時間連鎖 5



 朝起きた時から、何処と無く嫌な感じはしていた。
 頭がぼうっとして、重たい。
 昨日、なかなか眠れなかった所為だろうか、と思って気にしない振りをして。
 根を詰めすぎたかな、とも思う。
 暁彦さんに聴いて貰うんだから、半端な演奏なんて出来ない。今の俺に出来る、最高の演奏を、と考えて頑張り過ぎたのかも知れない。
 その所為で緊張してなかなか眠れないし。
 普段は、此処まで緊張したりしないのに、我ながら暁彦さんが関わると、どうしようもない。
 両親と弟は昨日の夜から旅行に行く事になっていて、俺以外家には誰も居ない。
 行くなら違う日にしよう、とみんなは言っていたけど、正直その方が有り難い。コンクールだって、わざわざその予定に合った日付にしたんだから。
 もし、今回上手く行かなくて振られても、誰も居なければ泣いても見られる心配も無いし。
 誰にも、そんな顔は見られたく無いから、この日に決めた。振られた時の心配なんて、本当はしたく無いけど。
 会場に着いてから本格的に寒気がしてきて、これはまずいな、と思ったけれど。
 此処まで来て、棄権なんてしたくない。
 だから何事も無い風を装って、順番を待つ。
 寒気もするし、頭も痛い。
 でも、弾く。
 弾かないと、今日、此処で。
 暁彦さんが、来てくれているのを見た。
 ちゃんと来てくれた。
 約束を守って、ちゃんと来てくれたのに、俺が破る訳にはいかない。今俺に出来る最高の演奏をして、暁彦さんに、もう一度ちゃんと告白をしたい。
 順番が回ってきて深呼吸をして、舞台に立つ。
 頭が痛いとか、寒気がするとか、そんな事は関係ない。俺は、俺に出来る演奏をする。今一番できる演奏をして、暁彦さんに聴いてもらう。
 暁彦さんを想って、暁彦さんに伝えたい気持ちを音に乗せて。
 弓を構えて弾き始めればそれに集中出来る。体調が悪いとか、そんな事は意識しない。
 一曲弾ききると、また頭がふらつく。
 それでも、弾いている間は気にならない。
 大丈夫だ。
 二曲目も、完璧に演奏した、と思う。
 今、俺に出来る最高の演奏を。
 正直コンクールの結果とかはどうでも良くて、暁彦さんが、どう思ったか、それだけが気になる。客席の方を見たけれど、暁彦さんがさっきまで座ってた場所には、もう誰もいなかった。
 何で。
 駄目だったんだろうか。
 俺の演奏じゃ、やっぱり、何も伝わらなかったんだろうか。
 暁彦さん。
 ふらふらと、舞台袖に戻って、それからホールへと行く。暁彦さんが居ないかな、と思ったけど見当たらない。
 帰っちゃったのかな。
 柔らかい、意外と高そうに見える椅子に腰掛けて、溜息を吐く。
「衛藤くん」
 声を掛けられて顔を上げれば、香穂子と金澤先生が立っていた。
 そういや、この二人も来てたんだっけ。
「凄く良かったよ、衛藤くんらしい演奏だった」
「サンキュ。……なあ、暁彦さん、知らない?」
「うーん、来てたのは見かけたけど…衛藤くんの演奏が終わる前に何処かに行っちゃったみたいだから…」
「そっか」
 また溜息。
 やっぱり、駄目だったんだろうか。
 体調が悪いのは、言い訳にはならない。弾いている間は、気にならなかった。殆ど演奏にも支障は無かった筈だし、事実香穂子も気づいてない。
「でも、演奏の途中で席を立つってのは、あいつらしくないけどな」
「…それだけ聴くに耐えない演奏だったってこと?」
「いや、そんなことは無いだろ、あの中じゃ一番いい演奏だったと思うぞ」
「でも、事実帰っちゃったんだから…」
 何か、嫌な想像しか出来ない。
 きっと何か用事があったんだろうと、そう思いたいけど。
 最後まで聞いて行って欲しいとか、そう頼んだ訳でも無いんだから。
 そう、思うけど。
「…あ」
「お」
 香穂子と金澤先生が同時に声を出したのを聞いて、なんだろうと思わず顔を上げる。二人とも同じ方向を見ていて、俺もそっちに顔を向けた。
「…暁彦さん」
 ホールの入り口に、暁彦さんが立っていた。
 俺たちの方に向いて歩いてくるのを、何だかぼうっとした頭で見ていた。
 帰ったと、思ってたのに。
「何だ、吉羅。帰ったんじゃ無かったのか」
「帰りますよ、今からね。桐也、行くぞ」
「え?あ、でも、結果…」
「結果は見えてるしどうでも良い。それよりも熱があるんだろう。其処に車を回してある、帰るぞ」
 ぽかんと、口を開けて。多分、随分間抜けな顔をして暁彦さんを見上げる。
