Crazy for you 後編



 家に戻ると、俺は妙に気疲れしてベッドに横になった。喉は潤った、腹も満たされた、けれど気分は最悪だった。
「どうしたの、キョンくん?機嫌悪いね?また失敗したの?」
 妹が横になった俺の顔を覗きこんでくる。
「失敗なんかしてねーよ。上手く行ったさ」
「だったら何でそんなに機嫌悪いの?」
「お前には関係無いだろ。それより今から飯に行くんだろ。さっさと行け」
「うん…じゃあ、行ってくるね」
 まだ俺の事を気にして居たようだが、とっとと追い出す。兎に角今は誰とも話したくない気分だった。何故あいつはあんな事をされても、あんな目をしていられるのか。
 理解出来ない。
 神に仕える人間の気持ちも解からなければ、結局のところ何の救いの手も差し伸べてはくれない神を、それでも信じ続ける奴の気持ちは更に解からない。
 だが、このまま終わるのはそれこそ嫌だった。
 何としてでも落としたくなる。
 心は屈していなくても、一度抱かれた体はそう簡単に快楽を忘れたりはしないだろう。
 ならば何とかして完全に落としてみせるまでだ。
 そう心に決めて、俺は目を閉じた。


 翌日にまた教会に行くと、今日は跪いては居なかったが、矢張り十字架を見上げて何事か祈っているようだった。しかし、すぐに俺の気配に気付く。今回は殊更気配を消すような真似はしない。
 その必要も無いだろう。
 聖水の瓶は昨日割ってしまったし、他に何か対策があるとも思えない。
 ドアを開ければすぐに俺に気付いたようで、さっと振り返る。こちらを睨みつけてくる様子に笑みを浮かべながら近づいた。
「何をしに来たんですか」
「何って…本気で解からない訳じゃないだろ?」
「僕の血が欲しかったのなら、あれで充分でしょう」
「そう言うなよ。俺はお前の血の味が気に入ったんだ。それに…お前だって悪く無かっただろ?」
 揶揄するように問いかければ、尚更きつく睨みつけられた。
 此処で顔を赤らめでもしたら可愛げもあるのだが、其処まで俺に心を許しては居ない、ということだろう。当然か、俺は吸血鬼で、向こうは神父。しかもついこの間会ったばかりの上、強姦されて血を吸われたのだから、そう許せる筈も無い。
 心情的には、だが。
 身体的には昨日の行為を忘れている訳も無い。
「気持ち良さそうにしてたのに、つれねえな」
 そう言って近づき、古泉の手首を掴む。随分細い手だ。
「昨日の今日で、まだ欲しいとおっしゃるのですか?」
「まさか。流石にあんま飲んでたらお前が干乾びるだろ。其処まで餓えてる訳じゃねえし、結構良心的なんだぜ、これでも」
「無理矢理あんな事をしておいて、良心的、ですか」
 精一杯の力で振りほどこうとしているのだろうが、人間の力で吸血鬼を振りほどける訳も無い。
 しかし、改めてこいつの方が身長が高い事に釈然としないものを感じる。俺の方が圧倒的に長く生きているというのに、何故其処に身長が反映されないのだろうか。
 まあ、そんな細かい事はどうでも良くて、実の所を言えば、相手の方が背が高いとキスがし難い、というだけの事だ。
 いちいち背伸びするのも面倒で、そのまま俺は古泉を抱き上げた。
「な…、何を…っ」
 突然の事に驚く古泉を無視して、俺はそのまま教会の左右に分けられて置かれている椅子に座らせる。
「一体、何を、んんっ」
 ごちゃごちゃとしゃべる口を塞いでしまうとそのまま椅子の背に肩を押し付けて思うように口唇を貪る。逃げようとする舌を絡めとリ、更に角度を変えて深く口付けると、びくり、と身体が震えた。
「ふ…んっ……ん…」
 腕は抵抗しようと俺の胸を押して突っぱねようとしているが、それは無意味な抵抗でしかなく、深く貪っていれば次第にその手も弱まってくる。
 そして何より、
「キスだけで感じたのか?」
 わざとらしく問いかけて前に触れれば、既に立ち上がり始めている。
 吸血鬼の体液による媚薬効果は俺が血を相手から吸えば一応の収まりはつくが、だからと言って完全に抜けるものでもない。俺に対する時には、実際与えた時程ではないが、それでもそれなりの高まりを体に与えるのだった。
「血が欲しいので無いのなら、一体、何を…」
「此処までやって解からないか?抱きに来たんだよ、お前を」
「馬鹿な…んぅ…っ」
 もう一度唇を塞ぎ、思う存分口腔を犯す。舌で歯列をなぞり、舌を絡めとリ、吸い上げる。溢れる唾液を流し込むと、こくり、と喉が動いてそれを飲み込む。飲み下し切れなかったものは顎を伝い落ちてく。
 俺の胸を突っぱねていた手は、最早縋るように服を掴んでいるだけに過ぎない。
「ふっ…ぁ……ん…」
 吐息に甘いものが混ざり、赤く染まった頬が十二分に古泉が感じている事を俺に知らせる。
 五分くらい存分に口腔を犯すとようやく開放してやる。酸欠になったかのように息を乱す古泉を見ながら笑みを浮かべ着ている服を寛げる。
「こんな事に、一体、何の意味があるんです…」
「あ?」
「血が必要で無いのなら、男の僕を抱いたところで、意味など…無いでしょう」
「別に俺は男だ女だなんて拘らないぜ?お前の神様は違うらしいけどな」
 それに、と俺は続ける。
「心も体も、俺の物にしてこそ意味がある。お前を完全に俺の物にするまでは、お前を抱き続ける」
「…無駄な事です。僕は、もう神に心の全てを捧げているのですから」
「そんなこと、やってみなきゃ解からんだろ」
 冷静なその口調や言葉に苛つく。そんな言葉が聞きたい訳ではないのだ。俺は服を寛げた其処から首筋を舐める。
 兎に角、冷静に回る頭など忌まわしいだけとしか思えず、違う事に染め替えてやるのが先決だった。快楽に落ちて、俺に抱かれる事だけしか考えられなくなるように、古泉を抱く。
 古泉の体は、昨日の快楽を覚えているから、すぐに堕ちて来る。甘い声を零し、身体を開く。
 だというのに、その瞳は相変わらず冷静な光を宿したままで。
 本当に、忌々しい。


