Suicide note



 電話のベルが鳴る。
 京介はふと、意識を現実に取り戻した。最近やたらとぼうっとすることが多い。それで深春や蒼たちに余計な心配をかけてしまっている。
 深春が電話を取った。
「はい、もしもし。……ああ、遠山さん」
 その声に最後の一滴眠っていた意識も覚醒した。
「京介ですか?ええ、居ますけど…」
 ちら、と深春がこちらを伺ってくる。京介は立ち上がり、深春から受話器を受け取った。
 深春と蒼は心配そうに京介を見る。遠山から掛かってくる電話がどんな内容か気になっているのだろう。京介の様子がおかしい時にろくでもない電話は歓迎しかねる、という感じだ。しかし、今回の電話を京介は待っていた。二人が心配することではない。
「もしもし」
『桜井か?』
「ええ」
『今度の、日曜になったよ』
「…解かりました」
『九時ごろに迎えに行く。起きてろよ』
「ええ。……遠山さん」
『ん?』
「大丈夫、なんですか?」
 京介の言葉に、電話越しに微かに笑った気配がした。
『それは、こっちの台詞だな』
「…そうですか」
 それだけで十分だった。
 笑えるなら大丈夫だろう。遠山が笑っていられるのなら、京介も立って行ける。自然と口許に笑みが浮かんだ。
『それじゃあ、日曜にな』
「ええ」
 そう言って電話を切る。
 ふと二人を見ると複雑そうな顔をしていた。
「さっきの電話…」
「ああ…日曜に、出掛ける事になった」
「遠山さんと?」
「うん」
 蒼の問いかけに京介は簡潔に答える。
「デートか?」
「どーして其処で茶化すのさ!深春の馬鹿!」
 行き成りの深春のおかしな発言に蒼が怒る。深春は苦笑いを浮かべた。
「冗談だって。でも何か嬉しそうだったからさ、お前」
「遠山さんとデートでどうして京介が嬉しそうにするのさ」
「いや、それは…」
「人のことでふざけるのは其処までにしてくれないかな」
 京介は溜息を吐いて二人のやり取りを止める。
 事実、京介の気分が多少浮上しているのは間違いないし、遠山と出掛けるのも事実だが、デートではない。そんないいものじゃない。
「あ、でもさ…それって、僕たちも行っちゃダメ…だよね?」
 蒼の声は言いかけて途中で萎んでいく。京介の顔色を伺うように上目遣いで見つめてきた。
「人に会いに行くから」
「あ、そうなんだ」
 是非ではなく、簡潔に理由を述べて引き下がらせる。
 二人共通の知り合いだと思えば、蒼たちを連れて行くのは筋違いだ、と判断したのだろう。しかし、その声に何処かほっとしたような響きがあったのは気のせいだろうか。
 兎も角も、あの際限のない、居たたまれない気持ちからもうすぐ解放される、否、区切りがつけられるのだと思えば、京介も気は楽になった。
 期限があるのとないのとでは全く気の持ちようが違うものだ。


 そして、日曜日。
 呼び鈴が鳴らされ、蒼が出て行った。時間は九時少し前。遠山だろう。
 そう思って立ち上がる。
「京介」
「遠山さん?」
「うん」
 蒼は矢張り複雑そうな顔で頷いた。
 遠山の印象はなかなかよくはならないらしい。あの態度を見れば当然かも知れないが。
 京介が出て行くと遠山は玄関に立っていた。
 今日はいつもきっちりと整えられている髪を下ろしている。不意に学生時代に戻ったような気分に陥った。
「おはよう」
「おはようございます」
 簡単に挨拶を済ませると遠山はふ、と笑った。
 その遠山の表情を見て、京介は肩の力を抜いた。矢張り緊張していたらしい。
「普段着で大丈夫でしたか?」
「まぁ、いいだろう。向こうも其処まで気を回していられないだろうしな」
「そうですか?」
 いい印象を持たれていないだろう相手に、しかも死んでしまった同級生の葬儀にも出なかった人間が、その夫人に会いに行くのに普段着というの失礼ではないだろうか。逆に気分を悪くしてしまうのではないのか。
 普段は相手にどう思われようと関係ないと思う京介だが、今回ばかりはそうは思えなかった。
「例え俺たちが気を使ったって向こうの印象は良くはならないだろうさ」
 遠山は自嘲気味に答える。
「そうですね」
 それから遠山は二人のやりとりを見ていた深春と蒼に視線を移す。
「じゃあ、今日はこいつ借りてくな」
「遠山さん、僕を物みたいに言わないで下さい」
「まぁ気にすんなって」
 遠山は笑いながら京介に言う。京介は溜息を吐いて逸れ以上を言うのはやめた。
 そして二人は遠山の車に乗り込んだ。


