時間連鎖 3



 受話器から聞こえる、嫌味混じりの声を聞き流しながら、必要なことだけ頭に留めておく。
 滅多に電話などしてこない叔母からの話の大半は、意味の無い嫌味と愚痴で、本当の用件は一割にも満たない。
 要約すれば、今度の日曜、見合いをしろ、とそれだけの電話だ。
 用件を言って、日時と場所を指定さえすれば五分もかからない用件だというのに、もうかれこれ二十分、電話の向こうの相手は話し続けている。
 それ以外に、取り立てて中身のある話など無いというのに。
 全く、時間の無駄でしかない。
 ろくに相槌も打たない私を相手に、それでもそれだけ話し続けられるというのも、ある意味凄いことではあるが。
 決して真似はしたくないし、出来ないだろう。
『暁彦さん、聞いているんですか?』
「聞いていますよ」
 聞き流しているだけだ。
 しかし、そろそろこれ以上付き合うことも無いだろう。
「申し訳ありませんが、まだ仕事がありますので、この辺で」
『あら、そう?仕事なら仕方無いわね、じゃあ今度の日曜日、忘れないでくださいね』
 切れた電話に一つ息を吐いて受話器を置く。
 正直、結婚などまだ到底する気にはなれない。学院の財政状況もまだまだ油断のならない状態だし、そんな時に見合いなんてどうかしているとしか思えない。
 しかし、ファータと学院の繋がりを知っている一部の親類にしてみれば、今の状況は不安でしかないのだろう。正式に付き合っている恋人が居るのなら兎も角、三十路も過ぎて恋人の一人も居ないとなれば不安になるのも仕方が無い事なのかも知れない。
 世襲などくだらないと、多分ただ家柄だけの問題ならばそう言い切ってしまえるのだけれど、ファータが絡むとそうはいかない。血によって引き継がれる体質は、私が結婚をして、子供を残さない限り次に続かない。
 全く厄介な事だと、そう思わずには居られない。
 別にそれ自体が嫌な訳では無いが…。
 そんなことを考えていると、来客を告げるチャイムが鳴らされる。
 時計を見れば、午後十時を回ったところだ。
 相手を確認して中に入れれば、真剣な表情で駆け込んできた。
「暁彦さん、見合いするって本当!?」
 開口一番でそう言われて、流石に一瞬たじろぐ。
 必死な目を見て、一つ息を吐くと、踵を返す。
「暁彦さん?」
「取り敢えず落ち着きなさい。お茶をいれよう」
「暁彦さん、俺はっ」
「桐也、私は落ち着けと言ったんだ」
「……はい」
 名前を呼んで、しっかりと目を見据えてそう言えば、桐也も大人しく頷く。
 リビングのソファに座らせてから、キッチンに行って紅茶を入れて、また戻る。その間に少しは冷静さを取り戻したようで、先程までの取り乱した様子は無い。
 紅茶を入れたカップを桐也の前に置くと、それを両手で持って、一口飲み込む。恐らく、自分でも落ち着こうとしているのだろう。
「それで、見合いの話だったな」
 隣に座りながら、そう切り出すと、桐也のカップを持つ指がぴくりと動いた。
「うん…、本当に、お見合いするの?」
 恐る恐る、不安そうな眼差しで、そう問いかけてくる。
「ああ、私もさっき聞いたばかりだがな。むしろ既にお前が知っていることの方が不思議だ」
「母さんが叔母さんと電話で話してるの聞いた」
「……他に話すならせめてこちらにちゃんと話を通してからにして欲しいものだな」
 それが断り難くさせる手腕なら、大したものだとは思うが。
「ほんとに、するんだ…」
「会うだけだ。別に結婚するつもりはない。一応あの人の顔を立てておかないと、後が五月蝿いからな」
「結婚しないの?ほんとに?」
「して欲しいのか?」
 とてもして欲しい、という顔には見えないが、敢えてそう問いかける。
 案の定勢いよく首を振って、ソファに手をついて、こちらに身を寄せてくる。
「して欲しいわけ、無いだろ!」
「だったら、これ以上気にするな。そもそも、今の学院の状態で結婚がどうのと考えられる訳が無いだろう。向こうも本気で纏める気は無い」
 まるで言い訳でもしているようだ。
 桐也がどう思おうと、関係の無いことだというのに。
 …いや、関係がない、訳ではないのだろう。それでも、言い訳をする必要などは無い。ただ、事実を言っているだけだ。