 それから、毎日のように俺は古泉を抱いた。
 気絶するまで抱く時もあれば、血を飲む時もある。その味はいつだって極上だったが、心には虚しさばかりが溜まっていくのだ。
「何故、助けてもくれない神に其処まで尽くせる」
 四度目辺りからは、最早諦めたように抵抗もしなくなったが、それでも心だけは手に入らない。そのもどかしさに俺は口を開く。
「助けて欲しいから、神に仕えている訳ではありませんから」
「だったら、何故だ」
「…それが、僕にとって当然の事だからです」
 ただ、当たり前のことのようにそう呟く古泉に、俺は無理矢理口付ける。
 俺が何をしても抵抗はしない。けれど応えもしない。
 焦燥と苛立ちが募るばかりで、どうすれば手に入るのか全く解からなかった。
 古泉に入れ込んでいる俺の様子に、ハルヒも妹も呆れた様子を見せ、ハルヒなどは、
「そんなにあの神父が気に入ったんなら、いっそそいつも吸血鬼にしちゃえばいいじゃない」
 と、言ったりもするのだが。
 そんな事は出来ない。俺のプライドが許さない。そんな風に手に入れたところで意味が無い。あいつが懇願し、望み、俺から離れられなくならない限り、そんな事は出来ない。
 何故、此処まで拘るのか。
 自分自身解からなくなりながらも、俺はそうして古泉を抱きに行く事を止める事が出来なかった。


 むき出しになった太股掴まれ、思い切り開かされた体勢で貫かれた。
「うあ…っあ…」
 毎日のようにこうして彼は僕を抱きに来る。彼によって開かれた体は如何ともし難く、最早抵抗する気にもなれず、簡単に彼の行為によって快楽を拾ってしまう。
「は……んっ…」
 漏れる声を抑える事すらも、最早考えられない。
 けれど、彼は日を追う毎に苛立ちを募らせていくようだった。それが行為にも現れて、抱き方も段々と乱暴なものになる。それでも快楽を覚える自分の体は、どうかしてしまったのだろうか。
 ぐちゃぐちゃと中を掻き回され、乱暴に腰を打ち付けられる。
「あぁ……あ……」
 気絶するまで抱かれる事などしょっちゅうで、今日もそのパターンだろうなと頭の隅で考える。血は昨日飲まれたばかりだから。
 否、そのうち本当に干乾びるまで飲まれてしまうのかも知れない。彼が何を考えているのかは解からないが、仲間にしようとする様子もなければ、殺すような事もせず毎日此処に通ってくるのは異常としか言い様がない。
「んでっ、お前は…っ」
「…っ?」
 搾り出された苦しげな呻きに、何か言葉を掛けようと思うけれども、思いつかない。
 彼は僕の身も心も自分のものにしたいのだと言った。体は好きなように扱っているから、恐らくは心が欲しいのだろう。
 苛立ちの原因はそれだと推測されるけれども、其処まで拘る理由が解からない。
 結局今日も僕を気の済むまで抱くと、何も言わずに何処かへと帰っていく。
 軋む体を無理矢理起き上がらせながら、目の前にある十字架を見上げる。
「…お許しください」
 僕は、彼を憎めないでいる。
 あそこまでされて、乱暴に扱われて、それで尚。
 本来ならば許されない事だ。吸血鬼である彼に、僕は同情している。
 彼がどうして僕に苛立ちを募らせるのか、それは、僕の信仰心に起因するものも大きいのだろう。しかし、無理矢理引き剥がしてしまう事も彼には出来る筈なのに、それをしない。
 そして、僕は諾々と現状に流されている。
 このままで、良い筈が無いというのに。
 ただ、一つ解かる事がある。
 彼は神という存在が嫌いなのだ。救っても、守ってもくれない神という存在が嫌いで、それを信仰する僕のような人間が嫌いで、だから聖職者に手を出し、それを貶めることで満足感を得ようとしている。其処までは解かる。
 けれど、僕の信仰心は、いくら彼に抱かれたところで消えてなくなってしまうものではなかった。生まれた時から当たり前のように僕は神に仕えて来たのだ。今更、それを覆す事など出来るのだろうか。
 今更、いくら彼に抱かれたところで、僕自身はどうでもよくなっていた。
 ただ、彼が苦しんでいるのが解かるから。苛立っているのが解かるから。
 そんな彼に同情している自分が居た。
 どうにかして、そんな彼の苦しみを取り去ってやりたいと思う自分が。
 本来なら許されない事だ。神の慈悲は人に向けられる者であり、神に仕える自分達もそれは同じ事。そして、魔に属する彼らには決して与えてはならないもの。
 神の教えは僕の心に刻み込まれて、それでも尚、何処かでそれだけは納得出来ないと思っている。  だから、心の底で許しを請う。
 お許しください、それでも、僕は――。


