時間連鎖 2



 森の広場のベンチに座って、はあ、と溜息を吐く。
 暁彦さんのことを好きになって、簡単に両想いになんかなれないだろうって、そんな事ぐらい解かってたことだけど、それにしたって、『他に目を向けろ』なんて、あんまりだ。
 大体、他って誰だよ。
 多分、暁彦さんにしてみれば、同世代の女の子とかに目を向けろって、そう言いたいのかも知れないけど。
 目の前を横切っていく見知らぬ女生徒を見て、その彼女と付き合う自分を想像してみる。
 だけど、名前も知らない相手でろくな想像が出来る訳もなく、そもそも、暁彦さん以外の誰かを好きになる自分も想像出来ない。
 そりゃ、可愛いと思わない訳ではないけれど、そういう事じゃない。
 全然、暁彦さんに対する気持ちとは違う。
「………絶対無理」
「何が無理なの?」
 不意に話しかけられて、どきりとする。
 すぐ隣に、香穂子が立っていた。全然、気づかなかったけど。
「いつから居た?」
「ちょっと前。声掛けようと思ったんだけど、溜息吐いて、目の前歩く女の子をじーっと見てるし、何か声掛けづらくなっちゃって……ていうか、ものすごく怪しかったから」
「怪しいって…ひでーの」
 でも、実際そう思われても仕方ないか、とも思う。
 俺でも怪しいと思ったに違いない。
「隣座っても良い?」
「ああ」
 嫌がる理由も無いから頷く。
 この学院で、一番仲の良い女生徒って言ったら、やっぱり香穂子だよな。入学する前からの知り合いだし。でも、だからと言って香穂子と付き合う自分もやっぱり想像出来ない。嫌いでは無いし、好きだとは思うけれど、友人であり、ヴァイオリンのライバルである、というのが正しい位置づけだろう。
 それに、彼氏も居るしな。
「で、何が無理なの?」
「好きな人に告白したら、もっと他に目を向けろって言われてさ。ちょっと考えてみたけど、やっぱ無理だなと思って」
「……衛藤くんって、意外に素直だよね」
「どういう意味だよ」
 本当に意外そうに驚いてそう言われると、かなり不本意なんだけど。
 つーか、別に素直って訳じゃないし。
「だって、言われた通りに目を向けてみたんでしょ?」
「最初から無理だって解かってるよ。でもやってみなきゃ解からないって言われそうだから、考えてみただけ。それでやっぱり無理だったって言ったら、向こうも納得するだろ」
「……それで納得するのかなあ、あの吉羅さんが」
「……俺、暁彦さんだとは言って無いと思うんだけど」
 さらりと名前を言われたよな、今。
「だって、吉羅さんなんでしょ?衛藤くんの好きな人って」
「バレバレ?」
「うん、割と。吉羅さんの話する時だけ、全然顔が違うもん」
「…別に、隠してる訳じゃないけどなあ」
 隠してる訳じゃないけど、バレバレなのもどうなんだろ。
 実際、隠しようが無いほどに暁彦さんが好きなんだけど。どうしたって視線は暁彦さんを追いかけるし、暁彦さんの声だったら、どんなに遠くたって聞き分けられる。
「でも、男同士で気持ち悪いとかって思わない訳?」
「別に思わないけど。好きなら仕方無いんじゃないの、そういうのって。男だから女だからとか、年齢がどうとかで好きになる訳じゃないでしょ?」
「…俺、香穂子のそういうとこ、ほんとに凄いと思う」
 どんな個性も当たり前みたいに受け止められるから、個性派揃いのアンサンブルメンバーも纏められるんだろうな。
 俺には絶対、真似出来ない。
「有難う。で、話は戻るけど、それで吉羅さんが納得すると思う?」
「…納得するしない以前の問題なんだよな。まあ『今そういう相手が見つからないだけだろう』って言われて終わりだろうけど」
「だったら考えるだけ無駄じゃない?」
「ま、そうだけど。それならそれで、やっぱり今は暁彦さんが良い、で押し通せるかな、と思って」
