いつも待ち合わせをする場所に時間通りに行くと、いつものように遠山は京介より先に来て待っていた。こういう時、いつも遠山の方が先に来る。 そして、いつも京介を先に見つけて気づくのを待っている。 それは今回も変わりない。 「待ちましたか?」 「そうでもない」 この会話ももう常となった。 しかし、今日の遠山は何処か素っ気無い。 「?」 何処が違うと言っても明確には判断出来ないが、確かに常と違う雰囲気がする。 「何だ?桜井」 「いえ…」 遠山をじっと見つめていた京介に、訝しげに尋ねてくる。 尋ねたいのはこちらの方だが、だからと言って何が違うと言い切れないのだから何を尋ねたらいいのかが解からない。 ただ、いつもと違う、ということだけは確かだ。 いつものように、ホテルに入る。 部屋に着くと、遠山はすっとネクタイを解く。 遠山と視線が合う。これは、いつもと違う。遠山が、ではなく、京介が。遠山の動作はいつもと変わりない。全く変わらないのに空気が違う。 京介は、「いつものこと」に緊張している。 遠山が京介に近づき、触れてくる。京介が緊張しているのを、遠山も感じている筈だ。じっと遠山を見つめると、予測出来ずにベッドに押し倒された。 「―――ッ」 スプリングが効いているとはいえ、背中を打ち付けて息が詰まった。そして遠山は間を置かずに京介に口付けてきた。 「んっ…ぅ…」 口唇が押し付けられる。京介は押し退けようとするが、力で敵うはずもない。目を開いて遠山を見ると、視線が合う。 その瞬間に、いつもと何が違うのかが解かった。それと同時に遠山の舌が口内に侵入してくる。 「ふ…ぅ…ぁ…っ」 舌を絡め取られ、好きなように弄ばれる。 「いつも」なんて通用しない。遠山自身が「いつも」とは違う。目が笑っていない。たった、それだけのことだが、それが思いの外大切なことなのだと理解する。 「…ぁ…ゃっ…」 慣れた舌は口付けだけで快楽を引き出してくる。 しかし、それも遠山に対する恐怖で身体は引きつった。「いつも」の遠山の目を思い出す。何処か笑いを含んだ瞳がどんな時でも覗いていた。それが今は見えない。それが不安にさせる。 身体を押さえつけられる恐怖は初めての時と同じ感覚を京介に与える。敵わない、どうしようもない。でも、今はその時以上に最低だった。 あの時はそれでも見えた気遣いが、今は全く見えない。 「…ぁ…ふっ…ゃめっ…!」 京介が拒絶の声をようやく出すと、遠山がようやく離れた。 息が乱れて、言葉を出すことは出来ない。ただ、遠山を見つめる。 遠山が普段きっちりと整えている髪は先ほどのキスの間に京介がいつの間にか掴んで乱していたらしく、崩れている。その髪を遠山は溜息を吐いて掻き揚げた。 「…今日は、やめよう」 押し殺したような声が遠山の口から漏れる。 「遠山さん?」 「さっきからずっと苛々してる。上手く押さえられない。続けたら酷くしそうなんだ。やめよう」 遠山は自分の状態を自覚して、京介にそう言っているのだ。 確かに、今の遠山はいつもとは違う。遠山はいつも何だかんだと言いながら優しい。だが、今日はそれが無理だろうと言う事は、京介にも解かる。 だが、京介はその状況に惹かれた。 酷くされるかも知れない。 でも、今なら、遠山の本心が見えるかも知れない。 この関係に対する、遠山の本心が。 その誘惑はとても甘い。遠山に抱かれるたびにいつも何処か京介を苛んでいた訳の解からない焦燥が、その原因が見えてくるかも知れない。 その契機を潰すのは勿体無い。 「遠山さん」 京介は遠山の名を呼ぶ。それを聞いて遠山は京介を見る。 「しましょう」 「桜井?」 