第三話



 熱い…。
 右腕がどうしようもなく熱い。
 まるで、燃えているようだ。
 いや、熱さよりも、そう、ひりひりとした感覚。
 痛み。
 日に焼けた時に感じるのと似ているが、その数倍の痛み。熱さ。
 そして、鼻につく匂い。
 嗅いだ事のある匂い。
 異臭。
 燃えるような?
 いや、本当に燃えているのだ。
 これは、人の肉が、焼けるときの匂い。
 燃えて、焦げて、燃やし尽くしてしまう。
 目の前が真っ赤になって、何も考えられなくなる。
 知っている。
 そう、あれは。
 あれは、あの時の――――…。






「―――――っ」
 セナは、目を醒ます。
 随分汗をかいている。
 嫌な汗、嫌な夢。
 セナはゆっくりとベッドから立ち上がる。
 コップを手にとり、水道の蛇口を捻る。勢いよく水が流れ出す。コップに水を入れ、飲もうとした瞬間に、喉の奥が引き攣った。
 ――真理さんっ!――
 叫ぶ、幼い自分。
 子供だった、自分。
 誰も助ける事が出来ない、無力な自分。
 くらりと視界が歪む。ガシャン、とコップが落ち、割れた音がしたが、セナの耳には入らない。思わずしゃがみ込み、壁に手を付いて体を支える。
 右腕が熱い。
 焼けるように。燃えるように。
 治っているはずの痕が疼きだす。
 ――お父さん…お母さんっ――
 こんなもの、痛みでも何でもない。あの人の痛みに比べたら。あの人たちの苦しみに比べたら。大切な者を残して逝かなければならなかった彼らに比べたら。
 こんなもの、痛みでも何でもない。
 何故、今更こんなものが疼くのだろう。何故、今更こんな夢を見てしまうのか。
 彼らに逢った所為だろうか。
 だから、こんなにも疼くのだろうか。
 自分から望んだのに?彼らのそばに居る事を。
 あの二人の、傍に居る事を。
 何も知らなくていい。何も知られなくていいから、ただ傍に居られればいいから。そう願ってこの学園に来た筈なのに。
 それとも、この学園に彼らが居たからだろうか。
 予想外に。
 そうなのかも知れない。
 逢坂来栖と東堂紫苑。自分の記憶から決して薄れる事のない二人の面影。
 気づくはずがない。もう随分前のことだ。彼に会ったのは。憶えている筈がない。
 それでも、憶えていて欲しいと思ってしまう。
 期待してしまう。
 期待?
 そんなものをして、どうするのだろう。
 こんな自分を見せて、一体どうするのだろう。憶えていない方がいいに決まっている。例え憶えられていたからと言って何になる。
 情けない自分。
 醜い自分。
 何も、守る事の出来ない自分。
 そんなものを見せて、一体どうしようと言うのか。
 あの人に、そんな姿を見せてどうしようと言うのか。
 ふら付いた自分を支えた強い腕。大きな体。優しく、暖かく、懐の広い性格も、何もかも。セナが憧れていたあの頃のままで。追いつきたいと願っていたあの頃のままで。
 けれど、もう決してあの背中に追いつくことはない。
 ただ純粋に憧れていられた、あの頃の方がまだ其処に近かっただろう。その背中に追いつくことをただ直向に考えていられたあの頃ならば。
 それも、もうどうしようもない事だ。
 こんな醜い自分など、どうしたってあの人に追いつくことは出来ない。
 醜く、薄汚れてしまった自分など。
 深い闇に囚われてしまった自分など。
 今更、追いつくことなど、出来る筈がない。
 それで、今更何を期待する。
 気づいて欲しい?だから、あんなことを言って。
 気づいて欲しくない?だから、あんな風に避けて。
 馬鹿馬鹿しい。
 自分の馬鹿さ加減に笑いたくなる。
 気づかれないようにしようと、初めから決めていたではないか。何を今更迷う。何を今更躊躇う。このままでいい。このまま、見ていられるだけでいいではないか。
 教師として。
 傍で、見ていられるだけで。
 それだけで―――…。






 逢坂来栖が、水落の授業に出るようになった。
 その噂は嫌でも紫苑の耳に聞こえてくる。最初はずっとサボっていた水落の授業を、クリスが比較的真面目に出るようになったという事は、全校生徒の噂の的である。
