消失したはずの記憶 前編



 文化祭終了後は、それこそ選挙戦の追い込みだった。
 途中まで書き進めていたスピーチ原稿を古泉がチェックし、修正を加えていく。そもそも、生真面目なだけの原稿では生徒の注目は集められない。適度に生徒を話に惹きつけるような面白さが無ければ、生徒は真面目に聞かないし、まともに聞いてもいない演説に対して生徒が考えて一票を投じようとも思わないだろう。
 つまり、人を惹きつけるだけの演説が必要で、かつ生徒の要望に見合ったスローガンを打ち出さなければならないのだ。
 言ってみればそれだけの事なのだが、これがまた難しい。俺は人前で話すのは取り立てて苦にならないタイプだが、作文は正直かなり苦手だった。だからスピーチ原稿もそれこそ頭を抱えながら書き進めていたのだが、古泉の協力もあって何とか形になった。
 全く、古泉サマサマだな、この協力がなければ俺は絶対選挙戦に落ちてたに違いないね。
「めんどくせえなあ」
「仕方ありませんよ。スピーチも制限時間が決められていますし、多少のロスならば兎も角冗長なものは逆に生徒にも飽きられてしまいます。生徒は長い演説が嫌いですからね」
「俺も嫌いだ」
 特に始業式終業式なんかの校長の長ったらしい演説なんて、眠気を催すものの一つにしかならない。ああいう演説だけはしたくないね。
「ええ、兎に角生徒の立場に立って改革を進めていく生徒会長というのが、一番受けやすいものです。少しでも生徒の希望を聞き、望みをかなえて努力する生徒会長なんて素晴らしいじゃないですか」
「別にそれは良いんだけどな、実際にそれをやるとなると、現会長の残党が居ると面倒だぞ」
「その辺は貴方の判断にお任せします」
「…やっぱりか」
 自分で何とかしろって事かよ。
 本当に、涼宮に対する仕掛けさえ上手く行けばどうでも良いんだな、お前。
「どうでも良いとは言いませんが、涼宮さんの事が最重要事項なのは事実です。後は貴方が生徒会をどうしようと、リコールされない程度のことならば見て見ぬ振りですよ」
「だから積極的にそれ以外の事でも協力しないってか」
「少なくとも機関は動いてくれないでしょうね」
 つまりは何かするのは俺が生徒会長になる時、または俺が生徒会長で居る事が危うくなった時、って事か。
 まあ、そんなことを今から考えていても仕方ない。兎に角生徒会長になる事が先決だからな。
「せめて仕事の出来そうな人選でも探しておいて欲しいもんだけどな」
 溜息を吐きつつ、そんな事を思う。古泉はその俺の言葉には何も答えず、ただ微笑を浮かべていた。
「ところで古泉」
「何ですか?」
「腹減った」
 俺の言葉にくすり、と笑みを浮かべて立ち上がる。
 時間は十一時をとっくに過ぎていて、勿論夕食もきっちり食べたのだけれども、頭を使っていた所為か腹が減ってきた。
「ラーメンで良いぞ」
「インスタントしか出来ませんから、余り体によくありませんよ?」
「良いんだよ、別に。其処まで気ぃ使わなくたって」
「解かりました」
 軽く溜息を吐いて、古泉がキッチンへと入っていく。
 それを見送って俺はもう一度原稿を読み直した。出来るだけ覚えておくのが良いだろうな。ずっと原稿用紙睨みつけてるだけじゃあ、生徒だってまともに聞いちゃくれないだろう。原稿用紙を何度も読み返しながらぶつぶつと口の中で読み上げていると、良い匂いが漂ってきた。
 インスタントラーメン、確かしょうゆと塩味が置いてあったんだが、どうやら塩味っぽい匂いがするな。まあ、塩の方が若干あっさりしているから、その所為だろうが。
