熱の在処 2



 最近、吉羅の様子がおかしい。
 おかしい、と言うよりは避けられている、か。
 別に顔を見たとたんに逃げられるとか、そういう訳じゃない。
 だが、会っても仕事の話しかしないし、視線も殆ど合わない、飲みに誘えば忙しいと断られ、触れようとすればさり気無く避けられる。
 最初は気のせいかとも思っていたが、度重なれば疑って当然だろう。
 数日前、校内で手を出したことを怒っているのかとも思ったが、それならもっと解かりやすく怒るだろうし、はっきりと嫌味の一つでも言ってくるだろう。
「なんだかなあ…」
 表面上はいつもと変わらないように装っているというのがよく解からない。
 それとも、本気で避けられるほど嫌われたのか?
 まさか、それこそ無いだろう。
 嫌われるなら、とっくの昔に嫌われているはずだ。
 だったら何故、と思うが、いくら考えたところで答えは出ない。
 だが、吉羅の様子がおかしくなったのは、あの校内で手を出した日以降だ。やっぱりそれが関係あるんだろう。
 まあ、あれは俺も大概大人気無かったと思うが。
 あの従弟が理事長室から出て行くのを見て何をしていたか聞いた時に、気まずそうに視線が逸らされたのを見て我慢できなかった。
 本当に、話した通りの事だけだったなら、あんな表情をする必要は無い筈だ。
 湧き上がったのは猜疑心と独占欲。
 そう表現するのが一番正確だろう。
 あの、焦がれるような視線が、キスした後の溶けるような眼差しが、俺だけに向けられているのだと確信したかった。
 警戒心の強いところがあって、なかなか他人に心を許さない吉羅が、あの従弟には随分懐かれて、しかもそれを嫌がっていないところを見ると、恐らくはあいつを気に入っているのだろう。
 それが面白くない。
 俺だけを見ていればいいと、そんなことを考えて。
 だから、場所が校内だと承知の上であんなことをした。キスマークだけで済ませたのは、俺なりの理性の賜物だ。
 だが、それでも校内であんなふうに触れたのはまずかったかも知れない。
 そうは思うものの、結局吉羅が俺を避けるはっきりとした原因が解かった訳でもない。
 一人で考えていたところで、どうしようもない。
 吉羅に会って、直接確かめるしか無いだろう。


 夜、吉羅のマンションに行ってみれば留守のようだった。
 腕時計の針は夜の十時を回っている。
 忙しいのは本当なのかも知れない。
 とりあえず帰ってくるまで待つか、とエントランスの壁にもたれかかる。
 このマンションは基本的に中の住人の許可がないとエントランスから先には入れない。
 何とか吉羅を言いくるめて鍵を貰っておけば良かったか。
 基本的に吉羅と一緒でなければこの部屋には来ないし、約束も無く訪れても居なければ居ないですぐに帰っていたから、鍵の必要性を感じたことは無かったのだが。
 鍵を貰っていたとしても、流石に主の居ない部屋に居座る事も憚られるが。
 まあ、春先だし、エントランスの中なら夜でもそれなりに暖かいから良いだろう。
 そんなことを考えて待っていたのだが、幸運なのは待ち始めてそれ程間もなく待ち人が現れたことだろう。
「…金澤、さん?」
「よっ」
「どうして、こんな時間に」
「ちょっと話があってな。入れてくれよ」
「話…ですか」
 おそらくどんな内容の話かは、吉羅も気づいているのだろう。
 その上で遠慮したい、というのは表情で解かるが、ここで引く訳にはいかない。
「良いだろ?こんな所で話し込むのもなんだし」
「…そうですね」
 俺が引く気が無いのを察してか、吉羅は諦めた様子でエントランスの鍵を開けた。

 部屋に入り、リビングに通される。
「お茶でも入れてきましょう」
「いいよ」
 キッチンに向かおうとした吉羅の腕を掴み引き止めると、びくりと怯えた様に震えた。
 それで尚更、確信を強めた。
「…お前、最近俺のこと避けてるよな」
「何のことでしょう」
 視線もろくに合わせないくせに、しらばっくれているつもりなのだろうか。
「へえ、じゃあ俺の気のせいだって?」
「そうです」
 文句があるなら言えばいい。
 だが、それもしないとなると、流石にこちらも腹が立ってくる。
 原因もはっきりしないまま避けられるのは理不尽だろう。
