今日は二学期の始業式。 普段はない筈の離任と着任があり、職員室は結構慌しい。 そう思いながらも、紫苑はあまり自分には関係がないからそれほど忙しくもないのだが。紫苑は二年の受け持ちで、着任してくる教師も離任していく教師も一年の受け持ちだった。ただ、一年生だけを見るという訳ではなく、二年も三年も、少数のクラスを見ることになっているが。 まぁ、それにしたって理系の教師に、社会科の紫苑は矢張り関係ない。 関係あると言えば、その三年を受け持つ少数のクラスの中に、逢坂来栖のクラスがあるということだ。それに、寮監もすることになるのだから、やはり気になるといえば気になるか。 離任する教師は数日後また離任式という形で生徒に挨拶することになっているので、今日は新任の教師が始業式で挨拶をする。 その前に教師達の顔合わせがあるから、第一職員室には教師全員の姿が見える。普段は滅多に職員室に入ってこない学園長の姿まで見える。一学期の始業の時だって姿を見せなかったのに。それほど変わった教師なのだろうか。紫苑は首を傾げる。 教頭の長い薀蓄の後、着任の教師の紹介があった。 「本日から生物を担当させていただく、水落です。二学期からの途中赴任で、いろいろとご迷惑をおかけするかも知れませんがよろしくお願いします」 穏やかな物腰、そしてその整った容貌に微笑を浮かべて水落という教師は軽く頭を下げた。 これだけでは、学園長が何に興味を持っているのかは解からない。確かに、他の教師とは違う雰囲気を持っていると言えなくもないが…。 そう考えて水落を見ていると、ふと視線が合う。すると、綺麗な微笑が返ってきた。それだけで、その水落という男の如才のなさを感じる。 しかし、この遊星学園は優秀な教師が揃っている事でも有名で、優秀な上に「美形」ということも最近加えられたのだろうか、と紫苑は思う。まぁ、それ以前に優秀で美形ではあるが、どうも灰汁の強い教師ばかりだが。 学園長からして率先してそうなのだからどうしようもない。 挨拶が終了すると、教師は全員体育館に向かった。 クリスは体育館の椅子の上で欠伸をかみ殺していた。 始業式なんてサボる気満々だったのに、朝から紫苑が起こしに来て、体育館に連行されたのだ。流石に体育館についてしまえば、なかなか逃げる事も出来ない。 クリスは仕方なく自分の席についたのだった。 いつもならサボっても見逃してくれる紫苑だが、今日は途中赴任の教師が挨拶をするとかで、どうせ授業をサボるんだから顔ぐらいは覚えておけ、ということだろう。 クリスのクラスも受け持っていた生物の教師は最初は産休という予定だったのに、調べてみたら五つ子だとかで、到底教師を続ける訳にはいかない、と辞めることになったらしい。生徒にはそれなりに人気のある先生だったから惜しむ声も多かったが、クリスにとっては口うるさいオバサンだった。オバサンと言える年齢でもなかったのだが…。 始業式が始まり、学園長の挨拶…というのは大したことがないのだが、教頭の挨拶が長い。それを聞いているだけでクリスはうとうとしてしまう。 「さて、次に、新しく赴任してきた先生を紹介します」 教頭の声にクリスは顔を上げる。 一応、顔だけでも見ておかないと。あとで当人に会った時に解からないでは格好がつかない。 出席簿順に並んでいるのでクリスの席は前の方で、その教師の顔がよく見えた。不意に、生徒がざわめく。クリスも、軽く目を見開いた。 すらりとした長身で、整った顔立ちをしている。好き者の多いこの学校で、人気の出そうなタイプだ。生徒がざわめくのも無理はない。 そいつは水落瀬那と名乗った。 それにしても、今までの教師と毛色が違う。美形長身、というのが珍しい訳ではない。この学園には何故かそういう教師が溢れている。毛色が違う、というのはその赤い髪だ。異国籍だとしか思えない髪の色や瞳をしている教師はこの学校にたくさん居る。何と言っても学園長自体が珍しい髪の色をしているのだから当然だろう。だが、それにしたって、赤毛なんて今まで居なかった。 この学園は何だ? どうしてこう毛色の違う人間ばかり集めたがるんだ? クリスはついついそう思ってしまう。 