「なるほど」
 納得したように香穂子が頷く。
 それにしても俺、何で香穂子相手に恋愛相談してんのかな。
 まあ、他に相談できる相手が居る訳でもないんだけど。
「問題なのは、性別と年齢差、どっちだと思う?」
「どっちもじゃないの?普通に考えて」
「でも、俺が告白しても気持ち悪いとか、そんな感じの反応は無いんだよな。ただ只管呆れてる感じ?」
「…ろくに意識されてない分、そっちの方がまずくない?」
「だよなあ」
 告白して、赤くなったり青くなったりしてもらえる方が、まだマシだと思う。少なくとも意識してもらえてるって事だから。
「じゃあ、香穂子はどうやって金澤先生落としたんだよ」
「落としたって言い方はどうかと思うけど……色々相談にのってもらったりしているうちに、何となく?」
「何となくってのもどうなんだよ」
「だって、バレンタインにチョコあげたし、お返しも貰ったけど、はっきりした事は言ってないんだもん。まあ、言えないっていうのもあるんだけどさ」
 教師と生徒だもんなあ、そりゃ言えないだろうな。
 でも、俺と暁彦さんと、年の差は同じなんだから、やってやれないことはない、と思うんだけど。絶対暁彦さんの方が手強そうだよな。
「ま、香穂子があの人捕まえててくれるなら、俺としては安心だけどさ」
「安心って、どういう意味?」
「だって、仲良すぎるだろ、あの二人」
 普段割りと素っ気無い態度を取ったりもするけど、何だかんだであの二人は仲が良い。
 俺が知っている限り、暁彦さんが独りでなくなるのは、あの人と話している時だけだ。俺じゃ、まだ全然駄目で、俺がそうしたいのに、敵わない。
「まあ、確かに、凄く仲良いよね。ちょっと妬けるぐらい」
「ちょっとどころじゃ無いよ。俺、昔っからあの人嫌いだし」
 それこそ、暁彦さんを好きだって自覚した時から。
 あの時は電話の相手が誰かなんて知らなかったけれど、それでも、何年も見ていれば嫌でも気づく。暁彦さんにとって、その相手がどれだけ特別なのか。
「昔からって…理事長の就任パーティの時に初めて会ったんじゃないの?」
「会ったのはそうだけど、知ってはいたから」
 そう、あのパーティで会って、理事たちに責められている金澤先生のために怒った暁彦さんを見て、この人が、あの電話の相手なんだって事はすぐに解かった。
 普段、声を荒げて怒ることなんて殆どしない暁彦さんが、あんな風に感情を見せること自体が、どれだけ珍しいことなのか。その相手が、どれだけ特別なのか。解からない訳が無い。
「…でも、吉羅さんの金澤先生に対する気持ちって、恋愛感情って訳じゃないんでしょう?もしそうだったら私も本気で焦るけど」
「多分ね」
 違うとは、思う。
 そうでなければ、香穂子と付き合っているのを知ってて、平然となんてしていられないだろうから。暁彦さんは、多分周りが思うよりずっと、情の深い人だから。
 他の誰が気づかなくても、俺が気づかない訳が無い。
「だったら、まだチャンスはあるよ。私から見たら、吉羅さんて衛藤くんにも結構甘いところあると思うよ?」
「そうかな。まあ、他の親戚とかよりは、仲良いと思うけど」
 それも、どっちかっていうと弟みたいに思ってるから、って感じがするんだけど。
「好意を持ってもらってるなら、チャンスはいくらでもあるし、それを作るのは衛藤くんだと思うよ。気持ちを知ってても避けないで居てくれてるんだし、あとはどうその気持ちを変えるかだよ」
「……そう、そうだな、サンキュ、香穂子」
 ちょっと元気が出た。
 決して嫌われてない、確かに好意も持ってもらっている。
 だったら、諦める必要なんて何処にもないし、諦めるつもりもない。暁彦さんが何と言っても俺は暁彦さんが好きだし、それは絶対変わらない。