「まあ、それならそれで良いけどな」
 吉羅がそのつもりなら、俺もそのように振舞うだけだ。掴んでいた腕を引いて抱き寄せる。
「かっ……、んん……っ」
 そのまま強引に唇を重ねて、歯列を割り舌をねじ込む。当然抵抗されるが、更に強く抱き締めて、舌を無理矢理絡め取る。
「んぅ…っ、ん、ん…っ」
 いつもなら、この辺りで抵抗が薄くなるが、今日はそれでも逃れようと顔を逸らして腕を突っぱねてくる。
「やめて…くださいっ!」
 その抵抗が、更に俺を苛立たせた。壁に体を押さえつけ、ネクタイを外し、引きちぎるようにボタンを外して直接肌に触れる。
「や、め…っ!」
 首筋に軽く歯を立てると、ふるりと身を震わせる。敏感なのは相変わらずだ。
「やめ…っ、止めて…下さい……っ」
 更に鎖骨にキスをしようとしたところで、ぽつりと、雫が頬に落ちてきた。
「吉羅…?」
「やめて…くだ、さい……」
 驚いて思わず手を離すと、そのままずるずると壁を伝うようにして座り込む。
 座り込んだまま、次々に涙を溢れさせて。
 自分でも、かなり動揺しているのが解かる。それは、前に吉羅の涙を見た時もそうだったのだが。どうにも、こいつが泣くと、どうしていいか解からなくなる。
「お、おい。泣くなよ。やっぱりこの前の事怒ってんのか?」
 自分でも見当違いも良い所だと解かっていながら、そう問いかける。
 案の定吉羅は首を横に振る。
「違い…ます」
「じゃあ、泣く程嫌なのか」
 そうだったらかなりショックだ。しかしそれにも首を振られ、訳が解からない。
「じゃあ何なんだ」
「嫌じゃない、あなたに触れられて嫌な訳が無い。でも…駄目なんです、堪えられない」
「堪えられないって、何が」
 多分、其処に避けられていた理由もあるのだろう。出来るだけ冷静になるようにと自分に言い聞かせながら問いかける。
「あなたに、触れられる度に、もしかしたらと期待して、その度に期待してはいけないと、否定して、言い聞かせて、でも、触れられたら…やっぱり、期待してしまうんです。もしあなたがやっぱり駄目だと言っても……私は、忘れられない、消せる訳が無い……。だから、もう、これ以上…触らないで下さい。期待、させないで下さい…っ、もう、本当に…堪えられないんです」
 ぼろぼろと涙を零しながら、吉羅は途切れ途切れに言葉を紡ぎ出す。
 俺が、気軽な気持ちで触れる度に、こいつは苦しんでいたのだろうか。決して嫌がられはしないと、俺は調子に乗っていた。
 その結果が、これか。
「吉羅…」
 手を伸ばしかけて、止める。
 こいつの涙をぬぐってやりたい、抱き締めてやりたい。
 そう思うのに、それすら吉羅を苦しめる結果にしかならないのかも知れない。
 ちゃんと心を決めない限り、こいつに触れることは出来ない。今のような中途半端な状況がこいつを苦しめる結果になっているのだから。
 答えを出さず、半端な気持ちで、でも確かに与えられている好意に、俺は甘えていたんだろう。心の何処かで、このまま答えを出さずに、このぬるま湯のような関係を続けていけたらと。
 だが、結局そんなことは無理だったのだ。
 答えを出さないまま、気持ちだけは欲しいなんて。
 多分だとか、恐らくとか、その程度の気持ちでこれ以上は触れられない、告げることも出来ない。
「…解かった」
 一つ息を吐いて、心を決める。
 吉羅は濡れた瞳で俺を見上げてくる。涙の勢いは少しはマシになっているようだった。
「俺の気持ちがはっきりするまで……いや、お前が好きだって答えが出ない限り、もう、お前には触れない」
「金澤…さん」
「だから、もう、そんなに泣くな」
 本当に、吉羅に泣かれると、どうも調子が狂う。
 どうして良いか解からなくなって、何でも良いから涙を止めたい。
 見慣れないから余計になのかも知れないが、心臓に悪い。本当は今だって涙をぬぐってやりたいと思うのと同時に、この場から逃げ出したいと思っている。
 いや、俺が居なくなった方が、こいつは泣かずに済むのかも知れない。
 どちらにしろ、もうこれ以上、俺が此処に要る意味は無い。
「じゃあ、俺はもう、帰るから。…悪かったな」
「あ…」
 俺が離れようとすると、縋るような目でこちらを見る。まるで、帰らないで欲しいとでも言うように。