「続きを」 「桜井、お前…」 遠山は訝しげに京介を見る。当然の反応だろう。顔を顰めて京介を見つめる。其処から本心を探り出そうとするように。京介を見る目は強いが、何処か歪んでいる。怒りか、悲しみか。其処にある感情が何なのかは解からないけれど。 その目が京介に与える緊張は強い。首の後ろがちりちりと痺れるようだ。 「…自分が、何を言ってるか解かってるのか?」 「ええ」 「俺は嫌だ」 京介は微かに目を見開いた。初めての拒絶の言葉。噛み締めるように言った台詞は痛い。 「お前を傷つけるようなことはしたくない」 「遠山さん…」 それは本心だろう。そう言う遠山の表情は悲壮だとさえ言える。しかし、京介はそれを気にしてもいられない。理性と感情の隙間を突く。 「恐いんですか?僕を傷つけるのが」 「桜井…」 「傲慢ですね」 傷つけたくないというのなら、最初から近づかなければいい。それは遠山だって解かっている筈だ。遠山の表情が悔しげに歪む。 「始めは僕が誘ったんです。貴方はそれを受け入れた。受け入れたからこそこの関係が続いているんでしょう。僕がいいと言っているのに何を悩む必要があるんです?」 「お前っ…――――っ」 言いかけて、言葉を飲み込む。 まだ、足りないか。 「貴方なんかに、僕が傷つけられる筈がない」 「桜井!」 遠山は京介の襟を掴んでベッドに押し倒す。首が絞まって苦しい。 「お前、お前は―――…、本当に、どうなってもいいんだな?」 理性よりも、感情が勝る。京介が何を思っているのか理性は理解していても、それでも元々不安定な感情に押し切られてしまう。 「…ええ」 最後の確認の言葉に、京介は微笑む。 遠山に京介を傷つけられる筈がない。何故なら、今遠山を傷つけているのが京介自身なのだから。 遠山は諦めたように吐息を零し、京介に口付けた。 ギシ…っとベッドのスプリングが悲鳴を上げる。 京介の両手はネクタイで後ろ手に縛られ、自由が利かない。うつ伏せに押さえつけられ、不安定な体制に顔が歪む。 嫌になる程前戯を繰り返し、今は京介の秘所に舌を這わせている。 「ふっ…ぅ―――っ」 京介は苦しげに息を洩らす。煽られるだけ煽られた身体に、舌のぬめるような感触は核心には触れないくせに、快感を助長していく。 ピチャリ、という濡れた音に羞恥を煽られる。今まで誰も、こんな風にその場所に触れたことはなかった。けれど、遠山は念入りに其処を舐める。舌が周りを這い、奥に押し込むように伸ばされると、京介の肩は震えた。 「はぁっ…ぁ、あ…」 唾液を流し込まれ、指で、広げられる。しかし、指も入り口に触れるだけで、奥までは入ってこない。こんなものではなく、もっと直接的な快楽が欲しい。焦れるだけ焦らされ、京介の理性も切れそうだった。 「ぁ…っ、遠山…さん…っ、もう…」 「まだだ。なぁ、大丈夫だろう?」 「―――っ」 遠山の言葉に、強請る言葉を飲み込む。逆らわないのも、拒絶の声を出さないのも、京介の矜持だった。自分が誘ったのだ。それなのに拒絶することは許せない。 自分に許さない。 嫌だと、止めて欲しいという言葉を、必死に押さえる。 遠山は京介の秘所に指を差し入れる。唾液で濡らされた其処は容易く指を飲み込んでいく。二本目を入れると、ゆるゆると指を動かした。前立腺には触れずに、その周りをなぞるように回す。 「ぁ!ぁ、あ…んっ…」 「相変わらず、貪欲だな」 そう呟くと、指を三本に増やす。バラバラの動きをする指は、それでも核心に触れることはない。ただ中を押し広げ、掻き回す。 達したくても達することが出来ない。 「イきたいか?」 遠山の言葉に、京介はただ頷いた。 