熱の在処 1



 吉羅の住むマンションは、セキュリティの行き届いた高級感溢れる所だ。俺の安アパートとは訳が違う。
 流石お坊ちゃま、と言いたいところだが、このマンションの部屋は自分で働いた金で買ったらしい。元々、相当な高給取りだ。家が裕福でなくとも、結局こいつは自分で上へと行ってしまうのだろう。
 そんな奴が、俺のことを好きだと言うのだからおかしなものだ。
 いや、言われた、というのとは違う。
 あんな事が無ければ、きっと俺は気づかないまま今も過ごしていただろう。
 あの泣き顔と、真っ赤に染まった顔は、ふとした瞬間に脳裏に浮かんできては俺の心をざわつかせる。
「金澤さん?」
 声を掛けられ、意識を現実に戻す。
 今日もまた、酒でも飲もうと誘われてこのマンションに来ている。
「何だ?」
「私は着替えてきますから、先に飲んでいてください」
「おう」
 スーツ姿の吉羅は、そう言って寝室へと向かう。俺は頷いて、キッチンへと向かう。今日は冷えたビールが飲みたい。
 一人で暮らすのに使うのには勿体無いほどでかい冷蔵庫は、自炊のための食材も勿論入っているが、それ以上に酒類が豊富に入っている。
 小さな店なら開けそうなぐらいだ。
 それに混じってミネラルウォーターとジュースが少しだけ。
 吉羅曰く、酒は食材と違って腐らないから買い溜めしておくのだそうだ。ちなみに場違いに思えるジュースは、たまに来る従弟用、らしい。
 何かツマミでも欲しいなと、ビールを取り出しながら思う。ビールは兎も角、食材を勝手に使うのは気が引ける。この前使ったのだって、一応非常時だからだ。
 一声かけてからにしようと、寝室に向かう。
「おーい、吉羅」
 ドアを開ければ、丁度ワイシャツのボタンを外しているところだったらしい。ちらり、とこちらに視線を向けて、手を止める。
「何ですか?」
「…いや、冷蔵庫の中、勝手に使っても良いか?何か作ろうかと思ってさ」
「好きに使ってくださって結構ですよ」
 そう言いながら、手は止まったままで。かと言って背を向けたまま振り返ろうともしない。
 こんな時に、こいつが俺を意識しているんだと確認する。何も気づく前なら、なんとも思わなかっただろうに、俺はこういう瞬間、無性にこいつに触れたくなる。
 こいつの気持ちを知って何より驚いたのは、例え男相手でもそういう風に思おうと思えば思える自分自身だった。
 何より、最初にキスしたのは俺の方だしな。
 そっとその背中に歩み寄る。
「金澤さん?」
 出て行こうとするどころか近づいてくる俺に、不審を感じて振り返ろうとしたところを抱きしめる。
「っ、金澤、さん?」
 緊張で強張る体を感じて、堪らない気分になる。
 脱ぎかけのワイシャツの襟を掴んで肌蹴させて、露になった肩口にキスをする。
「な、にをっ」
 振り返って逃れようとする体を、尚更強く抱きしめて、舌でぺろりと其処を舐める。少ししょっぱいが、それが尚更人に触れているんだという実感を伴わせる。
 そのまま肩からうなじ、首筋へと辿り、耳の後ろに吸い付くと、抱き締めた体が大きく震えた。
「あ…っ!」
 きゅっと眼を瞑り、その感触に堪えている様が酷く興奮する。
 あれから時折、こうして戯れのように触れる。
 そのたびに緊張して、まるでいつまで経っても慣れる様子の無いところが可愛い、と思う。
 耳を舐めて息を吹きかけると、顔を真っ赤にして唇を噛み締める。軽く耳たぶを噛んでやると、強張っていた体から力が抜けて、そのまま座り込んでしまう。
「は…ぁ…」
 吉羅の前に回り込んで膝を付くと、潤んだ瞳と眼が合った。本当に、こんなに可愛いなんて、今まで気づかなかった。
 そのままキスをして、肌蹴た胸元に手を差し入れる。
「んっ…ん…」
 啄ばむようなキスを繰り返しながら、滑らかな肌を撫で、するりとその手を下ろして脇腹を撫でれば、ふるりと体が震えた。
「はっ……んんっ」
 キスの合間に漏れる吐息が熱を持つ。その熱ごと飲み込むようにキスを深めていく。肌を撫でていた手はベルトを外し、前を寛げる。
 するりと下着の中に手を滑り込ませて、僅かに熱を持ち始めたそれをやんわりと握りこめば、吉羅の口から喘ぎ声が零れる。
