Re Starting Minus



 気分は最低だった。
 嫌悪感と苛立ちと。
 それも全て自分に対するもの。
「京介!京介ってば!!」
 蒼の声がするが、京介はそれに応える事は出来ない。
 応える事は即ち、このドアを開け、彼らの前に出て行くこと。何でもないと言えば出て来いと言われるだろう。出て行かなければ真実を言わなければならない。そんなことは決して出来なかった。
「京介?一体どうしたのさ」
 蒼の心配そうな声が聞こえる。心配を掛けたくないと思いつつも、それは出来なかった。
 何度かドアを叩く音がしたが、それも暫くで止んだ。
 京介はほっと息を吐く。
 気が重い。胸の中にどす黒い何かが溜まっていくような感覚だった。それを解消する方法も知っていた。しかし、今回はそのタイミングを逃してしまった。
 遅すぎたのだ。
 気がつけば押さえられないほどに膨らんでいたそれは、少しでも長い間人目に触れていれば直ぐに気づかれてしまうだろう。京介に対して聡い深春や蒼ならば尚更だ。気づかれないように出て行くことも出来なかった。
 こんなところに篭城していたとしても、どうしようもないのは解かっていたが、少しでもそれが収まるのを待っていた。希望的観測だが、それに縋るしかないのだ。
 こんなもの、収まってしまえばいくらでも理由はつけられる。口先だけで逃れるのは得意だ。けれど、収まるまではそんなに正常に思考が働くかどうかも怪しく、それ以前に答える前に気づかれてしまうと理解していた。

 ピンポーン

 訪問者が来たらしく、呼び鈴が鳴る音が聞こえた。
 京介に対する訪問でなければ、これで暫く二人の関心が京介から逸れるだろう。
 一体誰が来たのだろうか。京介は室外の様子を伺う。暫くすると、尋ねてきた人物が招き入れられたようだった。それなりに親しい人物だろうか。
 話し声が聞こえる。内容は聞こえないが、聞き覚えがあるような気がする。
 しかし、それが誰なのかが思い出せない。矢張り頭が鈍っているのかも知れない、と京介は思う。京介相手の訪問でなければいいのに、という祈りは、すぐに崩れ去った。
 ノックをする音が聞こえ、ドアの外から京介を呼ぶ声がした。
「おい、桜井?俺だよ、遠山。開けろよ」
 相手が遠山だと解かると、京介の感情には苦いものが生まれる。来る相手としては最低の人選だと言っていいだろう。これがもし、朱鷺だったなら、ドアの前に怒鳴り散らすまま放っておけばいいが、遠山はそうはいかない。
「桜井、俺は一応客だぞ?お前、挨拶も碌に出来ないほど失礼な奴だったか?顔出して挨拶ぐらいしたらどうなんだ」
 そう、こうして京介の退路を塞いでしまう。此処で出てこなければ更に蒼たちに心配をかけてしまうだろう。否、下手をしたらドアを破ってくるかも知れない、と思う。
 普段の京介ならば、遠山にこんな事を言われて侮られるなど許せない、と思う。しかし、今はどうでもいい、というのが事実だ。だが、そう思ってしまうこと自体が彼が常ならざる状態だと彼らに示してしまう事でもある。
 だから、京介は鍵を開け、ドアを開く。
 遠山は京介を確認するとすぐにドアに手を掛けた。京介もそれを視界の端で確認する。
「遠山さん、何の御用ですか?」
 苛立ちを滲ませながら、京介は言う。京介の今の状態を悟らせないよう、細心の注意を払いながら。
「其処の二人が心配してるんだから、出てきてやったらどうなんだ?」
 遠山は親切めかして言う。京介にとって何処が弱いか知っているからこその発言だったが、それに対しては今回は考慮に入れないことにする。
「そういうご用件なら失礼します」
 勢いよくドアを閉めようとするが、遠山に阻まれる。予想はしていたが内心舌打ちをする。其処まで読んで行動をしていることが憎らしく思える。
「ちょっと待て!!お前、俺の手を挟む気か?この繊細な手が使えなくなったらどうする!」
「面倒なものを作ってきたりしないのなら僕としては好都合ですが」
 かなり本気で京介は言う。本当に挟んでやれば良かった。こういう状況でずるずると押さえられているのはまずい。
 遠山のペースに巻き込まれる前に下がるべきなのだ。
「それでは」
 そう言ってドアを閉めようとするが、矢張り遠山が阻む。
「桜井――――…」
 もう一度文句を言おうとしたのだろう遠山の表情が固まった。そう思った途端、京介は押し戻され、遠山も部屋の中に滑り込んだ。
「え、と、遠山さん!?」
 蒼が慌てた声を出してドアを開けようとするが、遠山はもう鍵を閉めてしまっている。


