熱の温度 2



 パイプ椅子の背凭れに体重をかけると、ギィ、と軋んだ音がした。
 準備室の窓から見える空は、嫌になるくらいの快晴で溜息が零れる。
 こういう時は無性に煙が恋しい。
 吉羅の部屋に行かないと宣言して、もう一週間。理事長室の方にも用が無い限り顔を出していないから、顔すら殆ど合わせていない。
 こうして意図的に離れるようにしてみると、本当に暇さえあれば一緒に居たんだと実感する。
 会いたいから、会いに行く。
 恋人に対してなら当然の感情だ。
 会いに行くのはもっぱら俺の方だが。
 そう考えると、俺の方が片想いをしているような気分にさえなってくる。
 そんな風に一人アンニュイな気分に浸っていると、騒々しく準備室のドアが開けられた。
「あんた、暁彦さんに何したんだよ!」
 開口一番に挨拶の一言もなくそう言われて、もう一度溜息を吐いた。
「…一応、此処は普段立ち入り禁止なんだけどなあ」
「んなことはどうでも良い。暁彦さんに、何したんだ」
「……何したって、別に何もしてねえよ」
「何もしてなくて暁彦さんがあんな風になるかよ。ぼーっと考え事して、しょっちゅう溜息吐いて、俺が話しかけてもなかなか気づかないし…………暁彦さんがあんな風になる原因は不本意だけどあんた意外には考えられない」
 本当に不本意そうに言われて、苦笑いが漏れる。こいつは本当に自分に正直だなと、ついつい感心してしまう。
「したっつーか、暫くあいつの家には行かないって言った」
「は?何で、別れるつもり?」
「別れねーよ」
「ちっ」
 こいつ、今本気で残念そうな顔して舌打ちしやがったな。
「お前さん、まだ諦めてないのか?」
「そう簡単に諦められるような軽い気持ちじゃないんだよ」
 ぶすっとした顔でこちらを睨みつけて言う。そりゃ、こいつにしてみれば俺なんて腹立たしいだけの存在なんだろう。
「大体、別れるつもりでも無いんなら、何でそんな事するんだよ」
「別に俺だってしたくてする訳じゃないさ。ただなあ…」
「何だよ」
「好きだって言うのも、キスするのもそれ以上も、全部俺からなんだよなあ」
 最初に吉羅の好意に気づいたのだって偶然の産物で、告白された訳じゃない。その後の行動も結局全部俺からで、吉羅から手を伸ばされた事は一度も無い。
「何それ、惚気?」
「違うっつーの。もう付き合って半年だぞ。その間に一度も、ただの一度も、吉羅の方から求められた事が無いんだよ。キスの一つも」
「…………一回も?」
「そう、一回も」
「普通、一回ぐらいはあるもんじゃないの?」
「無いんだよ、だからこういう事をしてるんだ」
 そうでなければ、好き好んで恋人と距離を置こうなんてするものか。
「どうもあいつは、『付き合って貰っている』って意識があるみたいなんだよな」
「何だよ、それ」
「おまけにこっちが手を出そうとすると嫌だの駄目だの毎回言われるんだぜ。本当に両想いなのかって疑いたくなってくるんだよな」
 吉羅が俺のことを好きだっていうのも勘違いだったんじゃないのかという気さえしてくる。
「本気で、こんな事言いたくないけど、暁彦さんがあんたのこと好きなのは間違いないよ。でなきゃなんで俺が振られたんだっての」
「まあな、見てたらやっぱりそうは思うんだけどな。でも今のままだと両想いっていうより、お互いがお互いに片想いしてるような感じなんだよな」
 結局一方通行で、ちゃんと気持ちが重なってない。
 そんな感じがする。
「じゃあ、別に暁彦さんを傷つけようとか、そういうんじゃないんだな」
「むしろ、お互いのためのつもりだけどな」
「だったら良い。でも、もし暁彦さんを傷つけるようなことしたら、ただじゃおかないからな」
 真っ直ぐ俺を見てそう言う衛藤に思わず笑みが浮かぶ。
「お前って、良い奴だなあ」
「あんたにそう言われたって嬉しくないよ」
「だろうな」
