時間連鎖 4



 誰も居ない屋上でヴァイオリンを弾く。
 天気は良いし、風も気持ちが良い。音は伸びやかに、空気を震わせていく。
 一曲弾き終えたところでパチパチと手を叩く音がして、振り返れば香穂子が立っていた。
「流石衛藤くん、また上手くなった?」
「そうかな?だったら嬉しいけどね」
「うん。それに、何か演奏する音も変わったかな」
「どんなところが?」
 折角だから、どう変わったのか聞いておきたい。
 俺の問いかけに、香穂子は上目遣いで考え込んでから、ゆっくりと口を開く。そうしている顔は、普通に可愛いと思う。別に女が嫌いな訳じゃないし。
 好みか好みじゃないかって言ったら、多分好みのタイプなんだろうな。
 それでも俺は、結局暁彦さんしか見えないし、暁彦さん以外を好きになることなんて無いんだろうけど。
「何か、柔らかくなった、っていうのかな…。前は何て言うかこう、無理矢理にでも強引に人を巻き込んで惹き付ける感じがしたんだけど、今は自然と人を惹き付けて呑み込むっていうか、しなやかになったっていうか…そんな感じ」
 音を支配している、無理矢理にでも惹き付けるというのは、自分でも自覚があった事だから、割とすんなり納得出来た。
 それが、変わったってことだろうか。
「俺の音が変わったって言うんなら、香穂子のおかげかもな」
「私の?」
「ああ、あんたに会って、アンサンブル聴いて、俺も随分考え方とか変わったし」
 人と合わせて弾くことの楽しさを、音を楽しむってことを、教えられた。だから、俺の音が変わったのなら、香穂子のおかげだろう。
「それって、私の影響だけかなあ」
「どういう意味?」
「吉羅さんの影響だって、あるんじゃない?」
「暁彦さん?」
 影響って言っても、暁彦さんには前からヴァイオリンを聴いてもらって何度もアドバイスしてもらったりしてるんだけど。
 影響なら、ずっと受けてる筈だから、急に何か変わるってことも無い気がする。
「やっぱり、好きな人には影響されるよね」
「それはまあ、そう思うけど。それならもう、ずっと前からだからなあ」
「そうかな?衛藤くん、さっきのヴァイオリン、何を考えて弾いてた?ううん、誰を想って、かな」
「……そういうことを訊くなよ」
 頭の中は、自然と暁彦さんのことでいっぱいで。
 少し距離を置いている今でも、それは変わらなくて。いや、あまり会話をしない分、前よりももっと、暁彦さんのことを考えている時間は、増えた気がする。
 暁彦さんのことを想いながら、ヴァイオリンを弾く事も。
「誰かを想って弾くから、そういう音になるのかなって思うんだけど」
「誰かを想って、か…」
 俺が暁彦さんを好きな気持ちが、音にまで出ているという事だろうか。その気持ちが、俺の音を変えているんだろうか。
 自分ではよく解からない。
「まあ、香穂子がそう言うならそうなのかな」
 あの日から、尚更に暁彦さんのことで俺の頭は一杯で。
 ともすれば、触れた唇の感触だとかを思い返しては、また触れたいと、そう思って。近づけば抑えられる自信が無いから、今は近づかないようにしているけれど。
 一度触れてしまえば、際限なんて無いんだろう、もっと、もっと欲しくて、触れたくて、触れて欲しくて。
 こんなにも、求めているのに。
 全然、近づけない。
「あ、そうだ、衛藤くん」
「何?」
「ちょっと合わせてみない?」
「何、突然」
 ぱっと思いついたように香穂子がそう提案してくる。
 ほんとにぱっと思いついただけかも知れないけど。
「うん、今の衛藤くんと合わせたらどんな音になるのかなって思って」
「別に良いけど…」
 俺も、香穂子と合わせてみたくない訳じゃないし、興味もある。どんな音になるのか。どんな風に交じり合って流れていくのか。
「曲は?何にする?」
「さっき衛藤くんが弾いてた曲がいいかな。あれなら私も弾けるし」
「じゃ、そうするか」
 香穂子がヴァイオリンをケースから出すのを確認してから、それぞれ構える。
 出だしを合わせて、流れ始めたメロディは俺のとは違う、けれど、よく馴染む音。
 初めて会った時よりも格段に上手くなっている。これでまだ、ヴァイオリンを始めてから一年ほどだというのだから、大したものだろう。
 成長の早さは矢張り才能だろうか。
 何より、楽しんで弾いているのが伝わってきて、自然とこちらも気分が浮き立ってくる。意識しないでも相手を巻き込んでしまえる演奏、それも香穂子の才能なんだろう。
 俺も、成長しているんだろうか。
 香穂子は変わったと言っていたし、多分そうなんだろうと思うけれど。
 暁彦さんは?
 暁彦さんは、どう思うだろう。
 最近、まともに演奏の評価をしてもらっていない。
 暁彦さんもまた、成長したと、言ってくれるだろうか。そうすれば、見直して、俺のことを少しは意識してくれるだろうか。
 いや、それよりも何よりも。
 聞いて欲しい。
 今の俺の音を、暁彦さんに。
 暁彦さんを想って弾く、俺の音を。
 一曲弾き終えると、香穂子がこっちを見て笑っている。
「有難う、衛藤くん」
「いや、こっちこそ」
 何か、一つすっきりした気がする。
 俺に出来ることなんて、結局限られている。ヴァイオリニストなら、ヴァイオリンで気持ちを表現するべきだ。これで生きていくつもりなら尚更。
 それで気持ちを動かせないのなら、それこそ音楽家としてまだまだだって事だ。
 どんな風にであれ、変わる切欠にはなってくれるかも知れない。
「なあ、香穂子」
「ん?」
「俺、コンクールに出るよ」
「……どうしたの、急に」
 別に、大きなコンクールで無くたって良い。ただ、今の俺の実力を、音を、表現出来る場所ならそれで構わない。
 それを暁彦さんに聴いてもらいたい。
 今俺が出来る、最高の演奏を。
「ん、ちょっと決意したって事かな」
「まあ、すっきりした顔はしてるけど。コンクールかあ、出るんだったら、私も応援に行くね」
「ああ」
 頷いて、改めて決心する。
 まあ、とりあえずどのコンクールに出るか決めないとな。
 幸いこの学院だとコンクールの情報には事欠かないし。
 それから、暁彦さんに伝えに行こう。
 俺の演奏を聞いて欲しいって。