くすり、と笑った気配がしたかと思うと、指をぐるりと回転させる。その指が前立腺を引っ掻く。 「ひっ…ぁ、ぁあっ!」 ドクンッ、と熱い飛沫が飛び散る。 視界がぼんやりする。口に入ってくる水分が汗なのか涙なのかよく解からない。息が乱れて苦しい。けれど、そんな京介に遠山は非情な言葉を投げかける。 「桜井、まだ終わってないぜ。俺はまだ何もしてないだろう?」 「ぁ…うっ」 言ったかと思うと、中の指を前立腺に擦りつけた。 名前を呼ぶ声が冷たく響く。 身体を起こされ、縛られていた手が解かれる。 「遠山さん…?」 「やっぱり、痕がついてるな」 遠山が縛られた腕を掴んで言う。紐で擦れて、手首は赤くなっている。 何を考えているのだろう。遠山は口許に笑みを刻んだ。そして、赤くなっている手首に舌を這わせる。京介は手を引こうとするが、強く掴まれていてそれは敵わない。 「っ…んっ…」 「これでも、感じるのか?」 嘲笑うような言葉に、カッと頬が熱くなる。 しかし、反論しようとしても、言葉が出て来ない。遠山は其処を念入りに舐めながら、秘所に入れたままの指を動かした。 「…ぁ…っ…ぁ、あ…」 一度は静まった熱がまた呼び起こされる。 ねっとりと舌を這わされるその感触に震えながら、奥を掻き回す指にも翻弄される。意識をどちらにも集中することが出来ず、強制的に快楽は強まっていく。 「ぅ、あ…っ、と…やまさ…っ」 名前を呼ぶと口付けられる。舌が歯列をなぞり、京介のそれに絡みつく。膝立ちにさせられ、指は京介を苛み続ける。 「ふぅっ…ぁ…ぁんっ…」 溢れた唾液が口から零れる。飲み込むためにこくり、と喉を動かすと、空いた方の手が京介の喉を撫でた。 「んんっ…ぅ、…っあ」 喉を押さえられて、呼吸が出来なくなる。否、出来ない筈はないが、その押さえてくる指に呼吸を奪われている。 呼吸も奪われ、尚遠山は口付けを続ける。 苦しさの余り、京介は遠山に縋りつく。 「ぅ…ん…はっ…ぁ」 酸素が足りなくて、頭が白くなる。 気が遠くなるが、中で動く指に意識が引き戻される。 呼吸を。息をしなければいけないのに、どうすればいいのかが解からない。 散々口内をなぶられ、京介が限界だと思ったところでようやく解放される。 口唇が離れると、銀糸が後を引く。 「は、ぁ…けほっ、けほ…っ、はぁ…」 喉を押さえていた指が外され、呼吸が出来るようになると、京介は咳き込んだ。 冷えた空気が喉に入る。それが痛いぐらいだった。 指を抜かれると、京介はベッドに倒れこんだ。 ギシッ、とベッドが軋む音がする。京介は自分の上に覆い被さる遠山をぼんやりと見つめた。その目は京介とは反対に冴え冴えと怜悧なほどに冷たく乾いている。 「桜井、まだ、足りないよな?」 そう、煽られた身体には、まだ、足りない。 「どうして欲しい?」 遠山が尋ねる。 そんなこと、聞くまでもないだろう。 「言ってみろよ」 遠山は、京介に言葉を要求する。 朦朧とする意識に流されるまま京介は言葉を紡いだ。 「入れて…遠山さん、のを…入れて、ください…」 「入れるだけでいいのか?」 「動いて、掻き回して…イかせて…」 求められる答えを、自分が望む言葉を、京介は答えていく。 「だったら、どうしたらいいか、解かるか?」 京介はこくりと頷き、前に屈み込んで遠山のものを口に含んだ。舌を這わせると、遠山のものが少し大きくなる。 遠山が、京介の頭を撫でる。その手が優しくて京介は目を細めた。先端を舌先で突付くと、途端に容積が増して、息が苦しくなる。 「ふッ…んんっ」 それでも、口から離すことなく、愛撫を続ける。 歯を立てないようにしながら、舌を使う。 