 体を清めた後、ベッドに行き、泥のように眠る。最近は殆どそういう生活だ。
 目を覚ますと、教会の掃除をする。それだけは怠る事は無い。彼が来る前に出来るだけ終わらせてしまいたかった。来てはそれどころでは無くなるから。
 最早彼が来る事が日常となってきているのに苦笑を浮かべながら、それでも拒絶しきれていない自分の心に疑問を浮かべていた。
 考え事をしながらそうして教会の中を清めていると、扉をノックする音が聞こえた。
 彼ではないだろう。彼はそんなことはせずに勝手に入ってくる。
 規則的な音律でもう一度叩かれ、僕は扉に向かった。
 開けてみた先に居た人物を見て、一瞬目を見開く。意外な人物だった。
「長門さん」
「驚く必要は無い。貴方は本部から誰かが来る事は予想していた筈」
「ええ、でも貴女が来るとは思っていませんでしたから」
 彼女は僕の知る中でも特に力の強いエクソシストだ。報せに行った朝比奈さんがそれだけ本気で頼んだのかも知れない。
 長門さんは暫く僕を見つめ、その後僅かに視線を下げた。
「貴方から、魔物の気配がする」
「…でしょうね」
 毎日のように抱かれていれば、それも移って当然だ。
「取り敢えず、中に入ってください。立ち話もなんですから」
 まだ、彼が来るのにも時間がある筈だ。

 長門さんにお茶を入れ、机の上に置くと、彼女の向かい側に座る。
 何も話さなくとも、彼女は僕を見ただけで現状など全て見破ってしまっているだろう。そして、教会本部の取る行動を考える。
「僕を除名しますか?」
「それは本意ではない。わたしは本部から一定の権限を持って貴方の元を訪れた」
「権限?」
「貴方が望むのなら、わたしは協力を惜しまない。しかし、そうでないのなら、」
 そこで言葉が切れた。それでも何が言いたいのかは解かった。つまり、僕に選べというのだ。彼女に協力を仰ぎ、彼を殺すか、それとも自分の手で彼を追い払うか。
「其処まで猶予を与えられるとは思いませんでしたが」
「貴方の性質は理解しているつもり。そしてわたしは出来ればこれからも貴方に此処で働いてもらいたいと思う。だから、これはわたしの独断」
「良いのですか?」
「言わなければ、私以外の者に知られる事はない」
 その言葉に、苦笑を浮かべる。
 彼女に其処まで気に入ってもらっていたとは意外だが。長門さんの好意を踏みにじるような真似はしたくなかった。
「では、一つだけ、お願いを聞いてもらえますか?」
「解かった」
 何をかを言う前に彼女は頷く。それがどんな願いでも、彼女は叶えるつもりなのだろう、本当に。
 彼女は知っているから。
 僕がエクソシストとしての素質を持ちながら、それでもその訓練を受けることを拒否した理由を。そしてそれを知っているが故に僕を気遣ってくれているのだろう。
 僕が願いを口にすると、彼女はこともなげに頷いた。
「聖職者として、貴方のそういう所は、褒められるべき事ではない。けれど、わたしは貴方のそういうところが、嫌いじゃない」
「…有難う御座います」
 珍しい、彼女の本音を聞いて、微笑を浮かべる。
 そして、深々と頭を下げた。