 十分ほどしてからようやく古泉が戻ってきた。
 ただインスタントラーメンを作るにしては長いが、古泉はラーメンでさえも栄養面を考えるらしく、キャベツ、ネギ、もやし、卵を入れた野菜ラーメンを持って来た。一応自分の分も用意したらしい。明らかに器に入っている量が俺のより少ないが。
 ていうか、もっと食べた方が良いんじゃないか、お前。
 そして古泉が作ったラーメンはインスタントだというのに、そういうものにさえ料理のセンスが出るのか、俺が適当に作った物より圧倒的に美味かった。
「美味い」
「それは良かった」
 俺の短い感想に嬉しそうに笑みを浮かべる古泉を見て、一瞬衝動的に抱き締めたくなったが熱い汁を胃の中に流し込む事で押さえ込んだ。
 何か気持ちを自覚してから突発的にこういう事があるんだよな。しかもランダムで俺自身にさえ予想が出来なくてはっきり言って困るんだが。毎回それを抑えるのに、俺がどれだけ必死になっていることか。
 当の古泉はそ知らぬ顔でラーメンを啜っているのだから忌々しい。
 いやまったく、これは俺の勝手な意見だと解かっちゃいるけどな。
 ラーメンを食い終わっても、まだまだ原稿に関して話し合い、スローガンも解かりやすく、かつ生徒の気を惹くものが良いと話し合い、結局のところ古泉は俺の家に泊まりこみで、かと言って好きな相手が自分の家に泊まりこんでいるのにも関わらず、何が進展する訳でもない。
 情け無いことこの上ないね。
 まあ、今はそれよりする事がある。
 立会演説会まで、一週間無いんだからな。


 そんな追い込み期間を過ぎて立会演説会当日。
 日を追うごとに現副会長が俺を睨みつけている回数が増え、何やらこそこそと嗅ぎ回っているらしいのを感じながら、俺は放置しておく事に決めた。それを何とかするのは機関の役目だろ。
 実際妙な噂が流れているし、大方その辺を探っているに違いない。
 だがその噂自体が選挙戦に注目を集めるダミーのようなものだ。実際に裏で色々している人間は居るのだろうが、生徒達にそうと解かる程間抜けな事はしないだろう。一介の高校生がどうにか出来るほどちゃちい組織じゃないだろうからな。
 実際、立会演説会当日になっても、結局副会長は俺に何も出来ないままだったからな。ところで、俺を色々探っていたのは良いが、スピーチはちゃんと考えてきたのか?
 全く張り合いが無いのも詰まらないぞ。
 なんて事を考えながら俺は何度も原稿を読み返していた。原稿が無くても空で言える程しっかりと内容は覚えた。
 最早あとはなるようにしかならないな。

 そして立会演説会の結果はと言えば、そこそこ上手くいったんじゃないだろうか。というか、俺の前の副会長が盛大にトチってくれたものだから、逆に俺は冷静に出来た。有り難いね、本当に落選する気がしないぜ。
 結果は翌日に持ち越されるが、正直俺は選挙の結果そのものよりも古泉の事で頭がいっぱいになっていたからそれ自体に特に感慨は持ち合わせていない。
 いや、当落に関してはかなり気にはなっていたんだけどな。
 何しろこうして古泉とそれこそ夜通しでスピーチの原稿を考えたりと打ち合わせしている間に、俺は一つ決めたことがあった。
 それも全てはこの選挙戦で当選したら、という条件付で。
 我ながらそうでもしないと決心がつかなかったというのが情けない。
 副会長が原稿を忘れて慌てて取りに戻るなんて大失態をおかしてくれたおかげで、殆ど当確状態だけどな。他人の事ばかり気にしていると自分の身がおざなりになるという、良い見本じゃないか?