 京介は助手席に座り、車を運転する遠山を見る。
 二人だけになった途端、雰囲気は重くなった。恐らく深春や蒼に心配をかけないために気楽に接していたのだろう。遠山自身も矢張り緊張しているのだ。
 こうしていると昔の記憶が刺激される。
「遠山さん、腕の疵は…?」
「…見たいか?」
「いえ…」
 京介の問いに揶揄を含んだ返答をする。
「疵なら何度も見てるだろう?」
「ゆっくり見ようとしたことなんて、ありませんでしたから」
 それ以前に、その事は極力思い出さないようにしていた。
「小さい疵でもないから見えなくなったとは言えないが、あまり目立たなくはなったな」
「いくつ縫いました?」
「八針…だったかな」
 その程度で済んで良かった、と思うべきなのだろうか。ひょっとしたら、もっと大変なことになっていたかも知れない。
「遠山さんが…貴方が、傷つく必要なんて何処にもないのに」
「そうかな?俺にも責任はあるさ」
「貴方の存在があってもなくても、結果は変わりません」
「あいつは、そう思ってないだろう。だったら、やっぱり俺にも責任はあるのさ。あいつにそう思わせただけの責任が」
 そう言われてしまえば、京介も否定できない。あの時の埼の憎悪は完全に遠山に向いていた。確かに、埼は遠山の存在を無視できない位置として認めていたのだ。
 関係ないと言っているのは京介だけ。
 信じては居ないのだろう。それにもう、彼に言える言葉など何もないのだから。
 憎悪と、後悔と恐怖。
 あの時の埼の表情を思い出す。
「もう、何を言っても過ぎた事にしかならない」
 遠山は呟くように言う。
 その腕の疵の真実を知っている人は三人だけだった。そして一人居なくなってしまった。もう知っているのは京介と遠山だけだ。
「そうですね」
「着くまで、寝てていいぞ」
「いえ、眠くはありませんから」
「そうか」
 遠山は横目で京介を見て苦笑を浮かべた。
「あの頃は、確かに何でもなかったけどな」
 その遠山の言葉に、京介は視線を窓の外に向けた。
 いろいろと思うところはある。罪悪感。後悔。哀惜。
 それでも、自分は何処かほっとしているのではないのだろうか?
 彼を助ける事が出来なかった。彼とちゃんと話すことが出来なかった。蟠りを解くことは出来なかった。でも、それでもこれで終わったのだと思えば、ほっとしてしまう。
 矢張り、自分は酷い人間だ、と京介は思う。
 今の遠山との関係だってそうだ。この関係を知らされることによって悲しむ人間は沢山居るだろう。朱鷺は勿論、遠山の家族や、蒼や深春も。
 悲しみ、怒り、そして、どうするのだろう。裏切ったと罵られるのだろうか。遠山はそれを全て受け入れるつもりで居るのだろう。そして、京介にはできるだけ責任が行かないように配慮するに違いない。変なところで気が回る。
 そして、この関係も、もう埼に知られる事はない。
 それにほっとしている。
 愛情がある訳でもない。ただ都合がいいだけの関係。それでも周囲はそうは思わないだろう。
 例え愛情がなくても、こんな関係を持っていれば。
 でも、本当に…。
 本当に何の感情もなく、自分はこの関係を受け入れているのだろうか。
 この関係に対する遠山の心が気になるのは何故だろう。利用していると割り切ってしまえば、相手の感情なんてどうでもいい筈だ。遠山の悲しみと痛みを、疵を、見てみたいと思うのは何故だろう。そして、どれだけ自分が彼を傷つけられるのか見てみたいと思うのは。
 其処まで考えて溜息を吐いた。
 馬鹿馬鹿しい。
 考えてもどうにもならないことだ。
 感情など考えたところでどうしようもない。感情は不特定だ。一定でいられるものではない。それを推し量ろうとする事自体どうにかしているのだ。
「桜井」
「はい?」
「考えすぎるなよ」
 その遠山の言葉に軽く目を見開いた。今まで考えていた事を全て見透かされたような気分に陥る。そんな筈はない。
 そんなことは、ある筈がない。
「とりあえず、あいつの家に行ったら出来るだけ何も考えるな」
「遠山さん…?」
「何も知らないのなら、知らないままの方がいい」
 その遠山の言葉に、京介は苦笑する。
 京介は表情に出る方ではないが、それでも女性というのは元来鋭い。特に男の感情には。それを読まれ、知られる事は避けたい。
「その言葉、そのままお返ししますよ。遠山さんの方が不安です」
「俺は何とでも言い訳できるからな」
 にやっと笑って遠山は言う。口の上手さはそれは天下一品だろう。
 それでも、結局遠山は優しい人間なのだ。京介とは違う。
 もう彼が居ない事に安心して、他人の心を想うことなど京介には出来ない。ただ、人に対する気の使い方が素直じゃないから、気づかないだけだ。
 遠山は近くの駐車場に車を止めた。家の前は駐車禁止らしい。