「熱って…ほんとに!?」
「あ、いや。計ってないから、知らない」
「でも体調は悪いんだ」
「うん、まあ……よく解かったね、暁彦さん」
 香穂子が何だか不機嫌そうになったのを見て、話題を逸らすために暁彦さんを見る。けど、何かこっちも怒ってる、よな。
「お前がヴァイオリンを始めた頃から知っているんだ。解からない筈が無いだろう」
「暁彦さん…」
「兎に角、これ以上悪化する前に帰るぞ。立てないなら抱えていってやるが?」
「え、自分で歩くぐらい出来るよ!」
 抱えられるなんてそんな、恥ずかしいことされたくない。
 子供じゃないんだから。
 咄嗟に立ち上がって、頭がくらっとしてよろけると、暁彦さんの手が、俺を支えてくれる。そしてその手が、俺の腕を掴んで、引っ張っていく。
「では金澤さん、後のことは任せますから」
「おー。面倒くさいが、仕方ないな」
「よろしくお願いします」
 後のことっていうのは、結果とか、授賞式とか、そういう事なんだろう。
 まあ、俺も、実際そっちの結果はどうでも良いって言えば良い。それよりもさっきからぴりぴりと感じる、暁彦さんの苛立ちとかが伝わってきて、そっちの方が怖い。
 入り口近くに停まっていた車の助手席に乗せられて、背凭れにゆっくりと体重を預ける。やっぱり、結構辛かったのかも、とは思うけど。
 それに気づいて、車を入り口近くまで動かして来てくれたんだろう。演奏途中だったけど、終わったらすぐにでも帰れるように。
「今日は…お前の家には誰も居ないんだったか」
「うん」
「仕方ない、私の部屋に行く」
 暁彦さんが、看病してくれるって事かな。
 それだったら、風邪をひくのも悪くないかなって気がするけど。
「ねえ、暁彦さん。俺の演奏、どうだった?」
「そういう事は、体調が良くなってからだ。そんな事より、マンションに着くまで寝ていなさい」
「そんな事じゃないよ、俺は…っ」
「桐也」
 低く、名前を呼ばれて。
 そうしたらもう、反論なんて出来ない。
 心配してくれているっていうのも、解かっているから尚更。
「演奏の感想ぐらい、後でいくらでも聞かせてやる。だから今は、休みなさい」
「はい」
 小さな子供に言い聞かせるようにそう言われれば、素直に頷くしかない。
 実際もう、頭が重くて、凄く眠かったし。
 暁彦さんの部屋に行くなら、気がついたらまた改めて聞けるだろうし。
 それなら良いか、と考えて。
 目を閉じた。



 目を覚まして最初に映ったのは、暁彦さんの部屋の客室の天井だった。
 あんまり物が置いてない、だけど毎日手入れをされている部屋。偶に、俺が泊まったり、多分金澤先生が泊まったりしている部屋。
 ぼんやりと周囲を見回して、体を起こす。途端に頭の上から湿ったタオルが落ちた。
 暁彦さんがやってくれたんだろう。
 車で目を閉じてからの記憶が無いから、此処まで運んできてくれたのも、きっと暁彦さんだ。結局抱えていかれたって事かな、と思うとちょっと凹んだ。
 でも、体調は随分よくなった気がする。
 意識もすっきりしているし、寒気もしない。
「気がついたのか」
 リビングへと続くドアが開いて、暁彦さんが入ってくる。
「暁彦さん」
「気分はどうだ?」
「大分良いよ。有難う」
 暁彦さんの手のひらが、俺の額に当てられる。冷たいその手が、気持ち良い。
「まだ熱はあるが、マシにはなったか。何か食べられるか?」
「うん、お腹すいた」
「食欲があるなら大丈夫だな」
 くすりと、笑みを零した暁彦さんに思わず見蕩れて。何か作ってくる、と言ってまた出て行こうとした暁彦さんの手を咄嗟に掴む。
「どうした?」
「ねえ、暁彦さん。俺の演奏、どうだった?」
「…体調が良くなってからだと言わなかったか?」
 聞けばまた不機嫌そうな声になって。
 でも、此処で引きたくないから。
「もう大分良くなったよ。ねえ、どうだった?」
「悪くない、演奏だった」
「それだけ?」
 そう言った途端、殊更溜息を吐いて、眉を寄せる。機嫌が、明らかに悪化したのが解かって、身構える。
「…何を言って欲しいんだ?体調が悪いのに無理をしてコンクールに出て、それで私に何を言えと?それこそ小言ならいくらでも言ってやる」
 ベッドの上に手をついて。暁彦さんの体が、顔が、近づいて。
 その目が、怒っている、そして、辛そうに、滲んでいるのを見て、今更、自分のしたことに気づいた。
「…ごめんなさい」
 詳しい事は知らない。
