熱の温度 1



 とん、と肩を押せば、そのままソファに沈み込む。その上に圧し掛かり、深く口付けてジャケットの下に手を入れて、シャツ越しに触れる。
「ん…っ、んぅ、んん……っ、だめ、です…っ」
 吉羅の手が俺を押し返そうと動く。それに構わず首筋に顔を埋めて、痕がつかない程度に吸い付いて、舐め上げる。
「だ、めだって…言ってるでしょう。此処を何処だと思っているんですか…っ」
「何処って、理事長室」
 そして生徒は真面目に授業を受けている時間だ。
「誰か来たら…」
「誰も来ないって。鍵もかけたし」
「な……いつの間に…」
 驚いている間に太股に手を滑らせる。
 びくりと反応を返してくるのに気をよくして、もう一度口付ける。
「んん…っ」
 舌を絡みつかせて、手で体を撫で回す。敏感な身体は素直に反応を返して、表情もとろりと快感に染まっている。
 それでも、そのまま流されてはくれない。
「止めて…くださいっ」
 ぐっと思い切り胸を押されて、仕方なく身を起こす。
 瞳は潤んで、頬も赤く染まって、身体だって快楽を求めている。
 いっそ流された方が楽だろうに、吉羅はそれでも拒絶を示す。
「はいはい、解かったよ、もうしない」
 降参するように手を上げて、ソファの脇に立つ。
 吉羅もゆっくりと身体を起こして、乱れた衣服を整える。その間、ずっと俯いたままで、恐らく熱を持った身体を沈めるのに必死なのだろう。
 そういう反応がまた可愛いから、吉羅が嫌がるのを承知でこうやって手を出してしまう。
「じゃ、俺は真面目に次の授業の準備でもしてくるかね」
「最初からそうしてください」
「はいはい、っと」
 睨んでくる視線を交わして、そのまま理事長室を後にする。
 ゆっくりと廊下を歩きながら、腕を組む。
 校内で手を出して嫌がられるのは当然だ。生真面目なところがあるから、受け入れがたいのも解かる。
 俺の方も半分冗談みたいなもので、吉羅の反応を見て楽しむのがメインのようなものだ。
 個人的には、そのまま流されてくれてもいいのだが。
 問題はそういう事ではない。
 恋人同士という関係になって、もう半年ほどになる。
 窓の外の景色は秋の色合いから、冬の物へと変わり始めている。
 その間に何度もキスをして、身体も繋げた。
 それでもまだ、吉羅との間に壁を感じる。
 最初の頃は仕方ない、そのうち何とかなるだろうと思っていたが、半年経っても一向にその壁が薄くなる気配が無い。
 長期戦になるのは元より覚悟していたけれど、本当にこのままで良いのだろうか、と思う。それとも、もっと時間を置くべきなのだろうか。
「どうしたもんかなあ」
 その壁が消えてしまわない限り、本当に恋人同士とは言えない。そう思う。
 対等で無ければ意味は無いのだ。


