溜息の多い夏休み 後編



 それからほぼ毎日のように古泉は俺の家に来て、生徒会長らしさを出すための特訓を繰り返される事となった。話し方の訓練、仕草、更には普段着までもがその生徒会長「らしさ」の為に決められていった。想像以上にきつい事になっていて、何度本気で投げ出そうと思ったか解かったものじゃない。
 そもそも、いつも思うのだが、こうして特訓を受けている間も、何故古泉はこう距離が近いのだろうか。時折眉を潜めながらも突き放さないのは、古泉が見たくも無いほど醜悪な顔ではないからというただ一点につきる。
 しかし、どんなに顔を近づけても、直接触れる事はない。いっそ肩でも組んだほうが解かりやすいというか、すっきりする気もするのだが、近づくだけ近づいておいて触れないというのが一番妙な感じがする。まるで態と触れる事を拒んでいるような…。
 ふと思いついて、古泉の腕を掴もうとすると、さり気無く避けられた。
 その事に眉を潜め、確信する。
 こういう遣り方は正直気に食わない。
 避けた腕をしっかりと掴み、腰に手を回して引き寄せる。
「っ!」
 瞬間、古泉が驚いたように目を見開いた。
 俺のほうから顔を近づけ、古泉を睨みつける。逃げようと腰が引けるのを力を強めることで引き止めながら、掴んだ腕もまた強く握った。
「お前な、触られるのが苦手なら最初っからそう言え。わざと近づいて相手に避けさせようとするのは遣り口が気に食わん」
「何を言って…」
「正直に言わねえとずっとこのまま離さんぞ」
 睨みつける俺と、戸惑い視線を逸らせる古泉の沈黙が暫く続いた後、ふっと息を吐いて苦笑を浮かべた。
「…すみません」
「お前、他のヤツにもこんな事してんのか?」
「そうですね、ある程度親しく付き合わないといけないような人には。意外と効果的なんですよ」
「あの『鍵』とかいうヤツにもか」
「ええ」
 全く呆れたヤツだ。そんな事してたら、そもそもお前のセクシュアルが疑われるだろうに。
「別に僕は気にしませんから」
「気にしろよ」
 そう言って古泉から手を離すと、あからさまにほっとしたような顔をされた。それはそれで腹が立つが、文句を言っても仕方ない。他人に触れられるのが苦手な人間ってのは、結構居るだろう。程度の差はあるだろうが。
「閉鎖空間に連れてった時は平気で俺の手握ってただろうが」
「自分から触る分にはある程度平気なんです」
 本当に、『触られる』ことが苦手なんだな。
「涼宮にもか」
「彼女は…涼宮さんは、特別です」
 俺の何気ない問い掛けに、古泉はそう呟く。それは、涼宮になら触れられても平気だと、そういう事だろうか。しかも、その時に見せた笑みは今まで見た事が無いほど、穏やかで慈愛に満ちたものだ。こいつにとって、涼宮の側に居るのは、役目というだけでは無いのかも知れない。
 そう、思わされるだけの笑みだった。
「兎に角、嫌なら妙な避け方しないで、最初っからそう言え。嫌がられるのが解かっててわざとそうしようとする程天邪鬼でもねえよ、俺は」
「そうですね。次からはそうします」
 苦笑を浮かべた古泉がそう言うと、俺は煙草を取り出し、火をつけた。
 もやもやとした気分が、煙草の煙と一緒に肺の中を満たす。
 だから、こいつに深入りしない方が良いんだと、俺の理性が何度か声を上げていたが、本能では既にもう遅いんだろうな、と何処かで理解していた。
 これ以上近づくな、という警告は、俺自身が俺に何度も出していた筈なのに。


