ウィンフィールド城に、今日も元気な少年の声が聞こえる。 「クラウスーっ!」 少年はたたたっと軽快な足音を立てながらクラウスの前にやってきた。 「ねえ、遊んで!」 「申し訳ありませんが、他の人を誘っていただけますか?」 「誰を?」 「あちらに乳母がいるでしょう」 「…」 数時間後。 「クラウス!」 「何です?」 「パズルやってるんだ。一緒にやろうよ」 「お一人でしてください」 「…」 また数時間後。 「ねぇ、クラウス」 「はい」 「絵本読んで」 「丁度メイドが来ましたよ。彼女に読んでもらったらどうです?」 「……」 そしてまた数時間後。 「クラウス、何読んでるの?」 目の前にやってきたクリスに、クラウスはその本を朗読してみせる。が、クリスには難しすぎる内容で全く理解できない。 「…な、なに?」 「ようするに、クリストファー様にはまだご理解いただけない内容の本だということです」 「……クラウスがちゃんと説明してくれれば解かるよ」 「俺の読書の時間を邪魔してですか?」 「…うぅっ」 「字を覚えて、今のクリストファー様に合った本を読んでいればそのうちご自分で読めるようになります」 そう答えて、クラウスはまた持っている本へと視線を移した。 「ああぁ、よくあんなに断れるな。私だったらあんなに可愛いクリスにお願いされたらとっくに遊んでるぞ」 「本人が言ったとおり、全く相手にしてませんね」 「陛下…ロベール殿下…」 クラウスとクリスの様子を伺っている国王とロベールにセシルが溜息を吐きつつ呼びかけた。 「お二人が様子が気になるからと言うので見に来ましたが、もういいでしょう。職務にお戻りください」 「いや、もう少し……それにしても、世界一可愛いクリスに少しも靡かないなんてある意味凄いな」 「…確かにクリストファー様もお可愛らしいですが、世界一可愛いのはセナですよ」 「いーやっ、クリスの方が可愛い。誰よりも可愛いっ」 「何をおっしゃってるんです?素直で、優しくて可愛いうちのセナ以上の子なんて居るはずないでしょう」 「それを言うならクリスだって…」 「…二人とも…その辺で…」 自分の子の方が可愛いと白熱し始めた親馬鹿二人を宥めようとしたロベールに、国王とセシルはぎっと視線を移した。 「ロベール、お前はどっちの方が可愛いと思う?」 「セナの方が可愛いですよね?」 「…いや、どっちも本当に可愛いと思うけど」 「どっちもじゃ意味がないだろう!」 そう言われても困る。確かにどちらも本当に可愛いと思うのだから。 白熱し始めた親馬鹿合戦だが、不意に言った国王の言葉で話題がそれ始めた。 「クリスは世界一可愛いっ!そして世界で一番綺麗なのはセシルだ!」 「王妃殿下を差し置いて何を言ってるんです。大体、世界一綺麗なのはユリナですよ」 「……じゃあ、世界で一番格好いいと思うのは誰なんだ?」 「……」 国王が誰と言って欲しいのかは言われずとも解かるのだが、セシルはその顔を見つめて、三秒ほどしてからにっこりと笑った。 「一番格好いいのが誰かは兎も角、執務に励んでいらしている陛下はとても格好いいと思いますよ」 「そ、そうか…?」 「ええ。ですから早く執務室に戻りましょう」 「あ、ああ。お前がそう言うなら…」 極上の笑顔で笑って見せながらそういうセシルに、国王ははぐらかされたのにも気づかず、思わず頷く。そうしてセシルに導かれるままに執務室に戻ろうとする兄を見て、ロベールは少しだけ肩を落とすのだった。 「……兄上、完全に操られてるって……理解、してないんだろうな……」 少しだけそんな兄を情けなく思ってしまう。 「ロベール殿下も、早くお戻りください」 「……えぇ〜」 「早くお戻りくださらないと、暫く人間界に行くのを禁止しますよ?」 「セシル…っ、お前、なんでそれ…」 「ロベール殿下、シオンやダナイが私に隠し事が出来るとでも?」 「……」 「では、戻りましょうか」 「…はい」 そうして笑うセシルに逆らうことも出来ずに、ロベールは頷く。 世界で一番可愛いのも綺麗なのも格好いいのも個人の価値観でしかないが、この国で最強なのは、まず間違いなくセシルに違いない、とロベールは思うのだった。 夕刻、士官学校での授業を終えたセナが、クリスの部屋に姿を見せる。 壁際に腰掛けて本を読んでいたクラウスに目を留めて、ぺこりと頭を下げた。 「こんにちは、クラウス様」 「………」 無視しよう、と思っていたが、流石に聞き捨てられずに、思わず呟いていた。 「今、何て言った?」 