でも、それにしてもその赤い髪と青い瞳のコントラストはクリスも綺麗だと思う。眼鏡をかけていて、ちょっと堅そうに見えるが、穏やかで低く響く声や浮かべる微笑にうっとりしている人間は見渡すだけでも相当数居た。 美形という点なら数学教師の榊原乱も負けては居ないが、あれは性格に問題があり、隠れファンは居ても表立って近づこうとは誰もしない。それに比べてこの水落という教師は人当たりが良さそうだし、悪い趣味を持っている訳でもなさそうだった。 ぱっと見ではそれほど解からないが。 そう考えるだけ考えて、後は眠ってしまおう、とクリスは目を閉じた。 数日を過ぎれば水落瀬那はこの学園の中でも特に人気のある教師の一人になった。 穏やかな物腰、解かりやすい授業。誰にでも親切で、寮監という立場から生徒一人一人に接する機会が多く、それに加えて細やかな気遣いを見せてくれ、なんと言っても美形でカッコいい。これで人気が出なければ嘘だろうという感じだった。 最初はあまり興味を持っていなかった紫苑やクリスもこの人気の白熱ぶりには少々呆れ返った。しかも当の本人はそれに全く関心を持っていないらしい。 だが、何より二人を驚かせたのは、翔と櫂が二人揃ってこの新任教師に惚れてしまったという点だった。 「二人揃って、ホモの道ってか」 「いいじゃないですか、別に」 「そうそう。人を好きになるのに性別なんて」 クリスの言葉に櫂と翔は言う。 「そんなにあの先生がいいかねぇ?」 「先輩は解かんなくっていいよ」 「これ以上ライバルが増えたら困りますからね」 クリスの言葉にいちいち二人は言う。それに思わず苦笑する。 「それにしても親友ってのは惚れ方も似るもんかね」 「は?」 クリスの言葉に疑問を返したのは直人だ。ロビーには紫苑、クリス、翔、櫂、直人、凪、翔の同室者である杏里が揃っていた。 「一目ぼれと二目ぼれ」 「放っておいてください」 櫂はむすっとして答える。 「まぁいいけどな。それにしたって、二人揃ってこんなんじゃ、ロベール叔父さんも泣くよなぁ」 クリスは苦笑いを洩らしながら呟く。 翔と櫂はクリスの従兄弟だった。 クリスの父はウィンフィールド王国という異世界の国の王様で、翔と櫂の父親はその弟にあたる。二人の父親、ロベールは一時ウィンフィールドに迷い込んだ女性、真理と恋に落ち、そして人間界に追放された。追放されたというのも実際は形だけで、兄弟仲はいたって良好、そして護衛に近衛兵もつけていたので、彼らからお互いの近況などを聞きあうことも出来た。 しかし、それも短い間で、二人の両親であるロベールと真理は交通事故で亡くなってしまったのだった。最初は二人を王国に連れて行こうという話も出たのだが、それよりもロベールと真理が暮らしていた人間界で暮らした方が、二人にとっては良いかも知れない、ということで孤児院に預けられる事になった。 だから二人はずっと自分達が半分はウィンフィールドの王族の血を継いでいるとは知らずに生きてきたが、この学校でクリスや紫苑と出会い、そして両親のことを知らされるに至った。最初は信じられないような話に二人とも疑問をもっていたが、感情の高ぶりと共に表れる白い翼が自分の背に生えたのを見て、納得せざるを得なくなった。 このことは凪と直人、杏里も知っている。親友である凪と直人は知っていた方がいいだろうという配慮と、杏里は先祖がえりで、時々小さい白い羽が出る事があることが解かったからだ。 「死んだ両親のことは今更どうしようもありませんから」 「父さん達だって恋愛に生きたんだから、俺たちがこうしてるのだって認めてくれると思うけど?」 櫂と翔は楽天的に言う。 実際ロベールも真理も、そういうことに偏見を持つタイプではないだろうが。 「しかし、信用出来る教師かどうかはまだ解からん。下手に近づくなよ」 「大丈夫ですよ、東堂先生」 「水落先生って絶対悪い人じゃないから」 櫂と翔の言葉に、紫苑は苦笑いを返すしかなかった。 直人と凪は顔を見合わせ、笑いあう。こういうところが息ぴったりで双子らしい。 「っと、そろそろ水落先生が帰ってくる頃だ」 翔がロビーに掛かっている時計を見ながら言う。 