 八月も半ばを過ぎた頃、古泉から連絡が入った。
『涼宮さんから連絡が入ったため、今日からそちらに向かう事はありません。僕が行かない間は、夏休みの宿題を終わらせておいてください。生徒会長になろうとうする人間が夏休みの宿題も終わらせていないのは厳禁です。』
 とまあ、こんな感じの内容のメールが送られて来た訳だ。
 そりゃな、確かに今までまともに夏休みの宿題なんぞ、した事は殆ど無いがな、今の今までする暇が無かったのは古泉の所為じゃなかったか?
 少々呆れつつも、鞄に入れっぱなしになっていた夏休みの宿題を取り出した俺は一体何なんだろうか。しっかり古泉に操られている気がするな。
 溜息を吐きつつ、宿題を開始する。
 俺は元々成績は悪くない。面倒くさいと思いつつも、やろうと思えばそれ程苦ではない。一日中家に引き篭もってずっと宿題をしていれば三日で終わるだろう。
 そしてとっとと終わらせて、古泉の居ない夏休みというものを満喫するべきだ。
 涼宮から召集がかかったというのなら、古泉はそっちに掛かりっきりだろうからな。ところで、古泉は一体いつ宿題をやっているのかね?涼宮のイメージに合う優等生が宿題を終わらせていなくても構わないのか?
 まあ、俺が気にしても仕方の無い事ではあるのだが。
 何故か古泉が居ない間も、俺の思考は古泉に占領されがちである。
 夏休みの間、毎日のように顔を突き合わせていたんだから、当然と言えば当然か、と俺はまた溜息を吐いた。

 そして自分の予測通りに、三日で宿題を終わらせ、俺は暇な夏休みを満喫していた。
 その間、古泉からの連絡は一切無い。まあ、むしろ好都合だ。何を好き好んで毎日野郎を部屋に連れ込まねばならんのか。
 だからと言って外へ行く気にもなかなかなれない。
 何故なら、古泉曰く、外に行く時は古泉が設定した涼宮の『生徒会長像』に合った行動をしなければならないからだ。それじゃあむしろ気休めにもならずに疲れるだけで、取り立てて何処かに行こうという気にもならず、時折買い物に行くだけに外出も留まっていた。
 本当に俺の二年生の夏休みはこんな調子で終わりそうだ。
 それを考えると憂鬱で溜息が出る。
 というか、何もそんなに律儀に古泉の言い付けを守らなくたって良いだろうとも思うのだが、果たして俺は一体何をやっているのだろうね。
 軽く欠伸を噛み殺しながら、俺はベッドに寝転がり、惰眠を貪る事にした。
 つまるところ、暇なのだ。
 古泉が来ていた頃は何かしらする事があったが、古泉が来なくなってからは丸っきりする事がなくなった。宿題も三日で終わらせたからな。
 外に出れば何かあるかも知れないが、古泉の言葉を考えると億劫でしかない。
 もう何でも良い、さっさと夏休みなんか終わっちまえ。