 それでも、美夜さんがヴァイオリンの練習に打ち込む余り体調不良を隠して、倒れた時にはもう手遅れだったんだと、そういう事は聞いたことがある。
 今回のことで、暁彦さんが美夜さんを思い出さない訳が無いんだって、今更、気づくなんて。
 馬鹿だ。
「コンクールなら、また別の機会に出れば良い。体を壊したら、元も子も無いだろう。聴いて欲しいなら、コンクールでなくてもいつでも聴いてやる。だから…無茶なことはするな」
 あれ。
 不意に揺れる眼差しに、言葉の端々に滲む、想いに。
 あれ、と思って。
 まさか、と。
 いつの間に、と。
 そう思うけれど。
 距離が近い。
 物理的にではなく、多分、心理的に。
 気のせいじゃ無い。間違いない。
 いつの間に、こんなに近くなったんだろう。
「……暁彦さん、俺の事、好きなの?」
「だったら何だ」
 否定もせずに、簡潔に、そう言い切って。
 あまりにもはっきり言い切られて、これは夢なのかな、と思う。
「何っていうか……本当に?」
「……不本意ではあるがな」
 それこそ本当に不本意そうに言われて、それでやっと、現実なんだなと実感が湧いた。それで実感するのもどうかとは思うけど。
「でも、一体いつから?いくらなんでも今日のヴァイオリンでって訳じゃないよね」
 そんな都合の良い展開は無い。
 俺だって、何か変わる切欠になれば、ってぐらいしか思ってなかったのに。俺のヴァイオリンを聴いてもらって、俺が、成長してるんだってことを知ってもらって、告白して、それから少しでも俺のことを意識してもらえるようになればって、そう思っていたけど。
 こんなに展開が速いと俺だって驚く。
「知らん。今日は切欠にはなったがな…敢えて言うならいつの間にか、だろうな」
「いつの間にか…」
 そうか、そんなものかな。
 でもどうしよう、何か嬉しくて、夢みたいで、自分でも凄く興奮しているのが解かる。すぐ近くに暁彦さんの顔があって、俺を真っ直ぐに見てくれていて。
 両想い、で。
 何だか、たまらなくなって、暁彦さんの腕を引いて、キスしようと思ったけど思い切り引き離された。
「何を考えてるんだ」
「何って、キスしたいなって」
「馬鹿なことを言うな」
「馬鹿じゃないだろ、両想いになったんだし!」
「風邪をひいている人間が何を言う。そういうことはちゃんと体調を治してからだ」
 ぴしゃりと頭を叩かれて、でも、言われた言葉にじわじわ嬉しさが溢れてくる。
「治ったら、していいの」
「そうなったら、拒む理由は無いな」
「じゃあ、治す」
 本当は、今すぐしたいけど、我慢する。
 暁彦さんに看病してもらえるだけでも、十分に嬉しいし。
 嬉しくて、顔がにやける。
 そんな俺に暁彦さんは呆れた顔をして、それでも何だかいつもより少し、優しい色をした瞳が俺を見てくれて。
「何か食べたいものはあるか?」
「暁彦さんが作ってくれるなら、何でも良いよ」
「それが、一番困る返答なんだがな」
 ふう、と溜息を吐いて、それでも体を起こして、今度こそ俺から離れて、それが少し寂しいと思うのは、もう完全に俺の我が侭だ。
「何が出来ても、文句は言うなよ」
「言わないよ、暁彦さんが作った物に文句なんて言ったことないだろ」
「……そうだったかな」
 俺の言葉に、ひっそりと笑みを落とす暁彦さんを見て。
 また、触りたいなって、近づきたいなって思ってしまうのを我慢して。
 客室から出て行ったのを見送って、ぼすっと枕に頭を預けた。少し興奮していたのが落ち着いてきて、さっきの会話と、暁彦さんの表情の一つ一つを思い返した。
 急に暁彦さんの態度が変わって、ちょっとついていけない部分もあるけれど。それでも、それが俺の望んでいた事なんだから、やっぱり嬉しい。
 何か、また熱が上がりそうだ。
 暁彦さんが好きで、すごく好きで。
 真っ直ぐにかけられる言葉に、向けられる視線に、それが募るばかりで。
 早く、治したいな。
 それで、暁彦さんにちゃんと触れたい。
 確かめたい。
 早く、早く。
 風邪なんて、どこかに吹き飛んでしまえばいいのに。
 今すぐにでも、治ってくれたら。
 慌てる必要は無いと解かっていても、そう考えずにはいられない。そんな自分がおかしいと思っても、どうしようもない。
 だってこんなに、好きなんだから。



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