 放課後、音楽準備室でぼんやりと窓の外を眺めていると、許可も取らずにするりと中に入ってきた奴が居た。
「おい、許可無く入るんじゃねーよ」
「別に良いじゃないですか。金澤先生だって此処でサボっているようなものでしょう?」
「サボってない、本気で今は暇なの」
「暇ならお相手しますよ」
 全く悪びれる様子もなく、ちゃっかり手近なパイプ椅子に座ってにっこりと笑う。
「加地、お前な……ああもういいや、追い払うのも面倒くせえ」
「ふふ、金澤先生ならそう言ってくださると思ってましたよ」
 どうにも最近、こいつは何故かちょこちょこと此処に現れる。
 何が楽しいのかは解からんが、別に邪魔という程でもないから放っておいているが。
「お前もな、話し相手ならもっと他に居るだろうが」
「それがそうでも無いんですよ。みんなこの時期受験のために必死で、誰も相手にしてくれないんです」
「日野も土浦も三年で転科だからなあ、いくら内部進学でものんびりは出来んだろうしな」
「そうなんですよ。普通科は外部受験が殆どだから、それこそみんな必死だし」
「そういうお前は良いのか、勉強しなくて」
 こいつも高三の受験生で、外部受験の筈なのだが。
「あ、僕は志望校余裕ですから」
「お前、今大半の受験生を敵に回したな…」
 まあ確かに、要領の良いやつだからその辺の心配は要らないのだろう。
「それにしたって、相手は俺じゃなくたって良いだろうが。同級生でなくても後輩やら、しょっちゅう顔出してる火原やらが居るだろうが」
「ああ、吉羅理事長とか」
「……何故そこで吉羅の名前が出てくるのかが解からないんだが。別に仲良く無いよな?」
 そもそも二人で話しているところを見たことが無い。
「すれ違ったら挨拶する程度ですね。ただ、個人的に一度親しく話をしてみたいなあと」
「はあ?」
 聞き捨てなら無い台詞に、思わず顔をしかめる。
 加地は悪びれた様子も無くにっこりと笑って、顔の前で手を振る。
「あ、深い意味は無いですよ?そんなに警戒しないで下さい」
「別に警戒なんてしてないけどな……何でまたあいつと?」
「最近雰囲気が柔らかくなったって言うか……色っぽくなりましたよね」
「…色っぽい?」
「ええ、気づいてないんですか?金澤先生って吉羅理事長と付き合ってるんですよね?」
 そう問われて、正直どう反応したら良いのか悩む。こいつに話したことも無ければ、話すつもりも無い事だ、公言して良いような関係ではない。
 しかし、当然のようにさらっと言われてしまうと、認める認めない以前の問題のような気がする。
「……そんなに解かりやすいか?」
「いえ、僕以外は気づいていないと思いますけど」
「なら良いけどな、口外してくれるなよ」
 あまり人に知られたいことではない。お互いに立場のある大人だし、同性愛というのは、世間からそう認められるものではない。
「別に口外はしませんよ。でも、金澤先生と付き合っていることは兎も角、最近の吉羅理事長が妙に色っぽいのは、みんな気づいてると思いますけど」
「そんなに解かりやすいほど変わったか?」
 正直自分でも可愛いとか色っぽくなったなあとか思わないでもないが、惚れた欲目かと思っていた。
「変わりましたよ。前はもっと近づき難い感じがしたし、正直怖いってイメージが先に立ってましたけど、今は、妙なファンまで居るみたいですよ」
「妙なってのは何だ」
「吉羅理事長をそういう目で見る男子生徒です」
 そういうのがどういうものなのかは、聞かなくても大体想像はつくが、それにしたって。
「何だかなあ」
「僕よりそっちを警戒した方が良いと思いますよ」
「じゃあ、お前は何なんだよ」
「僕はただの興味本位です」
 興味本位、ね。
 まあ、本当に深い意味は無さそうだが。
「金澤先生と付き合っているのは解かっているんですから、手を出したりはしませんよ」
「心配してねえって。大体、お前さんが気づいているのなら、他にも気づいている奴も居るんじゃないのか?」
「大丈夫だと思いますよ。僕が気づいたのだって、偶然お二人のキスシーンを見かけたからですから」
「…なるほど」
 納得はするものの、喜ばしいことではない。
「人に知られたくないなら、校内でそういうことはしない方が良いと思いますよ」
「吉羅にも黙っといてくれ」
 ついつい可愛いから手を出してしまうが、もし人に見られたなんて知られたら、怒るだろう。
 そりゃもう、本気で。
 暫く近づかせてもらえなくなる位に。
「まあ、それが無ければ気づきませんでしたよ。僕も最初は吉羅理事長の片想いなのかと思ってましたから」
「片想いに、見えるか」
「見えますね。吉羅理事長が金澤先生を好きなのは目に見えて解かりますけど、付き合っている割にハッピーって感じのオーラが全然出てないんですよね」
「ハッピーってな…」
 まあ、表現の仕方は兎も角、加地の言っていることは間違っていない。実際そう見えるんだろう。
「其処が問題なんだよなあ」
 どうにもまだ、吉羅は片想いの気分が抜けていない。
 どんなに好きだと言っても、キスをしても、身体を繋げても、まるで変わらない。
 今でも何処かで、自分の一方通行だと思っているきらいがある。
 ただ待てばいいのか、それとも何か行動した方が良いのか。
 どうすれば良いのか解からず、結局溜息を一つ吐いた。



