三人掛けのソファに腰を下ろして、ゆっくりと背凭れに体重を預ける。 やっぱり良いソファ使ってるんだよな。ゆったりと体を受け止めてくれて、やたらと落ち着いて、このまま眠ってしまいたくなる。 まあ、それじゃあ何しに来たんだって話になるから、寝たりはしないけど。 「桐也、何が飲みたい?」 「今日はコーヒーが良いかな」 「解かった」 一つ頷いて、暁彦さんがキッチンに向かう。 暁彦さんにコーヒーを入れてもらうなんて、実は凄い贅沢なんじゃないかと思う。しかも、入れるの上手いんだよね、紅茶もコーヒーも。 「授業の方はどうだ?」 コーヒーを入れながら、暁彦さんが問いかけてくる。 聞いているのは、授業についていけてるかという事ではなくて、質の話だろう。何しろ、暁彦さんが理事長をしている学院なんだし。 「うーん、悪くは無いけど、やっぱ向こうの方が質は良かったかな。生徒も、先生も」 「アメリカと比べるとどうしても見劣りする、か」 「日本にある学校の中じゃ質の良い方じゃないの?」 「良い方、では駄目だな。一番良い、と言えるぐらいでなければ、集客は出来ない」 「贅沢だなあ。まあ、それぐらい言える方が良いけど」 謙虚が日本人の美徳だ、なんて言ってたら、このご時世に生き残っていくなんて無理だろうし。むしろそう言える暁彦さんだからこそ、理事長になったんだろうし。 「俺も、質の良い授業を受けたいしね」 「型に捉われたままでは駄目だろうな。アメリカでの授業方法ももう少し聞きたい」 「暁彦さんの役に立てるなら、それぐらいお安い御用だけどさ」 こうして、二人きりで話せる機会が出来るのも嬉しいし。 「ご褒美も欲しいなあ」 「ご褒美?」 「うん、暁彦さんのキス」 俺がそう言った途端、暁彦さんは呆れきった様子で溜息を吐いた。 予想はしてた反応だけど、芳しく無いね、やっぱり。 「別に、話を聞くのはお前じゃなくても良い。そんな事を言うようなら、幹生の方に頼むか。あいつは間違ってもそんなふざけた事は言わないだろうからな」 「え、ちょ…っ、ごめん、冗談だから!」 弟の名前を出されて、流石に慌てる。確かに幹生なら俺みたいな事は言わないだろうし、それこそ喜んで暁彦さんに協力するだろうけど。 折角二人で会える機会を、弟に譲るつもりは無い。 「もう言わないから、ごめんなさい」 「解かったのなら良い。そもそも、留学経験のある者は学院の生徒の中にも何人も居る。教師だって半数は海外留学を経験した者たちばかりだ。それでもお前を選んで話を聞いているのは、お前が身贔屓無しに批判や批評が出来ると思っているからだ」 「暁彦さん…」 「人間というのは、どうしても自分の国、通っている学校に対する評価というのは甘くなるからな」 確かに、そうだろう。 留学していた人間にしても、海外のあそこが良かった、此処が良かったとは言っても、だからと言ってこっちの此処が悪い、とは言えないらしい。 結局どちらに対しても甘くなってしまう事が多い。 「そもそも、学院のシステムは創立当初から殆ど変わっていないからな。当時最先端だったものでもそのままでは何れ古い物として淘汰されていく。今もまだそれなりの評価を得られているのは、海外経験のある教師たちがそれを取り入れた授業をしているからに過ぎない。教師に頼っているだけの授業内容では、学院そのものの評価を上げることには繋がらない。学院のシステムそのものを変えて、質の向上を図る」 「そのために、俺の協力が必要って言うんなら、いくらでも協力するよ」 それに、俺自身のことも評価してくれているなら、尚更。 暁彦さんがキッチンから戻ってきて、コーヒーを俺の前に置いてくれる。そして、一人分の間を空けて、隣に座る。 いれてもらったコーヒーを飲みながら、もっとこっちに寄ってくれてもいいのになあ、なんて思っても、口に出したら今度こそもう来るなって言われそうだから、言わないけど。 「海外から特別講師を招こうという話も出ている」 「特別講師?」 「ああ。