消失したはずの記憶 後編



 殆ど蹴破るようにして寝室のドアを開けると、そのままベッドに古泉を下ろす。
 俺が古泉の上に圧し掛かり二人分の体重が掛かると、シングルベッドがギシリと大きく軋んだ。
 古泉が俺を見上げている。
 素直な、真っ直ぐな瞳が。
 俺はまた古泉にキスをする。古泉はゆっくりと俺の背に腕を回してきた。これが、俺の一方的な行為ではないという、何よりの証だ。
 古泉のシャツのボタンを外しながら、唇だけでなく、額や瞼、頬にも口付けていく。首筋に唇を寄せると、古泉が口を開いた。
「あ、の…」
「なんだ」
「痕は、つけないでください」
「…解かってる」
 体育なんてあったら、人前で着替えなきゃいけないしな。流石にバレるようなことは控えるさ。本当は体のあちこちにでも俺の物だと徴を付けたいところだが、本当に古泉が俺の物なのかと言われれば正直自信が無いからな。
 痕がつかないように首筋に唇をよせ、舌を這わせるとぴくりと肩が震えた。もう一度其処を舐めあげて、胸の突起を指で押し付けるようにすると、今度は身体が大きく跳ねた。
「っあ…」
「…感じたのか?」
「聞かないで、ください」
 俺の問い掛けに、恥ずかしそうに顔を逸らせて言う古泉が愛しくてたまらない。
 また其処を摘み上げ、唇はもう片方の其処に吸い付く。びくびくと身体が震え、古泉が感じている事を伝えてくる。男でも、こんなとこで感じるもんなんだな。
 何度も其処に吸い付き、指でこね回し、摘み上げ、歯を立てて二つ同時に刺激すると、もどかしげに体をくねらせる。
「ぅ、あ…や……もう…そこ、ばかり……」
「感じてんなら良いだろ」
「ひぅっ…」
 強めに歯を立て、片方は爪を立てると悲鳴染みた喘ぎ声をあげる。俺の手に回された古泉の手にも力が篭る。ぷっくりと赤く立ち上がった其処がなんだか可愛く見える。
 そうした愛撫を繰り返しながら、空いている方の手で古泉のズボンのベルトを引き抜き、緩める。ゆっくりと布越しに撫で摩ると体を震わせる。
「ああっ…や…う…」
「胸弄っただけで、もうこんなになってんのか」
「言わないでくださいっ」
 快感で赤く染まっていた頬が、羞恥でさらに真っ赤に染まる。
 その表情が愛しい。いや、表情だけでなく、俺が触れる事で反応を示す体も、白く滑らかな肌も、押し殺そうとしても漏れ聞こえる喘ぎも、全部愛しくてたまらない。どうしようもなくこいつに惚れているんだと実感する。
 腰を上げるように促し、下肢に纏っているものを全て一気に引き抜くと、大きく足を開かせる。古泉の視線が羞恥で揺れて足を閉じようとしたのを押さえ込み、俺の体を足の間に挟みこむ。
「あ、あの…っ」
 俺の視界に、その部分が惜しげもなくさらされて相当恥ずかしいのだろう。完全に顔を逸らせてしまった。俺はと言えば、その部分を目にしても全く不快感は無い。古泉以外の男が相手だったら、確実に此処で引いている自信があるが、そんな場所さえも綺麗だと思う俺の脳は確実にイカれているに違いない。
 すっかり勃ち上がっているその部分に指を這わせると、びくりと足が痙攣した。その部分が脈打ち、熱くなっているのが解かる。これが古泉が感じてくれている証というのなら愛しいとしか思えない。そうして何度も扱き上げると、次第に古泉の息が上がってくる。
「あっ…あぁ…や、もう……も、駄目…です…っ」
「ああ…達けよ」
「ひっ、ぁ…ぁああああっ!」
 快感に悶えて強く頭を振る古泉に応えるように強く扱き上げれば、大きく体を震わせて古泉が達した。白い飛沫が俺の手を汚し、古泉の白い肌にも飛び散る。
 射精の余韻でぐったりと横になっている古泉の唇にキスを落とす。
 早く次に進みたい。…が。