 俺の演説もまんざらじゃ無かっただろう。全生徒とは言わないが、半数以上はちゃんと俺の話に耳を傾けていたように思う。何しろ基本的に生徒に美味しい話をちらつかせている訳だし、話術に関しては古泉に仕込まれた。当然、人を惹き込む話方も。
 まあ、最初から話を聞いていないようなヤツは論外だけどな。例えば涼宮ハルヒとか。壇上だと、本当によく見えるもんだが、完全に爆睡していやがった。まあ、顔を覚えられないという点では好都合だったのかも知れないが。
 なんて事を考えつつ、俺は選挙戦の結果が張り出されるのを前にしている訳だが。
 ここ二ヶ月ほどずっと頑張ってきたことが実ったというのに、俺はどうしてこう感慨もへったくれもないような状態に居るんだろうな。むしろこの後の事ばかり考えていてどうしようもない。
 まあ、結果は言うに及ばず、俺が生徒会長になった訳だ。
 副会長以下は前生徒会長の残党が居て少々鬱陶しいが、それはこれからの問題で、兎に角選挙戦の結果が解かったのを目にした瞬間に俺は古泉にメールを打っていた。

『話がある。時間と場所はそっちで指定しろ』

 なんとも偉そうな文面であるが、時間と場所を古泉任せにしたのは、それなりに古泉の事情を配慮しての事だ。そうそう校内で密会している訳にもいかないしな。それに圧倒的に古泉は俺より忙しい。これは事実だ。
 だからその辺の事を考えての文面だ。
 まあ、素っ気無いのもしょうがないが、俺と古泉のメールの中身なんて色気も素っ気もないようなものばかりだからな。今更だろう。
 十分ほどした頃に、古泉からメールが返って来た。

『今週土曜日、午後四時、僕の自宅で』

 それを目にした瞬間、軽く目を見開く。確かに合格したら来ても良いとは言っていたが、古泉から言い出してくるとは思わなかった。
 その後には古泉の家の住所。
 当選した事に対しての言葉は何一つ無かった。
 俺自身感慨も殆ど無いとはいえ、これはちょっと冷たくないか?
 まあ、古泉の家に行けるだけでも喜んでおくべきだろう。贅沢を言うのはよくないな。特に古泉に関してはあまり多くを求めすぎるのもどうなのかと思うし。というか、求めすぎたら古泉は窒息しちまうような気がしてならない。色んな物に挟まれ過ぎてるからな。
 兎に角、勝負は今度の土曜日となった訳だ。
 それが解かった途端、おれは演説の時よりも余程緊張し始めていた。


 土曜日は快晴だった。
 午後四時というので、それまでの間自分のマンションで適当に時間を潰し、そろそろかと思ったところで身を起こし、古泉の住むマンションに向かった。
 正直に言って良いぞ。
 土曜日の快晴、つまりは休日、秋も深まり始めた穏やかな日差し降り注ぐ中、外にも出ずに部屋でごろごろしている事の如何に無駄な事か。
 しかし俺は夏休みの間も家に引き篭もっていた人間なんだ。完全にインドアなんだよ。
 取り敢えずそう言い訳しておこう。
 古泉が住むマンションは、俺のトコよりもよっぽど立派なマンションだった。此処、一室も俺の部屋より相当でかいんじゃないだろうか。これ全部機関が金だして住んでるんだよな、正直羨ましいぜ。
 オートロックでは無いが、なんとなく中に入るのは緊張する。
 メールに書かれていた部屋まで行くと呼び鈴を鳴らす。
 するとすぐにドアが開かれた。インターフォンついてんだからせめて相手確認してから出ろよ、無用心だぞ。
「会って早々それですか?どうぞ上がってください」
 古泉は表情を笑みに形作り、俺を部屋へと招き入れる。其処で、ふと甘い匂いが鼻についた。
「…甘い匂いがするな」
「ああ、ええ、ちょっと…っと」
 古泉が何か言いかけたところで、するりと何かが足元をすり抜けた。
「にぁ」
 可愛らしげに鳴いて古泉の足元に擦り寄るのは三毛猫だった。
「駄目ですよ、御飯の時間はもっと後です」
 擦り寄る猫にそう言って軽く足を動かすと、不満げに鳴いて外に出て行った。
「お前、猫なんて飼ってたのか」
「ええ、つい最近ね。ちょっと冬のイベントで必要になりまして」
「イベントって…また何かするのか」
「涼宮さんのリクエストですから」
 そう言って肩を竦めるが、余り嫌そうではない。まあ、こいつは涼宮が喜ぶことならそれこそどんな苦労も厭わないんだろうけどな。
「まあ、あの猫を探すのにも随分苦労したんですけどね。これから芸も仕込まないといけません」
「犬みたいに簡単には行かないだろ」
「犬も簡単ではないと思いますけどね。まあ、幸いというか、随分懐いてくれているのでやりやすいですよ」
「三毛だし、メスなんだろうな」
「ええ。それが何か?」
 俺の問い掛けに首を傾げる古泉に軽く首を振る。別に、ただお前は女なら猫にでも好かれるんだなとそう思っただけだ。ただ、声に出して言うと不機嫌にしそうだから言わないが。
「ところで、さっきから漂っている甘い匂いは何だ?」
 そもそも最初はそれを尋ねたのだ。
「まあ、取り敢えず上がってください。ちょうど焼きあがったところですから、グッドタイミングですよ」
「は?」
 ワケが解からないままリビングに通され、ソファに座らされる。俺の家にあるのよりずっと上質で大きめのソファがテーブルに向かい合わせに置かれているというのはなかなか凄いものがあるね。つーか、高校生の一人暮らしが贅沢過ぎないか?