 何と言ってもクリスはこの学園においても有名である。昼寝して学校サボって単位を落として留年し続ける人間など、そうざらに居はしないのだから当然だろうが。それに加えてあの容姿である。憧れる者も多く、けれどあまり近寄る事の出来ない存在でもあった。
 そのクリスが、あの水落の授業に出ている。
 それだけで話題性は十分と言えるだろう。
 翔と櫂に続いてクリスまで水落を気に入ってしまったようだった。それに不満を持つ人間も少なからず居る訳で―――。
「逢坂先輩、どういう風の吹き回しだよ」
 寮のロビーで結局いつものメンバーで話す。翔の文句にクリスはにやっと笑う。
「だって、おもしれぇんだもん、あの先生」
「面白い?」
「そう、見てて厭きねぇって言うかさ。それに意外と可愛いし」
「…可愛い?」
 翔と櫂の機嫌が急降下しているのが傍目でも解かる。しかし、クリスはそれを全く気にしては居ない。紫苑や直人、凪、杏里などはいつこの二人が爆発するかとハラハラしていると言うのに。
「逢坂さん、僕達を敵に回すつもりですか?」
「そんなつもりはねーけど?」
「そんな風に聞こえるんです!!」
 櫂の言葉に翔も隣で頷く。
「別に気に入ってるだけだって。それ以上でもそれ以下でもないから気にすんなよ。今のところ」
「逢坂先輩の言葉はイマイチ信用できないからなぁ」
「ひでぇな」
「事実だろー」
「もし手を出したりしたら逢坂さんの食事に下剤を混ぜておきますから」
「お前、本気でやりそうでこえーよ」
 櫂の言葉にクリスは苦笑する。
「本気ですから」
 ふいっと櫂はクリスから視線を逸らして言う。櫂は有言実行する人間だから、本当にするだろう。翔も協力するのは目に見えている。
 下剤だけで済めばいいが…。
「お前達、その辺にしておけ」
 いい加減他の三人が可哀想になってきた。その三人はと言えば、一歩引いて苦笑いを浮かべる事しか出来ないで居る。
「それに、水落が信用出来る人間だと決まった訳じゃない」
「東堂先生、まだそんな事を言ってるんですか?」
 紫苑の言葉に、櫂が呆れた様に言う。
「しかしだな…」
「でも東堂先生、水落先生が逢坂先輩や翔たちを狙う人間だったとしたら、ウィンフィールドの人ってことでしょう?それで、ウィンフィールドの人間がこっちに来るには王家の人の血が必要だって言ってたよな?だったら、水落先生をこっちに送り込んだのは王家の人だってことになるんじゃないの?」
 直人の言葉は尤もだ。それに続くようにクリスが言う。
「ウィンフィールドの人間がこっちに来たら、いくらなんでも解かるぜ。ワープゾーンが開かれたら、俺が解からない訳ないだろ?それとも俺のこと信用出来ねぇか、おっさん?」
「いえ、そんなことは…」
 確かに、それはそうなのだ。王家の人間はワープゾーンが開かれるのを感じることが出来る。もし、誰かがワープゾーンを開いてこちらに水落を送り込んできたのだとしても、クリスや、もしくはレイヤードが解からない筈もない。
 それに、王家の中にクリスに仇なすものなど居ない筈だ。跡取争いなどと聞く声すらありはしない。水落を疑う理由はないのだ。
 けれど、矢張り紫苑には彼の何かが引っかかって仕方がない。
「俺も、水落は悪い人間ではないと思います。ですが…」
「あー、はいはい。もういいよ、解かったからさ。お前が何か確信が持てるようなことがあったら言ってくれよ。それに今更態度を変えるのもおかしいだろ?逆にこっちが怪しまれるぜ。だから俺たちはいままでどーり。いいよな?」
「はい」
 クリスの言葉に紫苑は頷く。
 確かに、今更態度を変えて逆に相手を警戒させてしまうのもまずい。確かな証拠もないのだから積極的に疑う理由もないのだ。
「じゃ、そーいうことで、今日は解散。俺はちょっくら寝てくる」
「僕も、仕事がありますから、これで」
「じゃ、俺たちも部屋にもどろーぜ」
 そう言い、みんな各自部屋に戻っていく。紫苑も家路についた。


 寮から学校へ戻る道を紫苑が歩いていると、前方に蹲る人影が見えた。
 それが誰だかはすぐに解かった。もう見慣れた姿。
「水落先生?大丈夫か?」
 紫苑は駆け寄り、助け起こそうとするが、水落はそれを振り払った。
「触らないで下さいっ!」