 京介も予想出来ず、されるがままになってしまった。一瞬思考が止まり、そして、遠山に気づかれてしまった事を悟る。京介の現在の状況を。
 そして、遠山にならばいいか、と瞬時に思ってしまう。遠山には朱鷺という配偶者が居る。しかし、そんなことは今は関係ない。
 京介は思うままに遠山を引き寄せ口付けた。
「んっ―――…」
 遠山の驚いたような様子が伝わってくる。しかし、それで止められるようなら最初からこんな事はしない。遠山の手が引き離そうと動いたが、それも途中で止まった。
 受け入れられた―――――…。
 そう感じた途端、口付けを続けながら、京介の中に苦いものが込み上げた。拒絶するならば構わない、と思ったくせに、受け入れられれば戸惑ってしまう。
 そんな無様さが、とても苦かった。
 そう、遠山が受け入れるかも知れないことは、予想が出来たのに。
 京介が口唇を離すと、遠山は苦笑を浮かべた。
 嫌だ。
 誘ったのは確かに京介なのに、そう思ってしまう。けれど、それとは別に、身体は彼に抱かれたがっている。既に箍は外れてしまっている。遠山もそれを感じているのだろう。
 遠山は、京介の肩を掴み、座らせた。
「遠山さ―――…」
「黙ってろ」
 何をするのか、と問おうとして、それは途中で阻まれた。
 耳元で、低く囁かれる。
「声、出すなよ」
 そう言うなり京介の前に跪き、前を寛げた。それに遠山が何をするつもりか理解し、京介は慌てて止めようと手を伸ばすが、遠山に押さえられた。
 遠山は迷うことなく京介のものを口に含んだ。
 ぬめる感触に京介は肩を震わせた。
「っ―――…」
 声が出ないように、慌てて口を手で塞いだ。遠山を見れば上目遣いにこちらを見上げてくる。その瞳に、京介は謂れもない悪寒を覚える。
 しかし、遠山はそんな京介の様子を気にする様子もなく、口淫を続ける。今まで感じた事の無い感触に、どうしようもなく快楽が高ぶる。
 舌の感触と、歯が当たる感触、全てが京介を煽って行く。京介の感じる場所を探りながら、射精感を駆り立てていく。
「ふっ…―――――っ…」
 声を押さえるのも辛く、頬が蒸気しているのが自分でも解かった。
 目は涙で膜がはったようでよく見えない。
 遠山は追い上げるようにペースを速め、京介がもう絶えられないと思ったところで、それを吸い上げた。顔を離そうと手を伸ばしかけたが、それよりも声を押さえる事に必死になり、射精を迎える。
「―――――――っ!!!」
 遠山は、京介の出したものを余すことなく飲み込んだ。こんなことをするのに全く気にした様子のない遠山が恨めしい。
 京介は荒い息を整えようと呼吸を繰り返した。
 そんな京介の様子を見ながら、遠山は持っていたメモ帳のページに何かを書き込み、破って京介に握らせた。
「…遠山さん…?」
 荒い息もようやく収まって、京介は訝しげに遠山を見る。一体これは何だろうか。
「我慢が出来なくなる前に電話しろ。時間がある限り会いに行く。いいな?」
 遠山の言葉に、京介は途惑う。さっき京介に握らせた紙にはきっと、電話番号が書いてあるのだろう。そして、もしまたこんな状況に陥れば、電話しろ、と言う。
 止めてくれ、と突き放そうかと思った。自分が求めたのに突き放すのは傲慢かも知れないが、けれど遠山を巻き込む事には抵抗があった。
 それでも。
 楽だろう、と思ったのだ。遠山ならば。だから、京介は自然と頷いていた。
 そんな京介を見て、遠山は立ち上がり、部屋の外に出て行く。
 部屋の外には蒼たちが待っているだろう。