 頷いて、それでも吉羅のことは衛藤がちゃんと見ているから大丈夫だろう。
 俺の、今していることがどう転んだとしても。



 デート当日、時間ぴったりに俺の前に停まったイタリア車を目にして笑う。
「ちゃんと来たな」
 助手席に乗り込みながらそう言うと、吉羅は憮然とした顔をする。
「約束ですから、忘れたりしません」
「そういう意味で言った訳じゃないんだが……ああ、照れ隠しか?そんなに俺に会いたかったか?」
「金澤さんっ」
 顔を赤くして怒ってみせるが、それが尚のこと図星なのだと言っているようなものだ。
「…それで、何処に行くんですか」
「そうだな…とりあえず出発しろ。ナビゲートするから」
「はい」
 俺の言葉に割りと素直に頷いて、吉羅は車を発信させる。
 なめらかに動き出した車のシートに身体を預けて、流れる景色を見遣る。
 暫くの間ただ静かに車を走らせていた吉羅が、沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「この前の、金澤さんが言っていたことですか…」
「ん?」
「覚悟…というのは、一体何の覚悟なんですか」
 ぎゅっと眉間に皺を寄せてそう問いかけてくる。きっとこの二週間、その事ばかり考えていたのだろう。
「そうだな……簡単に言えば、俺とちゃんと付き合う覚悟、かな」
「ちゃんと、付き合う?」
 どういう意味なのか、視線をちらりとこちらに向けて問いかけてくる。吉羅にしてみれば、既に付き合っているのに何故、というところだろうか。
「俺は、恋人同士って言うのは対等な関係だと思ってるよ。どちらか一方的なものじゃなく、求め合って、支え合って想い合う、そういうもんだろう」
「対等な、関係…」
「でも、今の状態じゃとても対等とは言えないだろ。お前が簡単に俺の気持ちを信じきれないのも無理はないかも知れんが、お前からも手を伸ばしてくれなきゃ、こっちだってこれ以上証明の仕様もないし、変われないだろ」
「……」
 俺の言葉に吉羅は思い詰めた表情で考え込む。
「ま、別に急がないからゆっくり考えろよ」
「はい」
 頷くものの、表情は硬いままだ。その様子に苦笑いを浮かべる。
「あ、次の信号、左な」
 交差点で曲がる方向を指示すれば、運転する事に意識を戻して、交差点で左折する。運転している時は、落ち込むばかりにならずに済むのかも知れない。
「ま、折角のデートなんだから、楽しまなきゃ損だろ」
「今の状況で楽しめると思っているんですか」
「俺と一緒に居るのは楽しくないか?」
「そういうことでは…」
 軽口を飛ばしていれば、次第に心なしか表情も硬さが薄れてくる。
 あんまり難しい顔ばかりしていてもデートは楽しく無いからな。
「深く考えるなよ。ようはお前がどうしたいかなんだからな」
 結局そういうことだ。
 これ以上はどんなに考え込んだって仕方無い。
 吉羅も気分を切り替えたのか、それ以上その事に関して何か言ってくる事は無かった。
「あ、次も左」
「…本当に、何処に行くつもりなんですか?」
「着くまで秘密。こういうのも面白いだろ」
「どちらかと言えば不安の方が大きいですよ」
「信用してねえな」
 不貞腐れる真似をしてみれば、吉羅の口元に少し笑みが浮かぶ。
 うん、やっとデートらしくなってきたな。
 今日は兎に角楽しむこと、それが第一目標だ。



 金澤さんに指示されるままに運転し、着いた場所は街を見下ろせる高台だった。
「おお、見事に誰も居ないな」
「こんな中途半端な時期ですからね」
 桜の咲く頃や、紅葉の頃なら兎も角、葉も全て落ちてしまっている今の時期にこんな所に来たところでただ寒いだけだ。
「だから良いんじゃねえか。誰も居なけりゃ、男二人でデートしてたって怪しむ奴も居ないだろ」
「それはそうでしょうが…」