「古泉」
「は、い?」
「此処までしといて今更だが。俺が上で良いのか?」
 古泉も俺も男で、やるからにはどちらかが受け入れなければならないが、ついつい勢いで押し倒してきてしまったが、古泉が上をやりたいというのなら考え直さなければならないだろう。
 そう考えての問い掛けだったが、古泉は何を今更、とばかりに苦笑を浮かべる。
「それで良いですよ。……いえ、その方が良いです」
 そう言って俺の首に手を伸ばしてくる。俺の肩に額を擦りつけ、よく見えないが笑みを零したようだった。古泉から伸ばされてきた腕に俺が微妙に戸惑っていると、そのままの体勢で続けて言った。
「貴方には、触れてほしいと思うんです。だから……抱いてください」
「…っ」
 其処まで言われて、躊躇など出来る筈もない。俺に抱きついている古泉の肩を掴みベッドに押さえつけ、唇を奪った。精液で濡れた手は双丘の小さな窄まりへと伸ばし、そっとなぞる。当然の如く堅く閉じている其処に、濡れた指をゆっくりと押し込む。
「…うっ」
 古泉が小さく呻き声を漏らす。
「痛いか?」
「いえ、痛くはないです、けど。変な感じです」
 まだ少し指を押し込んだだけだから、痛くはないらしいが、そうそう快感を感じる訳もない。俺だって男同士でやるのなんて初めてだから、実は結構ビビってるんだが、今更後には引けないし、古泉が欲しくて堪らないというのが事実で、止められそうにもない。
 出来るだけゆっくり慣らすのが良いだろう。手についた精液をゆっくりと擦り付けるようにしながら解していく。同時に、キスをして、古泉の意識を出来るだけ其処から逸らすようにする。古泉だって、怖くない訳は無いだろう。俺の口付けに必死に応えてこようとするのは、古泉自身が其処から意識を出来るだけ逸らしたいからに違いない。
 キスを繰り返しながら、ゆっくり、ゆっくりと中指を中に押し入れていく。きつく締め付けてくる其処は熱くてどうしようもなく煽られる。中指が奥まで入ると今度は押し広げるように動かす。痛い想いはさせたくないから、出来る限り慌てずに、ゆっくりと。
「ふっ…ぁ…」
 キスを繰り返して熱い息を漏らしながらも、指を動かすたびに微妙に身体が強張る。確か、感じるところがあった筈だよな。前立腺だったか。
 どの辺だろうと中を探り、感触の違うところに指を擦り付けた。
「ひっ、あ!」
 途端、古泉が悲鳴染みた高い声を漏らした。どうやら此処が前立腺らしい。古泉はと言えば、急な刺激に戸惑っているようだった。
 俺は指を折り曲げ、何度も其処を刺激する。すると古泉は面白いほどに体を痙攣させ反応を示した。
「あ、…や、駄目です…そこ、は……あぅ…っ」
 始めに指を入れた時は萎えていた古泉の其処も再び勃ち上がっていた。緊張していた体も緩んできて、人差し指も中に入れた。矢張り熱く締め付けてくるが、それでも二本の指を受け入れてひくついている。間を置かずに薬指も差し入れ、押し広げるように動かすと、古泉が身を捩る。
「はぁ……っ、あ…んっ……そんなに、動かさないで……」
 前立腺を刺激されたことですっかり息も絶え絶えの様子で、もう一度達かせてやった方が良いだろうかと思いつつも、俺もこれ以上我慢できそうに無い。正直、古泉のこんな姿を見ているだけで、もう我慢も限界に達してるんだ。
「古泉………いいか?」
 耳元で囁きかけると、古泉は意味を察して、ゆっくりと頷く。それを確認して指を引き抜くと、名残惜しそうな息を吐いた。
「…ぁ」
「いくぞ」
 ズボンの前を緩めて自身を取り出し、ひくつく其処に押し当てる。此処まできても、やっぱり少しビビっている。女とセックスした事は何度もあるが、それでもアナルセックスなんてした事無いからな。本当に良いのかと思うさ。しかも古泉が相手なら尚更、痛い想いはさせたくない。
