朝起きた時から、何処と無く嫌な感じはしていた。 頭がぼうっとして、重たい。 昨日、なかなか眠れなかった所為だろうか、と思って気にしない振りをして。 根を詰めすぎたかな、とも思う。 暁彦さんに聴いて貰うんだから、半端な演奏なんて出来ない。今の俺に出来る、最高の演奏を、と考えて頑張り過ぎたのかも知れない。 その所為で緊張してなかなか眠れないし。 普段は、此処まで緊張したりしないのに、我ながら暁彦さんが関わると、どうしようもない。 両親と弟は昨日の夜から旅行に行く事になっていて、俺以外家には誰も居ない。 行くなら違う日にしよう、とみんなは言っていたけど、正直その方が有り難い。コンクールだって、わざわざその予定に合った日付にしたんだから。 もし、今回上手く行かなくて振られても、誰も居なければ泣いても見られる心配も無いし。 誰にも、そんな顔は見られたく無いから、この日に決めた。振られた時の心配なんて、本当はしたく無いけど。 会場に着いてから本格的に寒気がしてきて、これはまずいな、と思ったけれど。 此処まで来て、棄権なんてしたくない。 だから何事も無い風を装って、順番を待つ。 寒気もするし、頭も痛い。 でも、弾く。 弾かないと、今日、此処で。 暁彦さんが、来てくれているのを見た。 ちゃんと来てくれた。 約束を守って、ちゃんと来てくれたのに、俺が破る訳にはいかない。今俺に出来る最高の演奏をして、暁彦さんに、もう一度ちゃんと告白をしたい。 順番が回ってきて深呼吸をして、舞台に立つ。 頭が痛いとか、寒気がするとか、そんな事は関係ない。俺は、俺に出来る演奏をする。今一番できる演奏をして、暁彦さんに聴いてもらう。 暁彦さんを想って、暁彦さんに伝えたい気持ちを音に乗せて。 弓を構えて弾き始めればそれに集中出来る。体調が悪いとか、そんな事は意識しない。 一曲弾ききると、また頭がふらつく。 それでも、弾いている間は気にならない。 大丈夫だ。 二曲目も、完璧に演奏した、と思う。 今、俺に出来る最高の演奏を。 正直コンクールの結果とかはどうでも良くて、暁彦さんが、どう思ったか、それだけが気になる。客席の方を見たけれど、暁彦さんがさっきまで座ってた場所には、もう誰もいなかった。 何で。 駄目だったんだろうか。 俺の演奏じゃ、やっぱり、何も伝わらなかったんだろうか。 暁彦さん。 ふらふらと、舞台袖に戻って、それからホールへと行く。暁彦さんが居ないかな、と思ったけど見当たらない。 帰っちゃったのかな。 柔らかい、意外と高そうに見える椅子に腰掛けて、溜息を吐く。 「衛藤くん」 声を掛けられて顔を上げれば、香穂子と金澤先生が立っていた。 そういや、この二人も来てたんだっけ。 「凄く良かったよ、衛藤くんらしい演奏だった」 「サンキュ。……なあ、暁彦さん、知らない?」 「うーん、来てたのは見かけたけど…衛藤くんの演奏が終わる前に何処かに行っちゃったみたいだから…」 「そっか」 また溜息。 やっぱり、駄目だったんだろうか。 体調が悪いのは、言い訳にはならない。弾いている間は、気にならなかった。殆ど演奏にも支障は無かった筈だし、事実香穂子も気づいてない。 「でも、演奏の途中で席を立つってのは、あいつらしくないけどな」 「…それだけ聴くに耐えない演奏だったってこと?」 「いや、そんなことは無いだろ、あの中じゃ一番いい演奏だったと思うぞ」 「でも、事実帰っちゃったんだから…」 何か、嫌な想像しか出来ない。 きっと何か用事があったんだろうと、そう思いたいけど。 最後まで聞いて行って欲しいとか、そう頼んだ訳でも無いんだから。 そう、思うけど。 「…あ」 「お」 香穂子と金澤先生が同時に声を出したのを聞いて、なんだろうと思わず顔を上げる。二人とも同じ方向を見ていて、俺もそっちに顔を向けた。 「…暁彦さん」 ホールの入り口に、暁彦さんが立っていた。 俺たちの方に向いて歩いてくるのを、何だかぼうっとした頭で見ていた。 帰ったと、思ってたのに。 「何だ、吉羅。帰ったんじゃ無かったのか」 「帰りますよ、今からね。桐也、行くぞ」 「え?あ、でも、結果…」 「結果は見えてるしどうでも良い。それよりも熱があるんだろう。其処に車を回してある、帰るぞ」 ぽかんと、口を開けて。多分、随分間抜けな顔をして暁彦さんを見上げる。 