ごく少数の、優秀な生徒のみ授業を受けられる、という形でね」 「へえ、でもそういうのって、逆に差別だとか何とか言われないの?」 その辺が日本ていうのは面倒くさいな、って思うけど。優秀な人間がより良い環境でより良い授業を受けられるのは当然、より良い授業を受けたいのなら、自分の腕を磨けば良い。アメリカならそれで通るけど、日本はそうはいかない。 「それを差別だと言っているようでは話にならんな。まあ、これに対しては確かに消極的な意見の教師も多い。それでも音楽科だけのことなら、海外かぶれの親も多く居るからそれ程抵抗は無いだろうと見ているが」 「ああ、確かに」 こうして音楽科に通っている以上、いずれ世界で活躍したい、と思っている生徒は多いだろう。そして親もそれを望んでいる。そのために必要ならば、むしろ特別講師を歓迎するか。 「ほんとにするなら、俺もそれ受けたいな」 「それはお前次第だな」 「うん」 身内だからと暁彦さんは絶対に贔屓したりはしないだろう。 だからこそ、実力で選ばれればその分嬉しい。 その自信だってある。 「桐也、夕食はどうする、食べていくか?」 「うん、暁彦さんが良いなら」 手料理が食べられるって言うんならそりゃ食べていくに決まってる。 暁彦さんと何か食べる時って結局外食が多いから、なかなか手料理を食べる機会にはありつけない。外で会う事が多いから仕方無いんだけど。 「家に連絡はしておけよ」 「解かってるよ」 言われて携帯を取り出す。 家にかけて夕食を暁彦さんの所で食べることを告げれば、あっさりと了解が出た。うちの親にはかなり信用されてるもんな、暁彦さん。 俺が暁彦さんのことを好きだっていうのを知れば、また反応は違うのかも知れないけど。 いや、うちの両親なら暁彦さんに迷惑かけるな、って言うぐらいかな。どっちでも良いか。 結局まだ、俺の片想いだ。 「ねえ、暁彦さん」 「何だ?」 「俺、暁彦さんのこと、好きだよ」 暁彦さんは俺を見て、それからふいと視線がそらされる。 「何度も聞いた」 「何度でも言うよ、暁彦さんが俺を好きになってくれるまで」 本気で、好きなんだから。 真っ直ぐに暁彦さんを見て、視線を逸らさないように。俺が本気だって、伝わるように。 暁彦さんは俺を見て、それからくしゃりと、頭を撫でてきた。 「お前は、もう少し他に目を向けるべきだな」 「っ、暁彦さん!」 他って何だよ、俺が好きなのは暁彦さんだけなのに。 言い募ろうとしたけど、暁彦さんはソファから立ち上がって俺に背中を向ける。 「夕食を作るから、少し待っていなさい」 「……っ」 結局いつもそうやってはぐらかされる。 他なんて考えられない、俺は暁彦さんが好きで、暁彦さん以外なんて考えられないのに。 解かってる、暁彦さんにとって、俺はまだまだ、子供でしかないってことぐらい。 解かってるさ、俺の気持ちを、否定しないでいてくれるだけ、それが暁彦さんの優しさだってことも。 でも、何度も、何度も言えば、いつかは。 そう期待したって、良いだろ。 暁彦さんにしてみれば、まだまだガキで、弟みたいなものかも知れないけど。 それでも俺は、暁彦さんが、好きなんだから。 絶対に、諦めたりなんかしない。 何も別に、一目見た時から暁彦さんのことを好きだったとか、そういう訳じゃない。 そもそも最初に会ったのは、俺が覚えてもいなような赤ん坊の時だった筈だし、そこまでませてた訳でもない。 暁彦さんの姉である美夜さんのことも俺は全然覚えてないし、その時、暁彦さんと大人たちにどんなやり取りがあったのかも知らない。 俺が物心付いた頃には暁彦さんはヴァイオリンを止めていたし、その経緯だって詳しくは知らないけれど、そう簡単にいかなかったことぐらいは想像がつく。 何しろ、吉羅の家は音楽一筋で出来ているところがある。しかも吉羅さんは直系の跡取り息子で、ヴァイオリンを止める、音楽とは違う道に進む、と言った所で、周囲が納得しないのはある意味当然だろう。才能が無かったのなら兎も角、決してそうでは無かったのだし。 