「今の…ってことは、学院の状況が落ち着いたら、結婚するってこと?」
「それは避けられないだろうな。結婚して、子孫を残す事が私の義務だ」
「何、それ…義務って、何だよ」
「言葉通りの意味だ」
 それ以上でも、それ以下でもない。
 納得いかないという顔で、懸命にこちらの真意を読み取ろうとしているのは解かるが、他に意味など無い。
「俺……暁彦さんて、結婚して跡継ぎとか、そういう古い考え、気にしない人だと思ってたけど」
「古いとか、古くないとかそんな問題じゃない」
 ファータのことがなければ、それこそ気にはしない。跡継ぎなんてどうでも良いことだし、それが欲しいというのであれば、適当に親類からやる気のある者でも呼べば良い。
 だが、ファータが絡むとそういう訳にはいかない、ファータの見えない者を跡継ぎにすることは、ようするに学院が受けているファータの加護が無くなるという事だ。
 無くても良い、と思わない事も無いが、別に強く結婚を拒否する理由も無いし、奴らにそれなりの情が無い訳でも無い。
 はた迷惑だと思うことの方が多いが。
 しかし、それを桐也に説明したところで、ファータが見えない桐也は信じないだろう。
「解からないよ。暁彦さんが相手を好きになって結婚するっていうのなら、したくてするって言うのなら、仕方ないって思うけど。義務で結婚するのなんて、解からない!」
「桐也…っ」
 カチャン、と音を立てて桐也の持っていたカップが倒れる。そして気がつけば、ソファの上に倒され、天井を見ていた。
 それがすぐに必死な眼差しの桐也の顔で視界が埋まり、気がついたときには口付けられていた。
「お、い…っ、や…めろ」
 余りにも突然で乱暴な口付けを引き離そうと伸ばした手を押さえつけられる。体格はこちらの方が有利だが、体勢が悪く、上手く押し退けられない。
 顔を逸らせても追いかけてきて、ぎゅっと、強く手を握られて、何度もキスをされて、どうしたものかと思う。
 たどたどしい、子供っぽいキスだ。
 けれど、必死さだけは、ありありと伝わってきて、何とも言えない気分になる。
 愛だ恋だと、そういうものに必死になるのも悪くない。それもまた、ヴァイオリンを弾いていく上で良い経験にはなるだろう。
 だが、どうして相手が私なのだろう、と思わずにはいられない。
 私などではなく、もっと他に、いくらでも相手は居るだろう。相応の相手と、相応の恋愛をすれば良い。
 私ではなくて。
「暁彦さん……、好き…大好き、だから…」
「ん……っ……いい、加減に、しろ…っ」
 時折囁かれる言葉を聞きながら唇を押し付けられて、このままこうしている訳にもいかない。
 余り乱暴なことはしたくないが、この場合は仕方無いだろう。
 自分の足を桐也の足に絡めて、捻る。わざと、痛くするように。
「いっ…」
 怯んだ隙に手を外して、襟首を掴んで引き寄せ体勢を入れ替えて、うつ伏せにソファに沈んだ桐也の腕を捻って押さえつける。
「〜〜〜〜っ!!」
 相当痛いのだろう、声にならない声を上げて、逃れようとするが、すぐに開放はしない。
「…もうこんな真似はしないか?」
「し、ないっ、しないから…っ腕…!」
 必死に頷きながら、そう訴える。ヴァイオリニストとしては、腕に強烈な痛みがかかるような負担は相当に辛いことだろうということも、解かっている。
 こうすれば、二度と同じ事をしようだなんて気は起きないだろう。
 しっかりと頷いた事を確認してから、開放してやる。
「……マジで、骨折れるかと思った」
「馬鹿を言うな、それぐらい手加減している」
「それにしたって…」
「お前に文句を言う権利があるのか?」
「それは……でも……」
 言いたいことはありそうだが、これ以上聞く気にもなれない。
 恐らく、聞いても意味が無い、聞くだけどうしようも無い事だろう。
「今日はもう帰りなさい。これ以上話していても仕方が無い」
「っ暁彦さん!」
「帰れ」
 抗議しようとした桐也を見据えて、そう告げる。反論をする余地もない程、はっきりと。
 桐也は私の顔を見て、瞬間、泣きそうな顔をして、走って部屋を出て行く。
 バタバタと足音が響き、ドアが閉まるのを確認してから、深々と溜息を吐く。