 それなら、そのようにするだけだ。
 暁彦さんに、振り向いてもらうように。
 例え、何年かかったとしても。



 コツン、と音を立ててマグカップがテーブルに置かれる。
 それ一杯にたっぷりと入っていたコーヒーは既に空になっている。
「やっぱ、お前の淹れるコーヒーは美味いな」
「それはどうも。飲み終わったのなら自分の仕事にさっさと戻ってください」
「そう冷たいこと言うなよ。別にちょっとぐらいゆっくりしてったって良いだろうが」
「此処は喫茶室でも休憩室でもありませんよ」
 わざとらしく拗ねた口調で言ってみせる金澤さんに、こちらも殊更溜息を吐いてそう切り返す。まあ、いくら追い返そうとしたところで、この人は自分が好きなだけ居座るのだろうが。
 そこはもう、諦めるしかないか。
 私も、仕事は一時中断して、淹れたコーヒーを口に含む。
 淹れたと言っても豆から淹れている訳では無いから、言うほどのものでは無いと思うのだけれど。ただ、職員室にあるものよりは良い粉を使っているのは間違い無いだろうが。
「そういえば、さっきお前の従弟とすれ違ったな」
「桐也と?」
「ああ、すっごい目で睨まれた」
「……あの子に何かしたんですか?」
「してねーよ!つーか何で即効俺が悪いって話になるんだよ!大体あれは入学当初からずっとあんなんだぜ」
 金澤先生に原因が無いとなると、思い浮かぶ理由は一つしかない。
「原因はお前だろ、何とかしろよ」
「どうして私が原因だと断言出来るんですか」
「だってあいつ、『暁彦さんの事が好き』って全身から滲み出てるだろ。嫉妬かなんかだろうけど、だったら原因はお前だ」
 はっきり断言されると、何とも否定のしようが無い。
 見て解かるほど好意が滲み出ているというのも、何とかして欲しいものだとは思うが。
「ですが、桐也もあなたと日野君のことは知っている筈ですよ。誤解のしようもないのに、何故嫉妬なんてするんです」
「……そういう問題じゃないって、お前だって解かってんだろ」
「仮にそうだとしても、どうしようもありませんよ」
 何とかしろと言われたところで、何をしたら良いのかなんて解からない。
「付き合ってやったら良いだろ。お前だって満更でも無いんだろう?」
「何を馬鹿な。確かに好意はありますが、だからと言って恋愛感情とは全く別物です。付き合うなんて出来ませんよ」
 好きだと言われても、困るだけだ。
 嫌ではないが、どうしたらいいのか解からなくなる。
「そもそも、あの子のことは赤ん坊の頃から知ってるんですよ、そんな相手と付き合える筈が無いでしょう」
「年の差は問題じゃないだろ」
「そうですね、問題は年の差そのものというよりは、相手をそれこそ赤ん坊の、生まれたばかりの頃から知っているという事ですよ。私はあの子のオムツを替えてあげたことだってあるんですよ。そんな相手と、あなただったら付き合えますか?」
「………きついな」
 流石に金澤さんも理解したのか、呻いて溜息を吐く。
 昔から知っている。
 それこそ、あの子が生まれたばかりの頃から。
 だからこそ尚更、好きだと言われたところで付き合うなんて出来ない。今でこそ高校生というにも大人びた様子を見せるけれど、それでも私は言葉もろくに話せない頃の姿も知っているのだ。
 そんな相手と付き合う、なんて到底考えられない。
 好意はある。
 当たり前だ、昔から知っていて、取り分け懐いてくれている子に、悪い感情を抱ける筈も無い。けれど、それとこれとは全くの別物だ。
「そういう訳ですので、睨まれるのは諦めてください。気にしなければ良いだけでしょう。桐也はちゃんと分別もありますから、わざわざ突っかかるような真似はしないでしょうし」
「まあ、そりゃそうなんだけどな。でも最初から嫌われてるっていうのは、何かやり難いぞ。大体、お前と仲良いのは俺だけじゃないだろうに、限が無いだろ」