「そうか、それじゃ、俺もそろそろ帰るか」 そう言って紫苑は立ち上がり、他のみんなもこれで解散した。 紫苑が外に出てみれば、外はもう薄暗かった。秋も近く段々と日の入りも早くなってきたようだった。夏日もあれば、少し寒いぐらいの日もある。丁度そんな季節だ。 ふと、視界の端を白いものが過ぎる。寮の裏手に回っていく人影。あの白いものは白衣だろうか。紫苑は思わずその人影を追いかけた。 その人影は、寮の裏手の林の奥にある池に向かったようだった。紫苑は気配を殺しながら近づく。相手が誰なのかは、もう解かっていた。 水落瀬那。新任の教師である。生徒たちの評判もよく、確かに理想の教師と言えるような人間だが、どうも紫苑は何かが引っかかって仕方がなかった。しかし、それが何なのかが解からない。 こんな人気のない場所に来て、一体どうするつもりだろうか? 水落は池のほとりに屈み込んだ。 この池は、他の学校にあるような、手入れのされていない水草だらけの不清潔なものではなく、ちゃんと管理され、いつも綺麗で透き通った水が張っていた。水落はその池に手を浸す。 「東堂先生?」 名前を呼ばれ、はっとする。 水落は振り返り、こちらを見た。気づかれていたのか。 「まだまだ、修行が足りないな」 「何の修行です?」 紫苑の言葉に、水落はくすり、と笑みを洩らして言った。 「いや…」 「気配は完全に消えていましたよ」 紫苑が言葉を濁すと、水落は其処を掬い上げるようにして言った。 その言葉に、紫苑は軽く目を見開いた。 「だったら、どうして気づいたんだ?」 「気配は消えていましたが、少し、風の流れが変わったので、誰か居るのではないかと思ったんです」 「だが、俺だと確信出来る訳じゃないだろう」 「ええ。ですが、東堂先生は私のことを何処か警戒しておられるようですし、普通生徒なら気配を殺して近寄ってきたりはしないでしょう?」 水落の言葉に、確かに、と紫苑は納得する。 「しかし、それで声をかけて誰も居なかったらどうするんだ?」 「どうもしませんよ。誰にも見られていないのなら恥ずかしくはないでしょう?」 水落は穏やかに微笑みながら答えた。 しかし、其処まで理解出来る判断力や観察力は、矢張り常人とは違うものを紫苑に感じさせた。それが、尚更紫苑の警戒心を募らせる。 「水落先生は、此処で何を?」 「星を見ていたんです」 「星?」 紫苑は思わず問い返す。確か、水落の視線は池に向けられていた筈だ。それを向こうも感じ取ったのか、すぐに付け足してくる。 「ええ、水に落ちた星を」 水落がもう一度池の水面に視線を向けた。紫苑はそれにつられるようにして同じように池を見る。 月の光に照らされ、きらきらと水面は輝き、そして、その中で星屑が瞬いている。池に映った星。それを見ていたというのか。 「空にある星は、絶対に手が届かないと解かるでしょう?けれど、水面に映った星は手が届くような気がしてしまう。こうして、手で水を掬い上げれば、一緒に掬う事も出来る。けれど、決して触れることは出来ないんです」 そう言いながら、水落は両手で水を掬い上げた。 その両手から零れ落ちる水が、星のように煌めいた。 「眠れない夜は、いつもこうして星を見ていました。朝までずっと。星を見ているのは不思議と厭きなくて、退屈だなどとは全然思わなくて…」 確かに紫苑と話している筈なのに、それは独白めいている。視線も水面に落ちた星屑に向けられたまま、紫苑を見ない。 居る事すらも忘れられているのではないのだろうか。 「東堂先生は、ご両親はご健在ですか?」 「え?あ、ああ」 不意に問い掛けられ、途惑ったがすぐに紫苑は答える。住む世界は違えど、紫苑の両親はまだ健康そのものだ。 しかし、そう問いかけてくるということは、水落の両親は…。 「水落先生の両親は…?」 「私が幼い頃に亡くなっています。二人とも」 水落は微笑を浮かべながら答える。 しかし、その微笑みの奥に、何か違うものを感じる。これは何だ? 翔や櫂は水落を悪い人間じゃないと言う。確かにそうだろうと、紫苑も感じる。確かに、悪い人間ではないと。