 車から降りて高台の先端まで行って街を見下ろす。眺めは良いが風が冷たい。
「…楽しいですか?」
「問題はどう楽しむかだ。ほれ」
 手を差し出されて、一瞬迷ったものの、結局その手を握る。
「人目を気にしなくても良いってのは悪くないだろ」
「…はい」
 我ながら単純だ。
 たったこれだけの事で幸せな気持ちになれるのだから。
 手から伝わる温もりと、しっかりと握ってくるその力強さを感じるだけで。
 暫くそうして手を繋いでいると、金澤さんがぶるりと身を震わせる。
「流石に寒いな」
「車に戻りましょう。風邪をひいてはいけませんし、昼食もまだですから」
「昼か、それはすっかり忘れれたな」
「金澤さんから言い出したデートでしょう。頼りになりませんね」
「うるせえ」
 ぶすりとした顔で肩を竦める。こういう遣り取りは本当にいつもと変わらない。
 車に戻って近くの飲食店に入る。そして昼食をとった後、また車を走らせる。目的地もなく、走っているだけ、後は金澤さんと話すだけ。
 ただそれだけのことなのに、何故か楽しい。
「もう一回高台に戻るぞ」
 そうして特に目的もなく車を走らせて日が暮れてきた頃、金澤さんが言う。
「今からですか?」
「ああ、着いた頃には日も沈み切ってるだろ。夜景が見れるぞ」
「では、戻ります」
 確かにあの場所からの夜景は美しいに違いない。異議があるはずも無く、手近なところでUターンして高台に向かった。


 すっかり日も沈んで、辺りが暗闇に覆われた頃、再び高台に着いた。
 車から降りて、昼間見たのと同じ場所に肩を並べて立つ。
 暗闇の中に無数の光をちりばめたような夜景は想像していた以上に美しい。
「綺麗だな」
「はい、本当に」
 思わず溜息が出る。
 しかも、今この景色を見ているのは金澤さんと私の二人だけなのだから、何て贅沢な事だろう。昼間とは全く違う景色に暫し見蕩れていると、不意に金澤さんが手を握ってくる。
 金澤さんを見れば、薄暗い中でも解かるほど酷く優しい瞳で笑っていて。
「楽しかったか?」
「……はい」
 楽しかった。
 正直、朝出かけた時は楽しめるなんて少しも思っていなかったのに、自分でも意外に思うほど楽しんでいた。
「んじゃ、夜は昼よりも更に冷えるし、戻るか」
「そう、ですね」
 名残惜しい気はするが、確かにいつまでも此処に居る訳にはいかない。
 車に戻って乗り込むと、突然金澤さんに頭の後ろを掴まれ、引き寄せられる。
「な…、んんっ…」
 突然の口付けに驚いている間に舌が口内に入り込んで上顎を撫でられて快感に力が抜ける。
 気がつけばあっという間にキスに乗せられて、自らも金澤さんの舌を追いかけて、絡め合い、くちゅりという水音と息遣いだけが車内に響く。
 流し込まれた唾液を飲み下し、それでも溢れたものが口の端を伝っていくのを感じる。
「ん…う……ふっ」
 痺れたように身体が震えて、縋るように金澤さんの腕を掴む。
 身体は冷え切っていた筈なのに次第に熱を帯びて、もっと、キスだけではなくて、もっと欲しいとそう感じ始めた頃にキスが解かれ、とんっと、肩を押される。
 まるで突き放されたように感じて、呆然と金澤さんを見詰める。
「金澤、さん?」
「そろそろ帰るか」
「え…」
 我ながら不満そうな声が漏れた。
 しかし、金澤さんは何事も無かったかのような顔をして、車を出すようにと私を促す。
 煽られるだけ煽られて、放り出されて、熱くなった身体を持て余しているのに、そんな事はきっとお見通しだろうに、そ知らぬ顔で。
「どうした?」
「…いえ」
 首を振って、車のエンジンをかける。
 欲しいと、そう言えば良いというのは解かっている。それでも、手を伸ばすのが怖い。
 手を伸ばして、もし拒絶されたら、私はきっと立ち直れない。本当は私のことなど大して好きではないのだと言われたら。
