ある日の事。 突然、本当に突然、朱鷺がやってきた。 猛烈な勢いで泣きながら。 「蒼―――――――ッ!!!ねぇ、聞いてよ!!!蓮の奴ってば、浮気しやがったのよッ!!!」 泣きながら蒼に抱きついている姿に深春は呆れる。しかも言葉づかいも無茶苦茶になっているかと思えば、言っている内容も無茶苦茶だ。 「う、浮気?遠山さんが?」 「そうよ!!うわーーーーんっ!!」 そしてまた泣き出す。 蒼はほとほと困り果てた様子だ。助けを求めるように蒼が視線をこちらに向けてくるが、そんなものは無理だ。京介はと言えば、矢張りこういう事に巻き込まれるのはごめんとばかりに我関せずを決め込んでいる。 「ね、ねぇ朱鷺。それって何かの間違いじゃないの?」 「間違いなんかじゃないわよ!!肩にきっちり誰かの爪痕がついてるのよ!!私がつけたんじゃないもの、浮気してるに決まってるわ!!」 「遠山さんには言ったの?」 「言ったわよ!そうしたら猫に引っかかれたんだって見え透いた嘘を言うのよ!!」 「本当なんじゃないの?」 「今の蓮の何処に猫に引っかかれるような環境があるのよ!」 そんなもの、蒼に答えられる筈がない。 朱鷺の暴走はどんどんエスカレートしている。大体、こういう話はこの男所帯じゃなくて、女友達とか家族とかにするものではないのだろうか? 「今から考えてみれば妖しいことはいろいろあるのよっ。一週間に一回は必ず連絡の取れない日があるし…ああ、蓮の馬鹿ーーーーーっ!!!」 泣き崩れる朱鷺をどうすればいいのか蒼は困惑している。大体、夫婦喧嘩をこんなところに持ち込むなんて、はた迷惑もいいところだ。 「で、でも、遠山さん、朱鷺にベタ惚れっていう感じだったよ?浮気なんてそんなこと…」 「蒼、あなたは蓮が浮気しないような性格に見える?」 「そ、それは…」 「見えないな…」 蒼が言葉に詰まるのに続いて、深春もつい本心を呟いてしまう。 あの顔、あの性格を見ると、どうも軽そうなイメージがあるのは否めない。否定する材料を探す方が難しいかも知れない。しかし、このまま此処に居座られるのも困る。 「ねぇ、桜井氏、高校の時はどうだったのよ、知ってるんでしょ!?」 「…」 矛先が京介に向き、彼は物凄く嫌そうな顔をする。出来る事なら関わらずに済ませたかっただろうことは言われなくてもよく解かる。 「黙ってないで言いなさいよ!どうだったの!?」 「何をです」 「蓮の女性遍歴についてよ!!」 いい加減にやめて欲しい。大体、さっきから大音量で叫びっぱなしである。近所迷惑もいいところだ。耳が痛い。 暫く迷惑そうな京介と怒り心頭の朱鷺は睨み合ったが、京介が先に諦めたように溜息を吐いた。 「…特に彼女というのは居なかったようですけど」 「特にって?どういう意味よ?」 「遠山さん自身は人気がありましたけど、あまり相手にはしていなかったようですよ」 「そ、そうなの?」 朱鷺より先に蒼が思わず聞き返す。下手をしたら彼女をとっかえひっかえしているなんてこともありかも知れないと深春も思っていたから少なからず驚いた。 「僕の知る限りはですよ」 と、あくまでも最後に付け足す。 「それに、昔と今では違うかも知れませんからね」 「そ、そうよ!それじゃぁ今回していないなんて証拠にはならないわ!!」 最後の余計な一言に、朱鷺の殺がれていた怒りが再燃したようだった。余計なことを言わなくてもいいものを。 また喚きだした朱鷺を横目に、蒼と深春は揃って溜息を吐いた。 それから二十分ほど経った頃。 「朱鷺はいるか!!?」 物凄い形相の遠山が飛び込んできた。 「何よ、現れたわね、浮気男!」 「誤解だって言ってんだろうが!大体何だってそれでこの男所帯に来るんだよ!!」 朱鷺の罵声に遠山はすかさず言い返す。走ってきたのか随分息が荒いし、服も緩んでいる。いつもきっちり整えてある髪は崩れていた。 「だって、この三人だったら私達二人についてよく知ってるじゃない」 「……」 その朱鷺の返答に遠山はぐったりと座り込んだ。 「大体、何を言いにきたのよ、今更。言い訳なんて聞きたくないわ!!」 「だから違うって言ってんだろうが!勘違いにしてもいきすぎだ!!!」 「何よ、浮気しといてその台詞!?」 「誰が浮気なんかするか!俺は朱鷺が好きで結婚したんだぞ!?もし他の女と付き合うとしたら本気だ!こそこそ密会なんてするか!!」 その遠山の怒声に、朱鷺の抗議もぴったりと止む。深春も、その遠山の台詞にちょっと感動してしまった。 暫く朱鷺は固まっていたが、それでもおずおずと言葉を出す。 「で、でも猫に引っかかれたなんて、一体何処でそんなことになるのよ?」 「鯛のとこでだよ」 「でもあそこに猫なんて…」 「新しく飼い始めたんだ」 「う、嘘…」 「信じられないならあいつに電話してみろよ」 「……」 其処まで言われたら信じない訳にはいかない。 朱鷺はしょぼんと勢いをなくす。 「ごめんなさい…」 ぽつりと呟かれた言葉に、遠山は溜息を吐いた。 「ほら、帰るぞ」 そう言って朱鷺を促す。朱鷺を先に玄関にやってから遠山は振り向いて苦笑した。 「悪かったな」 「嵐が去ったって感じ…」 二人が帰ってから、蒼は深々と溜息を吐いた。 「でも凄かったよね、朱鷺。あの剣幕」 「ああ。でも少し遠山さんを見直したな」 「うん、カッコよかった。誤解で良かったよねー」 蒼は心底ほっとした、と言うように笑った。 「でも、遠山さんの言った事が真実だとは限らない」 「え?」 「確認してみろ、と言われれば信じない訳にはいかないだろう。本当に確認の電話をしたとして、遠山さんに口裏を合わせるように頼まれているかもしれない」 「ま、まさか…」 蒼の笑顔が引きつった。 「真実がどうかは知らないけどね。でも、爪痕以外にも怪しいことがあっただろう?」 「あ…一週間に一回は連絡の取れない日があるって?」 「じゃぁ、本当に浮気してるかも知れないって事か?」 「爪痕は本当に猫だったとしても、そっちで本当にしているかもしれない」 「それ…教えなくても良かったのかなぁ」 京介の言葉に、不安になったのだろう、蒼が尋ねる。 「別に、わざわざ面倒な事を引き起こすことはないだろう」 京介はそう言って話を切り上げた。しかしなんだか…。 「京介、お前、何か機嫌悪くないか?」 「気のせいだよ」 「…そうか」 深春の問いに京介は即座に切り替えした。矢張り、機嫌が悪いのだろう。触らぬ京介に祟りなし、だ。深春は心の中でそう一人ごちる。 蒼もそう思ったのだろう、視線が合うと苦笑が返って来た。 きっかけが何だったかは解からないが、それを問いただそうとするとさらに機嫌が悪くなるのは目に見えている。そうすると、いろいろ棘の入った言葉が返ってくるだろう。 そんなものはいらない。 大体、先刻ので京介に対して追求する気力もない。 今回の事で何か収穫があったとすれば、遠山が、どうやら見た目どおりの人間という訳ではなさそうだということだけで。 全く、疲れた一日だ。 Fin |