けれど、普通の人間とは何処か違う。時々異様とも言えるほど鋭くなる眼差しや、その瞳の奥にある、影のようなもの…。 まるで何かを憎むような…。 憎しみ? そう、それが一番近いかも知れない。何かを激しく憎んでいるような。 「お前は、一体何をそんなに憎んでいるんだ?」 知らず声に出して問い掛けていた。水落は軽く目を見開き、苦笑を浮かべた。 「東堂先生は、何でも見透かしておられるようだ」 「そんなことはない」 「そうでしょうか?」 紫苑が首を振ると、またいつもの微笑を浮かべて聞き返してくる。 「それで、俺の問いの答えは?」 普通に答える筈もないだろうが。 そう思ったが、答えはあっさりと返って来た。 「私が、たった一つ何かを憎んでいるとすれば、それは過去の自分でしょうね」 視線を伏せ、水落は答える。 「過去の自分…?」 「ええ。無力で、何の力もない自分自身が。けれど、過去の自分を憎むと言いながら、結局は今の自分も好きにはなれない。いえ、過去の自分の無力さは恨めしいくせに、その頃の無邪気さが羨ましいのかも知れない…」 不意に、風が水落の白衣をはためかせた。 まるで、そのまま風に乗って何処かに飛んでいってしまいそうな気がした。 翼もないのに。 昼間、いつも穏やかに微笑を浮かべている教師の姿ではなく、ひょっとしたら、これが水落瀬那という人間の本質なのかも知れない。時々見せる鋭い眼差しは、過去の自分に向ける嫌悪の情か。己の過去を思い出すたびに、過去の自分と対峙して、何かと戦っているのか。 「すみません。余計なことを話しましたね」 「いや…」 微笑を浮かべ言う水落に、紫苑は首を振る。 「そろそろ戻らないと。寮生達が心配しますからね」 「ああ」 紫苑も頷く。帰るつもりが遅くなってしまった。そういえば日もとっくに暮れている。星を見ていたくせに、そんなことも失念していた。 己のあまりの馬鹿さ加減に失笑する。 と、不意に水落の上体がぐらりと揺れた。紫苑は咄嗟にそれを支える。 「大丈夫か?」 「ええ、すみません。軽い貧血です」 そう言って、水落は紫苑の腕を振り払うように離れた。厳しい瞳がその奥に見える。 先刻とは全く違う様子に、紫苑は途惑う。 「それでは、お先に失礼します」 そう言い残し、水落は紫苑に背を向けて足早に歩き出した。 紫苑は暫く呆然と其処に佇む。 掴んだ腕が、思いの外細く、けれどしなやかにバランスよく筋肉のついた体。それが逆にアンバランスに感じられる。あの細さで、あれだけ綺麗な鍛え方をするのは難しい。逆に体の細胞を壊してしまい兼ねないのに、それらのバランスを上手く保っている。 矢張り、只者じゃない、と紫苑は思った。 学校の中庭でクリスは思いもかけない人物を発見した。 昼間の明るい時間帯で、ただいま授業中。クリスはサボって昼寝をしようと出てきたのだ。此処はクリスも気に入っている昼寝スポットで、日が当たるのに丁度木が上手い具合に眩しくないようにしてくれていて、しかも校舎からは全く見えない位置にある。 こんな良い条件の場所はあまりない。 しかし、其処には先客がいた。 「何でこいつがこんな所に居るんだよ」 クリスはその人物の横にしゃがみ込み、愚痴を言う。すやすやと言う表現が似合いそうな顔でよく寝ている。二学期に入ってから全校生徒、教師の注目の的、水落瀬那がこんなところで寝ているなんて有り得ない…。 一瞬現実逃避しかけたクリスにけれど現実はしっかりと目の前にあった。 「どうすっかなぁ」 特等席を取られてしまった。 水落の寝顔を見ながら考えていると、むくむくと悪戯心が湧きあがってくる。 「やっぱり、眠り姫には王子様のキスだよな♪」 姫、とか言えるほど小さくもないし、華奢でも可愛くもないが。 けれど、やっぱり何と言っても翔と櫂が惚れた相手である。味見ぐらいしても構わないだろう。こんなところで寝ているのが悪いのだ。 そう自分勝手な考えで結論付け、よく眠っている水落にキスをした。 その唇は思いの外柔らかく、クリスは調子に乗って口内に舌を滑り込ませる。無防備な舌を絡めとり、服の裾から右手を差し入れ、その肌に滑らせる。