 最早ハルヒや妹達に完全に呆れられるようになっても、俺は未だ古泉の所に向かっていた。
 何故なんて考えるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
 半ば意地だったのかも知れない。
 いつものように教会の扉を開けると、其処には古泉が居た。しかし、今までと違うのは、十字架に向かって祈りを捧げていなかった事だった。
 まるで俺を待っていたかのように、古泉は俺をしっかりと見据えていた。
 明らかにいつもと様子が違う。
 近づいていくと、静止の声がかかった。
「それ以上、こちらに来ないで下さい」
「…なんだ?」
 何処か決意を秘めたような眼差しが俺を射る。一体、何がどうなっているのだろう。
「もう、これ以上、このような関係を続けても無意味です。このまま帰って、もう二度と僕に近づかないで下さい」
「…なんだと?」
 最近は目に見える抵抗すらしなくなっていた古泉のその言葉に、俺は驚いた。そして一歩近づこうとして、何かに弾かれた。
「っ!」
 指に痺れるような感覚が走る。
「結界が張ってあります。いくら貴方でもこれ以上近づく事は出来ないでしょう」
「…お前がやったのか」
「もう、時間が無いんですよ」
 古泉は目を伏せる。時間が無いとは、どういう事なのか。
 何がどうなっている?
「出来る事なら、貴方の真意を確かめたいと思っていました。けれど、今日、教会から使者がやってきました。今日中に、貴方とけりをつけなければ、その方が貴方を殺します」
「お前にしてみれば、そちらの方が願ったりなんじゃないのか?」
 古泉の告げた言葉は、俺にそれなりの衝撃を与えたが、むしろ疑問なのは、何故俺にそれを教えるのかということだ。それが出来る人間が来たのなら、さっさと俺を殺してしまえば良いというのに。
 俺の言葉に、古泉は悲しげな微笑を浮かべる。
「僕は教会に所属していながら、エクソシストとしての素質を持ちながら、その訓練は受けていません。それは何故だと思いますか?」
「知るか」
 そんなもの、俺が知る筈がない。
 確かに、そういう素質を持つ者は稀らしいし、更に聖職者として働きながらその訓練を受けていないというのは、おかしいのかも知れなかった。今更そのことに気付く。
「嫌だからですよ」
「は?」
「例え、魔物であっても、生ある者の命を奪うのが、嫌なんです。それが例え、僕に害を為すような、貴方のような存在であっても」
 こいつは何を言っている?
 今まで散々、無理矢理自分を犯してきた相手が、殺されるのが嫌だと言うのか。
 馬鹿な。
「本来ならば、そういう素質に恵まれていれば、すぐに訓練を受ける筈なんです。けれど僕はそれを拒絶した。生まれたばかりの頃から聖職者としての道を示されながら、そして教会の本部の上へと出世出来る道も示されながら、生きている者を殺すというその可能性を引き起こす事態すらも疎んで僕は訓練を拒絶したんです。例え素質を持っていても使えなければ意味が無い、けれど持っている者を早々手放す事も出来ない。だから、僕はこんな辺境の教会で暮らしているんです」
 何を言えば良いのか解からなかった。
 古泉の紡ぐ言葉は、俺の全ての意思を奪ったかのように思考を停止させた。
「僕は、貴方を死なせたくない。だから、もう二度と此処には来ないで下さい」
 俺を見てそう言う瞳は、何処か苦しげだった。一体何故、俺を相手にそうしていられる。解からない、さっぱり解からない。
 一体何だっていうんだ。
「貴方は、僕の心が貴方の物になることを望んでいたのでしょうが、少なくとも、僕の心が貴方の物になる事はありません。貴方が吸血鬼である限り、貴方に心を許す事も無い。だからもう、全て諦めて、もう二度と僕の前に姿を現さないで下さい」
 頭を鈍器で殴られたような衝撃が体を駆け巡る。
 古泉の言葉の中に見える矛盾と、決定的な拒絶に、何が何だか解からないまま、古泉の言葉に従うかのように、そのまま引き下がるしか出来なかった。
 おかしい。
 らしくない。
 あんな、言葉で。
 それだけで言う事を聞いて引き下がってしまうなんて。
 完全に、どうかしていた。