何度も親族会議が行われて、みんな暁彦さんを説得しようとしたけれど、結局頑として譲らなかった暁彦さんに親族連中も根負けして、大学を卒業したら星奏学院の理事になる、ということを条件にして、経営経済の道に進むことが許されたらしい。 そうして折り合いはつけたものの、親類間の確執というのは埋められた訳ではなく、暁彦さんはずっと微妙な立場だったらしい。 跡継ぎだからこそ、粗雑に扱う者は居なかったけれど、まるで腫れ物に触るような扱いだったのは間違いない。 俺が物心付いた頃にはそんな状態だったし、親戚連中が集まる時なんかは、いつも大人たちに囲まれながら、それでも暁彦さんは独りだった。 味方なんて居ない、ただ独りで立っている、そんな感じがして、無性に泣きたい気分になったのも、一度や二度では無かった。 うちの両親なんかは、どちらかと言えば暁彦さんの好きなようにさせたらいい、という考えだったし、暁彦さんも、何だかんだとうちとは交流があったけれど。 それでも。 やっぱり、独りだった。 親族の年寄り連中からは目の上のたんこぶのように扱われて、逆に俺や、暁彦さんより年下の若い連中からしてみれば、暁彦さんは憧れの的だった。 音楽をやっていくのに、吉羅の家というのは強力な後ろ盾になる。 勿論実力の世界だし、実力が無ければ話にはならないけれど、音楽の世界に活躍する親族も多く、知り合いも多い。世に出るのに必要な条件は、いくらでも満たしている。実際、実力はあっても、世に出ることの出来ない人間だっていくらでも居るのだ。 その時点で、吉羅の家は既に一歩抜きん出ている。 でも暁彦さんは、音楽の才能もあってその道に進んでいくことも出来た筈なのに、それを全部捨てて全く違う道を選んだ。 経営とか経済とか、吉羅の家はそちらの方面には素人だった。 学院を経営しながら、財政状況が悪化の一途を辿ったのも、不景気の所為ばかりでは無いだろう。結局のところ、音楽のことしか考えていない、商売下手なのだ。 そんな、何の後ろ盾も無いところから、一から始めて、そして成功を収めた暁彦さんに憧れるのは、当然と言えるだろう。 そして今、親族連中のごり押しで、その全てを捨てて星奏学院の理事長になっている。 俺にしてみれば、こんなに凄い人は他には居ないと思う。 有能で、優秀で、何でも出来て、色々確執はあっても、結局家族想いで。 暁彦さんのする事に、間違いなんか無い。 そんな風に思える人っていうのは、本当に凄い。 勿論、昔からそんな風に思っていた訳じゃない。 結局親族間のごちゃごちゃとした実情をはっきりと認識出来たのは最近の事だったし、ガキの頃からそんなことを考えていた訳でもない。 それでも、暁彦さんはやっぱり、子供心にもかっこいいと思っていた。 親族の集まりの場では、普段の暁彦さんを見れば意外と思う人も多いだろうけど、俺の面倒もよく見てくれていたし、そんな暁彦さんがその頃から大好きだったのは間違いない。暁彦さんに会いに行くのがいつも楽しみだったし、家に帰るのは嫌でぐずって両親を困らせた事もある。 それでも、やっぱりいつも、暁彦さんは独りだった。 俺と居ても、誰と居ても。 親類が集まっている時は尚更。 そういうのが嫌で、俺は会えばいつも、暁彦さんの傍に行って手を握って、傍を離れなかった。 俺をちゃんと、見て欲しかった。 俺を見て、独りだなんて思わないで欲しかった。 そういう気持ちが、いつの間にか恋愛感情に変わっていた。 いつからだったのかは解からないけれど。 好きだと自覚したのがいつかは覚えている。 あれは、俺がアメリカに行く前、小学三年の頃だった。 その時も、俺は両親や弟と一緒に暁彦さんの家に行っていて、暁彦さんにヴァイオリンの練習を見てもらっていた。 暁彦さんはとっくにヴァイオリンを止めていたけれど、音楽を聴く耳は確かで、身内だからと贔屓せずに的確な指摘をしてくれたから、よくそうして聴いてもらっていた。 