「こんにちは?」 「その後だ」 「クラウス様」 その言葉を聞いて、クラウスは深々と溜息を吐いた。 「レイヤード様やラン様なら兎も角、俺はそんな風に呼ばれる身分じゃない。その呼び方は止めてくれ」 「じゃあ、何と呼べばいいんですか?」 首を傾げて問いかけるセナに、クラウスは眉間に皺を寄せた。下手に敬称をつけられるのも面倒だ。 「呼び捨てでいい」 「ですが、年上の人を呼び捨てにするのは…」 「いい。下手に敬称を付けられる方が気持ち悪い」 「…そうですか?」 「ああ」 頷くと、セナは少し戸惑い気味にクラウスの名前を呼んだ。 「あの…クラウス」 「何だ?」 「…こんにちは」 「……ああ」 短くそれだけ言うと、セナはにっこりと笑った。それを見た瞬間に、返事なんてするんじゃなかったと後悔したが。 「ところで、その…」 「セナっ!!」 何か言いかけたセナに、クリスが勢い良く抱きつく。 「ねぇ、セナ。僕に字を教えて」 「字を?」 「うん、クラウスに何の本読んでるのか聞いたら、自分で読めるようになれって言われたから、読めるようになるの!だから教えて!!」 「それは、構いませんが…」 「じゃあ、行こう!!」 セナから了承の返事を得たと思ったら、クリスはすぐに机の方へとセナを引っ張って行った。クラウスとしては、自分の方から逸れてくれて有り難い。あまり人と関わりたいとは思わないし、士官学校生と長時間話しているのは苦痛でしかない。 紙とペンを取り出して、字の練習をし始めるクリスの明るい声と、セナの控えめな声を聞きながら、またクラウスは本へと視線を移した。 それから数時間した頃、シオンがクリスの部屋に顔を出した。 いつも明るいクリスの声が聞こえるのに、今は静かで、どうしたのかと思うと、クリスはソファに寝かされ寝息を立てていた。 「クリストファー様は眠っているのか…」 「ええ。文字を教えて欲しいと言われて教えていたんですが、流石に疲れたんでしょう」 声を潜めて話すと、セナも同じように小さな声で返す。 「文字を?」 「ええ。クラウスに本の内容を聞いたら自分で読めるようになれと言われたらしいです」 「それでか…」 机の上に視線を移してみれば、拙い文字が書かれている紙が数枚置かれている。 そして更に視線を移してクラウスを見れば、シオンの方に一瞥もくれることなく、淡々と本を読んでいた。が、シオンの視線に気づいたのか、顔を上げ、立ち上がる。 「俺はそろそろ帰らせてもらう」 「クラウス…」 「君は時間が空いたから来たんだろう?問題ないな?」 「ああ、それは…」 「それじゃあ、失礼する」 そう言ってクラウスが部屋を出て行こうとすると、中に入ってこようとしたセシルにばったりと会う。 「何だ、クラウス。もう帰るのか?」 「ええ、シオンも来たのですから問題ないでしょう」 そう答えるクラウスに、セシルは微笑を浮かべる。そうしてまたクラウスが出て行こうとすると、今度はセナが呼び止めた。 「クラウスッ」 「……何だ」 少し不機嫌そうに振り返るクラウスに臆した様子もなく、セナは傍に駆け寄る。 「その、その手に持っている本、ひょっとして初版本ですか?」 「ああ…」 「それ、ずっと探していたんです。王立図書館にもなくて…クラウスの本なんですか?」 「これは、城の書庫の本だ。セシル殿に許可を取って借りた」 訝しげに答えるクラウスに、セナはセシルへと視線を移した。 「僕にも、借りられるの?」 「城内なら持ち出しは自由だが、寮へ持ち帰りたいなら国王陛下の許可がいるが……まぁ、大丈夫だろう。俺から陛下に話は通してこう」 「本当に!?」 ぱっと嬉しそうに顔を輝かせるセナを見てセシルはそれを映したように嬉しそうに笑った。親馬鹿ぶりが伺える。 「話がそれだけなら俺はもう帰る」 「あ、すみません。呼び止めて」 「いや…」 短くそう言うと、クラウスは帰って行った。 相も変わらず冷たい態度だ。 僅かに溜息を吐いてセナを見ると、苦笑いが浮かんでいる。何となく見透かされたような心地になって気恥ずかしい。 「それにしても文字か…まだ三歳なのにな…」 誤魔化すようにそう言うと、セナは顔を明るくして言った。 「ええ、でもクリストファー様はとても聡明な方ですから、簡単な文字ならもう覚えてしまいましたよ。僕も教えていて楽しかったです」 「そうか…」 自分のことのように嬉しそうに語るセナが微笑ましく、頭を撫でてやると少し照れたように頬を染める。その様子がまた愛らしい。 