 それでも、もう、我慢なんて出来ない。
 ぐっと中に押し込むと、古泉の腕がシーツをきつく掴み、首を逸らして衝撃に耐えるような仕草をする。
「うあっ…く……っぅ」
 苦しそうにしながら息を吐く古泉を見て、俺は一旦其処で止める。まだ亀頭の部分しか入っていない。しかし、余りにも苦しそうにしているのを見ると、これ以上進めていいのかどうか迷う。正直、此処まで入っているだけでも、きつく狭い其処に締め付けられて、強引にでも中に押し入れたい気はするんだが、それよりも古泉が苦しい想いをする方が嫌だ。
 これが今まで適当に付き合ってきた女なら、余り気にしないんだけどな。
 自分がどれだけ古泉に惚れてるか、改めて思い知った気がする。
 動かない俺に古泉は視線を向け、痛いし苦しいだろうに笑みを浮かべた。
「…だいじょうぶ、です」
「古泉」
「だから…奥まで…」
 その声を聞いた瞬間に、ブツッと何かが切れた。
 一気に中にまで突き入れ、引き出し、また突き入れる。限界ギリギリだったものが、完全に切れ、古泉を想いやる余裕さえ吹っ飛んだ。
「うっ…あ…ぁ…っ」
「っく、古泉…っ」
 挿入しやすいように片手で古泉の足を掴み押し広げ、体を倒して唇を奪う。体勢的に古泉は相当苦しい筈だが、止めろとは言わない。ただ、俺の背に腕を回し、ぎゅっと縋り付いて来る。
 深く舌を絡ませながら、何度も律動を繰り返す。
「ふぁ…ん……んんっ……あっ…」
「古泉…っ、古泉…」
 俺はと言えば、古泉の名前を呼ぶ以外に出てくる言葉が無い。睦言も何も思い浮かばない。ただ、古泉を抱いているという事実だけで暴走していた。
 ぐっと角度を変えて腰を突き入れると、古泉の反応が変わった。
「ひっ…あ、んっ…!」
「っ…!」
 瞬間、強く締め付けられ、動きを止め、息を吐く。すぐにでも放ってしまいそうなのを押さえつけて、呼吸を繰り返す。
 おかげで何とか、古泉を想いやる余裕が出来たが。
「古泉、息、吐けよ。その方が楽だから」
「…はい」
 俺の言葉に頷き、古泉は深呼吸を繰り返す。それを確認すると、また動く。今度は出来るだけ古泉が感じる場所を狙って。
「あ…やっ、ん……あぁ…っ」
 ぎゅ、と俺に縋りつく指先が強くなる。爪を立てられているようだが、痛みよりも快楽が勝って感じている余裕はない。
 何度もその場所を突き、奥を抉るように捏ね回し、出来うる限り古泉の快感を拾おうとする。古泉自身を握りこむと白濁した液体を止め処なく溢れさせていて、古泉が感じている事を伝えてくる。それを動きに合わせて扱きあげると、尚更強く古泉は俺に縋りついた。
「ぅ…は…ぁ…あ…んんっ…ひっ…あ…」
 動きに合わせるようにして、止め処なく声が漏れ聞こえる。その声がまた、たまらなく俺を感じさせる。
「はっ…ぁ、あ……ふっ…も、ぅ……もう…だめ…です…っ」
「っ…古泉」
「ぁあっ…ぁ、もう…いっ…あ…」
 快楽に緩みきった表情で、古泉が俺に訴える。古泉の、潤みきった瞳から涙が零れた。これは、快楽による生理的なものだろうが、そんな事は問題ではなく、綺麗だと思った。零れ落ちる涙を舐め取り、ぐっと深く腰を突き入れ、動きを早めた。
「あっ!…ふ、ぁ…んっ」
「古泉…良いか…?」
「あ……は、い……気持ち、良いです……だか、ら…もう…っ」
「ああ、俺も……もう、限界、だな…」
 互いに荒い息を吐きながら、言葉を交わす。
 俺は最後に奥まで深く抉り込みながら、同時に握っていた古泉のモノを強く扱いた。
「あっ、ゃ、あ―――っ!!!」
「っく!」
 古泉が射精すると、中が強く締め付けられ、俺も古泉の中に欲望を吐き出した。そのまま脱力し、俺も古泉の上に倒れこむ。