 ここ最近、妙に視線を感じる。
 今も、何を言うでもなく、ただじっと見詰められて、どうにも居心地が悪い。
 ただコーヒーを淹れているだけだというのに、絶えず視線に追いかけられると緊張してしまう。
「あの、金澤さん?」
「んー?」
「何か、私に言いたいことでもあるんですか?」
「んー……」
 思い切って尋ねてみれば、曖昧な返事の後、考え込まれた。
 本当に、一体何だというのだろう。
 コーヒーを入れたカップをテーブルの上に置いて金澤さんの隣に座れば、ようやくまともに口を開いてくれた。
「なあ、吉羅」
「はい」
「今度デートでもするか」
「…デート、ですか?」
 一体急に何を言い出すのだろう。本当に訳が解からない。
「付き合ってんのに、そういうことはしたこと無かったよな。精々一緒に飲みに行って、後はこの部屋に泊まりに来るぐらいで」
「それは…まあ。でも別にそれで良いと思いますが」
「それはそれで悪くないけどな。それじゃあ付き合う前と大して変わらんだろう。流石に手を繋いでって訳にもいかんが、映画見に行くとか、ドライブするとか、たまにはデートっぽいことをしたって良いだろう?」
「ドライブって、運転は私がするんでしょう」
「お前、自分で運転する方が好きだろう。それとも、俺とデートするのは嫌か?」
「そんなことはありません」
 ある筈が無い。
 金澤さんがこうして誘ってくれているのに、喜びこそすれ、嫌だと思うことなど有り得ない。
「じゃあ決まりだな。日程は…まあ追々考えるか」
「はい」
 お互いに予定があるし、特に私は休日でも仕事が入っている事が多いから、すぐには決められない。
 それでも、嬉しそうに笑う金澤さんの顔を見て、私も楽しみだと思う。
 そのまま肩を抱き寄せられて、キスをして、そっと眼を閉じた。


 熱い、熱い塊が体内に押し入れられるのを感じて、背筋が快感で震える。
 それでも最初の頃は痛みが勝っていたのに、いつの間にかそれよりも快感が上回るようになっていた。
「ん……っ、んんっ」
 込み上げそうになる声を、口で塞いで堪える。そうしなければ、何処までもはしたなく求めてしまいそうで。
 しかしそれも、すぐに金澤さんに手を掴まれてシーツに縫いとめられる。
「声、出せっていつも言ってるだろ」
「あ…っん、ぅ…ああっ」
 唇を噛んで声を抑えようと思っても、そんな余裕は与えてくれない。奥深くまで突き上げられて揺さぶられれば、あっという間に流されてしまう。
「あ、あ……んぁ…ふ、あ……ああ…っ」
 そのまま行為に溺れてしまいそうになるのを何とか堪えて、ぎゅっと目を瞑る。
 溺れてしまうのが怖い。
 何もかもかなぐり捨てて、ずっと抱いていて欲しいと思う自分が居るのを、知っているから。本当にそうなってしまいそうで、それが怖い。
 そして、行為の最中、いつも後ろめたさが付きまとう。
 きっと私が女だったら、こんな後ろめたさは感じないだろう。女に生まれていれば良かったと、何度そう思ったか知れない。
 こうして抱いてもらえるのが嬉しいと、そう思うのに、それでもいつも恐怖と後ろめたさが心の何処かに付き纏う。
 そんな事を考えていると解かれば、きっと金澤さんは怒るだろうが。
 それが解かっていても、どうしようもない。
「吉羅」
 呼ばれて目を開けると、酷く真剣な眼差しをした金澤さんと目が合う。
 何か言いたそうな顔でゆっくりと口を開いて。
 けれどその唇は、なかなか言葉を紡がない。
「金澤…さん?」
 名前を呼べば、何かを振り切るようにふるりと首を振って、結局何を言いたかったのか解からないまま、再び大きく身体を揺さぶられて、思考は快楽の波に呑まれて、消える。
「はっ……ああ…っ、あ…んん…んぅ…っ」
 唇を塞がれて、激しく突き上げられて、ただただそれを受け入れるしかない。
 突き上げられる度に湧き上がる快感に翻弄されて、他に考えなければならないことがある気がするのに、そのことしか考えられなくなる。
 ぐっと奥まで突き上げられた瞬間に、体内に精が満たされるのを感じて。
 その瞬間が何よりも幸福で。
 だからもう、それで良いと、そう思う。
 ただ、今のこの関係を続けることが出来るなら、それだけで良かった。