「桜井、もういい」 遠山が髪を引っ張り顔を上げさせる。 口付けられると、今度は京介から遠山を求める。舌を伸ばすと、絡められ、甘噛みされる。 「んっ…んんぅ…っ」 「桜井、後ろを向いてうつ伏せになれ」 京介は遠山に言われるままに後ろを向く。遠山は京介の腰を持ち上げ、ゆっくりと其処に押し入れる。散々慣らされた其処は、遠山を容易に受け入れる。 それでもその大きさに、痛みはなくとも苦しくなる。 「ぁっ…ん、くっ…」 京介が息を詰めて、シーツを握りこむと、遠山をキツク締め付ける。その所為で遠山の形がはっきりと解かり、びくっと震えた。 これが欲しかったのだと身体が訴える。 自然と腰が揺れるが、遠山はそれを押さえた。 「まだ、だ」 低い声に、京介は萎縮する。 「勝手に動くなよ」 早く動いて欲しいのに、遠山はそれを許さない。 遠山は京介の腰を抑えたまま、ゆっくりと腰を動かした。 「ぁ…」 前立腺を避けるように動きながら徐々に京介の快楽を高めていく。ゆるりと浅い刺激を繰り返しながら、京介の前を握りこむ。 「ぁ、…あっ…んっ…ぁ…」 律動はだんだんと強まっていく。それに合わせるように京介の口からは嬌声が漏れた。 前立腺に一度擦りつけると、京介のものが大きくなり、先走りが遠山の手を濡らした。背筋から這い上がってくるような快楽に、京介の瞳からは生理的な涙が絶えず溢れてくる。 「はぁ…ん、ぁ…ぁあっ、ぅ…ぁあっ…」 達しそうになると、遠山は根元を握ってそれを留めた。 快楽は増すばかりで留まることがないようにさえ思える。 「遠山さん…遠山さ…んっ…ぁ、あっ」 名前を呼ぶと、遠山は大きく腰を動かし、前立腺を刺激する。それでも矢張り達することは許されなかった。 「ちょっと、やりにくいな」 「え?…――――ぁっ!」 遠山は京介の身体をそのまま抱き起こした。その所為でより深く遠山を飲み込んだ。 「こっちの方がいいな、手が空く」 そう言って、空いた方の手で、京介の胸の飾りに触れた。 赤く立ち上がったそれを摘むとぴりぴりとするような快感に京介は震えた。 「ぁあっ!…んっ、ぁ」 「いい声だな」 耳元で遠山の低い声がして、息が掛かる。それに京介はぎゅっと目を瞑った。 遠山は小刻みに腰を動かしながら、胸の飾りを爪で引っ掻いた。 「ひっ…ぁ、ぁあっ!」 京介は悲鳴のような声を上げる。 その声を聞いて、遠山が笑う気配がする。首筋に息がかかる。 「ぁっ…遠山さ…、もうっ―――」 「ダメだ、俺は満足してない」 「ぅあ―――っ」 解放を強請っても拒絶され、尚更強く握りこまれた。 もう耐えられないと思うのに、それでも解放は許されず、京介はおかしくなりそうだった。 いつもとは違う、遠山の愛撫に気が遠くなるが、意識を飛ばしそうになると、前立腺を刺激され、正気と快楽の間に留められる。 「まだ、足りないよな?」 遠山は確認するように呟いて、京介の先端に爪を食い込ませた。 「ひぁっ!ぁ、ぁあ、あっ、ぁぁあっ!!」 京介は叫び声を上げる。 最早それは快楽よりも痛みに近い。鋭敏になった身体に触れてくる指は全て快楽に変換される。 「ぁ、ぁあっ、とおや…まさ…、もうっ、もう…おねが…」 イかせて欲しい。 そう強請る声に返す遠山の言葉は無情だ。 「まだ、ダメだ」 遠山は耳の後ろの京介の弱い場所に口唇を近づけ、吸い付いた。 「ぁああっ!ぁあ、ぁ、ぁ…っ」 舌が耳の穴に差し入れられ、兎に角快楽を深められる。 苦しい。 痛い。 辛い。 嫌だ。 「ぁっ、ゃ、嫌…っ、嫌…もうっ、やめ…っ!」 「やっと、言ったな」 その言葉に、すぅっと頭の芯が冷える。 言わされたのだ。 