 暫くすると遠山が部屋に戻ってきた。
 今度はドアを開け放している。本当にお節介だ、と思う。
「ほら、桜井。これで顔を拭け」
 遠山が濡れタオルを渡してくる。これは有難かった。まだ京介の顔には情事の名残が残っていて、頬が火照っている。
 顔を拭いて熱を冷ます。
 すると、蒼が紅茶を持ってきた。遠山は何やら嬉しそうに笑っているのに、嫌な予感が過ぎる。そういえば、遠山は濡れタオルと一緒にケーキを持ってこなかっただろうか…?
「ケーキ、食べろよ」
 予感を肯定する言葉に京介は顔を顰めた。
 目の前に差し出されたケーキを食べる気は全然しない。しかし、遠山はその拒絶を受け入れない。
「食べろ。食べないと高校時代のいろんな話、こいつらに聞かせてやるからな」
 ニヤリ、と顔を覗き込みながら言ってくる遠山を、京介は睨みつける。
 また脅し。どうしてこう、遠山は京介の嫌がることを嬉しがりながらやるのだろう。高校時代の話も物によりけりだが、どうせ遠山の話すことは碌な物ではないだろう。そうでなければ脅しにはならないのだから。
 遠山は全く引くつもりはなさそうだし、諦めるしかない、と京介はフォークを手に取る。
 ケーキを食べ始めると、遠山は満足そうに頷いた。
 流石に遠山も京介のことを考えたのか、比較的食べやすい物ではあったけれど。果物は嫌いではないし、その分にはマシと言った所か。
「全部食えよ。後でこいつらに確認するからな」
 最後にもう一度脅してから、遠山は部屋を出て行く。蒼はその後を追って行った。
 もう帰るのだろうか。
 どちらにしろ、全部食べなくてはならないのだろう。確認すると言ったからには、本当にするのだろうから。
 深春は部屋の中に残っていた。
 彼にも心配をかけてしまった。それは解かってはいるけれど、謝る事は出来ない。してはいけないのだ、と京介は思う。
 ケーキを食べ終え、紅茶を飲むと、急激に眠気が襲ってくる。
 そういえば、昨夜から殆ど眠れて居ない。
「京介?」
「ごめん、深春。寝る」
 問い掛ける言葉に謝りながら京介は横になる。答えるのが面倒だ。
 すぅっと眠りに誘われて、そのまま京介の意識は途切れた。



 起きてみれば、随分夜も更けていた。
 リビングに明かりが点いているから、まだ深春も起きているのだろう。
 京介は握ったままだった遠山から貰ったメモを見る。携帯電話の番号が書き込まれている。
 電話を、京介はするだろうか。しなくても、遠山は文句を言う事はないだろう。京介がどちらを選んだとしても、彼はそれを受け入れるのだろう。
 そう考えて、京介は諦めた。
 遠山に対して意地を張る事を。
 彼に対してそんな事をしても全く意味が無い。遠山は何でも笑って受け入れる。朱鷺という存在が居るというのに、京介と関係を持つ、と遠山は決めたのだ。
 何故、と問う事もきっと無駄なのだろう。
 電話するかどうかは解からないけれど、気が向けばそれで良いかも知れない。
 向こうが気楽に構えているのなら、こちらが深く考えるのも癪だ。


 京介はそう考えて、もう一眠りしよう、と横になった。



 遠山への電話は数日後に。



Fin






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