「熱って…ほんとに!?」 「あ、いや。計ってないから、知らない」 「でも体調は悪いんだ」 「うん、まあ……よく解かったね、暁彦さん」 香穂子が何だか不機嫌そうになったのを見て、話題を逸らすために暁彦さんを見る。けど、何かこっちも怒ってる、よな。 「お前がヴァイオリンを始めた頃から知っているんだ。解からない筈が無いだろう」 「暁彦さん…」 「兎に角、これ以上悪化する前に帰るぞ。立てないなら抱えていってやるが?」 「え、自分で歩くぐらい出来るよ!」 抱えられるなんてそんな、恥ずかしいことされたくない。 子供じゃないんだから。 咄嗟に立ち上がって、頭がくらっとしてよろけると、暁彦さんの手が、俺を支えてくれる。そしてその手が、俺の腕を掴んで、引っ張っていく。 「では金澤さん、後のことは任せますから」 「おー。面倒くさいが、仕方ないな」 「よろしくお願いします」 後のことっていうのは、結果とか、授賞式とか、そういう事なんだろう。 まあ、俺も、実際そっちの結果はどうでも良いって言えば良い。それよりもさっきからぴりぴりと感じる、暁彦さんの苛立ちとかが伝わってきて、そっちの方が怖い。 入り口近くに停まっていた車の助手席に乗せられて、背凭れにゆっくりと体重を預ける。やっぱり、結構辛かったのかも、とは思うけど。 それに気づいて、車を入り口近くまで動かして来てくれたんだろう。演奏途中だったけど、終わったらすぐにでも帰れるように。 「今日は…お前の家には誰も居ないんだったか」 「うん」 「仕方ない、私の部屋に行く」 暁彦さんが、看病してくれるって事かな。 それだったら、風邪をひくのも悪くないかなって気がするけど。 「ねえ、暁彦さん。俺の演奏、どうだった?」 「そういう事は、体調が良くなってからだ。そんな事より、マンションに着くまで寝ていなさい」 「そんな事じゃないよ、俺は…っ」 「桐也」 低く、名前を呼ばれて。 そうしたらもう、反論なんて出来ない。 心配してくれているっていうのも、解かっているから尚更。 「演奏の感想ぐらい、後でいくらでも聞かせてやる。だから今は、休みなさい」 「はい」 小さな子供に言い聞かせるようにそう言われれば、素直に頷くしかない。 実際もう、頭が重くて、凄く眠かったし。 暁彦さんの部屋に行くなら、気がついたらまた改めて聞けるだろうし。 それなら良いか、と考えて。 目を閉じた。 目を覚まして最初に映ったのは、暁彦さんの部屋の客室の天井だった。 あんまり物が置いてない、だけど毎日手入れをされている部屋。偶に、俺が泊まったり、多分金澤先生が泊まったりしている部屋。 ぼんやりと周囲を見回して、体を起こす。途端に頭の上から湿ったタオルが落ちた。 暁彦さんがやってくれたんだろう。 車で目を閉じてからの記憶が無いから、此処まで運んできてくれたのも、きっと暁彦さんだ。結局抱えていかれたって事かな、と思うとちょっと凹んだ。 でも、体調は随分よくなった気がする。 意識もすっきりしているし、寒気もしない。 「気がついたのか」 リビングへと続くドアが開いて、暁彦さんが入ってくる。 「暁彦さん」 「気分はどうだ?」 「大分良いよ。有難う」 暁彦さんの手のひらが、俺の額に当てられる。冷たいその手が、気持ち良い。 「まだ熱はあるが、マシにはなったか。何か食べられるか?」 「うん、お腹すいた」 「食欲があるなら大丈夫だな」 くすりと、笑みを零した暁彦さんに思わず見蕩れて。何か作ってくる、と言ってまた出て行こうとした暁彦さんの手を咄嗟に掴む。 「どうした?」 「ねえ、暁彦さん。俺の演奏、どうだった?」 「…体調が良くなってからだと言わなかったか?」 聞けばまた不機嫌そうな声になって。 でも、此処で引きたくないから。 「もう大分良くなったよ。ねえ、どうだった?」 「悪くない、演奏だった」 「それだけ?」 そう言った途端、殊更溜息を吐いて、眉を寄せる。機嫌が、明らかに悪化したのが解かって、身構える。 「…何を言って欲しいんだ?体調が悪いのに無理をしてコンクールに出て、それで私に何を言えと?それこそ小言ならいくらでも言ってやる」 ベッドの上に手をついて。暁彦さんの体が、顔が、近づいて。 その目が、怒っている、そして、辛そうに、滲んでいるのを見て、今更、自分のしたことに気づいた。 