 暫く動けそうに無い。
 汗ばんだ肌を合わせながらベッドに寝転び、俺はそのまま古泉を抱き締めた。
「…大丈夫か?」
「はい…大丈夫です」
 俺の問い掛けに、古泉は笑みを浮かべて答える。何処か緩んだ表情で、それが俺に向けられているのだと思うと、嬉しくて堪らない。
「そうか」
「はい」
 結局、二人とも疲れたのだろう。そうして笑いあった後、どちらともなくいつの間にか眠り込んでいた。

 目が覚めたのは日付も変わろうとする時刻だった。
 身を起こせば、古泉は隣でまだ寝息を立てている。そしてふと気づけば腹が減っていることに気づいた。そういや、夕飯も食ってないんだよな。しかも激しい運動もしてるし。
 しかし、俺は古泉のように上手く料理が作れる訳でもない。それに汗をかいたし、このまま放っておく訳にもいかない。何より一番の問題は古泉だ。
 …中に出したよな、俺。
 余裕が無かったとはいえ、マズいんじゃないだろうか。男同士だから妊娠はしないが、放っといたら腹壊すんじゃないのか?
 しかし、眠っている古泉をどうしても起こせないのが俺で、結局今までそうして寝顔を見ているだけだったのだから今回も起こす事が出来ない。仕方なく溜息を吐くと、乱れた服を簡単に調えて、バスルームに向かう。何かタオルは無いかと探して、熱めの湯で濡らして強く絞る。
 寝室に戻ると、簡単に古泉の体を拭いてやる。何しろ、俺以上に見るも無残な姿だからな。兎に角表面的には綺麗に清めて一息吐く。勝手で悪いが俺はバスルームを借りてシャワーでも浴びよう。
 シャワーを浴びると、ようやく頭が冴えてきた気がした。
 熱い湯でひりひりと背中が傷む。古泉に爪を立てられた所が疵になって今更傷んできたらしい。
 本当に古泉とやってしまったんだな、という実感が、今更ながらに湧いてくる。喜んだら良いのか、何なのか、イマイチよく解からないんだけどな。
 いや、嬉しいのは嬉しいんだが、すっきりしないというか、結局のところ、よく解からない記憶を持て余したままなのが原因だろう。目が覚めたらその辺はきっちり説明してもらう事にしよう。
 泣いた理由も。
 シャワーを浴びて寝室に戻ると、古泉も目を覚まして身を起こしていた。
「起きたのか」
「はい…。身体、拭いてくれたんですね」
「ほんとに拭いただけだけどな。勝手にシャワー借りたぞ」
「構いません。好きに使ってください」
「お前も浴びて来い。…拭いただけで、中はそのままだからな」
 何となく言い難いが、一応そう告げると、古泉も何処となく恥ずかしげな顔をして苦笑した。
「…そうします。……ぁ」
「っと」
 ベッドから立ち上がろうとしたところで、足元がふらつき、慌てて支える。
「大丈夫か?無理させたからな」
「平気です。少しふらついただけですから」
「一人で歩けるか」
「ええ」
 頷く古泉を見て手を放すと、軽く会釈して寝室から出て行った。
 俺はベッドに座り、頭を掻く。何だか猛烈に煙草が吸いたくなって来たが、流石に家主が居ないところで勝手に吸う訳にもいかない。俺の部屋なんかだととっくにニコチンが壁にまで染み付いてるけど、此処は明らかにまっさらな印象しか与えない部屋だ。
 落ち着かないまま、俺は息を吐く。
 ひょっとしたら、実感しているようでしていないのかも知れない。まだ夢現を彷徨っているような、そんな気分から抜け出していないのかも知れない。
 もしかしたら、今俺が現実と感じている事そのものが夢なのかも知れないと、馬鹿なことを考える。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、古泉がシャワーを浴びて戻ってきた。そして俺の隣に腰を下ろす。濡れた髪が艶っぽい。
