて、それでも人はまだまだ活発に活動する時間だ。
 エントランスの自動ドアの前で立ち止まって、カードキーを機械に通す。
 するりとドアが開かれるのを見て、軽く感動すら覚える。本当に、此処に吉羅さんが住んでいるんだな。当たり前のことなのに、それが嬉しい。
 部屋の前に着いて呼び鈴を鳴らせば、すぐに吉羅さんが顔を見せてくれる。
「あ…」
「どうした?」
「いえ、スーツ以外のものを着ているのを見るのは初めてなので、新鮮だなと」
 出てきた吉羅さんが着ているのは、ゆったりとした薄手の黒いトレーナーと、同じようにゆったりとした、ベージュのズボンだった。
 こういうカジュアルな格好も似合うんだな。
 普段と雰囲気は違うけれど、背が高くて整った顔をしているから、何を着ても似合うんだろう。
「良いから、入りなさい」
「あ、はい」
 思わず見蕩れてしまっていた。
 促されて、部屋に足を踏み入れる。
 案内するように前を歩く吉羅さんを見て、もう一ついつもと違うことに気づく。
「ひょっとして、シャワー浴びてたんですか?」
 吉羅さんの、艶やかな黒髪が湿り気を帯びて、更に艶が増している。色気も三割り増しぐらいになっている気さえする。
 近づいて、引き寄せて、触って、匂いを嗅いだら、どんな香りがするんだろう。
「ああ、君も入るか」
「…はい」
 問われて、頷いて、自分が酷く緊張していることに気づく。何で今更、と思うのに、まるで初めての時のようにドキドキするのが止まらない。
 いつもと雰囲気の違う吉羅さんのせいだろうか。それとも吉羅さんのプライベートスペースに足を踏み入れているせいなのだろうか。
「加地君?どうかしたのか」
「いや、えーと、バスルームって、あっちですか?」
「ああ、そうだ。突き当たりを右に入れば良い」
「じゃあ、お借りしますね」
 そう言ってバスルームに向かう。緊張して照れて上手く話せないなんて、本当にもう、どうかしている。
 服を脱いでバスルームに入れば、一人で入るには十分すぎるぐらいに広い湯船に目が行って、二人で入ってもまだ余裕がありそうだな、なんて思って。
 そんな想像ついついしてしまうのを頭を振って追い払って。
 だけど、次の瞬間には、まだ濡れた痕の残っているのを見て、さっきまで、此処を吉羅さんが使っていたんだなと思えば、その姿を妄想してしまうのは、どうしたって止められない。
「あーもう、本当にダメだ」
 好きな人のそんな姿を思い浮かべて、反応しない方がおかしい。変態だと言われようと、これは男子高校生として健全な反応だろう。
 だからと言って、これからその相手としようとしているのに、此処で一人で抜くような真似はしたくない。虚しいだけだ。
 シャワーのコルクを捻って、冷たい水を浴びる。
 出るまでに一度、この熱を冷まさなければ。
 この後、いくらでも熱くなるのだろうから、尚更。
 それに、あまりがっつくような様子を見せるのは格好悪い。
 年の差はどうしようもないにしたって、少しでも吉羅さんと釣り合うようになりたいし。
 なんて、そんな事を考えている時点で、もうだめなのかも知れないけど。全然、釣り合ってないって自ら認めているようなものだ。
 それでも、吉羅さんも僕を求めてくれるのなら、やっぱり情けない姿は見られたくない。
 大きく深呼吸をして、気分を落ち着ける。
 頭が冷えたおかげか、緊張も大分和らいだようだ。結果的には良かった、という事にしておこう。
 水を湯に換えて、身体を温めてからシャワールームを出ると、着替えが置いてある。
 僕が脱いだ服も綺麗に畳んであって。
 それを吉羅さんがしたのかと思えば、不思議な気分だ。
 気が利くというか、几帳面なのだろうか。