「…ごめんなさい」 詳しい事は知らない。 それでも、美夜さんがヴァイオリンの練習に打ち込む余り体調不良を隠して、倒れた時にはもう手遅れだったんだと、そういう事は聞いたことがある。 今回のことで、暁彦さんが美夜さんを思い出さない訳が無いんだって、今更、気づくなんて。 馬鹿だ。 「コンクールなら、また別の機会に出れば良い。体を壊したら、元も子も無いだろう。聴いて欲しいなら、コンクールでなくてもいつでも聴いてやる。だから…無茶なことはするな」 あれ。 不意に揺れる眼差しに、言葉の端々に滲む、想いに。 あれ、と思って。 まさか、と。 いつの間に、と。 そう思うけれど。 距離が近い。 物理的にではなく、多分、心理的に。 気のせいじゃ無い。間違いない。 いつの間に、こんなに近くなったんだろう。 「……暁彦さん、俺の事、好きなの?」 「だったら何だ」 否定もせずに、簡潔に、そう言い切って。 あまりにもはっきり言い切られて、これは夢なのかな、と思う。 「何っていうか……本当に?」 「……不本意ではあるがな」 それこそ本当に不本意そうに言われて、それでやっと、現実なんだなと実感が湧いた。それで実感するのもどうかとは思うけど。 「でも、一体いつから?いくらなんでも今日のヴァイオリンでって訳じゃないよね」 そんな都合の良い展開は無い。 俺だって、何か変わる切欠になれば、ってぐらいしか思ってなかったのに。俺のヴァイオリンを聴いてもらって、俺が、成長してるんだってことを知ってもらって、告白して、それから少しでも俺のことを意識してもらえるようになればって、そう思っていたけど。 こんなに展開が速いと俺だって驚く。 「知らん。今日は切欠にはなったがな…敢えて言うならいつの間にか、だろうな」 「いつの間にか…」 そうか、そんなものかな。 でもどうしよう、何か嬉しくて、夢みたいで、自分でも凄く興奮しているのが解かる。すぐ近くに暁彦さんの顔があって、俺を真っ直ぐに見てくれていて。 両想い、で。 何だか、たまらなくなって、暁彦さんの腕を引いて、キスしようと思ったけど思い切り引き離された。 「何を考えてるんだ」 「何って、キスしたいなって」 「馬鹿なことを言うな」 「馬鹿じゃないだろ、両想いになったんだし!」 「風邪をひいている人間が何を言う。そういうことはちゃんと体調を治してからだ」 ぴしゃりと頭を叩かれて、でも、言われた言葉にじわじわ嬉しさが溢れてくる。 「治ったら、していいの」 「そうなったら、拒む理由は無いな」 「じゃあ、治す」 本当は、今すぐしたいけど、我慢する。 暁彦さんに看病してもらえるだけでも、十分に嬉しいし。 嬉しくて、顔がにやける。 そんな俺に暁彦さんは呆れた顔をして、それでも何だかいつもより少し、優しい色をした瞳が俺を見てくれて。 「何か食べたいものはあるか?」 「暁彦さんが作ってくれるなら、何でも良いよ」 「それが、一番困る返答なんだがな」 ふう、と溜息を吐いて、それでも体を起こして、今度こそ俺から離れて、それが少し寂しいと思うのは、もう完全に俺の我が侭だ。 「何が出来ても、文句は言うなよ」 「言わないよ、暁彦さんが作った物に文句なんて言ったことないだろ」 「……そうだったかな」 俺の言葉に、ひっそりと笑みを落とす暁彦さんを見て。 また、触りたいなって、近づきたいなって思ってしまうのを我慢して。 客室から出て行ったのを見送って、ぼすっと枕に頭を預けた。少し興奮していたのが落ち着いてきて、さっきの会話と、暁彦さんの表情の一つ一つを思い返した。 急に暁彦さんの態度が変わって、ちょっとついていけない部分もあるけれど。それでも、それが俺の望んでいた事なんだから、やっぱり嬉しい。 何か、また熱が上がりそうだ。 暁彦さんが好きで、すごく好きで。 真っ直ぐにかけられる言葉に、向けられる視線に、それが募るばかりで。 早く、治したいな。 それで、暁彦さんにちゃんと触れたい。 確かめたい。 早く、早く。 風邪なんて、どこかに吹き飛んでしまえばいいのに。 今すぐにでも、治ってくれたら。 慌てる必要は無いと解かっていても、そう考えずにはいられない。そんな自分がおかしいと思っても、どうしようもない。 だってこんなに、好きなんだから。 |