日も殆ど暮れかけた部屋の中、明かりも点けずに窓枠に腰掛け外を見ている人影があった。 コンコン、とドアをノックする音がして人影は振り返る。 「少しいいか?」 「ラン様」 振り返ったのはまだ少年と呼んでもおかしくない、黒い翼の集まる此処でも珍しい成長途中の人物だった。 黒い髪を後ろで一つに束ねた、黒い瞳をしたその少年はまだ十七、八というところだろうが、不似合いなぐらいの落ち着きと諦観を宿した瞳をしていた。 「何か御用ですか?」 「お前に頼みたいことがあってな」 「頼みたいこと?」 ランの言葉に少年は首を傾げた。 黒い翼の副総帥であるランが、下っ端も下っ端である自分の所にわざわざやってきて頼みたいこととは何なのだろうか。 成長途中の黒い翼は能力も不安定で、どちらかと言えばこの集団の中でもお荷物的存在だった。少年はその中でも最も年若く、けれど、比較的魔力が高く、武術の心得もあるので将来はそれなりに嘱望されていた。 しかし、あまり人付き合いは得意ではないので、特に親しい者もいない。 ランと話したことがあるのは、此処に来たばかりの頃に一度だけ。 一体、何の用なのだろうか。 城内は僅かにざわついていた。 今までウィンフィールド城に来た事のある黒い翼はレイヤードとランだけだった。この二人が来ることには城内の人間ももう大分慣れて来ていたが、今日二人は、もう一人客人を連れてきたのだった。 「陛下、彼に以前話していたクリストファー様の護衛を任せたいのです」 「ああ、そうか。年はいくつだ?」 「今年十八になります」 国王の問いかけに少年は答える。 無表情で答える少年は、何処か人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。 「レイヤード。彼で大丈夫なのか?」 不安を覚えた国王が尋ねると、レイヤードは苦笑して頷いた。 「大丈夫ですよ。彼は私たちの命令に逆らうようなことは致しませんし、黒い翼が生える前は士官学校に通っていました。黒い翼の中でも一番の適任だと思います」 「そうか。お前がそう言うなら」 と、一応は納得するが、この少年の空気を考えると、クリスの方がなつくか心配だった。 「取り合えず、今日はクリスに会ってもらおう。シオンを呼んできてくれないか?」 そう言って国王は傍に居た近衛兵、セシルに言う。 セシルは頷き、そっと少年の様子を伺った。シオンの名を呼んだとき、少しだけ彼の表情が動いた気がした。 何か大変なことにならなければいいが、とセシルは溜息を吐いた。 シオンが呼ばれてきて、部屋に入ってくる。 少年に目を留めて、シオンは驚く。 「クラウス!?」 少年はさしたる動揺もなくシオンを見つめ返した。 「何だ、知り合いか?」 「士官学校に通っていた時、同期で同室だっただけです」 淡々とした口調でクラウスは答える。 実際、クラウスはシオンと再会して、自分がどのように思うか、想像出来ないでいた。 怒るか、詰るかとも考えたが、結局会ってみればそんな感情は湧いてこない。ただ胸の中に冷たい感情ばかりが広がっていく。 「まぁ、知り合いなら丁度いい。シオン、クラウスはこれからクリスの護衛をしてもらうことになる。クリスの部屋まで案内してやってくれないか」 「…護衛?クリストファー様の?」 シオンは少なからず疑問を抱いたようだ。わざわざ黒い翼が護衛につく必要があるのか、というのは当然の疑問だろう。 「ああ。黒い翼と条約が結ばれたとはいえ、その中にも反対派の者も居る。過激なものはクリスに危害を加えようとする者も居るかもしれない。それで、黒い翼に対抗するには、矢張り黒い翼が最適だろうと…」 「そうですか」 シオンはちらりとクラウスに視線を向けて頷く。 「それじゃあ、クラウス。クリストファー様のところまで案内しよう。レイヤードとランも来るか?」 「そうだな、来た時に顔を見せないと、クリストファー様に怒られる」 レイヤードは頷き、苦笑する。 クリスは随分レイヤードのことを気に入って懐いている。一緒に遊んでもらえればそれだけ大喜びするし、シオンにも異存はなかった。 そうして四人は部屋を出た。 「大丈夫ですかね、本当にあのクラウスという少年は」 成り行きを見守っていたロベールが口を開く。 