「涼宮さんたちがもし来るような事があれば、これで丁度良いんですよ。誰か一人あぶれるというのも問題がありますからね」
 そう言いながら古泉はキッチンに行き、珈琲を淹れ、カップを持って来た。相変わらず手際が良い。
「インスタントですよ」
「別に気にしない」
 そのインスタントでも古泉のは何故か味が違うから不思議だよな。そしてもう一度キッチンに行くと、今度は皿を持って来た。その上に乗っているのが甘い匂いの元凶のようだった。
「何だそれは」
「クッキーですが?」
「それは見れば解かる。何だってクッキーなんぞをお前が作ったのかと聞きたいんだ」
「貴方が食べてみたいと言ったんでしょう」
 さも不思議そうに言われて、今度は俺の方がどうして良いか解からなくなる。確かに食ってみたいとは言ったけどな、本当に作るなんて思わなかった。
「まあ、初めて作ったので味は自信が無いんですがね」
 肩を竦めてみせるが、見た目的には全く問題があるように見えない。まあ、塩と砂糖を間違えていたら別だけどな、古泉に限ってそんな事は無いだろう。
「当選のお祝い、というのもアレですけどね、折角だから作ってみようと思いまして」
 そう言って古泉はクッキーを一つ手に取り、俺の口元に持っていく。それは何か、そのまま食えという事か。それなら俺は遠慮せずに食うぞ。今更それぐらいで躊躇したりなんかするもんか。
 古泉の手からそのままクッキーを食べる。
 甘いものが取り立てて好きという訳でもないが、嫌いでもない。どちらかと言えば辛党だろうが、それとこれとは別だ。古泉の作ったクッキーは純粋に美味いと思った。
「美味い」
 そのまま口にすれば、古泉が嬉しそうに笑みを浮かべた。
 ひょっとして、古泉は自分が作った料理を美味いと言われるのがかなり嬉しかったりするんだろうか。そんな顔をするとすぐにでも抱き締めたくなるんだが、今日の用件を口にするまではそれは我慢だ。
「おめでとう御座います」
「ああ」
「今更かも知れませんけどね、クラスメイトからは何度も言われたのでしょうし」
「だったらメールにでも書けば良いだろ」
「だって、直接言いたいじゃないですか。メールで書くだけなんて味気無いでしょう」
 そうかね。
 まあ、そう思ってくれるのなら、俺だって嬉しいけどな。
 つまり、今日俺を家に呼んだのも、こうしてクッキーなんかを作ったのも、全部当選祝いのためだって事だよな。律儀というか、まあ、そういうところが可愛いとも思ったりするんだから、俺も相当終わってる。
「これからもよろしくお願いします」
「ああ。取り敢えずこれから一年は確実にお前や涼宮たちと付き合うハメになるだろうからな」
「そうですね」
 古泉がくすりと笑みを浮かべる。
 ソファに向かい合わせに座りながら、古泉との距離を思う。
 テーブルを挟んだ、今の俺達の位置が、そのまま古泉と俺との心の距離を表しているように思えてならない。それがもどかしい、もっと近づきたい、と思う。こんなテーブルなんて、とっとと飛び越えてしまって。
「ところで、お話があるということでしたが、一体なんでしょう?」
「ああ。…………そっち、行ってもいいか?」
「…? ええ」
 訝しげな顔をしたものの、古泉が頷く。取り敢えずは、まず物理的な距離を変えてしまおう。古泉が少し横にずれ、俺はその隣に座る。本当は向かい合って話した方が話しやすいんだろうけどな。俺が行きたいのは隣に居られる位置だから。
 俺の部屋だったら、問答無用で隣に座れるんだけどな。
「で、話とは何ですか?」
「…欲しいものがあるんだが」
「欲しいもの?当選祝いか何かですか?」