 そう叫んで、それからはっとしたように紫苑から視線を逸らした。
「平気です。少し休めば、楽になりますから」
「馬鹿を言うな。酷い顔色じゃないか。放っておける筈がないだろう」
 そう言いながら、紫苑は水落の体を支え、熱があるかどうか確認するために額に手を当てた。ひんやりと冷たい感触に、逆に途惑う。息は不規則で荒く、辛そうにしているからこそ逆にその冷たさが異常さを訴えている。
「放してください。本当に、私はへい…き―――…」
 言いかけたところで水落は意識を手放した。紫苑は咄嗟に抱きとめる。あの時も感じた体の細さ。それが紫苑を途惑わせる。
 しかし、そんなことを考えている場合ではない。取り敢えずは校医の永田に見せる方がいいだろう。そう思い水落を抱き上げ、学校への道を急いだ。


「睡眠不足と、ストレスですね」
 永田が水落を一通り診察してから言う。
「水落先生はまだ赴任してきたばかりで、慣れない事も多いでしょうから、無理もありません」
「そうか…」
 永田の説明に、ほっと息を吐く。
「今日は寮に戻るより此処で休ませて置いた方がいいですね。僕がついていますから、東堂先生は寮の方をお願いします」
「ああ、解かった」
 ふ、っと視線が水落の右腕に吸い寄せられた。永田もそれに気づいたのか、そちらを見る。
「火傷の痕ですね。随分古いようだけど…」
「ああ…」
 火傷…それが何故か気になる。
 火傷、両親の死。
 不意に、何かが噛み合った気がした。しかし、一瞬にしてそれが何なのかが解からなくなる。紫苑は溜息を吐いた。
「それじゃぁ、俺は寮の方に行くので」
「ええ、お気をつけて」
 永田に軽く頭を下げて、紫苑はその場を後にした。




 水落が倒れたことは、あっという間に全校生徒の知れるところになった。
 仮にも寮監である上に、現在この学園において話題の的なのだ。当然だろう。なんとも噂の絶えない教師である。
 水落が倒れたのは金曜日。土日を挟んで休養したため、月曜日には通常通り授業を行う事が出来た。これが他の教師なら知られる事もなかっただろうが、寮監は寮で暮らす、生徒にとって一番身近な教師だ。戻ってこないだけで生徒は何かしら不信を感じる。
 実際、東堂が行って事情を説明しない訳にはいかなかった。
 大事がないとは言え、水落に好意を寄せていた生徒の大半がショックを隠しきれないようだった。翔と櫂も同様で、自分達が負担を掛けたのではないかと落ち込んでしまった。
 しかし、そのことに、意外にも一番衝撃を受けたのはクリスだったようだ。
「水落センセ、睡眠不足だったんだろ?」
「ええ、それからストレスもあったようですが…」
 文芸部の部室で二人は話す。
「俺、一回昼寝してるの邪魔しちまったんだよな。そうしなけりゃ、倒れる事もなかったかもしんねぇ…」
「クリストファー様…」
 理由を聞いてみれば、責任を感じるのも無理はない。確かに、睡眠不足だからこそそれを補う為に昼寝をしていたのだろうし、それを邪魔してしまった事で睡眠時間が削られてしまったのも確かだ。
「あまり、気落ちなさらないでください」
「ああ、解かってるよ。後で謝って、なんか見舞いに…そうだな、栄養のつくものでもシオン、作ってくれよ」
「解かりました」
 クリスはようやく微笑んで言う。それにシオンも頷いた。
「じゃぁ、俺は次の授業がありますので」
「ああ、俺は此処で昼寝してっから」
「水落の授業以外は相変わらず出ないんですね」
「だって、つまんねーから」
 そう言ってクリスは寝転んでしまう。
 紫苑は溜息を吐いて部室を出た。


 最近、暇になると水落のことを考える。彼は何者なのか。一体何の目的でこの学園に赴任してきたのか。それとも、本当にただ教師としてこの学園に来ただけなのか。
 ただの教師とは到底思えない。
 何か、秘密を内包している雰囲気を感じるのだ。戸籍を偽造しているのだから何かしら秘密があるのも当然かも知れないが、それだけではない。
 紫苑が水落に対して何か引っかかりを感じるのは、何か自分の中に確信に近いものがあるからだ。けれど、水落を悪人だとは思えない。
 そしてあの火傷。
 何故、気になるのだろう?