「それにしても、それだけ素っ気無くされて、よくクリストファー様はクラウスを嫌わないな」 「クラウスは優しいですから」 シオンの言葉に、セナが思いがけない言葉を返す。 「優しい?」 「はい」 問い返すと、にっこり笑って頷く。 シオンにしてみれば、どう見てもクラウスの態度は優しさからはかけ離れているようにしか思えない。クリスが構って欲しいと誘っても、冷たくあしらうのだから。 昼間様子を見に行ったと言うセシルの話も聞いたが、それから察してもどうしてもセナやクリスが優しいと判断できる材料は思いつかなかった。 「だって、クリストファー様のお誘いを断るにしても、子供だからと相手にしなければいいだけの話でしょう?でもクラウスはちゃんと、断るにしても子供だからと言うのではなく答えを返してくれます。対等の一人の人間としてクリストファー様に応対しています」 セナの言葉に、シオンは瞠目する。 「子供だからとか、大人だからとかではなく、ちゃんとクリストファー様自信に対しての言葉ですから、聡明な方ですし怒ったりなさいませんよ。それに、ちゃんとそういう風に接することの出来るクラウスは、優しい人だと思います」 セナの言葉に頷きつつ、その人を見る目に感心する。 以前ランに対して「寂しそう」だと言った時にも思ったが、セナは本当に人をよく見ている。そして恐らくはクリスも、大人が矜持や建前ばかりを気にして忘れてしまったものをちゃんと見抜くことが出来るのだろう。 「そうだな…」 シオンが昔気づかなかったことを、セナもクリスも、ちゃんと見抜いているのだ。解かり難いが、けれどクラウスが本当は優しい人間なのだということに。 「それよりセナ、寮の門限は大丈夫なのか?本を借りていくならそろそろ行かないとまずいぞ」 「あ、そうだっ」 感心していたシオンとは違い、セシルはそれに対しては何も言うことなく、現実を伝える。それにはっとしてセナは慌てて帰る支度をする。 「それじゃあ、失礼します。お父さん、本は借りていくからっ」 「ああ、門限に間に合うようにな」 そう言ってセナを見送るセシルは、正に親馬鹿そのものの表情だった。 「にやけているぞ、セシル」 「いやぁ、こうして平日にもセナに会えるなんて、クリストファー様のおかげだな…」 「セシル…」 嬉しそうにそう言うセシルに、シオンは頭を抱える。仕事の面ではそれこそ優秀で、国王陛下でさえ時々頭が上がらないというのに、息子を前にすると、本当にただの父親だ。 「それにしても、セナは読書家なんだな…」 「ん?」 「俺だって本を全然読まない訳じゃないが、あの本は全く知らなかった。あんな風に熱心にあの本のことを尋ねるなんて、そういうことだろう?」 「ああ、まぁな…。けどあの本…というか、シリーズものなんだが、あのシリーズの初版は本当に稀少本だぞ?しかも、その初版にだけしか書いてない内容もあるから、それが気になるんだろう。それに、あまり人が好んで読む内容じゃないからな。そういう点ではクラウスとセナは似ているかもな」 「セシルも詳しいな…」 「俺は書庫の管理も任されてるから自然とね」 そう言って笑うが、恐らくセシルも相当詳しい本の知識を持っているのだろう。大げさな噂では、ウィンフィールド中の本は全て読破している、などというものもあるぐらいだ。 ウィンフィールド中とは言わずとも、きっと書庫の本なら全て覚えているに違いない。 「さてシオン」 「なんだ?」 「クリストファー様をベッドに移動させようか」 「ああ・・・そうだな」 ずっと自分達が話し込んでいたのにも気づかず眠っている様子からしても、暫くは起きそうにない。 シオンはそっとクリスが寝かせられているソファに歩み寄り、起こさないように抱き上げた。あどけない寝顔に自然と笑みが浮かぶ。 「ところで、お前は何か用があってここに来たんじゃないのか?」 「俺?俺はセナの顔を見に来ただけだぞ」 「………そうか」 何処まで言っても親馬鹿なセシルの言葉に、シオンは溜息を吐いた。 軽快な足音を立てながら、セナは寮へと向かう。その手には大事そうに本を抱えて。 ずっと探していた本が見つかった。この本の初版には二刷発行以降には書かれていないことが書かれている、というのは実しやかに流れていた噂だった。それこそ何処を探しても見つからなかったその本が、こんな風に見つかるとは思わなかったけれど。 もしかしたら、この本になら、ずっと自分が疑問に思っていたことが書かれているかも知れない。微かな期待を胸に、セナは足早に寮に向かうのだった。 |