そうしておかしいところを指摘してもらうと、前よりもずっと上手くヴァイオリンが弾けるようになるから。 その日、そんな風にヴァイオリンの練習を見てもらっている途中で、邪魔が入った。 「暁彦さん?ちょっといいかしら、電話がかかってきてるんだけど」 「電話、ですか」 母さんが取ったらしく、顔を出してそう告げる。 「誰からですか?」 「……あらやだ、名前聞くのを忘れてたわ。男の人だったけど」 「…解かりました、とりあえず出ますよ」 何処か呆れたような、仕方ないな、という雰囲気を滲ませて、暁彦さんが母さんにそう言う。うちの母さんは、少し何処か抜けたところがあるから、別に珍しいことでも無い。 ヴァイオリンの練習を途中で中断されたのには不満があったけれど、電話の相手が誰かも気になって、こっそり暁彦さんの後をつけた。 電話口に出た暁彦さんに見つからないようにそっと壁際に隠れて、聞き耳を立てる。 行儀が悪いということは解かっていたし、見つかったら大人たちに怒られるだろうということも解かっていたけれど、気になるものは仕方ないし、そういうことをしたくなる年頃でもあったのだ。 「もしもし……ああ…あなただったんですね」 電話の相手とほんの少し話をして、相手が誰だか解かった瞬間に、ふわりと、暁彦さんが笑みを浮かべた。今まで、見たことのないような顔で。 どきりとした。 本当に、綺麗な笑顔だったから。 それと同時に、ずきりと胸が痛んだ。 誰と居ても、誰と話していても、暁彦さんは独りで。俺には優しくしてくれたけれど、あんな風に笑ってくれたことなんて、一度も無かったから。 いつも独りで、寂しそうだったのに、今、その相手と話している暁彦さんは、俺の知っている暁彦さんとは、まるで別人みたいに見えて。 「……今からですか?また急ですね…酔ってるんですか?」 嬉しそうな顔をして、声も、柔らかくなって。 「………解かりました、行きますよ。では」 電話を切った暁彦さんは、仕方ないなという風に溜息を吐いたけれど、やっぱり何処か嬉しそうで、そしてはたりと、俺と目が合った。 見つかって怒られるかなと思ったけれど、怒りはせずに、逆に申し訳無さそうに言った。 「すまない、桐也。今から出掛けることになったから、今日はもうヴァイオリンを見てやることは出来ない」 「え…?」 電話が終われば、また見てもらえると思っていたのに、結局電話の相手に誘われて出掛けることにしたらしい。 「…仕事なの?」 「いや」 仕事関係なら、今までも約束していても急に駄目になった、と言われたことはあるし、それなら仕方ないと思ったけれど。 違うと首を振られて、じゃあ何だ、と思う。 折角、練習を見てもらっていたのに、俺が先だったのに、何で急にかかってきた電話の方に行っちゃうんだよ。 いや、それより何より、暁彦さんの今まで見たことが無かったような顔が、家族の前では決してしないような表情が、たまらなく嫌で。 「嫌だ、今日は俺の練習見てくれるって約束だろ!」 駄々をこねて、暁彦さんを引き止めるようにぎゅっと手を掴んだ。 けれど、そんな行動には暁彦さんを引き止める力なんて何も無くて。軽く頭を撫でられて、手を振り解かれた。 「練習は、また今度だ」 そう言って、背を向けて行ってしまおうとする暁彦さんに抱きついて、嫌だと泣いてしまおうかと思ったけれど、そんな子供染みた事をしたくなくて、子供だなんて思われたくなくて。 そのまま暁彦さんを見送って。 暁彦さんを引き止めるだけの力も無い自分が悔しくて。誰だか知らない電話の相手が腹立たしくて。どうして俺には、あんな風に笑ってくれないんだろうと思ったら悲しくて。 そのまま、ヴァイオリンの練習をしていた部屋に逃げるように戻って、蹲って、声も出さずに泣いた。 そして一頻り泣いた後、ああ、俺は暁彦さんが好きなんだな、と自覚した。 どうしようもない程に、多分暁彦さんにとっては些細な事に泣いてしまうほどに、好きなんだと。 誰かも知らない、電話の相手に、嫉妬してしまうほどに。 |