 見たことがあるのか?
 あの大きな火傷。
 ――幼い少年には不似合いな火傷に、思わず目を惹かれて。
 …幼い少年?
 水落は決して幼くはない。
 自分の思考に介在するのは何だろうか。
 ――あんなことがあったにも関わらず、希望を失う事のない瞳に期待して。
 期待?
 ――けれど、今はもう、あの瞳は何処にもない。
 ――失望。
 …解かっているのだ。
 心は理解しているのだ。彼が何者なのか。けれど、理性がついていかない。解かっている筈なのに解からない。
 しかし、これだけは解かる。
 紫苑は、水落に会った事があるのだ。だから引っかかっている。そして、何かに失望している。何に対してだろう?
 紫苑が水落に会ったのはいつの事だ?ここ数年のことではない。水落を「幼い」と形容出来るほど昔の話だ。ならば、紫苑はウィンフィールドに居た。
 そして、水落もウィンフィールドに居た事になる。水落は、矢張りウィンフィールドの人間なのだろうか?しかし、此処最近こちらに来た訳ではない。
 実際、クリスが気づかないはずはない。
 今此方に居るウィンフィールドの人間は両の手で数えられるだけしか居ない。クリスと、自分。そしてレイヤード、ラン、カレン、ルカ。翔と櫂は一度もウィンフィールドに行った事はないから問題外だ。
 ならばそれ以前。
 それ以前は、翔たちの父親であるロベールが居た。そして、近衛兵であるダナイと、もう一人…。
 ――繋がった。
 ようやく繋がった。何故こんなに時間が掛かったのだろう。
 近衛兵であるダナイと、その養子である子供が一人、人間界に行った。そう、もし、その子供が生きていたとしたら、ちょうど年の頃は水落と同じくらいの筈だ。
 見覚えがある筈だ。あの火傷の痕も確かに覚えている。あの赤い髪と、青い瞳も。確かに、あの頃のまま。以前は明るく希望に輝いていた瞳が、今は暗く沈んでしまっているけれど。
 それでも、水落は、あの時の少年だ。
 間違いない。
 だから気になっていたのだ。
 こんなにも。会った事があるから。そして、自分は彼に期待していたから。
 あんな形で両親を亡くしながら、それでも希望を失う事のない瞳に。
 確信はある。
 けれど、もう一度確かめなければならない。
 紫苑は、急いで水落のところに向かった。



 寮監室のドアを乱暴に開ける。
 中には驚いた顔をして振り返った水落と、翔たちが居た。
「…東堂先生?どうしたんです?」
「ああ、ちょっと…。それより、どうしたんだ、皆そろって」
 翔と櫂、クリスや凪、直人、杏里。みんな揃っている。よくもまぁ、そう広くない部屋にこれだけの人数が入ったものである。
「俺は…謝りに来たんだよ。この前寝てるの邪魔しちまったし。そしたらこいつらが入ってきてさ」
「俺だって謝りに来たんだよ。俺たちがしょっちゅう会いに行く所為で休めなかったのかな、と思って…」
 成る程。
 しかし、タイミングが悪かっただろうか。
 いや、それとも良かったのか。
「おっさんこそ、何しに来たんだよ」
 クリスの言葉に、紫苑は再び水落に視線を向ける。
 黙っていても仕方ない。強行突破するしかないだろう。
 紫苑は水落に歩み寄り、右腕を掴んだ。
「東堂先生?」
 水落は驚いて紫苑を見上げる。紫苑はそれに構わず水落の袖を捲り上げた。
 火傷の痕。
 記憶と、一致する。
「おい、おっさん、何してんだよっ」
「…やっぱり」
「は?やっぱり?」
 クリスが疑問を返す。
 紫苑はクリスに答えるのではなく、水落を見て言った。
「矢張り、お前はウィンフィールドの人間だな?」
「ええっ!!?」
 水落と紫苑以外の全員が驚きの声を上げる。水落は表情一つ変えていない。否、無表情を装っているだけなのか。
「おい、待てよ。いくらなんでもウィンフィールドの人間がこっちに来たら解かるって、こないだ言っただろうが」
「ええ、そうです。ですから、彼がこちらに来たのは我々がこちらに来るよりも以前の話です」
「以前?」
 紫苑はクリスに答えてから、もう一度水落を見た。
「この火傷の痕は覚えている。この痕は、両親を亡くした時に出来たものだと、確かにお前自身の口から聞いた。そうだな、セナ?」