 其処から徒歩で五分ほど。
 『埼』という表札が掛かった家の前で立ち止まる。遠山は大きく息を吐いた。
「やっぱり、緊張するな」
 遠山は京介の方を見て苦笑した。
「変わりましょうか?」
「いや、いい」
 遠山は軽く首を振る。
 それにしても、自分たち二人はこの住宅街からは浮いているだろう、と京介は思う。京介は顔の半分を前髪と眼鏡で隠しているし、着ている物も何処にでも売っているYシャツである。それに比べて遠山は、今日に限っては髪を下ろしていたが、だからこそ尚更目鼻立ちの良さが際立つ。着ている物も仕立ての良いスーツだ。
 この組み合わせ自体が妖しい事この上ない。
 遠山は呼び鈴を鳴らす。
 家の奥から返事が聞こえ、ドアが開けられる。
 出てきたのは美人とまでは言えないが、それでも優しげな顔立ちをした女性だった。京介より一つ二つ年は下だろう。埼には似合いの女性だ。
 彼女は二人を見て軽く目を見開いた。二人とも身長は180を超えるから標準的な体型の彼女にしてみれば随分大きく見えるだろう。その上どうにも組み合わせが微妙だった。
 それでも、彼女はその驚きを一瞬で奥に押し込めた。
「遠山さんと桜井さんですね?」
「はい」
「では、中にどうぞ」
 確認をすると頭を下げ、そして中に招き入れた。気丈である。
 彼女は何処まで理由を知っているのだろう。
 リビングに通され、ソファに座るように進められる。
「御焼香をさせていただいても?」
「いえ、それはお断りします。それがあの人の遺志ですので」
「そうですか」
 優しげな顔立ちの中に芯の通った強さを感じる。
 焼香を断るのも普通はないだろう。彼の遺書にそう書かれていたのだろう。それを実行する彼の妻の想いとはどんなものだろうか。
「コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
「お構いなく」
「これは、私の意地ですよ」
 彼女の問いに遠山が答えると、微笑んで我を通す。
 遠山は其処で大人しくコーヒーを頼んだ。
 彼女がキッチンに入っていくのを見届けて、遠山は軽く息を吐いた。
「桜井」
「何です?」
「あまり考えるなと言ったろう」
 顔に出ていただろうか。京介は苦笑する。
「解からないでもないけどな。こんな奥さん残して、勿体無い」
 遠山も、彼女の強さに感嘆しているのだろう。
 彼女はコーヒーを三つ入れてくると、京介たちの向かいのソファに腰掛けた。
「今日はお出でいただきありがとうございます。葬儀の席を断ったのも主人の遺志とはいえ、結局は私の我侭です。その上今回の訪問を快く承諾して頂いたのは有難いと存じます」
 口調は固い。
 社交辞令のようでいて牽制する強さもある。
「お二人のことは、何度か主人から聞きました。とても芯のしっかりした優しい方たちだと。仲違いをしたまま離れてしまったけれど、今でも親しく想っている方たちだと言っておりました」
「埼が、そんなことを…?」
「ええ、高校時代のアルバムを開きながら懐かしそうに話していた事があります」
 彼女は穏やかな顔で微笑んだ。
「あなた方の間に何があったのか、私は詳しい事は聞いていません。あの人も話したくはなさそうだったので、敢えて聞こうとも思いませんでした。ただ、遺書には私に対する謝罪と、あなた方に対してどのようにして欲しいのかが書いてありました。通夜にも葬儀にも参列して欲しくはない。墓に参る事も、何もかも必要ない。ただ一つ、二人に当てた手紙を、あなた方に渡して欲しいと」
「手紙…ですか」
「ええ、こちらになります」
 彼女は白い封筒をテーブルの上に置いた。
 それを置いた彼女の指は細くて白い。
「遺書に、理由は書かれていましたか?」
「それは書かれていませんでした。ただ、自分の我侭とそれだけしか。この手紙には書いてあるかも知れませんが、それ以前にお二人は理由を知っているのでは?」
 その言葉に京介も遠山も、彼女から視線を逸らせた。
 気まずい空気が流れる。
 彼女は知っている。全て。埼が話していなくとも、理解しているのだ。
 きっと、埼が話す高校時代の言葉の端々にそれを感じる事が出来ただろう。その時の彼女の心情はどんなものだったろう。
 恨まれても、何の不思議もない。
「お受け取りください」
 彼女はしっかりと二人を見つめて言う。遠山は、また彼女に視線を戻し、封筒を手に取った。その封筒は、やけに重そうに見えた。
「ありがとうございます」
 彼女は微笑んだ。笑顔の似合う女性だ。
「私は、あなた方に恨み言を言うつもりはありません。人の感情はどうしようもないものです。それは決してあなた方の責任ではない。ですが、それでも、矢張り私はあの人の死は悲しいし、あなた方に会うのにも大分迷いました。これで、お二人と会うのは、最初で最後です」
「ええ、そのつもりです」
 遠山は立ち上がり、彼女に頭を下げた。それに続いて京介も立ち上がる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 そうしてもう一度、頭を下げる。
 彼女は玄関まで二人を見送った。
 家を出て、京介は初めて空を見上げた。
 皮肉なくらいの晴天である。