 そうして夏休みももうすぐ終わる、八月三十日の事だった。
 流石に暇を持て余して仕方無かった俺は、買い物ついでにその辺をぶらつき、帰って来たのは夕方だった。
 鍵を開けようとすると、既に開いている。
 一瞬首を傾げつつも、合鍵を持っているのは一人だけだから、そいつしか居ないのだろうが渡しておいてその機会が本当に巡ってくるとは余り思って居なかった。
 というか、夏休み最終日まで涼宮ハルヒに振り回されるのだとばかり思っていたが。
 部屋の中には案の定、古泉が居た。
 しかし、驚いた事に古泉は、ソファに凭れかかって寝息を立てていた。
 人の家に勝手に上がりこんで寝こけているとは一体どういう了見だ?
 俺は溜息を吐いて古泉を起こそうと近づくが、その寝顔を覗き込んだ瞬間にどうにもその気が失せた。
 例えばそれが暢気な幸せそうな寝顔だったならば、むしろ腹立たしく蹴り起こして居ただろうが、その寝顔には何処か疲れが滲んでいて、何と言うか…流石に起こすのは憚られた。
 俺は仕方なく古泉が座っているのとは反対側の端に腰掛ける。
 当然と言えば当然なのかも知れない。
 結局のところ、古泉にとっちゃ、夏休みそのものが無いに等しいものだったに違いないのだから。まず最初に合宿、それが終われば俺のところに来て指導して、涼宮から連絡が来たならそっちに行ってやっぱり振り回されていたのだろう。
 これで疲れてない方がどうかしている。
 そんな状態で何故俺のところに来たのかは知らないが、まあ、起きるまでは放っておいてやろう。
 何しろ、こいつは眠っている姿もそれなりに整っているから、見ていて飽きない。柔らかな髪をソファに押し付け、睫を時折ピクリと震わせながら、薄い唇が微かな寝息を立てている姿は割りと絵になった。写真でも撮って売り捌けば、こいつのファンの女生徒が挙って買いに来そうなくらいだ。
 まあ、撮ったりはしないが。
 何となく、勿体無い気もするからな。
 何が、とは言えないが。
 こいつの、こんな姿を見て、俺は何処かで安心していた。
 何しろ、出逢ってからこっち、こいつはずっとあちこち根回しして、涼宮のために走り回って、どう考えたって休んでいる暇なんて無さそうで、それなのに全く疲れを感じさせない笑顔で俺と接していたんだ。これは古泉が俺にそれ程心を許して居ないという事に他ならないのだろうが、だからと言って疲れているのに疲れていません、って顔して笑っているのは余計に疲れるだろう。
 その古泉が、俺の部屋に来て、いくら誰も居なかったからってこうしてソファで眠っている姿というのは、何となく安心できた。
 少しは古泉も、俺に心を許しているのかも知れない。
 そう思えた。
 それで何故安心するんだ、と己の心に問いかければ、答えは一つしかない。
 こいつが好きだからだ。
 恋愛とか友情とかどういう意味の好きなのかは未だに判然としないし、まだ出逢って二月程しか経っていないのだからむしろそれも仕方が無いと思うのだが、少なくとも俺はこいつに好意を持っているんだろう。顔だけで言えば相当整っているし、物腰も仕草も綺麗で、性格は胡散臭いが、そのくせ一生懸命だ。多分、その一生懸命な部分が一番、俺は気になっているんだろう。
 どうして其処まで出来るのか。
 自分が休んでいる暇もないくらい立ち働いても、文句一つ言わないで、疲れたとそんな一言すら言わないで居るやつだから。だからこそ俺も、其処まで一生懸命になっている奴に、俺だからと選ばれたんだから、それに答えなきゃならんだろう。そうだ、何だかんだで古泉の言い付けを守っていたのだって、全部そういう事だ。
 相手が一生懸命頑張って、それを俺も手伝えと言われて、中途半端にしているなんてそれこそ格好悪いじゃないか。だったら、俺も俺に出来ることを、一生懸命に手伝ってやるだけだ。
 古泉の寝顔を見つめながら、俺は今まで自分の中でどうにもはっきりとしなかった部分が解かってすっきりした。
 すっきりした序に、ソファから一度立ち上がり、キッチンに向かった。
 湯を沸かして珈琲を淹れるとソファに戻った。古泉の分も勿論淹れた。
 すると、申し合わせたかのように古泉が目を覚ました。正にグッドタイミングだ。本当はずっと起きてたんじゃないか?
「目が覚めたか?」
「…ああ……寝てたんですね、すみません」
「別に良いけどな。ほら、眠気覚ましだ」
「有難う御座います」
 カップに淹れた珈琲を渡すと、素直に礼を言い受け取った。
 それを一口飲む仕草は、意外と子供っぽい。寝惚けて素が出ているのかも知れない。
「んで、今日は一体何の用で来たんだ?」
「あ、いえ…特に用は無いんですけど、何となく」
「何となくってな…」
 流石に用も無いのに来ているとは思わなかったから呆れた。
「お前は俺んちに寝に来たのか?」
「いえ、そんなつもりは無いんですが…流石にここ数日忙しくて貴方に連絡する暇も無かったので、気になったんですよ」