 名前で呼ぶと、水落…セナはふっと視線を伏せた。
「まさか…まさか、憶えておられるとは、思っていませんでした」
「俺の記憶力を馬鹿にしているのか?」
「いいえ。私など、貴方にとっては取るに足らない存在でしょうから」
 紫苑が少し怒ったように訪ねると、セナは苦笑いを返してきた。
「おい、お前らだけで理解し合ってないで、俺たちにも解かるように説明しろよ」
 クリスの文句に紫苑は頷く。
「セナは、俺たちがこちらに来るよりも以前に、ウィンフィールドから人間界に来たのです。もう、十何年も前、ロベール殿下付きの近衛兵として」
「ロベール叔父さんの?」
「俺たちの…父さん?」
「そう、人間界で暮らすロベール殿下に何人もの近衛兵がついていては不信がられる。だから、近衛兵のダナイと、その養子のセナが人間界に行く事になったのです」
 紫苑の言葉に、クリスたちは戸惑いを隠せないようだ。
 それも当然だろう。
 それに、紫苑にも解からない事がある。
「でも、じゃぁ、今まで何してたんだよ?ダナイは、ウィンフィールドに居るんだろ?何で水落だけこっちに居るんだ?」
「ダナイは、ロベール殿下が事故に会われた時、一時帰国していたんです。だから、その場に居合わせることは出来なかった。これは、事故を起こしたトラックの運転手から聞いたことですが、少年が赤ん坊を二人助け出して、その後も車に残った人を助けようとしていたのを見たと。その運転手は助けを求められたが、車の爆発するのも時間の問題で、恐くて逃げ出したそうだ」
 みんなは紫苑の言葉に神妙な顔をする。
「車からは女性一人の遺体が見つかっただけ。赤ん坊は少し離れた場所に居たから爆発に巻き込まれる事はなく無傷。けれど、ロベール殿下と、その少年は何処に行ったのかは皆目解からなかった」
「ロベール叔父さんは死んだんだな?翼を持つ者は、死ねば消えてしまう」
「ええ。そして、その少年は爆発によって山中に飛ばされてしまったのだろうと、しばらく捜索されましたが、結局見つかりませんでした」
 紫苑の説明に、セナは口を出すことはなく、ただ聞いているだけだった。
「ずっと、行方不明のまま、もう死んでしまったのだろうと思っていた」
 だから、気づかなかった。生きている筈がない、そう思ったから。
 けれど、生きていたのだ。
 こうして目の前に居るのは、紛れもなくあの時の少年だった。
「今まで、一体どうしていたんだ?生きていたのなら、何故すぐに出てこなかった?」
「解かりません」
「解からない?」
「あの頃のことはよく憶えていないんです。気がつけば、随分月日が経っていた。狂っていたのかも知れません。ようやく正気を取り戻した頃には事故から一年が経っていて、翔や櫂がどうしているのかと思って探せば、住んでいた家もなくなり、二人は孤児院に引き取られていて…」
 そして、何処にも行く事が出来なくなったのか。
 帰る場所もなく、ずっと一人で生きてきたというのだろうか。
「水落先生」
 翔が、セナに声を掛ける。
「教えて欲しいんだ。俺たちの両親が死んだ時のこと」
「僕も知りたい。先生には、辛い事かも知れないけど」
 翔と櫂は真剣な表情で言う。その二人を見て、セナは微笑んだ。
 その瞳に、惜しみない愛情を感じた。
 セナは間違いなく、この二人のためにこの学園に来たのだ。一人になっても、それでもこの二人をずっと見てきていたのだろう。
 そして、セナはその時のことを語った。
 事故に合った瞬間。ロベールが死んだ時のこと。真理との会話。爆発の瞬間まで。
 翔と櫂は一言一句漏らすまいとでも言うように、真剣な表情でセナの話を聞いている。今まで想像を越えなかった事故の様相が明らかになる。
 セナの話が終わると、暫く沈黙が降りた。
 最初に口を開いたのは、翔だった。
「じゃぁ、水落先生は、俺たちの命の恩人ってことだよね」
「翔…」
「水落先生が居なかったら、俺たちだって、その時に死んでたんだから。ありがとう、先生」
 翔の言葉に、セナは驚いて目を見開き、それから視線を伏せた。