 て、俺は結局その辺に思考が戻るのか。
 いやまて、正直言って俺の今の思考はまとまり無さすぎだろう。つーか、上手く行き過ぎて現実感が湧かないから逃げているだけなのかも知れない。
「…どうしたんです?そんなに考え込んで」
「あ、いや。なんでもない。それよりお前、あの時、何で泣いたんだよ。説明するって言ったよな?」
 これを聞かない事にはどうしようもない気がする。
「ああ、ええ。これもまた、信じられないような話かも知れませんけどね」
 そう言って、古泉は苦笑を浮かべた。
 そして古泉から聞かされたのは、まあ言うとおり、信じられないような話だった。
 夏休みを、八月十七日から三十一日までの間を、15498回も繰り返してたって?信じらんねーというか、また壮大な話だな。
「その事に気づいたのは、涼宮さんを除く、僕達SOS団のメンバーだけの筈です。それ以外の人達が気づく事は有り得ないと言っても良い事です。特に、涼宮さんと未だ何の関係も持たない貴方は」
「でも、俺は覚えてるって事か。その、一万何千回だか繰り返した夏休みの一部を」
「ええ。僕も、はっきり覚えている訳ではありません。既視感と呼べる以上のものはありません。ただ、何となく貴方とこういう会話を交わした気がする、という程度のものです」
「俺も似たようなもんだけどな」
 しかし、何故それを俺が覚えてるのかって事が問題なんだよな。多分、古泉にとっては。
「全てのシークエンスにおいて、貴方と僕がそういう会話を交わした訳ではないのは確かだと思います。今回が例外だった訳ではなく、恐らくは、夏休みが繰り返している事に気づいた、という前提があってこその出来事だったのでは無いかと思います」
「何でんな事が解かる」
「夏休みが終わるまで、と僕が貴方に言ったからですよ」
 そう言って古泉が何とも言えないような微笑を浮かべる。淋しいんだか、嬉しいんだか、悲しいんだかよく解からない、複雑な感情を要り混ぜた微笑みだ。
「消えてしまうと、解かっているのに関係を持ちたくなかったから、僕はそう言ったんだと思います」
 それは、喜んで良いんだろうか。少なくとも古泉は、その時から俺を望んでくれてたって事なのか。いや、それを言うのなら俺も、か。
「俺がお前を好きだって気づいたのは、文化祭ん時だぞ」
「僕が、おぼろげながら貴方とそういう会話を交わしたと思い出したのも、文化祭の時です」
「ん?」
「…貴方が気持ちを自覚する事が、僕にとってその記憶を呼び覚ます切欠になっていたのかも知れませんね」
 そう言って苦笑を浮かべる。
 しかし、俺が自覚するのが遅かったのは多分、そんな恋心や何かを全部すっ飛ばした上でお前を好きだと思った所為だと思うぞ。八月三十日、お前が家に来た時に気づいたそれは、恋心なんか軽くすっ飛ばすくらいのもんだったから、その形を自覚するまでに時間が掛かったんだ。
 それは一万何千回の積み重ね故のものなのかね。
「お前は、俺が覚えてるのが不思議なんだよな」
「ええ。正直、貴方が覚えているとは僕は思って居ませんでしたから」
「その割に試すような事言ったじゃねーか」
「…期待は、していたんです、少し」
 覚えていて欲しいと。
 そう言った時の表情が心許無さ気で、俺は無意識に古泉を抱き締めていた。
「古泉」
「…はい」
「俺は前の俺が考えてた事なんてはっきり解からんし、正直そんなに夏休みを繰り返してたなんて実感する事もねえし、つか、俺が覚えているのは其処だけだけどな。だからこそ、一つだけ言える事がある」
 多分、それは間違いの無い事だ。
 俺に抱き締められた古泉は抵抗もせずに俺を見る。真っ直ぐな眼差し。俺が好きな、古泉の眼差しだ。