 触るなと言ったくせに、そんな顔をされても困るだけだ。そしてこちらが見返せば、ふいと視線を逸らす。
「…じゃあな」
「……すみません」
 謝るな。
 そう言いたい。
 悪いのは、お前じゃないだろう。お前の好意にただ甘えていた俺のはずだ。
 そう口に出して言いたいのを堪える。
 何を言っても、また同じ答えが返って来るだけのような気がする。
 今はどちらも冷静じゃない。そんな状態で何を話したところで無駄でしかない。
 振り返らずに、そのままマンションを出る。
 外に出れば、矢張り春先と言っても夜は冷える。ぶるりと身を震わせ、それでも頭を冷やすには丁度良いか、と思う。
 あいつが、俺のことを好きなんだと知って嬉しかった。
 キスするのも嫌だとは思わなかったし、むしろ好きだと思う。あいつと触れ合うのも気持ち良かったし、多分、しようと思えばそれ以上だって出来る。
 だが、それであいつのことが好きなのかと言えばよく解からない。
 後輩として、友人としてなら勿論好きだと思う。
 しかし、それだけの感情であんなことは出来ないだろう。少なくとも吉羅以外の男相手ならまっぴらだと思う。
 だからと言って、恋愛感情があると断言するにはどうもはっきりしない。
「本当に、どうしようもねえな」
 だがとか、しかしとか、そんな反証を重ねたって意味が無い。もっと積極的にあいつを好きだと思えなければ、とても応えられないだろう。
 何しろ、向こうは十五年分だ。
 俺が調子に乗っていた時も、どん底に居た時も全て知って、それでもずっと好きだったというのだから相当だ。
「重いなあ」
 それに見合うだけの重さがなければ、きっと逃げ出したくなるだろうし、到底付き合えない。
 溜息を吐いて空を見上げる。
 暗い、暗い夜の闇の中で、桜がぼんやりと淡く浮き出て見える。
 はらり、はらりと花びらが舞い、掴もうとすれば手をすり抜けていった。
 まるで、今の自分の気持ちのように。




 手元の書類を見やっても、矢張りちっとも頭に入ってこない。
 後悔している。
 拒絶したのは自分自身だというのに、言った直後から後悔していた。
 触れてもらえるだけでも良いじゃないか。むしろそれで満足するべきで、わざわざ与えられたものを手放すなど、馬鹿げている。
 そんな風に考える自分が居る。
 それでも、そんなのはやっぱり耐えられない。
 そう思う自分も居る。
 相反する感情が、今も答えが出ないまませめぎ合っている。
 胃の辺りがずしりと重い。
 食欲も出ないから、最近は殆ど昼食は取らないようになったし、そのまま夜も何も食べずに、酒だけを煽って寝ることもある。
 何とも不健康なことだ。
 それでも、どうしても何かを食べる気にはならなかった。食べても吐くだけだろう。
 体調管理がどうとか、これでは人に言えたものじゃない。
 じくりと、胃が痛む。
 思わずその辺りに手をやり、溜息を吐く。
 情けない。
 結局、拒絶してもしなくても、結果は同じだ。
 忘れられる訳もなくて。
 ただ、恋しいと思う。
 恋しくて、恋しくて、何も手につかない。
 なんて女々しい。
 なんて……情けない。


「暁彦さんっ」
 名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。
 目の前には心配そうな顔をした従弟が立っていた。
「本当に最近変だよ、暁彦さん。ノックしても、部屋に入っても気づかないし、名前を呼んでもなかなか反応しないし」
「…すまない」
「や、別に気づかなかったのは良いんだけどさ。やっぱ、心配だし…」
 面と向かって心配だと言われるほど、酷い様子なのだろうか、今の自分は。
 出来るだけ、普段と同じようにと考えていても、全く出来ていないということか。
 ここまで情けないと、いっそ笑えてくる。
「ふっ…」
「ちょ、暁彦さん!?」
 突然笑い出した私に、桐也が慌てる。
 ああ、本当に、どうしようもない。
「何でもない。自分の情けなさが、おかしかっただけだ」
「それって、相当まずいってことじゃないの?」
「そうだな」
 本当に、こんな年下の従弟に弱音を吐いている時点で、どうかしている。
 どうかしていると解かっていても、どうしようも無かった。
「本当に、情けない」