「あ…、や…っ」
「嫌?」
「……っ」
 嫌かと問いかければ口を噤む。
 決して拒絶されないと解かっている。確信しているから、俺も迷わずに手を出す。
 そのままそこをゆるゆると扱けば、徐々に硬度を増してくる。
「ふ……あ、あっ……」
 吉羅の手が縋るように俺の腕を掴む。下肢に触れているのとは逆の手でその手を掴み、俺の股間に触らせる。
「俺のも、触って」
「あ…」
 言えば、ぎこちない手つきで前を寛げ、触ってくる。そのぎこちなさに、興奮する。
 お互いのものを扱きながら、キスを交わす。
 まるでガキくさいことをしているな、と思う。ガキの頃でも、男相手にこんな事をした覚えは無いが。
 吉羅のものを扱きながら、空いている方の手で胸に触る。勿論女のような膨らみは無いが、滑らかで手触りの良い肌に触るのは嫌いじゃない。
 それに、乳首というのは矢張り性感帯らしい。軽く摘んで押しつぶせば、握りこんでいるペニスが大きく震える。
「あ…ふ、あ…っ」
 必死に俺のを扱こうとしながら、それでも触れられる方に意識がいってしまうのか、すぐに手が止まる。
 これじゃあ、俺の方が達けそうにない。
 一度手を離して体勢を変え、より吉羅に密着する。
「金澤、さん?」
 訝しそうな顔をする吉羅の目尻にキスをして、勃ち上がっている二人のものを擦り合わせ、まとめて握りこむ。
「あ、ああっ!」
「うっ…」
 ぐんと快感が増す。擦り合わせているところから、俺が握っているところから。吉羅の手も掴んで、一緒に握らせる。
  掴んだ手ごと動かして、扱く。
「ほんと、この年で何やってんだかなあ…」
「だ…ったら、ど、して…っふ…」
 先走りが滲んで濡れてくると、滑りが良くなって更に気持ちが良い。
「やっぱ…、お前が可愛いから、だろ」
「な…っ、あ、ぁあ…っ!」
 俺の言葉に、赤く頬を染めた後、ぐん、と容積を増したそれが、あっさりと弾ける。
 白い飛沫が飛び散り、手を汚す。
「は……あ……」
「お前、先に達くなよっ、つか早すぎるだろ!」
「だっ……、そんなこと、言われても…っ」
「ああ、くそっ!」
 萎えた吉羅のモノも握りこんだまま、一緒に扱く。
「ひ…っ、い、や……っ、ああ……ま……っ」
「待たん、我慢しろ」
「や、だ……め、ああっ……あ!」
 達したばかりで萎えたモノに直接の刺激はきつすぎるらしい。ぎゅっと俺の腕を掴んで、体を震わせる。それでもまた、再び硬度を増してくる。
「ん、あ、あ……、いっ……あっ」
 吉羅が先程達したおかげで、更に濡れてぐちゃぐちゃになっている。水音が卑猥に響いて、聴覚も刺激して、更に興奮する。
「うわ、マジで気持ち良いな」
「は…っ、金澤さ……も……っ」
「お前、ほんとに早いぞ。まあ、俺もそろそろ、限界、だ…っ」
 ぐ、と腰を押し付けるようにして、根元から搾り出すように扱く。
「あ、あ…っ、あああ!」
「っく」
 今度は同時に果てて、深呼吸を繰り返す。吉羅は二度も達った所為か、ぐったりと凭れかかってくる。
 重い。
 だが、無意識にすがるように腕を掴んでくる手や、赤くなった顔を隠すように肩に押し付けて俯く仕草だとか、そんなことが可愛く思えてならない。
 勿論、今までも何だかんだで可愛い後輩ではあったけれど、まさか、そういう意味で可愛いと思う日が来るとは思わなかった。
 あの日、吉羅が俺のことを好きなんだと知って、嬉しかっただなんて。
 多分、俺もこいつのことが好きなんだろうとは思う。少なくとも、それに近い感情はある。だが、こいつと同じだけの想いが返せるかと問われればよく解からない。何しろ、向こうは十五年以上も俺を見ていたというのだから。
 確信が持てるまで、下手なことは言えない。
「吉羅、お前さ…」
 凭れ掛かってきている吉羅に声を掛けると、ゆるりと顔が上げられる。見上げてくる潤んだ瞳と視線が合って、少し目を逸らす。わざとじゃないところが、性質が悪い。
「お前、女と経験ぐらいあるんだろ?」
「は…?なんですか、いきなり」
「いや、純粋な疑問でな」
「そんな質問に純粋だなんて言葉を使うのもどうかと思いますが」