 それから後の俺は、言うなれば完全なる腑抜けだった。
 何をする気にもなれず、ただ諾々と部屋に篭って、喉が渇いたら食事に出て、後はまた部屋に篭る。吸血鬼としてはある種正しい生活だが、俺と親しいハルヒや妹の目から見れば明らかに奇異に映ったのだろう、相当心配された。
 俺は腑抜けた状態のまま頭を巡らせていた。
 ベッドの上に寝転びながら、古泉の言葉を反芻し、そして考えた。
 一体全体、俺はどうしたのか。
 古泉の事を知れば知るほど、今までの俺とは全く違う俺が内側から呼びかけて、外に出せと叫んでいるようで。それが尚更俺の苛立ちを煽っていた事は間違いの無い事で。
 その感情が何なのか、認めるのは俺のプライドが許さない。
 何よりも、それを認めてしまったら、俺が長年築いてきた価値観が、全て崩壊しかねない。
 今までのように適当に生きて、気が向いたら聖職者なんかに手を出して、それを楽しんでいれば良いと思うのに、今ではそれすら何の価値も無い事のように思えた。
 意味があるのは、たった一つだ。
 完全に拒絶され、それで尚、俺は諦め切れていない。古泉の言葉に従いながら、本当にそれで良いのかと心の内側が叫んでいる。
 認めたくない。
 でも、認めなければ俺は一生こんな腐抜けた生活をしなければいけないんだろう。
 ああ、そうだ。
 俺は古泉が欲しかったんだ。
 身も心も俺の元に落としたかった。それは始めに言った言葉と同じようでいて全く違う。
 全てを俺の物にして、俺の腕の中に閉じ込めて、俺だけを見ているようにしたかった。
 今までなら、俺の所に落ちてきたら、そこで全ての興味を失い、突き放すだけだったが、古泉は違う。俺の物にして、二度と手放す事なく隣に居たい。
 どうかしている。
 長い間生きてきて、こんな事は初めてだ。
 古泉が好きなんだ、どうしようもなく。
 今更と思うほどに今更、気付いた。
 そして未だに諦められていない自分の心を見つめて、そして俺に出来る事は無いのかと考えて。出された結論に俺はようやく身を起こした。
 そうだ、あいつを手に入れるためなら、出来る手は何だって打つ。
 あいつを手に入れるためなら、いくらでも馬鹿になってやるさ。

 まず俺はハルヒに会いに行った。
 というか、他に思い当たるやつが居なかった。
「暫く腑抜けてたと思ったら、一体どうしたの?」
 訝しげな顔をするハルヒに、回りくどい言い方も面倒だから、単刀直入に言う。
「ハルヒ、お前、吸血鬼が人間になる方法って、知ってるか?」
「はあっ!?」
 ハルヒは本気で驚いたような、呆れたような顔をした。まあ、無理も無いだろう。自分からわざわざ人間になりたいなんて吸血鬼はそう居ない。
「あんた、本気であの神父に毒された訳!?何考えてんのよ!!」
「俺だって馬鹿だって事は解かってるさ。でも、本気なんだ。何か無いか?何でも良いんだ」
 少しでも可能性があるのなら、何だってするから。
「…ちょっと、マジ?」
「大マジだ」
 ハルヒは俺の真剣な様子に、少し考え込む様子を見せる。吸血鬼の中でも特に強い長であるハルヒだ、何かしら知っていてもおかしくはない。頼れるとしたら、他には無い。
「あんたが其処まで言うなら……迷信みたいな話なら、一つだけあるけど…」
「何だ!?」
「そんな大きな声出さないでよ!あくまでも迷信よ、迷信っ!成功したなんて話、聞いたことないもの」
「だから、何なんだ?」
 じっとハルヒを見つめると、根負けしたかのように溜息を吐いた。
「…丸一ヶ月、人間と同じように生活するのよ。夜に寝て、朝起きて、人間と同じような食事をして、昼に日の光を浴びて、絶対に血を飲まない事。でも大抵の吸血鬼はそんなの耐えられないわ、その前に諦めるか、力尽きて死んじゃうか…でも、あんたは普通の吸血鬼とは変わってるし、もしかしたら…」
「…解かった、サンキュ」
 礼を言うと、本気で心配そうな顔で見つめられた。
 珍しい事もあるが、確かにハルヒの言ったことを実行に移そうとすれば、無謀以外の何者でもない。昼日中に出歩くのも、夜に眠るのも苦痛ではないが、血を飲まずに居るというのは、吸血鬼にとっては決定的に命を危険に晒すことに他ならない。
「本気で、やるの?」
「ああ。もし上手くいっても、失敗しても、妹の事、頼んだぞ」
「…うん」
 最早何を言っても無駄だと思ったのだろう、ハルヒはしおらしく頷くだけだった。
 俺に出来ること。
 俺が吸血鬼である限り心を許す事が出来ないというのなら、俺が人間になるしか無いだろう。他に出来る事なんてあるだろうか。
 例え、その為に命を落としたとしても、今の俺にはそれ以上に大切なものなんて何も無かった。