 そんなことはない、金澤さんを信じていない訳ではないのに、どうしても怖くなる。
 そんな私の自信の無さが今の状況を作っているのだと解かっていても。
 帰りの車の中はしんと静まりかえっていて、しかし、それを気まずいと気にしている余裕は、身体の熱を持て余していたせいで全く無かった。
 朝待ち合わせていた駅前で金澤さんを下ろし、マンションに戻っても、まだ熱が冷めない。
 いつもならとうに落ち着いていても良い頃だというのに、身体が疼いて抑えられない。
 壁に手をついて身体を支えながら何とか寝室まで行き、ベッドにどさりと倒れ込む。こんな状態でよくちゃんと運転して帰ってこられたものだと思う。
 冷やりとしたシーツの感触に目を閉じて、手を下肢へと伸ばす。
 ベルトを外すのさえもどかしく感じながら、熱を持ったままのそれを握り込む。先程からずっと我慢していた所為でそれはすぐに角度を変えて先走りが溢れて手を濡らす。
 すぐにでも達きそうだと思ったけれど、なかなか達けない。
「ふ、ぁ……な、んで」
 何度も自分の手で扱いて、いつもならとっくに達っても良い頃なのに、達けない。かといってこのまま止めてしまうのは余計に辛い。
 そういば、暫く自慰なんてしていなかった、する必要も無かった。
 金澤さんが抱いてくれたから。
 思い出して、身体の奥が疼く。
 一瞬の躊躇の後、奥へと手を伸ばす。先走りのぬめりを借りて、指はあっさりと後ろに飲み込まれていく。
「あ…っ」
 きゅうっと中が締まるのを自分の指で感じて、何をしているんだと冷静にそう判断する自分も居るのに止められない。
 中に入っている指が金澤さんのものだと妄想して、いつもどんな風にされていたかを思い返して、奥深くまで指を押し入れて自分が感じる場所を探る。
「あ…、ああ…っ、かな、ざわさ…っ」
 前立腺を自分の指で刺激すれば、頭の中が真っ白になる。
 自分でも気づかないうちに指を三本に増やして、中をかき回して前立腺を擦り上げることに夢中になる。
 気持ちよくて、恥ずかしいと思う感情すら忘れて、この中に入っている指が自分のものだということすらも忘れて。
「金澤さん……かな、ざわさ…っ……ぁああっ」
 どくりと精を吐き出して果てる。
 白い液体がシーツの上に撒き散らされているのを見ても、片付ける気にもなれず四肢をぐったりと投げ出して目を閉じた。
 駄目だ。
 全然足りない。
 指なんかじゃ、足りない。
 もっと熱くて、もっと大きいもので満たして欲しい。
 中途半端に自分で触れてしまったせいで、余計に物足りなくて身体が疼く。
「…………金澤さん」
 身体を丸めてシーツを掴む。
 今日、まともに会って話すのも二週間ぶりだった。学院でも殆ど用が無ければ話もしなかったし、会いたくても何と言って会いに行けば良いのか解からなかった。
 二週間前だって、結局キスしかしてない。
 もう、三週間も抱いてもらっていないのだと自覚して、尚更堪らなくなる。
 今までは何だかんだと言いながら週末の度にこの部屋に来て泊まって行ったから、セックスもほぼ毎週のように行っていた。
 付き合い始めてから、こんなに長く抱いてもらっていないのは初めてだった。
 抱いて欲しい。
 あの腕で抱き締めて、滅茶苦茶になるまで、いつまででも。
 そう思っているのにいつも素直に受け入れる事は出来なくて。何処かで距離を置かなくては、自分の心に歯止めが利かなくなりそうで。
 今だって怖い。
 どうしたら良いかはもう解かっていて。
 自分がどうしたいかも解かっているのに。
 それでも怖くてたまらない。
 きっと、それも何もかも解かっていて金澤さんは待っているのだろう。
 私が、我慢出来なくなるのを。



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小説 B-side   金色のコルダ