 車に乗り込むと、遠山は深々と溜息を吐いた。
 緊張が一気に途切れたらしい。それは京介も同じだった。
 遠山はハンドルに体重を預けて京介を見た。
「寄り道、していいか?」
 その遠山の問いに、京介は頷いた。京介も、このまま真っ直ぐ帰る気分ではなかった。



 近くの森林公園の駐車場に車を止めると、二人で歩く。
 子供連れの家族や、恋人同士、老年者、ジョギングに励む人。いろんな人が居るが、それでも自分たちは浮いているだろうと思う。
 風もほとんどなく、緑はキラキラ光って見えた。噴水の傍では子供達が走り回っている。
 穏やかな光景。
 その中で遠山は、今日受け取った封筒を取り出した。
 封筒から手紙を取り出し、遠山は暫く立ち止まり視線を走らせる。そして空を見上げて目を細め、京介に手紙と封筒を押し付けた。
 京介は大股に歩き出した遠山に着いて行きながら、手紙を見た。
 読み終えると、その場で手紙を破いて、近くに置いてあったゴミ箱に捨てた。遠山を見れば、立ち止まり、京介の方を見て苦笑いを浮かべていた。
 それだけで、彼と自分が今、同じような気持ちでいるという事が解かった。




 桜井と遠山先輩へ
 先輩…と呼ぶのはもうおかしい気がするけれど、ずっと俺の中では変わらず遠山先輩は先輩だったのでそう呼ぶ。
 二人がこの手紙を読んでいるということは、今俺はこの世にいないという事だし、先立つ自分は何処か優越感に浸りながらこの手紙を書いている。残されるものよりは残すものの方が圧倒的に有利なのだと思う。
 二人は俺の死に対して何を感じている?怒り?悲しみ?責任?
 どれでもいい。どれだってざまぁみろ、と言ってやりたい。
 どうせ二人はまだ一緒に居るんだろう?結局離れられないで居るんだろう?二人とも自覚はしていないのかも知れないけれど、やっぱり二人はあの頃、俺の目には特別に繋がっているように見えた。
 ただ、俺が死ぬのは二人の所為じゃない。自分の責任だから。責任を感じるのはお門違いだとだけ言っておこう。
 俺が死を選ぶのは、今の穏やかな愛情に包まれている事よりも、昔の苛烈な恋を忘れられないで居るからだ。苛烈としか言いようのない衝動にも似た想いを忘れられないで居るからだ。そして、その想いに身を任せて死を選ぶ事が、俺にとっては最善だったからだ。
 二人に対してはあまり責任は感じない。ただ、残していく妻にだけは謝りたいとは思う。死んでしまえば話にはならないけれど、やっぱり俺は彼女のこともちゃんと愛していたから。それでも忘れられないものを、二人は俺の中に植え付けたんだ。
 だから、やっぱり責任を感じるのは当然、かな。自分でも無茶苦茶言っているとは思うのだけど。
 あの時、俺がどうしようもない感情から遠山先輩を刺したとき、二人とも俺を恨まなかった。否、桜井がどうだったのかは、未だに俺もよく解からない。でも、先輩は俺を恨まなかった。それどころか俺を庇って、自分でやった事にしてしまう辺りはとんでもないお節介だと思うよ。
 そして、二人が未だに俺に対して負い目を感じている事も知っていながら、俺も二人に対して申し訳ないと思いながら何もしなかった。
 結局どっちもどっちなんだろう。
 俺は今から逃げていく。
 二人の追いかけられない場所に逃げていく。