「全く…」
 本当に、どうしようもない。



 見合いの一件があってから暫く、桐也からわざわざ近づいてくる事は無くなった。
 諦めた……訳ではないのだろう。
 偶に、遠巻きにこちらを見ているのを見つけては、その視線に溜息が零れそうになる。
 どうすれば諦めてくれるものかと、考えたところで答えは見つからない。結局のところ、人の気持ちなどどうにかなるものでもない。
 私が桐也をなかなか受け入れられないように、桐也だとて、早々諦められるものでも無いのだろう。この間の一件で、それは嫌と言うほどに理解した。
 今まで散々はぐらかして来たが、それも限界なのかも知れない。
 あそこでああいう行動に出るとは、思っていなかった。
 結局のところ、まだまだ子供だと、舐めていたのだろう。
 その結果があれなら、自業自得に違いない。
 あの時握られた手を見て、溜息を吐いた。
 昔は、手のひらにすっぽりと収まるほどに小さかった手が、今では然程変わらない大きさになっていた。
 当たり前の事だ。人間、誰しも成長する。
 けれど何処かで、変わらない、子供だと、思ってしまうところがあるのだろう。
 成長した、大きくなった、手を握る強さも、必死さも、あの頃とは何処か違ってしまっている。変わってしまった。
 そんなものなのだろう。
 それでも脳裏に思い浮かぶのは、幼い頃に、必死に手を握ってきた桐也の姿だ。
 だからこそ受け入れ難いし、だからこそ、突き放し切れない。
 もう一度溜息を吐いて、髪をかき上げた。
「何だ、随分お悩みのようだな」
「……ノックぐらいしてください、と、もう何度言いましたか」
「ああ、悪い悪い。で、悩みのタネはあの従弟か」
 相変わらず、少しも悪いと思ってない。この人に言うだけ無駄だろうと半ば思っていても、こうして口をついて出る。
 もうそれが、互いに当然のようになっている、挨拶代わりだ。
「最近は衛藤がお前さんに懐いてる姿を見てないが、何かあったのか?」
「何か、はありましたよ。あなたに言うつもりはありませんが」
「余計気になるだろ、その言い方」
 気になるのなら、勝手に気にしていれば良い。
 正直、到底人に話す気にはなれない。それが例え、いくら金澤さんであっても、だ。
「別に、全部話せとは言わないけどな。近づいて来なくなったのなら、むしろお前としては良い事なんじゃないのか?」
「良い事…?」
「だろうよ、言い寄られて困ってたんだろ?」
 確かに、それはそうだ。
 最近はろくに会話もしていないから、好きだなんだと聞く機会も無い。
 しかし。
「桐也が、諦めたと言うのなら、確かに良い事ですが」
「諦めてないって?」
「近づいては来なくなりましたが、よく遠巻きに見つめてくるのは目にしますよ。諦めたとは到底思えない。だからこそ尚更、次に近づいて来た時何を言い出すのか、そちらの方が怖いですね」
「…お前を怖がらせられるってのも大したもんだよな」
 金澤さんが苦笑いを浮かべてそう言う。
 随分と酷い言い草だ。
「私にだって、怖いものはありますよ」
「お前の半分も年が下の子供が怖いか」
「怖いですよ、情がありますからね」
 何とも思っていない、どうでも良い人間になら、何を言われようが、何と思われようが、怖くも何とも無い。勝手にしろと、そう思う。
 だが、桐也は幼い頃から知っている。長い付き合いで情もある。
 好きだと言われて嫌な筈は無いし、逆に嫌われて辛く無いはずが無い。嫌われたくないと思うから、怖くもなるし、拒絶も甘くなる。
 何よりも何れ、拒絶しきれなくなりそうな気がして、それが何より怖いのだろう。
 それが、桐也に告白された時に感じた恐怖の大本だと、理解している。
「それだけ情があるのなら、受け入れてもいいと思うがなあ。簡単にはいかん気持ちも解かるが、お前だって相当衛藤を気にしてるだろ」
「…気にしている、ですか」
「そうだろうよ、わざわざ遠くから見てるあいつを見つけるぐらいには、な」
「………そうですね」
 気にしてる、気にしていない筈が無い。
 好きだと言われれば困るけれど、近づいて来なければ、それはそれで気になるのだ。
 だからついつい、何処に居るだろうと探してしまう。