 さっきまで可愛かったのに、すっかりいつもの調子で返答が返って来る。加えて呆れたような顔もされた。地味に傷つくぞ。
「で、あるのか無いのか、どっちだよ」
「…この年で、無い方が変でしょう」
「そりゃそうか」
 それはそれで、何となく面白くない。まるで身勝手な感情だが。
「そもそも、何故そんなことを聞いてくるんですか」
「だってお前、早いし」
「な…っ!」
 あ、真っ赤になった。最近はよく、こういう顔を見る気がする。
 普段のすましている顔より、ずっといい。
 多分、俺がこいつの気持ちを知ったことで、警戒心とかそんなものが少し、緩んでいるんだろうが。
「慣れてないっつーか、反応が初心すぎるだろ」
「それは……、相手が、あなただからです。そうで、なければ…」
「俺だから?」
「あなたに、触れられていると思ったら、もう…それだけで、おかしくなりそうなんです…」
 これは、煽っているんだろうか。
 そう思わずにはいられない。
 そんな風に恥ずかしそうな顔をして、そんなことを言って、煽っているとしか思えない。違うと言っても信じられない。
 顎を掴んで俯いてしまった顔を上げさせて、キスをする。
「ん…っ」
 間近で見た顔は、大きく目を見開いている。
「んっ…ふ、な、にを」
「煽ったお前が悪い」
「煽ってなんて……あっ」
 背骨をなぞるように指を滑らせると、ぴくんと体が跳ねた。そんな風に敏感に反応する体を抱き締めて、キスをする。
 どうにも今夜は、酒を飲めそうにない。



 春の音楽祭での、学生たちによるオーケストラコンサートも無事に終え、新年度。
 窓の外には点々と薄桃色が自己主張をしている。
 桜の木は、余り好きではない。
 人を惹きつけては狂わせる、そんな花だ。
 ふと、古典文学にそんな話があったかと、そんなことを思って、しかし題名を思い出す前に考えるのを止めた。
 そんなもの、思い出したところで意味は無い。
 狂わされているのは、一体誰なのだろう。
 私か。
 あの人か。
 いや、私は狂っているというのなら、もうずっと狂っているのかも知れない。
 あの人に恋をした時から。
 そうだとすれば、狂っているのは私でもなく、あの人でもなく、今の状況だ。
 私の気持ちを知られた日から、あの人は気まぐれのように触れてくるようになった。
 触れると言っても、それこそ、学生が興味本位に触りあったりする程度のものだ。
 決して最後まではしない。
 問題があるとすれば、私もあの人も、もう興味本位でそんなことをする年ではないということだ。
 だからこそ、あの人も何がしかの好意は持っていてくれているのだと思う。そうでなければ、あんな事はしないだろう。どの程度のものかは別として、気持ち悪いと拒絶されなかっただけ、喜ぶべき事なのだろう。
 触れられて、嬉しくない訳が無い。
 もっと、もっと触れて欲しいと、貪欲に浅ましく望む自分が居る。もっと、深くまで触れて欲しいと。
 翻せばそれは、自分から触れることを恐れているからに過ぎない。
 好きだと口に出来ないのも、自分から手を伸ばすことが出来ないのも、拒絶されるのが恐いからだ。望んで拒絶されたら、きっと堪えられない。
 望む心と裏腹に、そうして怯えている。
 自分の情けなさに、溜息が出る。
 長い間あの人だけを想ってきて、諦めても居た。
 そんな時間に比べれば、今の状況は信じられないようなことだ。
 私の気持ちを知った上で『考えたい』と言ってくれた。ただ拒絶せずにそう言ってくれた。
 それだけで満足するべきなのだ。
 それなのに、触れられれば触れられるほど、もっとと望んでしまう。
 出来ることなら、愛して欲しい。
 そう願ってしまう。
 諦めていたはずなのに、僅かに与えられた希望が、際限なく膨らんでいく。
 それを必死に押さえつけ、期待してはいけないと自分を戒める。
 けれど、どんなに言い聞かせたところで、心は勝手に期待を膨らませていく。
 全く身勝手で、貪欲で、愚かだ。
「こんなことを、考えている場合じゃないな」
 仕事中に、こんな事を考えている事自体がどうかしている。軽く頭を振ってから、目の前の書類に集中する。
 しかしそれも、数分と続かなかった。