 人間と同じ生活。
 それは、最初はさして苦でも無いことだった。
 何しろ俺は昼間活動するのに慣れていた。日の当たる昼間外に出ることも、人間と同じ食事を取る事だって、嫌いではないのだ。
 けれど、それも一週間程度の事だった。
 血を一週間も飲まなければ、流石に飢餓感が強くなり、喉が渇く。
 それを誤魔化すために水を大量に飲んだが、そんな物は全く意味の無いことだった。いくら水を飲んだところで、渇きは癒えない。血を飲まなければ、この渇きが満たされる事は無い。
 それを知っていて、それでも絶えるというのは、かなりの忍耐を要求した。
 二週間も経つ頃には、無意識に人を襲うのを避けるために、奥深い森に入る事にし、食料を持ち、水だけを確保出来る場所に移る事にした。
 しかし、それだけの移動さえも、渇ききった身にはきつい。
 理性が保てたのは其処までだった。
 あとは限りない渇きが喉を満たし、大量に水を飲み、それでも癒されない渇きに血を欲し、けれど周りに獲物など無く、移動する気力もなく、持って来た食料を食べ、それさえも惰性のような物に思えて、あまりの渇きに悶え苦しんだ。
 欲しい。
 血が欲しい。
 欲しくて欲しくてたまらない。
 三週間目を過ぎる頃には…いや、そんな日数すらも最早考える事など出来なかった。
 血を求める心を、僅かに残った理性で押し殺すのが精一杯で、いつからか水以外は殆ど飲まなくなり、ろくな食事も取らなくなった。
 渇きの余り爪で喉を掻き、幾筋も後が出来たが、そんなことも気にならない。
 諦めよう、と何度思ったか解からない。
 それを引き止めたのは、脳裏に浮かぶ古泉の姿だった。
 どんなに苦しくても、血を求めても、それだけは変わらなかった。
 自分でもおかしくなるぐらいに、血以上に古泉を求めていたのだろう。
 そしてどれだけ経ったのか、ふと、ある瞬間に喉の渇きが嘘のように消えた。
 俺自身がもがき苦しんだ後が、周囲のあちこちに残っていた。木や土を爪で引き裂き衝動に耐え、その名残で指先は土や木屑がついている。
 それこそ、自分でもよくやったなと思うほどに無残な状況だった。
 ゆっくりと身を起こしてまず俺が覚えたのは、空腹だった。
 用意していた食料を取り出し、いくらか食べると空腹も癒えた。
 まるで嘘のように、血を求める心が消えていた。
「…人間に、なったのか?」
 自分ではよく解からない。今の状態では何かが変わったとは解からなかった。いや、血を飲みたいと思わなくなった事は変わったか。
 元々日光に当たっても平気だっただけに、それを判断材料とする事は出来ない。
 あとは、牙が出るかどうかだが、試したところで出てこなかった。
 本当に、人間になったのだろうか?
 一ヶ月経ったのか経っていないのか、日付の感覚が既に解からなくなっているから、自信が無い。
 兎に角、町まで出て、日付を確認しようと、俺は歩き出した。
 しかし、成る程人間とは不便な物だと、少し歩いて理解した。吸血鬼であった頃は何でもない道程も、人間にはきついのだ。それに方向感覚も狂ってしまったらしく、町へ向かったつもりが、どんどん森の奥深くに移動しているようだった。
 まずい。
 本気でまずい。
 せっかく一ヶ月血を飲まずに生き残り、人間になったというのに、遭難して死んでしまう可能性が出てきた。
 幾らなんでもそれは情けなさ過ぎる。
 だからと言って待っていても誰かが助けてくれる訳でもなく、俺は兎に角足を進める事しか出来なかったのだが。


 あの時、彼を突き放してから数日、様子見の為に長門さんが留まっていてくれたが、暫くしてもう彼が来ないと判断すると、戻っていった。
 彼女には本当に感謝している。あくまでも自分の希望を聞いてくれた事に。
 エクソシストとして、かなり優秀な部類に入る彼女に頼めば、彼を殺す方法だって教えてくれただろう。けれど、僕はそんな方法は知りたくなかった。だから、彼を傷つけずに身を守る方法を教えてくれと問うたのだった。
 そして、その結果があの結界だった。
 最後の最後まで、僕自身の我侭を通し、それでも受け入れてくれた彼女には、感謝の言葉をいくら言っても語りつくせない。
 そして、それから暫くすると、朝比奈さんが戻ってきた。
 彼女を襲った吸血鬼がどうしているのか全く解からないから心配だったのだが、気丈にも平気だと笑って言った。
 彼女の笑顔にほっとしながら、それでも僕は、心のどこかで疑問を抱いていた。
 彼が来なくなった事に。
 ああもしつこく毎日訪れていた彼が、あれだけの拒絶で大人しく来なくなるなったという事も、それ以前にあの時、あっさり帰って行ったのも、意外と言えば意外だったのだ。
 否、もともと彼にとって僕の存在などその程度だったのだろう。
 全て終わったのだ。
 だから、此れで良い。今までの生活に戻るだけ。
 穏やかで、優しい時間が流れていくだけ。
 なのに、何故だろう。
 僕はそれを、何処か物足りないと思っている。
 今までそれに満足してきたはずなのに、僕にはそれで充分だと思っていたのに。
 どうかしている。
「神父様?」
 不意に声を掛けられはっとした。
 振り返ると、心配そうな朝比奈さんの顔。考え事をしていて彼女を心配させてしまったのだろう。慌てて微笑を浮かべる。
「大丈夫ですか?最近ぼうっとしている事、多いですよね」
「すみません、心配を掛けてしまって」
 彼が来なくなって、もう一月近く経つ。
 いい加減元の生活に戻ったことに慣れても良い頃の筈なのに。
 朝比奈さんは僕の笑顔に尚更眉を寄せた。いつもなら、こうして笑えば彼女も安心してくれるのに。それとも、矢張り今の僕の笑顔は何処かおかしいのだろうか。
「本当に、神父様、最近変です。すぐにぼうっとなって、溜息を吐いて。まるで恋患いでもしているみたい」
「恋患い?まさか…僕は神に仕える身、僕が心を捧げるとしたら、神にでしかありませんよ」
 そう、まさか、彼に対して、などと、そんな事は…ある筈がない。
 あってはいけない。
 そう言うのに、彼女は不満そうな顔をする。
「たとえ、聖職者でも、人を好きになったらどうしようもないと思います。神父様は、いつも優しく笑っていてくれるけど、あたし、神父様が本当に幸せそうに笑った顔、見たことありません」
「…幸せそうに、笑った顔…?」
 彼女の言葉に目を見開く。
 今までの生活でも充分に幸せだった。満ち足りていた。
 その筈なのに、彼女の目にはそうは見えなかったという事だろうか。
「自分の気持ちに、無理に嘘は吐かないでくださいね。苦しくなるだけですから」
 そう言って、彼女は小走りに駆けて行った。
 教会の掃除をするつもりなのだろう。
 それを見送ってから、彼女の言葉を考える。
 僕は嘘を吐いていたのだろうか。自分の気持ちに?だとしても、どうして彼に対して恋患いだなどということになるのだろう。彼には、酷い事ばかりされてきたのに。
 それなのに、どうして。
 僕の脳裏に浮かぶ彼の表情は、いつも苦しげに歪められているものばかりなのだろう。
 そして、その様子を思い出すたびに、胸が締め付けられるのは。
 その事を考え、そんな筈は無いと頭を振る。
 あっては、いけない事だから。