 置いてあったのは、吉羅さんが着ていたのと同じようなトレーナーとズボンだった。サイズもそう変わらないのか、トレーナーはぴったりだったけど、ズボンは裾が少し余る。
 身長差は、足の長さなのかなあ。
 吉羅さんの服を着ているのだと思うと、何となく嬉しい。思わず袖口に顔を寄せて匂いを嗅いでしまう。良い香りがして、これが吉羅さんの香りなのかな、と思うとまた顔がにやけてくる。
 リビングに行けば、吉羅さんがソファに座って新聞を読んでいた。
 そういう姿も凄く様になっていて格好良い。
「随分遅かったな」
 僕に気づいた吉羅さんが、そう声を掛けてくる。
 流石に本当の事は言えなくて、咄嗟に言い訳を考える。
 言えるはずも無いだろう、シャワーを浴びている吉羅さんの姿を妄想してました、なんてことは。
 絶対、呆れた顔をされるんだ。
「そうですか?吉羅さんの家に来て緊張してるから、時間の感覚が解からなくなってるみたいです」
 あながち嘘でもない。緊張しているのは本当だし。
 だから吉羅さんも疑ってはいないようだった。
「まあ良い。何か飲むか?」
「お酒」
「……」
「冗談ですよ?」
「本気だとは思ってない」
「…でも、いっぱいありそうですよね、高級ワインとか」
 冷蔵庫の中とか、棚の中とか、凄く覗いてみたい。まあ、今は見せてくれそうに無いけど。
 冗談だと解かっていても、冷ややかな視線が投げかけられている。
「まあ、冗談は兎も角、吉羅さんが淹れてくれたコーヒーが飲みたいです」
「何だそれは」
「だって、金澤先生がいつも飲みたがってるんですから、気になるじゃないですか。僕も一回飲んでみたいんですよ」
「…まあ、別に構わないが…そんなに言う程のものではないと思うがな」
 肩を竦めて、吉羅さんはキッチンに向かう。
 その背中を見ながら、こういうのも良いなあ、なんて思う。吉羅さんが、僕のために何かしてくれる。それがどんな些細なことでも、嬉しくない訳が無い。
 しかし、吉羅さんに見蕩れて立ったままなのも格好悪いか。
 さっきまで吉羅さんが座っていたソファに座り、読んでいた新聞を見る。
 英字の経済紙だ。
 それにざっと目を通していると、良い香りが鼻を擽ってきた。顔を上げると、カップが目の前に置かれる。
「有難う御座います」
「いや」
 首を横に振って、吉羅さんが僕の隣に座る。そして自分の分のコーヒーを口に含んだ。
 僕もそれに倣って、カップに口をつける。
「…美味しい」
 思わずそう呟くほど、美味しかった。下手な喫茶店で飲むより絶対に美味しい。金澤先生が飲みたがるのだって無理は無い。
 これが大したことが無いと言うのなら、普段どれだけ美味しいコーヒーを飲んでいるのかと疑問にさえ思う。
「美味しいです、本当に」
「そうか」
 吉羅さんの方に向かって改めてそう言うと、ふわりと柔らかい笑みと視線がぶつかった。
 どくりと心臓が跳ね上がって。
 こんな風に笑うのかと驚いた。
 今まで、苦笑いだったり、嘲笑めいた笑いしか見たことが無かったから。
 それだって、ほんの僅かしかない。
 でも、まさかこんな事で。
 ただ、『美味しい』と、そう言っただけで。
 こんなことで、良いんだ。
 ほんの少し、近づいた気がして、こんな風な時間を過ごせば、もっともっと近づけるのだろうかと、考える。
 心も近づきたい。
 でも、今は、身体の方が近づきたい。
 我慢なんて、何の意味も無いものにしか思えない。
 コーヒーを飲み干して、吉羅さんの手を掴んで。
 カップを置いてこちらを見た吉羅さんを引き寄せて、キスをした。



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小説 B-side   金色のコルダ