「シオンに対して一物ありって雰囲気でしたよ?」 「それでも、レイヤードたちが推薦したからには何か理由があるんでしょう」 セシルが四人が出て行ったドアの方を見て言う。 「レイヤードたちを信頼するしかないだろう。クラウスとシオンの当事者同士の問題なら、私たちが口を挟むべきことではないしな」 「俺としては…クリストファー様とセナがその二人のとばっちりに合わなければそれでいいですけど」 セシルの言葉に、国王は苦笑する。 「いつもなら真っ先にどういう関係だ、とシオンに問い詰めてるんじゃないか?セシルは」 「なんですかそれ」 「お前はシオンが入隊した頃から随分可愛がっていたじゃないか。あの二人の関係を見て妬くんじゃないかと思ってね」 「…いくら国王陛下と言えど、そういうふざけた事を言うと怒りますよ?」 国王の言葉に、セシルがじろっと睨みつける。言葉遊び以上の意味はないが、この二人も随分仲が良い。 「取り合えず、私たちは見守ることしか出来ないでしょう」 「何も起きなければいいんだがな」 「全く」 三人は揃って溜息を吐いたのだった。 クリストファー王太子は今年三歳になった。まだ幼いが、その愛らしい容姿で国民の人気を集めている。 だからと言って別に何も問題は無い。クラウスとしては、取り合えずクリスをクリスとして認識し、粗相のないようにすればいい。取り立てて親しくしようなどというつもりは全くなかった。 「そういえば、会う前に一つ話しておくことがある」 「なんだ?」 言ったシオンに対して口調が素っ気なくなるのは最早仕方ない。士官学校に居た頃から親しくは無かったし、シオンもそのことについては咎めるつもりはないようだった。 「クリストファー様の遊び相手をしてくれている少年が居てな。今もクリストファー様と一緒に居るはずだ」 「遊び相手?」 「ああ。まだ十歳だがとてもしっかりした子だ。士官学校に通っていて、入学以来ずっと主席らしい」 「…ずっと主席か。君と同じじゃないか」 「俺よりずっと優等生だと思うぞ。それにどちらかと言えばお前に似ていると思うが」 どちらにしろ、あまり気に入らない。 士官学校…自分が行けなくなってしまった場所に、今も通っている少年。国王陛下や近衛連隊長の信頼も厚く、将来は安泰だろう。そう思っただけで皮肉な笑みが浮かんだ。 これは嫉妬心だ。 自分が手に入れられなかった物を手に入れているシオンも、これから手に入れるだろう少年も、妬ましくてたまらないのだ。 シオンの後ろをついて歩いていると、不意に左横壁のドアが開いた。 赤い髪の少年が顔を出す。 「シオン少将」 シオンの名前を呼びながら、レイヤード、ラン、クラウスと順に視線を移す。そしてクラウスに視線を止めた。見慣れない顔なら当然だろう。 「…黒い翼ですか?」 「ああ。今度からクリストファー様の護衛をすることになった。クラウスだ」 シオンがクラウスを紹介すると、少年はにっこりと笑った。 人好きのする笑顔だ。 「はじめまして、セナと言います。これからよろしくお願いします」 「…一応、初めに言っておく」 差し出された手を一瞥しながらクラウスは言った。 「俺はクリストファー様の護衛を任されただけであって遊び相手までするつもりはない。それから…」 そう言ってシオンを視界に入れた。 「俺は近衛兵も士官学校生も嫌いだ。親しくするつもりは全く無い」 クラウスの言葉にセナは唖然とした顔をしていたし、シオンもはっと目を見開いていた。これだけ言えば充分だろう。わざわざ関わろうとは思わないはずだ。 しかし、クラウスの思惑は外れた。 「でも…」 セナはクラウスを真っ直ぐ見つめて言った。 「でも、僕は貴方のことを嫌いじゃないです。だから、出来ることなら親しくなりたいし、話したいと思ったら話しかけます」 「……迷惑だ」 「だけど、努力を放棄したら何も進歩しません」 「…勝手にしろ」 クラウスは忌々しげに吐き捨てた。 セナはクラウスがどれだけ迷惑がろうと、無視しようと関わると言っているのだ。この子供に何を言っても無駄だ、と思った。 だからと言ってもなんでもない。相手にしなければいいだけの話だ。 「あ、レイヤードだ!」 突然高い子供の声がしてそちらを見る。 