「暁彦さん、居る?」
 ガラッと音を立ててドアが開かれ、この春学院の音楽家に入学したばかりの従弟が理事長室に入ってくる。
「何だ?」
「今日さ、昼飯此処で食べても良い?」
「別に構わないが…何かあったのか?」
「何か、教室は騒がしくてさ。やたらと話しかけられるし。昨日は香穂子のとこ行ったけど、そっちはそっちで賑やかっつーか、五月蝿いっつーか」
 桐也が話しているのを聞きながら腕時計を見る。確かにもう昼休みだ。チャイムが鳴ったのにも気づいていなかった。
 それだけ考え込んでいたのかと、また溜息を吐きたくなるのを堪える。
「アメリカに行ってた事とか、そっちでのコンクールの事とか、どうやって聞きつけてくんのかな」
「そのコンクールに参加していた生徒か、その関係者でも居たんだろう」
「ああ、そっか」
 特にこの学院の生徒はそういう事には敏感だ。どこのコンクールで優勝、入賞した、そういう話はあっという間に広まる。コンクールのタイトルが大きければ、尚更広まるのが早いのは当然の事だと言えるだろう。
「ま、此処ならゆっくり食べれるよな。わざわざ理事長室まで押しかけてくる勇気のあるやつなんてそう居ないだろうし」
「此処は避難所では無いんだがな」
 もう一人、此処を避難所の如く扱っている人を思い返し、締め付けるような痛みを感じる。たった、それだけのことで。
「別に良いだろ、昼飯の間ぐらい。俺、目立つのは嫌いじゃないけど、弁当くらいゆっくり食べたいしさ」
 そう言いながら、もう応接用のソファに座り、テーブルの上に弁当を広げている。追い返す気も無いが、桐也の方も追い返されるわけが無いと思っているのだろう。
 まあ、こちらとしても誰かが居た方が余計なことを考えずに済んで良いのかも知れない。
 弁当を食べ始めたのを見てから、また書類に視線を戻す。
 昨年度の支出と、今年度の予算。その二つを見比べて、抑えるところは抑えなければならないが、かと言って削りすぎても豊かな、そして保護者や生徒たちが納得行く学校は作れない。どう折り合いをつけるかが問題だ。
 理事たちは、少しでも隙を作ればここぞとばかりに突付いてくるだろう。私にこの職を押し付けたのも彼らや親族でありながら、私のする事の一つ一つに不満を並べ立てる。
 聞き流せば良いものが大半だが、彼らに足元を見られるのもよくない。
 そう、解かっているのに、内容がろくに頭に入ってこない。
 いつもなら、仕事の間は他の事など考えずに集中出来るのに。
「暁彦さん」
 呼ばれて顔を上げれば、すぐ近くに桐也の顔があり、思わず息を呑む。
 こんなに近くに来ても気づかなかったなんて、どうかしている。それでも平静を装って、返事をする。
「何だ、桐也」
「……最近、隙だらけだよ、暁彦さん」
 そう言われて、確かにそうかも知れない、と思う。どうにも最近、色々なことに集中できていない。こんな事では駄目だと思うのに。
「どうしたの?疲れてる?」
「いや…大丈夫だ」
 自分よりも半分以上年下の従弟に心配をかけているようでは、本当に駄目だ。
 大丈夫、と言い聞かせる。
 桐也にも、自分にも。
「まあ、暁彦さんが弱音吐くような人じゃないのは解かってるけどさ…あんまり、無理しないでよ」
「ああ、解かってる」
 本当に、心配をかけている場合ではない。
 薄く笑みを浮かべて頷いてみせると、桐也は納得した訳では無いようだが、それ以上は何も言ってこなかった。
「じゃ、弁当も食べ終わったし、教室に戻るよ」
 言ったかと思えば、すっと離れて軽く手を振って出て行ってしまう。
 今日此処に来たのも、教室が五月蝿いというよりは、様子のおかしい私を心配して、なのだろう。
 本当に、情けない。
 もっと、しっかりしなければ。
「吉羅?」
 気分を切り替えようと思っていたところで、まるで桐也と入れ替わるようにして金澤さんが顔を出す。
「さっきお前の従弟が出てったけど、何してたんだ?」
「…別に、ただ此処で昼食を取っていっただけですよ」
「ふうん」
 聞いてきた割りには素っ気の無い返事をして近づいてくる。そして執務机越しに前に立ったかと思えば、急にネクタイを掴まれ、引き寄せられる。
「んぅ…ッ!」