「いや、そういうものじゃなくて、お願いだ。嫌なら嫌だと言ってくれていい」
 お祝いとか、ご褒美とかそんなものじゃなく、ちゃんと古泉の本心で決めて欲しい。
 ソファの背凭れに片手をつき、古泉と視線を合わせる。こうしてみると、随分距離が近い。そのことに古泉も気づいたのか、何処か居心地悪そうに目が泳ぎ、また俺に視線を戻す。
「…お前に触れる権利が欲しい」
「え…」
 視線を合わせ、息が触れそうなほどに顔を寄せながら、俺が言葉にすると古泉は目を見開いた。
 理解されなくてもいい。それが友愛による発言だと思われても、受け入れられるのならむしろ良いほうだ。完全に拒絶されるのも覚悟の上だ。それでも、俺は古泉に求めるのならまず其処だろうと思った。正しく理解される事は、余り期待していなかった。
 しかし。
「それは、つまり、愛の告白なのでしょうか?」
 古泉は俺の言葉を、寸分違わず正しく受け取ったらしい。そう尋ねられて俺に否定する要素は全く無い。
「そうだ」
 頷くと、古泉はまた戸惑ったような表情を浮かべ、何やら考える仕草をしてからもう一度俺に視線を合わせた。酷く真っ直ぐな目だ。
「…僕と、恋人になりたいんですか?」
「ああ」
 その問い掛けに答えながら、俺の頭の隅で何かが引っ掛かった。何だ、強い、眩暈がするような、何か。一体何なのか解からず、それを頭の中で探しながらも、視線は古泉に向けている。
 古泉はまた口を開いた。
「セックス、したいと思いますか?」
 その問い掛けを聞いた瞬間に、バチン、と何かが大きな音を立てて噛み合わさり、古泉の唇を奪っていた。
「んぅ…っ!」
 肩を抱き、強引に唇を重ね合わせると、古泉は驚いたようにくぐもった声を漏らし、俺の胸を押す。
 何とかそれ以上を理性で押し留めて唇を離せば、古泉が俺を睨みつけてきた。
「行き成り何をするんですか。僕はまだ良いとは言っていませんよ」
「夏休みが終わるまで」
「…え?」
「告白も、恋人になるのも、セックスするのも、夏休みが終わるまで待てって、お前、言っただろ」
 俺がそう言うと、古泉は今度こそ瞳が零れ落ちそうな程大きく目を見開き、何か言葉を紡ごうと唇を開こうとしたようだが、結局何も口にせず、深く俯いた。
 正直、俺だってよく解からないんだ。
 一体なんで急にそんな事を思ったのか。いや、思い出したのか。恐らくそれは夏休みの事で、しかし、俺の記憶が確かなら、一度だって俺は古泉とそんな会話を交わしたことはない。なのに確かに、それは有った事なのだと、俺の中の何処かがそう訴えかけてくる。
 それが何なのかなんて、俺にはよく解からないが。
「……して」
 俯いていた古泉がふと呟く。
「え?」
「どうして、貴方が覚えているんですかっ」
 搾り出すような声、古泉の肩が震え、俯いている所為で表情は見えない…が。
「泣いてる、のか?」
 どうしたら良いか解からず、なんとも情けない問い掛けを口にすると、古泉はようやく顔を上げた。透明な雫が、古泉の頬を伝う。
 この時の感情を、なんと表現したら良いのだろうか。
 涙を流す古泉は怖ろしい程に綺麗で、畏怖の念さえ覚えそうな程で。
 古泉が泣くことなんて、それこそ涼宮が何かあった時くらいにしか無いだろうと思っていた。それだけ古泉にとって涼宮ハルヒの存在は大きく、それ以上も、それと同じだけ大切に思うものも、きっと無いだろうと、俺は半ば確信的に思っていた。
 でも、古泉が今泣いているのは。
 そう簡単に泣くやつじゃないと、俺は知っている。間違いない。
 だけど、今古泉が泣いているのは、俺の所為なのか?