 先輩と桜井が一緒に居る限り、二人は俺のもとには来れないと確信しているから。
 そして、二人が結局は離れられないことを俺は知っているから。
 取りあえず、最後の最後で、俺は二人に勝てたんだと思う。
 そう信じてる。
 だから、馬鹿みたいに悲しんだら許さない。俺のために涙を流す事だって許さない。そして、俺の死を一生忘れずに生きていけばいい。
 でも、やっぱり最後に謝りたいから、だから一言だけ。
 ごめん。
 ありがとう。
 さようなら。





 死ぬ前の感情なんて支離滅裂で当然だと思うからそれは仕方ないのだろうけど、それでも結局は彼らしい文面だった。
 想いは残す必要はない。
 ただ、刻み付けられた。
「全く、本当に負けたよ」
 苦笑いを洩らしながら遠山は言った。
「そうですね」
 負けた、としか言いようがない。自分が死ぬ事をどうしようもなく止められず、それで居ながら残される者に対して、結局は責任を感じないようにしているのだ。
 優しさが滲み出ていた。
「勝ち逃げされちゃ、どうしようもない」
「ええ」
「………帰るか」
 遠山は深々と溜息を吐いた。
 気分は妙にすっきりとしていた。これも思い出に変えるのだろう。そして、それを思い出すとき、遠山は自分の隣に居るのだろうか。
 埼がそう言ったように。
 離れられないのだろうか。


 深春のマンションまで送り届けて貰う。
 京介が車から降りると、遠山はドアのウィンドウを下げて、顔を出した。
「じゃぁ、またな」
「ええ」
 笑う遠山に、京介は頷く。
 そのまま別れるのもいい、そう思ったけれど、不意に衝動が湧き上がった。
「遠山さん」
「ん?」
 名前を呼ぶと遠山はこちらを向いた。
 その遠山の襟首を掴んで、口付けた。
「……オイ」
 口唇を離して遠山を見ると、呆れた顔をして京介を見ている。
「見られたらどうすんだ?」
「大丈夫でしょう」
「此処が、何処だか、解かって、言ってんだな?」
「ええ」
 一つ一つ区切って言う遠山に京介は微笑んで頷いた。
 その京介の様子を見て、遠山は深々と溜息を吐いた。
 此処はマンションの前。人通りも全くない訳ではない場所で、いつ深春や蒼に見つかってもおかしくはない。それは解かっていた。
 二人に見つからなくとも、近所の人間に見つかる可能性だってある。
 だが、それでも構わない。
 本当にそう思ったから。
「桜井」
「はい」
 遠山が京介に手を差し伸べる。京介は誘われるまま遠山に近づいた。遠山の手が京介の首の後ろを掴む。
 そして、もう一度口付けた。
「満足か?」
「はい」
「そりゃあ良かった」
 遠山はにやり、と笑う。
「じゃ、またな」
「ええ、また」
 京介は遠山の車から一歩離れた。
 車が走り出す。
 京介は見えなくなるまでその車を見送った。
 この衝動の意味は解からなかった。遠山は解かっているのかも知れない。
 でも、京介はそれをあの手紙の所為だと思うことにした。彼が、二人に遺した手紙の所為だと思うことにした。
 彼が、遠山と京介の事を知ったように書くから。
 それを、試したくなかったのかも知れない。
 そう、思うことにした。



Fin





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