「…暁彦さん、顔色悪いよ」
 心配そうに覗き込んでくる顔に、そうなのかも知れない、と思う。
「最近ろくにご飯食べてないんじゃないの?少し、痩せた気もするし」
「食欲が無いんだ」
「無くても食べなきゃだめだろ。…何か買ってくるから、ちょっと待ってて」
 呆れたような顔をして、走って出て行った。
 それをぼんやりと見送って、だから何だということも思い浮かばない。あの人のことは考えたくなくても、勝手に思考がそちらに向かってしまうというのに。
 あの人を好きになった時から…いや、あの人のことが好きだと気づいた時から、ずっと考えていた。
 どうしたら、止められるのだろう。
 どうしたら、この想いは消せるのだろう。
 同性の、先輩を好きになるなんてどうかしている、何かの間違いだと、何度も否定をして。
 女性と付き合ってみたこともあるが、結局上手くは行かなかった。どうしたって、心の中のはあの人が居て、それ以上に思える相手なんて居なかった。
 何度も、何度も諦めようとして、それでも未だにこの想いは消えずに、どうしようもない程私を苦しめる。
 あの人が、好きだと気づいた時。
 卒業した時。
 留学した時。
 恋破れて、喉を潰して帰国した時。
 その時々で、何度も、もう諦めよう、もう止めようと自分に言い聞かせてきたけれど。
 それなのに、何故、今も、消えないんだろう。
「暁彦さん、お待たせ」
 桐也の声を聞いて、現実に意識を戻す。
 走って往復してきたのだろう、少し息をきらしている。
「放課後の購買って、本当にろくな物置いてないな。まあ、辛うじてこれは買えたけど」
 手に持っていたビニール袋から中身を取り出して、机の上に置く。菓子パンと野菜ジュースのようだ。
「ほら、せっかく買って来たんだから食べてよ。て言うか、食べないなら無理矢理口の中に手を突っ込んででも食べさせるよ?」
 口調は冗談交じりだが、目は本気だった。拒否すれば、恐らくは本当にそうするのだろう。
 食欲は相変わらず無かったが、無理に食べさせられるよりは、自分で食べた方が良い。
 菓子パンを袋から出して、口元に寄せる。
 甘ったるい匂いがして、それだけで吐きそうな気分になる。それを我慢して、口に押し込んだ。
 咀嚼して、飲み込む。
 それだけの事が、苦痛だった。
 気持ち悪い。
 野菜ジュースを飲んで、殆ど無理矢理喉の奥に流し込む。まだ、こちらの方がマシだ。
「俺、食べ終わるまで此処に居るから」
 私が食べ始めたのを見て、桐也は言う。最後まで確認するつもりなのだろう。
「信用が無いな」
「今の暁彦さんはね」
 今の、と言うところを強調して言われ、思わず苦笑いを浮かべる。
 確かに、今の私の状態では、とても信用できるものではないだろう。自分でもそう思う。
「信用して欲しいなら、それ全部食べてよ」
「…そうだな」
 桐也の言う通りだ。
 食欲が無いと言って食べなければ、本当に体調を悪くする。それが解かっていても出来ないから問題なのだ。
 むしろ、こうして監視してくる目があった方が良いのかも知れない。
 かなり時間をかけて、それでもパン一個と野菜ジュース一パックを胃におさめる。
「全部食えたじゃん」
 そう言って少し嬉しそうな顔をする桐也を見て、自分の気持ちも僅かだが浮き上がるのを感じた。
 一人で居れば、結局あの人の事ばかり考えてしまうから、誰かが傍に居た方が良いのだろう。
「これは俺が捨てとくよ」
 そう言ってパンの入っていた袋と、空になった紙パックをビニール袋に入れる。
「ああ、すまない」
 そうして桐也の動きを目で追って顔を上げると、間近に桐也の顔がある。
「隙だらけだよ、暁彦さん」
 気がつけば、唇が重なっていた。
 それは、触れるだけで離れていく。
 何が起こったのか、すぐには解からなかった。
 触れたのは、偶然ではなかった。明らかに桐也からの動きがあったのだから。
 キスされたのだと理解しても、意味が解からなかった。
 何故。
 例えばこれがいつもの状態だったならば、すぐにでもその意味に気づいただろうし、拒絶の言葉も出ていたのだろう。
 しかし、この時は本当に、頭が全く働いていなかった。
「桐也…?」
 行動の意味が解からなくて、名前を呼ぶ。