しなやかに鍛えられた体だと触れるだけで解かる。しかし、それとは別にしっとりとして手に吸い付くような肌の感触がクリスを愉しませた。 「んっ…ふ…」 水落が息を洩らした。 そう思った瞬間、鳩尾に痛みが走った。 「ぐっ…げほっ…」 クリスは息が詰まって咳をする。気持ちが悪くなった。 「…逢坂くん?」 名前を呼ばれ、視線を上げると水落がきょとん、とした顔をしてこちらを見ている。膝蹴りしといてよくそんな顔を…と毒づきたいが、ちょっと今は無理そうだった。 しかし、そんなクリスを見て状況を察したのか、水落は慌てる。 「すみません、逢坂くん。大丈夫ですか?」 「ああ…いいって、俺もやりすぎたから」 「はぁ?」 解かってないのか。 無意識で寝ぼけて膝蹴り…。 起きてたらどうなったんだろうなぁ、一体。本当に殺されたりして。いや、起きてたら理性が効いている分まだマシなのかも。 なぁんて馬鹿なことを考える。 「それにしても、俺の名前覚えてたんだ?」 「当然でしょう?最初から一度も授業に出ていなければ嫌でも覚えますよ」 「顔も?」 「生徒名簿を貰っていますので。写真付きで」 「あ、そ」 もういいや、とばかりにクリスはいい加減に相槌を打った。 「一学期もろくに出ていなかったようですし、このままだと本当にまた留年ですよ?」 「うるせぇな、ほっとけよ」 「東堂先生が悲しみますよ?」 「そこで何であのおっさんの名前が出てくんだよ」 「保護者欄に東堂先生の名前がありましたので」 「ああ…あ、そう」 クリスはぐったりとする。何だろう、こいつと話しているのは妙に疲れる。天然か?わざとか?どっちだ、こいつ。 「でも、逢坂くんのご両親はどうしたんです?」 「海外に行っててどうせ帰ってこれねぇからな。そんで、東堂のおっさんが俺の保護者役になってんの。保護者欄もそれで書いちまえって、うちの馬鹿オヤジが…」 「それで受理する学園側にも問題がある気がするんですが…」 「学園長もオヤジの知り合いだからなぁ」 「…随分とお知り合いの多い学校なんですね」 「まぁな」 普通お知り合い程度で終わらないだろう、これは。コネだって、コネ。 なぁんて考えたが、言う気はない。水落は理解しているのかしていないのか、相変わらず微笑を浮かべている。何だろう、こいつは…。 「それで、今はまだ授業の時間帯ですよね?」 「あんたはどうなんだよ」 「私は今の時間は空いていますので」 「あぁ、そうですか」 「で、逢坂くんは?」 「サボりだよ、悪ぃか」 「悪いですね、普通に考えたら」 素で返すなよ。 がっくりと肩を落としてクリスは溜息を吐く。 「兎に角、俺は今から此処で昼寝すんの。邪魔だからどいてくんない?」 「ああ、それはすみません」 「…そこで授業に出ろって言わないんだな」 「授業に出ないのは悪い事ですが、私にそれを止める権利はありません」 「教師なのに?」 「だから、私の授業は出てくださいね」 「……次はいく。一応」 「ありがとうございます」 にっこりと笑ってから、水落は立ち上がる。 何か、負けた気がする。物凄く。 水落の去っていく後姿を見て、クリスは寝転ぶ。 でも、嫌いじゃないんだよなぁ。ペースに乗せられたのは悔しいけど、やっぱ触り心地良かったし、何されたか気づいてなかったし…あれは天然かな。 あのきょとんとした顔は意外と可愛かったし…。 翔と櫂が好きになる気持ちも、ちょっと解かった気がする。 うん、あれは結構面白そうだ。 クリスは目を閉じて、口許に笑みを刻んだ。 学園長室。 「で、教えていただけませんか、学園長」 紫苑は学園長である若林怜夜を前にして言う。 「何を?」 「水落のことだ。何か気になる事があったから始業式の時に職員室に出てきていたんだろう」 「ああ、そのことか」 もったいぶる様な若林に紫苑はイラつく。 「レイヤード!」 「そうがなるな。気になると言っても大した事じゃない」 「大したことじゃないかどうかは、俺が決める」 「学園長は私なんだがな…」 若林はそう呟くが、やはり口許は笑っている。楽しそうだ。 敬語など最初の一言で切り捨てた。其処からも二人の立場は対等であると察せられる。