京介が自分自身に禁じていた言葉を言わせようとしていたのだ。 けれど、後悔に苛まれたのも一瞬で、遠山は大きく腰を動かした。 「ぁっ…ぁ、ん―――っ」 「イきたいんだろう?」 「ぅ、あ…、イき…たい、イかせ…て…ぁあっ」 煽られて、京介は答える。 「じゃぁ、イかせてやる」 遠山は大きく腰を動かし、奥まで楔を打ち込み、それにあわせて前を扱く。 「ぁ、ぁぁあっ!!」 それと同時に遠山を締め付け、中に遠山の熱い飛沫が飛び散る。 「―――っ」 遠山の息を呑む声を聞いて、そのまま京介は意識を手放した。 意識を取り戻すと、ゆっくりと重い瞼を開ける。 全身が重い。 首をゆっくりと動かすと、隣のベッドに腰掛け、煙草を吸う遠山が目に入る。シャツを羽織っただけの姿で、じっと壁を見つめている。 その瞳はやはり常とは違い、怒りか悲しみか、何とも言えぬ感情を湛えている。 「遠山さん…」 名前を呼ぶが掠れて自分でもほとんど聞き取れないほどだった。喉が渇いて痛い。 それでもその声に遠山が気づき、視線を京介に向ける。はっとしたように、煙草を灰皿に押し付けて立ち上がり、備え付けの冷蔵庫まで行く。ミネラルウォーターを取り出し、京介に渡した。 京介は起き上がろうとしたが、身体が重くてなかなか起き上がれない。遠山はそれを手伝い、京介の背に手を回した。 ミネラルウォーターをゆっくりと飲む。喉が潤いすぅっと奥まで冷えていく感覚にほっとする。 「桜井…」 名前を呼ばれ遠山を見ると、苦虫を噛み潰したような顔で、京介を見ている。そしてゆっくりと目を瞑り、京介を抱きしめた。 「桜井…すまない」 「遠山さん?」 「すまない、悪かった…あんなことをして…」 謝る遠山に、京介は苦笑いを洩らす。 誘ったのは京介だ。遠山は悪くない。 その遠山の様子に、昔のことを思い出し、尚更笑いが漏れた。 「そんな風に謝られると、あの時を思い出しますね」 「え?」 京介の言葉に、遠山は顔を上げる。 「まだ、会ったばかりの頃、六月の始めだったか…その時にもやっぱり貴方はこうして謝った」 「あ、あれは…っ、あれは、俺が悪いんだから当然だろう!」 「僕も、そう思いましたよ。でも、あんな風に必死に謝られると、恨めなくなってしまう」 自分が京介を傷つけたと思って、京介よりも傷ついた顔で謝ってくる。そんな風にされて、どうして恨める筈があるだろう。 「恨んで当然だろう。あれは、俺が原因だから…」 「でも、助けてくれたのも遠山さんだったでしょう。必死で、焦って…でも、遠山さんが原因だったとしても、それは遠山さんのせいじゃない」 「桜井?」 あの時までは、ただ、鬱陶しい上級生でしかなかった。京介の容姿に興味を持って構ってくるだけの鬱陶しい存在でしかなかった。知らない振りをして、あの時そのまま終わらせる事も出来たのに、ただの、過ぎていくだけの存在で終わらせる事が出来た筈のなのに、遠山は、京介が傷ついた分だけ傷ついた。 遠山は、京介が思っているよりも、京介のことを見ていたのだ。ちゃんと。 「それに、今回のことだって、誘ったのは僕です。貴方のせいじゃない」 今の遠山は何とも言えず、情けない顔をしている。その顔に思わず笑みが漏れた。 「貴方が責任を感じる必要なんてないんです」 「桜井…本当に、お前は―――っ」 まだ何かを言い募ろうとする遠山に京介は口付けた。 「謝らないでください。これは僕自身の責任なんです」 「…」 京介の言葉を聞いて、遠山は諦めたように溜息を吐いた。 遠山は、京介が何をしても自分は傷つかないと言った。でも、そんなことはない。傷つかない人間なんていない。 遠山を傷つける術を、京介は持っていた。ずっと前から。 