 ネクタイを引っ張られ、首が絞まる。更に無理な体勢でキスをされ、酸素を求めて口を開いたところに舌が滑り込んでくる。反射的に自分の舌を引こうとすると、追いかけられ、絡め取られる。
「ふ…う……っ、んん…っ」
 ぞくりと、背筋が震える。キスをされて、それだけでもう、体が次を期待する。
 でも。
 此処は校内で、今は昼休みだ。
 いつ誰が来るかも解からない。
 もっと触れて欲しい、そんな欲求を押さえつける。
 触れられて、嫌な訳は無い。だが、困る。こんなところで、流される訳には、いかない。
「だ、め…ですっ」
 片手を机に付いて、片手で金澤さんを押し返す。あっさりとキスを解かれ、ほっとしたのも束の間、次の瞬間にはネクタイを緩められ、乱暴な手つきでシャツのボタンを外される。
「金澤さ……あっ」
 襟を寛げられて、鎖骨の辺りにきつく吸い付かれる。
 思わず上ずった声が出て、体が熱くなる。
 触れられたところから、熱が点って、抵抗など考えられなくなる。
「なんて、な。流石に此処じゃ、これ以上はしないって」
 すっと、何事も無かったかのように金澤さんは身を離し、ぽん、と軽く頭を叩かれる。そして何事も無かったように出て行かれて…。
 取り残された私はただ与えられた熱を持て余して。
 今日は矢張り、仕事になりそうになかった。


 自宅のマンションに帰ったのは夜の十一時も過ぎた頃だった。
 それでも仕事はちっとも捗らなかったが。
 思わず溜息を吐く。
 どうしようもない倦怠感が体を包む。
 シャワーでも浴びて、早めに寝たほうが良いだろう。
 そう考えて、バスルームに向かう。
 服を脱いで、シャワーのコックを捻れば、ザーっと冷たい水が雨のように降ってくる。
 徐々に温まってくるのを待ちながら、ふと目の前の鏡に映った自分の姿が目に入る。
 そこにははっきりと、昼間、金澤さんに吸い付かれた痕が赤く残っているのが見て取れた。
「っ!」
 昼間のことを思い出し、瞬間体が熱くなる。
 触れた唇の感触や、舌の動き、吸い付かれた時の、甘い痛みを。
 それだけで、どうしようもなかった。
 体が疼いて、中心が熱を持つ。そろりと其処に手を伸ばして、握り込む。
 熱くなったシャワーを浴びながら、ぎゅっと目を閉じた。
 其処に触れながら、あの人がどんな風に今まで触れてきたか、どこを、どんな風にたどったか、その温もりを思い返して。
 指を、唇を、声を。
 思い出す、はっきりと。
「金澤、さん…っ」
 名前を呼ぶ。
 その姿を夢想して、触れてきた指を辿るように自ら触れて。
 今感じるそれは錯覚だと理性で理解しながらも、体は熱くなる。何故なら、触れられたのは事実、それを体は覚えている。
「は……、く…ぅっ!」
 あっさりと果てて、そう言えば何度も早いと笑われたなと思い返す。
 白く飛び散った精液はシャワーがあっという間に流していく。
 体に残るあの人の感触も、そんな風に洗い流せるなら簡単だ。
 だが。
 無理だ。
 消えない、消える訳が無い。
 与えられた温もりを、指先や唇を、忘れられる訳が無い。
 望んで、望んで、望み続けたものを、消せる訳が無い。
 本当は、とうに限界だった。
 それに、気づかない振りをしていただけに過ぎない。見ない振りをして、気づかない振りをして、目を逸らしていただけだ。
 一度与えられた物を、矢張り駄目だと言われても、元に戻す事など出来る筈が無い。
 欲しい。
 あの人が、欲しくて欲しくてたまらない。
 しかしそれ以上に、もう触れられるのが恐くてたまらない。
 これ以上、中途半端な状況に耐えられない。
 もし、駄目だったら。
 触れられて、期待して、その熱を、指先を、一度は与えられて。
 それなのに、矢張り駄目だと、拒絶されたら。
 もう、嫌だ。
 こんな中途半端な関係は。
 耐えられない。
 おかしくなる。
 心が軋んで。
 悲鳴をあげて。
 軋んで、軋んで。
 これ以上、軋み続ければ、後は、折れるだけ、だ。



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小説 B-side   金色のコルダ