 学院の生徒がコンクールに出る場合、その旨を学院に申請する事になっている。
 どの生徒がどのコンクールに出てどういう結果になったか、それを把握するのも、この学院では重要な事だ。
 そのバックアップも当然、学院側は請け負って、個人授業の時にはそれに合わせたカリキュラムで練習することになるし、教師からの薦めでコンクールに出ることもある。
 何よりも、生徒が優秀な成績を収めれば、当然学院の知名度も上がる。
 だから優秀な生徒が積極的にコンクールに参加するのは、歓迎するべき事だ。
 だが、コンクールに出る生徒のリストを見ている時に桐也の名前を見つけて、ふと手が止まる。
 日本に帰国してから、余りコンクールには出なくなっていたが、また出る気になったという事だろうか。それにしても、アメリカで優勝したコンクールに比べれば、小さくないとはいえ、然程目立つタイトルのコンクールでもない。
 一体どういう心境の変化だろう。
 内心首を傾げていると、ドアをノックされて、入るように促せば桐也がするりとドアから入ってきた。
「…暁彦さん」
「何だ」
「俺、コンクールに出るよ」
「ああ、今リストを見た」
 そう答えながら、桐也とこうして話すのは、随分と久しぶりのような気がした。実際は近づかなくなっていたのもこの二週間程度のことだというのに。
 それだけ、それまでが近くに居すぎたのかも知れない。
「暁彦さんにも、聴いて欲しい」
 真剣な眼差しが、しっかりと私を見つめてくる。
 その真っ直ぐさが、怖い。
「コンクールで、俺、暁彦さんのことを想って弾くから、絶対、今までで一番良い演奏をするから。暁彦さんにも、聴きに来て欲しい」
「…………」
 聴くくらいなら、別に構わない、のだろう。
 でも、それが。
 何かが変わる前触れのような気がして、素直に頷けない。
 そこで、桐也が何かを変えようとしているのが、解かるからだろうが。
「駄目、かな」
 不意に不安そうな顔でそう問いかけられて、結局自分は、桐也に甘いのだと、再確認する。
「いや……仕事の関係もあるから、確実に行けるかは解からないが、時間があれば行こう」
「ほんと?良かったあ」
 ぱっと嬉しそうな顔をして、そんな様子に苦笑いを浮かべる。
 嬉しそうな様子を見れば、矢張り私も嬉しいのだ。
「じゃ、今から練習してくるから。絶対聞きに来てよ。ほんの、少しだけでも良いから」
「ああ」
 私が頷くのを確認してから、桐也は理事長室を出て行く。
 それを見送って、椅子の背凭れに深く身を預ける。きしりと音がなって、それでもしっかりと身体を受け止めてくる、やたらと立派な椅子だ。
「聴けば、何か変わるのか…?」
 変わると、思っているのだろう、桐也は。そして私も、それを予感している。
 それが当たるか、当たらないかは解からないが。
 約束した以上、行くしかない。
 本当は逃げ出したいと思っているけれど。
 急に仕事が入ったんだと言い訳すれば、桐也は悲しそうな顔をして残念がるだろうが、それ以上文句は言わないだろう。
 しかし、それではただ時期を先延ばしにしているだけに過ぎない。
 桐也もまたの機会にと言うだろう。
 それくらいなら、素直に行った方が良い。
 逃げたりせずに。