 まるで後付のような言い訳に溜息を吐き、まあ良いか、と思う。
 何となくでもうちに来たと言うのなら、それはそれだけ、俺の存在が古泉にとって何がしかの意味があるという事だろう。
 だったら、目くじら立てて怒ることでもない。
 合鍵を渡したのも俺なんだしな。
「まあ、良いけどな。好きな時に来たら良いさ。どうせ俺しか居ねえんだし」
「貴方って案外お人好しですよね」
「お前は案外素直だよな」
 古泉が苦笑を浮かべて言った言葉に、俺は先日思った事を返すと、きょとんとした表情が返って来た。そう言われるとは思っていなかったらしい。
「素直…ですか?それは久しく言われた事が無い言葉ですね」
「そうか?」
「ええ、彼なんかはいつも信用ならないって顔で僕を見ますしね」
「まあ、確かにな」
「貴方、さっき僕の事素直って言ったでしょうに」
 言っている事が滅茶苦茶ですよ、と古泉が言うと、俺は軽く古泉の頭を叩いた。触られるのは嫌らしいが、これぐらいなら我慢しろ。
「それとこれとは別なんだよ」
「別ですか?」
「別だ。俺がお前を素直って言うのはな、お前が涼宮の為なら何だってやるって事に対してだ」
「それが素直ですか?」
「素直だろ。お前は一番、自分の気持ちに正直に、『涼宮のため』って事で行動してんだろうが。どんなに矛盾して見えても、どんなに胡散臭く振舞っても、お前の根底には『涼宮のため』ってのがあるんだろうが」
 そう言うと、尚更古泉は驚いた顔で俺を見る。
 俺はそんなにおかしな事を言ったかね。
「何だよ、ぼけっとした顔して」
「あ、いえ…こんな短期間でこうも僕の考えを見破られたのは初めてだったので」
「そうなのか?だったらお前の周りにいる奴はよっぽど馬鹿なんだな。涼宮の話するお前の顔見てりゃ、丸解かりだろうが」
 あの、涼宮は特別だと、そう言った時の表情を思い返せば、古泉にとって涼宮ハルヒという女がどれだけ特別な存在なのかという事はすぐに解かる。好きなんだろう、多分、何よりも大切で、大事な人間で、そいつのためなら苦労も苦労と思わずにやってのける事が出来るんだろう。
「そんなに表情に出ているのでしたら、気をつけないといけませんね」
 古泉は苦笑を浮かべる。
「気をつけるって、何をだ」
「僕の考えは、余り人に知られない方が良いですから」
「何でだよ。別に隠すような事でもねえだろ」
 古泉は相変わらず苦笑を浮かべながら、少しその成分に悲しげなものが加わった。
「僕の想いは、機関の思想とは相反するものだからです。誰にも知られてはいけない、知られたとしても語らせてはいけない、例えその為に人から信用されなくても」
「俺にそんな事言って良いのか?」
 俺が他の機関の人間に漏らしたらどうするつもりだ。
 そもそも、そうと解かっていて、何故こいつは機関にいるんだ。
 考え始めると駄目だと解かっていても、深入りするなと俺の心が警告を出しても、最早遅い。毒を食らわば皿までだ。
「貴方は、そんな事を誰にも言ったりしないでしょう?」
 そういう点で信用しているんです、と笑った。その笑みは素のものだ。短い付き合いの中で、それぐらい解かるようになった。けど、その笑みこそが危険だとも思う。それは見る者を思わず惹きつけるだけの力がある、こいつに信用されたならば、絶対に裏切ってはならないと思わせる程の力がある。けれどもう遅い。俺はこいつの手駒なんだろう。
 機関のためでも涼宮のためでもなく、俺は古泉のために動く駒なんだ。
 その事を全く不満に思わない自分を少し意外だと思いつつ、俺はもう一度古泉の頭に手を伸ばした。
「言わねえよ」
 そうして古泉の髪を掻き回す。
「や、止めてくださいっ」
「俺を巻き込むなら、これぐらい甘んじて受けろ」
「嫌って言うなら触らないって言ったでしょうっ」
「今は例外だ」
 そう言って古泉の頭を撫で回す。
 古泉は本気で嫌そうに肩を竦め、困ったような顔をしているが、その顔が面白い。ああ、本当に俺は、こいつの為なら何だってするだろう。
 こいつが涼宮を大切に思うように、俺はこいつを大切に思う。
 いつか古泉が幸せになれる道を見つけたなら、俺は全力でそれに力を貸そう。
 お前が助けてくれと言うのなら、俺は何処までだって助けに行く。
 その気持ちがどういう名前のものかなんて、名付ける必要は全く無いんだ。多分、それは自ずと、後からついてくるものだからな。


 そうして俺の夏休みは終わった。
 夏休み最終日は、どうやらもう一人の男子団員の家でSOS団全員で宿題をする事になっていたらしく、俺の家に来たのはその間の束の間の休みという感じだったらしい。
 別に良いんだけどな。
 俺は溜息を吐いて、九月から始まる本格的な勝負を前に、覚悟を決めた。




 ところで、俺はこの夏休みの間に、一体何回溜息を吐いたんだろうな?




Fin


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