「お前が、忘れたくない、忘れて欲しくないと思ったように、俺もその事を忘れたく無かったからだよ。何回も繰り返した中で、その事だけは、どうしても忘れたく無かったからだ。それ以外に、理由なんか無いだろうが」
「……っ」
「違うか?」
 ゆるゆると首を振る。言葉は無い。出ないのだろう。
 古泉の瞳からは、また涙が溢れ出していた。
 そんな古泉をしっかりと抱き締めながら、こうして触れていられる事の幸福を想う。
 一番じゃなくたっていい。きっと、古泉の中の涼宮の位置は決して変わらないだろうと思う。けれど、俺の事でこうして涙を流してくれるのなら、それだけで充分だと思える。それだけの位置に俺が居るという、何よりの証だから。
「古泉、お前が好きだ」
 この想いがいつから始まっていたかなんて、そんな事はどうでも良い。ただ、こいつが好きだという想いだけは、決して偽りの無い真実だ。
 そしてそれは、古泉も同じなんだろう。
 涙を流しながら、それでも俺を見て古泉は微笑んだ。
「僕も、貴方が好きです」
 その古泉の表情が綺麗で、愛しくて、俺は古泉にキスをする。
 消えたはずの記憶が、それでも俺の中にあったのは、全部こうして古泉を抱き締めるためのものに違いない。
 暫くそうしてキスを交わし抱き合っていると、ふと古泉が思い出したように立ち上がる。
「そうだ、忘れてました」
「ん?」
 一体何だと思えば、古泉は机の引き出しから封筒を取り出し、俺に渡した。
「貴方の話を聞いた後に渡そうと思ってたんです。色々あって忘れるところでしたけど」
「何だこれ?」
 そう言って中身を見ると、どうやら北高生の身辺調査書らしい。て、何でんなもんを俺に見せるんだ。俺は他人のプライベートを覗き見る趣味は無いぞ。
「貴方が言ったんでしょう?生徒会で仕事が出来そうな人を選んでおいて欲しいと」
「言ったけどな…機関は何もしてくれないんじゃなかったのか?」
「『機関は』しませんよ。此れは僕が個人的に調べて良いと思った人のリストです」
「はっ…」
 思わず笑い出してしまう。
 ああもう、こいつには敵わない。敵うはずもない。
 だってもう、どうしようもないだろう。お前が此処までしてくれる、それだけで、俺はお前に命だって懸けられると思うんだ。
 きょとんと俺を見ている古泉を見て、何とか笑いを収める。
「解かった。参考にさせてもらう。お前の見る目は信用してるからな」
「そうですか?」
「ああ。何しろ、俺を選んだのもお前なんだろう?だったら疑う余地はねーな」
 何しろ、俺はすっかりお前に惚れ込んで、お前のために働く事に疑う事も無くなったような人間だからな。それは俺を選んだお前に見る目があるって事だろう。
 そう言うと、カーッ、と音がしそうな勢いで古泉が顔を赤く染めた。
「…おいおい」
「何です」
「俺が告白した時だってそんな反応見せなかったのに、お前…」
「ほっといてください」
 むすっと拗ねた顔をする古泉を見て、思わず笑う。
「可愛いな、お前」
「…ほっといてください」
 古泉に受け入れられるという事がどんな意味を持つのか、ようやく実感できた気がする。こうして古泉が、今まで見せなかった表情を俺に見せる、俺に心を許している、それが何よりも、古泉の中に踏み込めたのだという何よりの証に他ならない。
 本当に、俺はお前のためだったら何でもするよ。
 お前が望むんだったら、どんな事でも厭わない。
 もう一度、そう心に決めて、拗ねた表情を浮かべる古泉に一つ、キスをした。




Fin


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