 コンクールに出ることを決めてから、桐也は今まで以上に練習に励むようになった。
 主に練習室を使用しているからか、余り姿を見かける事は無いが、それでも時折ヴァイオリンケースを持って練習室に向かって走っていく姿を見かけた。
 理事長室に、コンクールに出るから見に来て欲しいと言いに来て以来、桐也とは全く話していない。視線も合わない。
 ただ、それでも毎日、懸命に練習しているのだけは解かって。
 理事長室に呼び出した日野君にさえ、「ちゃんと聞きに行ってあげてくださいね」などと念を押された。
 逃げるとでも思われているのだろうか。
 逃げたいと、思わない訳ではないけれど。
 それが無駄だということは、誰に言われなくても解かっている事だ。
 金澤さんまでもが、日野君と共に桐也のコンクールの応援に行くのだと聞いた時には、流石に溜息が漏れたが。
 金澤さんの場合、ただの口実に過ぎないのだから。


 そんな日々が過ぎて。
 コンクール当日までは、あっという間だった。
 勿論、私自身が多忙だったからではあるのだが、コンクール当日は、まるで最初からそう決まっていたかのように、すっぽりと、何の予定も無かった。
 往生際悪く、何か予定でも入れば良いのに、とほんの少し期待していたのだけれど、それも無く。それこそ、丸一日の休日など久しぶりという日と、ちょうどコンクールが重なった。
 取り立ててすることも無く、結局開始前から椅子に座って舞台を見守ることになった。
 桐也の出番が来るまでに、何人もの参加者が出てきたが、どれも然程レベルは高くないようだった。
 これなら桐也のレベルの方が余程上だと、身贔屓無しにそう思う。
 何よりも、コンクールに出ている割りに消極的な音が多い。そんな音では、相手に伝わる筈も無いというのに。たまにそれなりに良いと思う演奏者も居たが、それでも矢張り技術も表現力も、桐也の方が高い。
 だからこそ尚更、何故桐也が敢えてこのコンクールに出たのかが解からない。
 他にももっと、日本でも大きなタイトルのコンクールはある。
 桐也のレベルなら、そちらに出ていた方が良いだろうと、そう思える。
 だからといって、そんなことは桐也だって当然解かっている筈だ。桐也なりに何か理由があって、考えた結果でこのコンクールを選んだのだろうとは思うから、口出しするつもりも無いが。
 気にはなる。
 そんなことを考えているうちに、桐也の番が回ってきた。
 舞台の上に出てきた桐也を見て、ふと違和感を覚える。
 緊張しているのだろうか、体が硬い。どんな大舞台でも、いつも自信に溢れた様子を見せるのに、どこかおかしい。
 私が居るから、という訳でも無いだろう。
 最初から解かっていた事だし、それは想定していた筈だ。
 今更、それで変に体を硬くする事は無い。
 弓を構えて、ヴァイオリンを弾き始める。
 音はいつも通りだ。指も、ちゃんと動いている。
 最初はそう思ったが、矢張り何処かおかしい。違和感がある。
 いつも通りのように聞こえるが、それでも何処か、音が硬いのだ。
 それでも、懸命に何かを伝えようとするのだけは解かって。それが息苦しい。
 嫌でも解かる。
 このヴァイオリンが、審査員でも、他の誰でもなく、私に向かって演奏されているのが。
 そして、桐也の違和感の原因に気づいて、溜息が漏れた。
 それでも、必死で、真っ直ぐで。
 何が嫌なのだと言えば、それが嫌なのに、桐也は解かっていない。だが、結局それで、認めない訳にもいかなくなった。
 そうだ、結局初めから、逃げ切れる筈も無い。
 真っ直ぐに自分に向かってくる音を聞きながら、まずはどうしようかと、考えた。



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小説 B-side   金色のコルダ