 週末はほぼ毎週と言っても良いほど金澤さんは私のマンションにやってくる。
 勿論それが嫌な筈も無く、そうして二人で過ごせる時間が何よりも嬉しい。
「来週の日曜日は暇か?」
 隣り合って座りながら、酒を飲み交わす。そうしてゆっくりと流れる時間に浸っていると、ふと金澤さんがそう問いかけてきた。
「来週ですか?日曜は……すみません、人と会う約束があるんです」
「んじゃ、再来週」
「その日だったら…特に予定はありませんが…」
「じゃあ、その日、ドライブに行こうぜ」
「ドライブ、ですか?」
 そういえば、先週そんな話をしていた。
 デートをしよう、と。
「映画も良いかと思ったけど今は特に良いのやってないしな、二人でゆっくり出来るところの方が良いだろ」
「ゆっくりするなら、この部屋で良いと思いますが」
 私は、金澤さんと居られるのなら何処だって良い。わざわざ外に出ることも無いと思うのだが、金澤さんの考えはそうでは無いらしい。
「ばーか。外で会うから良いんだろうが。偶には学院やこの部屋じゃ無い場所で気分変えたって良いだろ。日曜の十時に駅前、良いな?」
「…はい」
 それでも、金澤さんが望むのなら、否やがある筈も無い。何処でも良いのなら、外でも構わない、それだけのことだ。
「じゃあ、決まり。約束だからな、忘れんなよ」
「忘れませんよ、金澤さんじゃないんですから」
「お前なあ」
 私の言葉に金澤さんは怒った顔を作って見せて、くしゃりと私の頭をかき回す。私をからかう時は昔からいつもそうしてきて、乱暴な手つきだというのに、それは決して嫌なものではない。
 その手が好きで、わざと怒らせるようなことを言った事もある。そうしてじゃれあうようにして、昔と違うのはそのままキスをされてしまうこと。
 そうされれば、憎まれ口も何もいえなくなる。
 唇を塞がれるという以上に、言葉がなにも出てこない。
 それに気を良くして更に先へと進もうとネクタイに手をかけられるのはいつもの事。
「あ…まって、下さい」
「何で」
「シャワーを…」
「良いって、いつも言ってるだろ」
 そのまま首筋に口付けられて、それだけで期待に身体が震えてしまう。
 それでも、そのまま受け入れることは出来なくて。
「駄目、です。待って…」
 触れられそうになると、いつも腰が引けてしまう。
 そんな私を、いつもなら何だかんだと言い包めて先に進めようとする。
 今日もそうなるだろうと思っていた。
 けれど、金澤さんはぴたりと動きを止めて、酷く不機嫌そうな顔で、そしていつもより低い声を出して。
「じゃあ、先にシャワー浴びてたらお前は待てって言わないのか?」
「それは…」
「毎回待てだの駄目だの言われてたら、俺だって傷つくんだぜ?」
 私がいつも最初は拒絶してしまうのを、金澤さんは多分その理由も解かって受け入れてくれていた。そう、思っていた。
 でも。
「あの、金澤さ…」
 言い訳でも何でも、兎に角何か言わなければと口を開いて伸ばした指先は、無残に振り払われて、金澤さんがソファから立ち上がる。
 そうしてさっきまで傍に居た温もりが離れたせいで、無性に寒い。
「……もう良いよ、暫くこの部屋には来ない」
「え…」
「お前が、本当にちゃんと覚悟が出来るまでは、来ない。今日ももう帰るわ」
 そのまま、入り口のハンガーにかけてあったジャケットを手にとって肩にかける。
 怒らせてしまったのだろうか。
 引き止めなければと思うのに、何も言葉が思い浮かばない。
 どうしたら良いか解からなくて呆然と金澤さんの動きを見ていると、ジャケットを肩にかけたまま、くるりと振り返って、こちらを見る。
「あ、デートはするからな、忘れんなよ」
 それだけ言って、後は振り返りもしないまま、部屋を出て行く。
 最後まで、言葉が出てこなかった。
 怒っている…ようには見えなかった。
 表情は硬いけれど、それとは違う。デートだってすると言って。
 でも、多分、このままではまともに顔も合わせて貰えなくなるだろう。このままで良いと、願っていたものは全て失ってしまうかも知れない。
 覚悟。
 それが何の覚悟なのか、解からない。
 問題の意味さえ解からない問いを出されたような気分で、酷く心許ない。
 どうしたら良いのか、何をしたら良いのか何も解からないまま、それでもたった一つ解かることがあるとするなら。
 今まで、多分ずっと、私は金澤さんに甘えすぎていたという事だった。
 いつも腰が引けてしまう私を理解して、今までそれを受け入れてくれていた、それは、金澤さんの優しさで。
 けれど、甘えすぎたら、多分、こうなってしまったのだろう。
 今解かるのは、ただ、それだけだった。



NEXT



小説 B-side   金色のコルダ