 見つけて、こちらを見ているのに気づいて、また困る。
 真っ直ぐな視線が、怖くなる。
「しかし、お前をこれだけ振り回す相手もなかなか珍しいな。大した奴だ」
「そうですね、こんなに振り回されるのは、あなた以来ですよ」
「……それはそれで、どうなんだ?」
「知りませんよ。滅茶苦茶さ加減では、あなたには敵わないでしょうがね」
「酷い言い草だな」
「事実でしょう、散々人をからかって遊んでた人が何を言うんです」
「わはは、お前の反応が面白かったからなあ」
 全く悪びれた様子も無く笑う金澤さんに、こちらも苦笑いが漏れる。
 そんな私の頭を撫でてくる手をそのまま受け入れて、目を閉じる。子ども扱いされているのだろうが、振り払う気にはなれない。
 昔から、嫌がって見せても、この手を振り払ったりは出来なかった。
「ま、相談したい事とか、愚痴だったりとか、酒の一つでも奢ってくれればいくらでも付き合うぞ〜。お前には色々、恩もあるしな」
「私は、恩を売ったつもりはありませんよ」
 私が嫌だっただけだ、耐えられなかっただけだ。既にもう死んだような目をして、生きるのを諦めたような顔をしているこの人を見るのが。
 だから、感謝される必要など何処にも無い。
「解かってるよ、俺が勝手に恩義を感じてるだけだ」
「…そうですね、また気が向いたら話の一つでも聞いてください。飲みに行くのは予定さえ合えばいつでも歓迎しますよ」
「そりゃ、楽しみだ」
 こうして、この人と話して、笑った顔を見るだけで、随分と気が楽になる。
 気心が知れていると言うか、良いところも悪いところも、どうしようもないところでさえ知り尽くしているから、気兼ねしなくて良いのだろう、お互いに。
「で、理事長室に来たのは、何か用があってですか?」
「おう、そうだった、夏休みにな、また長期で休暇とりたいんだが」
 その話題なら、歓迎すべきことだろう。
 喉の治療を積極的にしようという気になってくれたのだから。
「構いませんよ。夏休みなら、授業はありませんしね」
 それでも仕事があると言えばある。しかし、長期休暇中でもない時期に行くよりははるかにマシだと言えるだろう。
 すぐに復帰とはいかないまでも、治療は出来るなら早い方が良い。
「本当に、日野君には感謝しなければいけませんね」
「全くなあ、あいつには頭が上がらん」
 そう言って笑う顔が幸せそうで、こちらもつい、顔が綻ぶ。
 自分にとって大切だと思う相手が、幸せなら言う事は無い。どん底まで落ち込んでいた時を知っているからこそ、尚更。
「それでも、彼女の在学中には、人に知られないようにお願いしますよ」
「解かってるよ、手だって繋いじゃいねーんだぞ」
「卒業までは是非それを維持して頂きたいですね。もし公になったりしたら、学院の評判が落ちるのは目に見えていますから」
 金澤さんと日野君が付き合うことで、金澤さんが前向きになったというのなら、私に二人の付き合いを否定する要素はそれ以外には無い。
 まあ、金澤さんも下手な真似はしないだろうし、普通の教師と生徒の間柄にしては若干仲が良すぎる気もするが、私が散々彼女を広告塔として利用していることの方が耳目を集めているから、そこまで気にしている者も居ないだろう。
「お前さんに迷惑かけるつもりはないさ。俺はお前にも頭が上がらんからな」
「その割にはいつも偉そうですが」
「俺がそういう人間だってのは知ってるだろー?」
 金澤さんの軽口に笑みを浮かべて、思う。
 教師と、生徒。
 それも既に問題ならば、理事長と生徒で、親戚で、男同士というのは、どれほど問題があるのだろうと、考えて。
 今更か。
 私にとって、問題はそういうことでは無いのだから。
 何よりも、逆にだからこそ、もし付き合ったとしても人に知られる危険性は少ないだろう。誰も想像はしないだろうし、親戚ならば他の生徒より親しくしていたところで疑われる事は無いだろう。だから、そういう問題じゃない。
 ただ、私の気持ちの問題だ。
 そうして、ことあるごとに桐也に思考を埋め尽くされているのが、何よりの問題なのかも知れないが。



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