先ほどセナが出てきた部屋から駆け出してくるのは、プラチナブロンドの、噂に違わず綺麗な容姿をした少年だった。 「お久しぶりです、クリストファー様」 そう言って抱きついてくる子供をレイヤードはしっかり受け止める。随分レイヤードに懐いているようだった。 「今日はゆっくりしていられる?一緒に遊べる?」 「ええ。でも遊ぶ前に、一人紹介したい者が居ます」 そう言ってレイヤードはクラウスを示した。クリスがクラウスを見上げて来る。あどけない、大きな瞳だ。 「今度からクリストファー様の護衛をすることになったクラウスです。シオン少将とは士官学校の時に同期だったそうです」 さらりと別に言わなくても良いことを言ったレイヤードに少し苦い顔をしながらも、クラウスはクリスの視線に合わせて屈み込んだ。 「はじめまして、クリストファー様」 「じゃあ、クラウスも黒い翼なの?」 「はい」 「ねえ、それじゃあ、空も飛べる?」 「一応は」 そう答えるとぱっとクリスが顔を輝かせた。 「じゃあ、じゃあね、僕を連れて飛んでくれる?この前レイヤードに一緒に飛んでもらったけど、すっごく楽しかったんだよ」 「申し訳ありません。俺はあまり飛行は得意ではないので、また今度、レイヤード様がいらっしゃる時にお願いしてください」 「下手でもいいよ?」 「万が一落としたりしたら大変でしょう?」 「うー・・・だって、レイヤード滅多に来ないし」 むすっと不機嫌顔になったクリスに内心溜息を吐く。しかし、それは表面には出さない。 「国王陛下やロベール殿下も飛べるでしょう?それに、クリストファー様も大きくなればご自身で飛べるようになる。それからいくらでも好きな時に飛べばいいんです」 「そんなに飛ぶの嫌?」 「申し訳ありません」 「わかった」 しぶしぶながら頷いたクリスにほっとする。これでもし一度でもクリスを連れて飛んだりしたら、その後もずるずる付き合わなければならないのは目に見えている。 それだけは御免被りたい。 「…クラウスが飛ぶのが苦手というのは本当なのか」 「嘘に決まっているだろう。黒い翼の中でも一、二を争うぐらい飛行は得意だ。ようするに、先ほど宣言した通り相手にしたくないんだろう」 シオンとランがこっそり話しているのは聞こえたが、そちらは無視することにした。クリス自身に聞こえていなければ問題ないだろう。 「じゃあ、レイヤード、一緒に遊ぼう」 クリスはすぐにレイヤードに対象を移して部屋へと戻っていった。ふぅっと溜息を吐いて立ち上がる。 「俺たちも取り合えず部屋に入ろう」 シオンがそう促し、クラウスたちも後に続いて部屋に入った。 子供部屋にしては広い…さすが王太子、というところだろうか。自分の家の部屋を思い出して思わず比較してしまう。王太子と自分を比べるなど、元々馬鹿みたいなことだが。 「セナ、少し話がある。レイヤード様がクリストファー様の相手をしているから問題ないだろう?」 「あ、はい」 ランがセナに話しかけ、部屋の隅へと連れて行く。 どうやらランはセナを気に入っているようだった。元々レイヤードと違い取り立てて王族との和平に対して賛成していた訳でもなさそうだったランが、以前より積極的に城に足を運ぶようになったのはセナが原因なのだろうか。 なにやら話し込んでいるらしい二人を横目で見ながら、隣に居るシオンが自分に対して話しかけたそうな顔をしているのに気づいて思わず溜息が漏れる。 「何だ?」 「あ、いや…ずっと、謝りたいと思っていたんだ。あの時のことを…」 「必要ない。今更謝られたところで何が変わる訳でもないからな」 「しかし…」 何か言いたそうなシオンを睨み付けた。 「あいつらももう、近衛兵になっているんだろう?俺のことなど忘れて、平然とした顔をして…だから嫌いだ。近衛兵も、士官学校生も。特にシオン、君のような偽善者は尚更」 「クラウス…」 「親しくするつもりはない。これ以上私事で話しかけるな」 クラウスはそれ以上の会話を一切打ち切った。 実際話してみても、シオンに対する憎しみばかりが増していく。こんな会話は無意味でしかない。復讐しようなどというつもりもないが、親しくしたいとは思わない。 「だが…努力を放棄したら何も進歩しない。…先ほどセナが言ったな」 「……つまり君も、懲りずに俺に話しかけてくる、という意味か?」 