 一体どれだけの間森を彷徨ったのか解からない。
 持っていた食料は食い尽くしたし、いい加減何処かに出なければ本気で死ぬかも知れない、と思った。 そう思って彷徨っていると、不意に開けた場所に出た。
 余り大きくはない湖があり、きらきらと輝いている。
 取り敢えず水分を補給しようと湖の水を飲む。喉が潤された事にほっとして、ぐったりと倒れ込んだ。これ以上歩くのは無理だ。
 ふと、足音が聞こえて、そちらに目を向ける。
 黒い神父服が見えて、目を見開いた。向こうも当然驚いたようで、慌てて俺に駆け寄って来る。
「貴方は…どうしたんですか、そんなにボロボロになって」
 慌てた様子で抱き起こされて、苦笑する。ボロボロ、というのは事実だろう。何日も森を彷徨っていたから、服もあちこち破けているし、丸一日何も食べていないから腹も減っている。
 本当に情けないな、と思いながら口を開いた。
「なあ、何か食い物持ってないか?」
「え?」
「腹減ってんだよ」
 そう言うと慌てて古泉は懐を探り、乾パンを取り出した。よくそんなもの持ってたな。まあ、腹に入るだけマシか。
 取り敢えずそれを貪るように食い、ほっと息を吐く。
「どうしたんですか、一体…?」
 こんな所で倒れていればいぶかしく思うのも無理は無いが、二度と目の前に現れるなと言い放った相手を心配しているのはどうなのか。
 それにしても、無意識にでも此処まで辿り着いた自分を褒めてやりたい。本能だけで古泉を求めてきたのかも知れなかった。まあ、現状情け内のはこの際仕方が無い。
 俺の側に膝を付き顔を覗き込んでくる古泉を、そのまま抱き締めた。
「好きだ」
「っ!」
 耳元に囁くように告げれば、体を強張らせた。
 まあ、無理も無いだろう。兎に角言わなければならない事は全部言う。例えそれで振られたとしても、簡単になど諦めてやらない。
「なあ、今俺から魔物の気配がするか?」
「…………いえ…」
「そっか」
「一体、どういうことです?」
 一度抱き締めていた体を離して、古泉と視線を合わせる。其処にはありありと戸惑いが浮かんでいた。俺の告げた言葉、今の俺の状態、その全てが古泉にとっては疑問なのだろう。
「人間になったんだ。お前が、俺が吸血鬼である以上、心は許せないと言ったから」
「人間に…?そんな話、聞いたことが無い…」
「だろうな、俺も無い。多分、俺が初めてだろうな。一ヶ月、人間と同じような生活をして、血を飲まずに居たら人間になれるって、迷信みたいな話だけど、本当だったみたいだ」
「一ヶ月…?そんな、無茶な!下手をすれば死んでしまうんですよ」
 本気で俺を心配するような様子に、苦笑する。
 俺を死なせたくないと言った言葉が本物だと、よく解かる。
「それよりも、お前を手に入れる方が俺にとっては重要なんだ」
「…どうして、其処まで」
「言っただろ、お前が好きなんだ。いつからかは解からんが、俺はもう、お前以外何も要らない。お前を手に入れるためなら何だってする。人間にだってなった」
 古泉の戸惑いが大きくなる。
 それでも俺は絶対に古泉を放すつもりはなかった。
「だから、俺を選べよ。何もしてくれない神様なんかより、ずっとお前を好きだし、お前が願う事なら何だって叶えてやる。だから、俺と一緒に行こう」
 何処へ、とは言わない。
 でも、此処から離れる。
 古泉にそれが出来るのかは解からなかった。嫌われている訳では無いようだったが、好意を持たれている自信は全く無い。好かれるようなことなど何一つしていないのだから当たり前だ。
 それでも、俺は古泉が欲しくて仕方ない。
「…僕は、今まで神に仕えて生きてきたんです。今更、それを放棄しろと?」
「ああ」
「僕の今までの人生を全て覆して、貴方と生きろと言うんですか」
「俺はもう、全部捨てた」
 俺の言葉に、ぴくりと古泉の肩が揺れた。
 ああ、一番肝心なことを聞いていない。俺が聞きたいのは言い訳なんかじゃない。
「古泉、お前は、俺のことが嫌いか?」
「嫌いじゃ…ありません」
「じゃあ、好きか…?」
 その問い掛けに、古泉は一度俺から視線を逸らせ、暫く考え込んだ後、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。