「ですが、私は、あなた達のご両親を助ける事が出来ませんでした」
「仕方ないよ。話をきいても、無理だって解かるよ、それは」
「しかし…私があの時出かけようと言ったロベール殿下を止めていれば…」
 セナの言葉に、みんな顔を見合わせる。
 セナが責任を感じる必要など、何もない。それでも、守るべき人を救えなかったという重圧は、セナの中にどうしようもなく圧し掛かっているのだ。
「水落先生、それは先生の所為じゃないでしょう?」
「…櫂」
「起こってしまった事に対して、今更何を言っても仕方がないし、貴方がどれだけそのことに対して責任を感じても、僕達は貴方を責める気なんてこれっぽっちも起きない」
「そうだよ、先生は何も悪くない。なのに、どうしてそんな風に言うんだよ」
 二人の言葉には、怒りと悔しさが混じっているようだった。
 そして紫苑は、二人がセナに対して抱いている感情を思い出す。セナのことが真剣に好きだからこそ、二人はセナが自分のことを責めているのが許せないのだ。
「翔、櫂…」
「それに、俺、先生が無事に生きててくれたことの方が嬉しいよ。だって、生きてたから、こうして会えたんだから」
「僕も、水落先生に会えて、本当に良かったと思います」
 二人の言葉に、セナは笑みを見せた。
 きっと、本当にセナを救えるのは、この二人の言葉なのだろう。
「まぁ、とりあえずさ、おっさんの疑問も解決したし、感動の再会も終わったし、夜も更けてきたからそろそろ部屋に戻ろうぜ?また倒れられたらたまんないしな」
 クリスの言葉に、翔たちははっとする。
「あ、ホントだ、もうこんな時間」
 杏里が時計を見て言う。
「じゃ、俺たちこれで失礼します。ゆっくり休んでくださいね。無理しないで」
「ええ、ありがとうございます」
 みんなが部屋に戻るのを、セナは微笑んで見送る。
 紫苑も自分の家に戻ろうと、立ち上がる。しかし、不意にセナが右腕を押さえて蹲った。
「セナ?」
「…っ」
 問い掛けてもセナは顔を上げない。呼吸が荒く、不規則になっている。セナは右腕を尚更強く握り締めた。
 倒れた時と似ているが、何かが違う。
 右腕がどうかしたというのだろうか?
「セナ、腕を見せてみろ」
 紫苑は右腕を強く掴んでいる左手をゆっくり外し、セナの袖を捲り上げた。
「これは…」
 セナの右腕の傷痕は、赤く腫れ上がり、まるで今しがた負った疵のように見える。冷やした方がいいのだろうか?もう治っている筈の火傷の痕がこんな風になっているなんて…先ほどまでは何ともなかった筈だ。
「一体…」
「大丈夫…です。暫くすれば、元に戻ります」
「元に?」
「はい…」
 荒い息の下でセナが言う。それは初めてではないということに他ならない。
 確か、何処かで聞いたことがある。事故や事件などで、体にも心にも疵を負った人間はその時のことを思い出し、精神的負担が掛かると、体も同じようにその状況を思い出すことがあるのだと。治っている筈の疵が疼いたり、綺麗に消えた筈の痣が浮き出たりすることがあると。
 精神病の一種だ。
 それと同じことが、今セナに起こっているのではないのだろうか。
 しかし、つい先刻まで話していたのは、翔たちの両親の事故についてだ。セナの両親について触れることは全くなかった。火傷は両親を失った時についたもので、事故とは関係がない。
 ならば、何故…。
「セナ、お前、病院には行ったのか」
「……」
 セナは答えず顔を歪める。行っていない、ということだろう。
「ちゃんとした、精神科のある病院に行って治療を受ければ、治す事だって…」
「いいんです!!」
「セナ?」
「治らなくても、いいんです」
 セナの言葉に、紫苑は驚く。
「お前、何を…」
「このままでいいんです。このままで…」
 まるで自分に言い聞かせているようなセナに、紫苑は言葉が出ない。
 何を背負っているのだろう。その背中に、心に。まだまだ、紫苑の知らない何かがセナの中にはあるのだ。
 それがセナの心を戒め、縛り付けている。
 深く、暗い闇の淵へと。



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