対等…というのも微妙だが。若林怜夜、レイヤードは黒い翼の総帥である。一時白い翼と敵対していたが、今はこうして普通に会話出来るほど二つの翼の仲は良くなっている、と言える。 しかし、今はそんなことどうでもいい。いい加減知っている事を教えて貰わない事には、対処のしようがないのだ。 「それで?何なんだ、お前は何を知ってる?」 「水落瀬那。あれの戸籍は偽造だ」 「は?」 「調べたら偽造戸籍だった」 「それで、大したことじゃないと?問題あるだろうが、普通!」 「私たちだって同じ穴の狢だろう?」 「それとこれとは別問題だ!」 紫苑は怒鳴る。確かに紫苑たち、ウィンフィールドの人間は人間界に戸籍など持っていないから偽造するしかない。だからと言って、それに問題がない訳ではない。普通に考えたら偽造の戸籍など、怪しいことこの上ない。 自分達はお互いのことを知っているし、それ故に戸籍を偽造しなければならなかった理由も解かっているから、堂々とこの学園に居るのだ。だが、水落は赤の他人である。 それとこれを一緒にしてはいかんだろう。どう考えても。 「戸籍は偽造だが、教員免許も本物だし、人となりも問題はないからな」 「レイヤード…」 「別に何か悪い事をしでかすとも限らん。そうしなければならない人間も数多く居るだろう。私が水落を否定する理由はないな。それに優秀な教師は一人でも多くほしい」 「結局それか」 レイヤードは学園第一である。学校運営の何がそんなに楽しいのかは解からないが、やたらと力を入れているのは事実だ。優秀な生徒を引き抜いたりもしている。まぁ、そのおかげで翔や櫂と出会えたのだから、感謝するべきなのかも知れないが…。いや、この男は知っていてずっと黙っていたのだ。知っていたくせに、隠してきたんだ、今まで。 矢張り性格が悪い。まぁ、しかし、これはまだ可愛い方なのかも知れない。レイヤードの腹心のランに比べたら、レイヤードの所業は子供の悪戯程度のものである。 「で、ランはそのことを?」 「知っているな、当然」 「またややこしくなりそうだ…」 「放っておけばいい。ランは気に入っているらしいからな。水落を警戒するのならお前が何もせずともそのうちランがどうにかする」 「どうにかの仕方に問題を感じるんだが?」 「それは私は関知しない」 「してろ!自分の部下なんだから!」 「怒鳴るな。じゃ、もう用は済んだだろう」 レイヤードは怒鳴る紫苑にひらひらと手を振った。こうされればもう何も話しはしないだろう。紫苑は溜息を吐いて学園長室を後にした。 全く、どうしてこう問題のある人間しか集まってこないんだ、この学校は。 それにしても、矢張り水落のことは警戒するべきだろうか。悪い人間ではない、と思いはするのだが…。 「あれ、水落先生、その怪我、どうしたの?」 不意に生徒の声がして紫苑ははっとする。さっきから考えていた人物の名を呼ぶその声につられ、紫苑はその声のする方向を見た。 「ああ、これは火傷の痕ですよ」 そう言って、水落は袖を捲ってみせる。遠目からでも解かるほど、大きな痕だ。 「うわぁ、すげぇ。でも古いよね?」 「まだ私が子供の頃に出来たものです」 生徒と話す水落の姿を、紫苑はついつい凝視してしまう。その視線に気づいたのか、水落がこちらを見て、視線が合う。水落は軽く頭を下げた。 「それじゃぁ、私は次の授業がありますので」 「あ、うん。先生、またね」 「ええ、また」 そう言うと、そそくさとその場から立ち去っていった。 避けられている。 先日倒れかけたのを見た所為で決まりが悪くなっているだけなのだろうか。それとも、矢張り水落は何かを企んでいるのか? しかし、矢張りそんな人間には見えない。 いや、悪い人間ではないと、紫苑が思いたいのかも知れない。 あの夜の、風に白衣をはためかせた水落のあの姿を、紫苑は綺麗だと思ったのだ。 自分を憎みながら、それでも凛とした強さを見せるその姿が。 だから、悪い人間だとは思いたくはなかった。そう、思いたくはないのだ。 それはただの、希望的観測にしか過ぎない。 だからこそ、油断するわけにはいかないのだ、何事も。 |