 水汲みに行った神父様が帰ってこない。
 以前あたしが水汲みに行った時に襲われたから、それを心配して神父様は僕が行くから、と言ってくれたのだけれど、ひょっとして何かあったのだろうか。
 あの道を辿るのは、実は今でも少し怖いのだけれど、心配になって、湖まで向かう。
 しかし、其処には誰も居なかった。置いてあるのは水桶だけで、けれど、その水桶の下に挟むようにして紙が置いてあった。
 それを手に取ると、よく知った神父様の字で一言、「ごめんなさい」とだけ書かれていた。
 それを見て解かってしまった。
 行ってしまったんだな、と思って、でもあたしは少しだけ嬉しかった。寂しくもあったけれど。
「良いんですよ、神父様。神父様だって、幸せになる権利があるんですから」
 いつも優しく、穏やかに接してくれた神父様。あたしがドジをしても絶対に怒ったりはしなかった。そんな神父様の数少ない我侭なんだから、謝る必要ないんです。
 だから、幸せになってください。


「良かったの?ハルヒちゃん」
 キョンの妹の言葉に、あたしは視線をそちらに向ける。
「良いのよ」
「でも、ハルヒちゃん、キョンくんの事…」
「良いの。ずーっと長い間一緒に居たって、あいつのあそこまで真剣な顔、あたし見たこと無かったんだもの、しょうがないわ。あたしじゃ無理だったのよ」
「うん…」
 落ち込んでいないと言えば嘘になるけれど、本当は始めから吸血鬼らしくない奴だったんだから、仕方ない。きっといつか、こうなるんじゃないかと何処かで思っていたから。
 全てを捨てて、それでも決めたのなら、あたしに反対出来る訳が無い。
「だから、幸せにならなきゃ、絶対に許さないんだから」
「うん、そうだね」
 にっこり笑うその子に笑い返して、目を閉じた。
 本当に、幸せにならなきゃ、許さないんだからね、キョン。





 古泉が俺の隣を歩いている。
 それは何処か不思議な気がした。妙なものだ。
「本当に、良かったのか?」
「今更それを言いますか?」
「まあ、そうなんだけどな…」
 半ば俺が無理矢理連れ出したようなものだからな、気になるのは当然だろう。
 そう思っていると、古泉に手を握られた。古泉の顔を見れば、穏やかに微笑んでいる。
「誰に強制された事でもなく、僕自身が選んだ事です」
「そうか」
 古泉が握った手をしっかりと握り返した。
 それだけで、満たされる。
 今まで何度も抱いてきたけれど、其処にはむなしさしか生まれなかった。けれど、今はとても満たされていると思う。
 こんな幸せがあったのかと、自分でもおかしくなる程に。
 俺は古泉に狂ってしまったんだろう。
 多分、始めて古泉を見た、その瞬間から。
 今までの俺の価値観など、全て意味の無いもので。此処に、隣に古泉が居て笑っている、それだけで俺は幸せなんだと思えた。
「なあ、これから何処に行きたい?」
「そうですね…ずっと山の中に居ましたから……海に行きたいです」
「じゃあ、そうするか」
 何処が良いかな、と考える。
 古泉の手をしっかりと握りながら、この辺で一番綺麗な海は何処だろうと頭を巡らせる。
 二人とも現在無職だし、働くところも探さなけりゃいけないし、住むところだってそうだ。簡単にはいかないだろうけれど、心は軽やかだった。
 今までの人生を全て捨てても、この道を選んで良かったと思う。
 もう絶対、この繋いだ手は離さない。
 何があっても。


Fin


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小説 B-side   涼宮ハルヒ B-side