「……そうでもありませんよ」
「は?」
 確かに、普通に親しい相手なら、多くは無いが他にも居る。
 身内でも、それ以外でも。
「あの子は、私をちゃんと見ているんですよ。だから、私にとってあなたが特別だということも、解かっている」
「………妙な意味でじゃないよな?」
「当たり前でしょう、馬鹿なことを言わないで下さい」
「馬鹿ってな、お前さっきから酷いぞ」
 一瞬引いて見せた金澤さんに呆れながら、言葉を紡ぐ。
 それは、恋愛感情とは全く別物だ。
 そんなものでは計れない。
「そういう事ではないんですよ。問題があるとすれば私自身ですがね」
「……どういう意味だ?」
 訝しそうな顔で問いかけてくる金澤さんに、なんと説明したものか、と思う。
 多分、姉さんが死んでから、私の中で何かが大きく歪んでしまったのだ。求める物、望む物、逆に厭う物。
 大切な者を失うことが、どれほど怖ろしく、悲しいことなのか。
 それを身に沁みて理解したから。
「本当に大切なものは、少しで良い。そして今そう思えるのは、あなただけだ」
 この学院の理事長になるにあたって、今まで築いてきた地位は全て捨てた。捨てても構わないと思ったし、今はそれ程惜しいとも思わない。学院の再建も、それはそれで遣り甲斐がある。
 だけど、人というものは、そう簡単には捨てられない。
 捨てられないのなら、大切な者など作らなければ良い。
 独りでも良い。
 独りが良い。
 失う悲しみを、もう一度味わうぐらいなら。
 それでも、姉さんと同じように大切で、憧れた金澤さんは、矢張り切り捨てられるものではなくて。出来る筈が無いのなら、もう失うことは無い様にと。
 そう願って傍に居るしかない。
 そして恐らく、桐也はそんな私の気持ちを、昔から察して居たのだろう。
 いつも、駆け寄ってきて、必死な顔で私の手を握ってくる。そんな幼い姿を思い返して。
「だから、的外れという訳でも無いんです」
「………まあ、そうまで思ってもらえる価値が俺にあるかは別として、だ。お前ももっと、他に大事な物を作った方が良いと思うぞ」
「そう出来れば良いですがね」
 怖れているのは理性よりも本能の方だ。
 理性は姉さんが死んでからの自分の変化を、客観的に判断したに過ぎない。
 本当なら、確かにもっと、大切な者を作った方が良いのだろう。
 けれど、それが怖い。
 失うのが怖い。
 あんな悲しみは、二度と耐えられる気がしないから。
「ま、それは衛藤に期待だな。相当諦め悪そうだし。ああいうのはいつの間にかどうしようもなく入り込んでるもんなんだ」
「……覚えておきますよ」
 確かに、桐也は他の親類とはまた違う。
 違うと、私自身が思っている。
 特別、なのだろうとは、思ってはいるけれど。
 けれど矢張り、恋愛感情とは別物だろう。真っ直ぐ慕ってくる様は矢張り嬉しいし、こちらもその分返したいとは思うけれど、どちらかと言えばそれは兄弟に対するものに近い。
 それが、変化することがあるのかは、解からないけれど。
 そういえば、随分長い間手は握っていない。
 昔は会えばすぐに強い力で握ってきていたのに。
 アメリカから、帰ってきてからは、そういえば、一度も。
 そう思い返して、自分の手のひらを見つめて。それこそが変化なのだろうかと思う。大人びて帰ってきた従弟は、真っ直ぐな目で私のことを好きだと告げてきた。
 いつからかなんて知らない。
 どうでも良い。
 嘘偽りの無い真っ直ぐな好意が、怖いと思ったなんてことは。
 それこそ、誰にも言えない。



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小説 B-side   金色のコルダ