 けれど、桐也から返って来たのはキスの意味とは違う、別の問いかけだった。
「最近、暁彦さんの様子がおかしいのは、あの人のせい?」
「あの人?」
「金澤先生」
「っ!」
 名前を出されて、それだけで大きく心が揺れる。動揺を抑えることは、出来なかった。
 はっきりと、顔にも出ていただろう。
 そして、真剣な眼差しで私を見る桐也に、尚更動揺する。
 キスの意味を、その時ようやく理解して。
 焦る。
「俺じゃ、駄目?」
 思考がろくに回っていないのならば、いっそ言葉の意味を、理解できなければ良かった。
 そうでなければ、何のことだとしらを切ってしまえれば良かった。
 けれど、結局そのどちらも出来ずに、ただ、自分を見る相手の、真剣な顔を見て、名前を呼ぶしか。
「桐、也」
「俺だったら、暁彦さんをそんな風に苦しめたりはしないよ」
「何の、ことだ」
 全て、気づかれているのだろうと解かっていても、素直に認めることは出来ない。
 今更、と解かっていても尚。
 どうして気づかれたのかとか、そんなことはもうどうでも良い事だ。
「しらばっくれているつもりなの、それで」
「だから、何のことだ」
「…はっきり言わなきゃ駄目だって言うんなら、言うよ」
 聞きたくない。
 けれど、待てとも言えない。
「俺は、暁彦さんが好きだよ。もう、ずっと前から」
「…桐也、私は」
「だから、俺にしなよ。俺なら、暁彦さんを、こんな風に苦しめたりしないよ。何があったのかは知らないけど、俺の方があの人よりずっと、暁彦さんを見てる」
 もう一度、キスされる。
 今度は避けようと思えば、避けられた。
 けれど、抵抗する意思が湧いてこない。
 それに気づいてか、桐也の舌が口内に入り込んでくる。
「ん…っ」
 あの人とは違う、ぎこちない動き。
 それに対し、受け入れることも抵抗することも出来かねるまま、結局それが受け入れる形になってしまっている。
 だが。
 そのおかげで、矢張り違うのだと理解する。
 あの人に触れられたら、それだけでもう、体が熱くなる。
 どうしようもなく、求めて止まないのだと、心から、体から、熱がともる。
 けれど今は、何も感じない。
 駄目なのだ、あの人しか。
 どうしようもない程に、あの人だけを求めている。
 そっと桐也の肩を掴んで押し返せば、あっさりと離れた。
「暁彦さん?」
「駄目だ」
 本当に、私は何をしているのだろう。こんな事は、初めから解かりきっていた事だというのに。
 桐也の瞳が、不安げに揺れるのを見て、思わず視線を逸らす。
 真っ直ぐに見返すことが、今は出来ない。
「確かに、お前とならこんなに辛くは無いのかも知れない。だが、それは結局のところ、お前に対する気持ちが其処までだからだ」
 従弟として、可愛いと思う。
 その程度の好意なら勿論あるだろう。
 あんな弱音も、恐らく桐也以外の相手には吐かなかっただろう。
 それでも。
「辛いのは、あの人が好きだからだ。あの人でなければ、駄目だからだ」
「暁彦さん…」
「だから、駄目なんだ、桐也…」
 例え、桐也の気持ちを受け入れたとしても、私の中からあの人が消える事は無いだろう。
 それは、私の中に染み付いて、決して消える事は無い。
「ほんとに、何で、俺じゃ駄目なのかなあ」
「桐也…」
 苦い笑みを浮かべる桐也に、何を言って良いのかも解からない。
 解かりきっていた事なのに、すぐに拒絶出来なかった、迷ってしまった。そのことが何より、桐也に対して申し訳無いと思う。
「…もっと早く、生まれてきて、金澤先生より先に暁彦さんと出会ってたら良かったかな」
「それでも、私は、あの人が好きだ」
「うん。ごめんね、暁彦さん。じゃ、ね。ご飯は、ちゃんと食べてよ」
 謝るのはこちらの筈だ。
 それでも、今はそんな言葉は出ずに、ただ、出て行くのを見送って。
 結局、どうしようもない想いを持て余して。
 そして、どうしようもない罪悪感で、痛みが増した。
 桐也は、最後まで私の心配をしてくれていたというのに、かける言葉すら無いなんて。
 なんて、情けない。
 なんて、酷い。
 それでも、私は、矢張りどうしようもなく、あの人が好きなのだ。



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