「そんな、筈、無いんです。覚えている筈、無いのに…僕だって、思い出したのは、文化祭の日なのに…どうして、貴方が…」
「おい、待て。古泉、一体何の事を言ってるんだ?解かるように説明してくれ」
 さっぱり解からない。
 俺の中にある、もう一つの古泉との記憶も、古泉が泣いている理由も。
 一体俺はどうしたら良いんだ?
 戸惑っているうちに、古泉が俺の胸に顔を埋めて抱きついてきた。いや、それは嬉しいんだがワケが解からない。
「…良いんです。これは、嬉し涙ですから……」
 その呟きを耳にして、俺は古泉の頬に手を添え、上を向かせる。視線が合えば古泉はゆっくりと微笑んだ。涙で潤んだ瞳が俺を見上げ、偽りの無い無防備な微笑みが俺の理性を剥ぎ取っていく。
「僕のこと、好きですか?」
「ああ、好きだ」
「僕も、貴方が好きです」
 多分、それは信じられないような都合の良い告白で。もっと動揺しても良いのだろうが、古泉の涙には負ける。ただ、その言葉がじわじわと俺の中に染み込んで来て、最後の楔だったものが完全に抜け落ちた。
 唇を重ね合わせる。
 古泉は抵抗する事なく受け入れる。
 それが何故だか、夢のようだ。
 啄ばむように口付け、一度口唇を離して呟く。
 一応、これだけは言っておかなくては。
「後で全部、話せよ」
「…はい」
 俺の中にあるもう一つの記憶の事も、古泉の涙の理由も。
 ただ今の俺はそれよりも、目の前にいる古泉を抱き締める事で頭がいっぱいだから、それは冷静になってからだ。
 だから、古泉が頷くのを確認すると、今度は深く唇を重ね合わせた。
「んっ…」
 しっとりとした柔らかな唇に触れ、触れただけでその甘さに眩暈がしそうだった。ゆっくりと舌で唇をなぞれば、小さく唇が開かれ、その中に舌を潜り込ませる。
「…ふ…ぁ…んんっ…」
 キスの合間に古泉の吐息が漏れ聞こえる。それさえも甘さを含んでいるような気がしてならない。元々、甘い匂いで充満している部屋だから、余計にかも知れないが。
「んん……あ…は…ぁ…」
 歯列をなぞり、口腔を思う存分嘗め回し、舌を絡め取る。息苦しい所為か古泉の手が、ゆっくりと俺の腕を掴む、縋るような仕草にさえ、俺はどうにかなってしまいそうだった。
 絡めた舌を吸い上げ、唾液を流し込むとコクリとソレを飲み込み、飲み下しきれなかったものが顎を伝い落ちる。多分、どれだけ貪っても満足なんてする事は無いのだろうが、こればかりずっとしている訳にもいかない。
 何とか理性でもって古泉を解放すると、銀糸が名残惜しげに後を引く。古泉は荒く息を吐きながら俺を見上げてくる。瞳が潤んでいるのは泣いた所為だけでは無いだろうし、普段は透き通るように白い頬が赤く染まっている。顎を伝った雫が未だ拭われる事も無く口元を汚しているのも、俺を煽る原因にしかならないのだから困ったものだ。
「寝室、何処だ」
「…あ」
「此処で、最後までやる訳にはいかんだろ」
 そう言うと、古泉がはっとしたように俺を見て、それから玄関から入って来たドアを指差した。
「ドアを出て、右側に」
「解かった」
 そう言うと古泉を抱き上げる。
「えっ、あ…お、下ろしてくださいっ」
「今は黙って俺の言う事聞け。文句は後でいくらでも聞いてやる」
 正直引っ張っていくともどかしさに苛立ちそうだった。だから抱き上げる。そうした方がずっと古泉に触れていられるし、意外にこいつは軽い。それなりに重いのは重いんだが、上背は結構あるのに、やっぱり細い。本当にもっとちゃんと食った方が良いぞ。まあ、今から俺がお前を食う訳だが。
 ベッドまで移動するのは、俺のなけなしの理性の一欠片だ。
 それ以上は、最早自分を抑えられる自信が全く無い。だからせめてベッドの上でというのは、最後の良心だ。



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