「ああ。お前と話すことを放棄して後悔するのは士官学校の時だけで充分だ。同じ過ちは繰り返したくない」 「一生後悔していればいい。俺は君の自己満足に協力するつもりは毛頭ない」 嫌悪感と共に吐き捨てると、シオンは少しだけ悲しそうな顔を見せた。ざわざわと胸の奥が騒いでくる。これ以上会話していると、本当にシオンを殴り飛ばしたくなりそうだった。 流石にそんなことは出来ない。 何とかこの二人だけで会話している状況を抜け出したかった。 「シオン少将」 セナがシオンの名前を呼び、はっとしたように振り替える。 「寮の門限があるので、僕はそろそろ帰ります」 「ああ、そうか。気をつけて帰ってくれ」 「それじゃあ、失礼します」 シオンに向かって頭を下げた後、クラウスに向かっても一礼する。それからクリスのところに行って、帰ることを告げているのだろう、何やら話しているが、興味はなかった。 その後すぐにセナは部屋を出て行った。 取り合えず、セナが帰ったおかげで、先ほどの状況から開放されたことにほっとする。ランが居る前では流石にああいう話も出来ないだろう。 「そろそろ私たちも帰ろう」 今度はレイヤードが話しかけてくる。 「明日からはクラウスが一人で来ます。よろしくお願いしますね、クリストファー様」 「レイヤードは?今度はいつ来る?」 「それは解かりませんが、出来るだけ早いうちに、また」 「絶対だよ!」 そう言ってクリスはレイヤードが帰るのを名残惜しそうにする。実際滅多に会えないのだから無理も無いのだろうが。 「はい。解かりました。城に来た際には必ず顔を出しますから」 レイヤードは微笑んでそう言う。実際、無垢な少年にそうして懐いてもらえるのは悪い気はしないのだろう。 そうして、レイヤードとラン、クラウスも帰って行った。 シオンは三人を見送って軽く溜息を吐いた。 クラウスと再会出来たのは幸か不幸か。出来れば会って話をして、仲直り…否、元々仲はよくなかったから、その言い方はおかしいだろうか。 親しくなりたい、と思っていた。 しかし、クラウスが見せるのは絶対的な拒絶だ。 無理もないと思いながら、此処で諦めてはいけないのだと思う。同じ後悔を、もうしないためにも。 寮の部屋に戻って、セナはベッドに寝転んだ。 「何?セナ、どうかした?」 ただいまの言葉も無くベッドに寝転んでしまったセナに訝しさを感じたのか、キーアが話しかけてくる。 「うーん…」 「言い難いこと?」 「ねぇ、キーア。初めて会った人に嫌われた時って、どうすればいい?」 セナの頭に浮かんでくるのは今日会った、クラウスのことだ。あまり変わらない表情の中に、確かに自分を見る目に嫌悪感が混じっていたのを感じた。 あんな風にはっきりと嫌いだと言われたのは初めてだった。 「嫌いなら関わらなきゃいいだけだと思うんだけど…そういうの、セナは嫌なんだよな?」 「うん」 「そういうとこ、セナのいい所だと思うけど」 「相手は迷惑かも知れないでしょ?」 「うーん、でもさ。初対面で嫌いって言われたんなら、これからいくらでも変われるだろ?セナだって向こうのこと何も知らないし、向こうもセナのこと何にもしらないんだからさ。これから知ってもらえばいいんだよ、セナのこと」 キーアの言葉を聞いてセナは起き上がる。 「セナのこと知って嫌う奴なんていないからさ。諦めるのが嫌なら、頑張るしかないだろ?」 「うん。ありがとう、キーア。大好き」 「俺も好きだぜ、セナっ!」 ぎゅっと抱き締められて、二人で声を出して笑った。 キーアのそういう、明るくて前向きな考え方には救われる。 クラウスにも言ったとおり、諦めたら何も変わらない。努力次第では前に進めるかもしれないのに、それを放棄しては何の意味もないのだ。 けれど、矢張り不安にはなる。そういう時、いつも前向きなキーアの言葉が背中を押してくれる。キーアと友達になれて本当に良かったと思う。 キーアの明るくて真っ直ぐな目を見ると、咄嗟にクラウスの暗く静かな眼差しを思い出した。 彼の中に見えた自分や、シオンに対する嫌悪感と共に見える、深い深い孤独。 今まで出逢ったどんな黒い翼よりも深い孤独を宿した瞳が、セナは気になって仕方がなかった。 |