「遠山さん、今日は一体どうしたんです?何があったのか、聞いてもいいですか?」 京介はじっと遠山を見詰めて尋ねる。 「あ、ああ…ああ、そうだ。本当はもっと早く言わなきゃいけなかった」 「遠山さん?」 「こんなことをしている場合じゃなかったんだ。本当は…」 そう言って、遠山はもう一度京介を強く抱きしめた。 「桜井―――。埼が……埼が、死んだ」 「え?」 一瞬、遠山の言った事が理解できなかった。遠山の、京介を抱きしめる腕が震えている。京介の記憶の中にある埼と言えば、たった一人しかいない。 その穏やかな顔を思い出す。 「どうして…?」 「…自殺…だって…」 押し殺した声が悔しげに滲む。 「何も、出来なかった…俺は、あいつに…っ、あいつは――っ」 「彼が、死んだ…?」 頭がぐらぐらする。遠山の、悲しみとも怒りともつかない瞳を思い出す。遠山は今どんな顔をしているのだろう。京介の肩に顔を埋めて見えない。 今日の、遠山の瞳は、あれは、自己嫌悪だ。 ようやく解かった。 「何か出来た筈なんだっ、いつか何とかなると思って、でも結局何もしなかった…俺は、逃げてたんだ、あいつから…」 それは違う。逃げていたのは遠山じゃない。京介だ。 京介が思い切れないから、遠山は何もしなかったのだ。 決して嫌いではなかった。憎むことなど出来なかった。ただ、すれ違い、仲違いしたまま離れてしまった。いつか、また、昔のように話すことが出来るだろうと馬鹿な幻想を抱いて。 「もっと、もっと早く、あいつに会うべきだった」 泣きそうな声に、京介は遠山の背に腕を回した。 後悔と自己嫌悪、それは京介も同じだ。否、京介は尚更に。 傷つけた彼に何も出来ないまま、彼は逝ってしまった。こうなる前に何か出来たかも知れないのに。何もしなかった。 「あいつ、結婚してた」 「…」 「奥さんから電話がかかってきてさ・・・死んじまったって」 泣きそうな声。でも泣けないだろう。 泣く事など許されない。 「葬儀は…?」 「今日」 「…え?行かなくて…?」 「来るなって言われた。俺とお前は…」 「じゃぁ…」 自分たちが原因なのか。彼が死んだのは。 彼が、死を選んだのは。 「また、後日会うことになった。日が決まったら連絡する」 「…解かりました」 京介が了承の言葉を言うと、ようやく遠山は京介から離れた。 「やっと、言えたな」 苦笑いを洩らしながら、遠山は言う。 「言えないかも知れないと、思ってた。電話もらったのは三日も前だったんだ。本当は、もっと早く言わなきゃいけなかったのに…」 気持ちの整理の付かないまま、京介に知らせることは出来なかったのだろう。 思いもかけない人物の死は、遠山の普段は隠れている傷を露にした。 普段は、疵を隠すのが上手いだけだ。遠山は、大切な人が傷ついた分だけ自分も傷ついている。 遠山には、京介と同じ疵がついている。同じ疵を、自分でつけたのだ。その疵を背負い、隠すことで、京介の傍にいる。本当は、彼が傷つく必要などないのに。 誰かを傷つく事はしたくない、出来るならしたくはなかったけれど、遠山の疵を見るのは嫌ではなかった。否、疵を見るために、尚更に傷つけた。 少しだけ、遠山の本心が見えた気がした。 京介は、もう一度遠山に口付けた。 「桜井…」 「本当は、こういう事をするのは、彼に対して酷いことですよね」 後ろめたさがある。 遠山は、悲しげな顔のまま、それでも口許に笑みを刻んだ。 「酷いな。とても、酷い」 そう言って、今度は遠山から京介に口付けた。 そうやってキスを繰り返す。 自分たちを傷つけあうために。 それが、自分たちなりの、彼への追悼だった。 Fin |