寂しさの先に 3



 近づきたい、と。
 思えば思うほど、体は思うように動いてはくれない。
 傍に居るだけで緊張して、言葉さえ自由に出てこない。心臓はいつも五月蝿いくらいで、その音が吉羅さんに聞こえるのではないかと気が気ではない。
 これが恋だというのなら、何て不自由なものなのだろう。
 手を握る事さえやっとの状態で、それ以上なんて想像も出来ない。
 出来ない、と思うのに、気がつけばもっと触れたいと思っている。
 こんなのはおかしい。
 おかしいと解かっていても、どうすることも出来ない。
 そもそも、吉羅さんは何故手を握ることを許してくれているのだろう。
 普通なら、男同士でこんな風に手を握るのはおかしい。いや、男女であっても、余程近しい関係でなければ手を握ったりはしないだろう。
 それなのに、何故、何も言わずに受け入れてくれるのだろうか。
 最初に手を握った時から、その後も何度か隣に座って手を握った。重なった手から伝わる温もりが嬉しくて、ただそうしているだけでも幸せだと思う。
 吉羅さんは最初からいつも、手を握った瞬間ちらりと俺の方を見て、それから手を振り払う事も無く文庫に視線を戻す。
 だから俺もそれに甘えて、何度も手を握っているけれど。
 何故、と思うのは止められない。
 そして、もしかしたら、と期待する事も。
 吉羅さんも俺のことを好きでいてくれているのではないかと、そんな風に。
 聞きたい。
 俺のことをどう思っているのか。
 俺の気持ちなど、とうに気づいているんでしょうと。
 それを拒絶しないのは何故なのか。
 問いかけてみたいと、そうは思うけれど、次の瞬間に考えるのは、残された時間の少なさだった。
 例え気持ちを伝えて、吉羅さんがそれに応えてくれたとしても、俺はすぐに此処を離れることになる。
 それが解かっているのに、伝えてどうするのだろう。
 そう考えれば、何も言えない。
 言えないまま、ただ時が過ぎていく。


 修了式の前日まで、結局何も言えないまま。
 もう本当に時間が無いというのに、このままで良いのかと何度も自問する。
 明日は修了式、そしてその二日後にはウィーンに発つことになっている。
 もう、本当に時間が無い。
「何思いつめた顔してるのさ」
 突然、ひょいと顔を覗き込まれて、反射的に後退る。
「加地…っ」
「廊下でそんな風に思いつめた顔で歩いていると、何事かと思うじゃない。どうかした?」
「あ、いや…なんでもない」
 否定しようと首を振るが、それで加地は納得しない。それどころか、俺の返答などまるで聞いていないかのように問いかけてくる。
「あ、この前言っていた人と何かあった?」
「…人の話を聞かないな、君は。別に何も無い」
「何も無いって顔じゃないよ」
「本当に、何も無いんだ」
 だから、迷っている。悩んでいる。
 どうしたら良いのか。
「月森?」
 黙り込んでしまった俺に、加地は訝しそうな顔でどうしたのかと問いかけてくる。加地を見て、確かに本当に他に相談する相手も居ないのだと思い直す。
「……少し、話を聞いてもらっても良いだろうか」
「うん、僕で良ければ。あ、でも廊下で立ち話もなんだから、移動しようか。人目もあるしね」
 少し嬉しそうな、安心したような顔をして、加地は快く頷いてくれる。
 そのことにほっとして、加地の提案に従い、場所を森の広場へと移した。
 見回しても、今日は他に人影は無い。
「…加地、以前君と話したことだが」
「うん」
「あの時は否定したが、矢張り君の言っていたことは正しかったんだと思う」
 もしかしたら、加地にああ言われなければ自分の気持ちに気づく事さえ無かったかも知れない。
「その人が好きだって気づいたんだね」
「…ああ」
「告白は?しないの?」
「…してない。だから、迷っているんだ。言った方が良いのか、言わない方が良いのか。俺はもうすぐ、居なくなるから」
 それが無ければ、もう少し時間があれば。
 そんな風に考えても、それがどうしようもない事は解かっていて。だから、残された時間で俺に出来ることを考えるしかない。
「そっか、留学のことがあるもんね。……ねえ、その人は月森の気持ちに気づいているのかな?」
「確証は無いが……多分」
 気づいては、いるのだろう。それでも何も言わずに、ただ傍に居てくれる。
「…それでも普通に接してくれてるんなら、少なくとも嫌われてはいないって事だよね」
「嫌われていたら、まともに会話もしてくれないと思う」
「だったら、向こうも月森が告白してくるのを待っているのかも知れないね」
「待っている?」
 そんな事が、あるだろうか。
 思い返してみても吉羅さんの反応から何を考えているのか、何も掴むことは出来ない。
「まあ、それは僕の想像でしかないけどね。…月森はさ、告白しなくて、後悔しない?」
「後悔?」
「そう。何も言わないまま、離れても後悔しない?告白して両想いになったとしてもすぐに離れなきゃいけなくなるから月森も悩んでるんだろうけどさ、僕だったら、何も言わずに後悔するより、ちゃんと言ってから二人でどうするか考えたいな」
「両想いとは限らないが」
「その時はその時でしょ。月森が悩んでいるのは両想いだった時の場合じゃないの?」
 確かにそうだ。
 振られたなら、それはそれで、仕方ない。いっそ離れた方が諦めもつくだろう。
 でも、もしそうでなかったとしたら…。
「あのさ、もし両想いだったとしたら、結局言っても言わなくてもお互いはなれるのが辛いのは変わらないと思うんだよね。だったら、言わない理由って何かある?」
「…いや」
 確かにそうだ。
 加地の言う通りに違いない。
 それなら、後悔しない方を選ぶしかない。
「ありがとう、参考になった」
「どういたしまして。上手くいくと良いね」
 そんな風に言ってもらえるのがありがたい。
 上手く、いくだろうか。
 解からない、離れなければならない現実も変わらない。
 それでも。
 後悔しない道を、選ぼう。


 修了式を終えてすぐ、吉羅さんの姿を探す。
 式に出ているのを見たから、学院に来ているのは間違いない。
 すぐに帰ってしまったのでなければ、まだ学院内に居るはずだ。
 理事長室に職員室、森の広場の奥まで探して、心当たりのある場所も、無い場所も、兎に角手当たり次第に探し回る。
 それでも吉羅さんの姿は見つからない。入れ違いになっているだけなのか、それとも、もう帰ってしまったのだろうか。
 今日会えなければ、俺には連絡を取る手段は無い。何としても、今日、会って話したかった。
 もう一度、理事長室から見て回ろう。
 諦めてしまいそうな自分の心を奮い立たせて。
 諦めたくは無かった。無理かも知れない、もう会えないかも知れないと、そう思いながら、それでも。
 諦められなかった。
 そうして探し回っているうちに、いつの間にか日は傾いていた。生徒たちももう殆ど帰ってしまっていて、人影もあまり見かけない。
 本当にもう、無理なのかも知れない。
 こんなに、薄暗くなるまで探しても、見つからないのなら。
 もう帰ってしまって、学院内には、居ないのだろう。
 そうして諦めかけた時、不意にヴァイオリンの音色が聴こえた。
 こんな時間に、一体誰が弾いているのだろう。もう生徒の姿も、全然見かけないのに。
 その音に惹かれるように源を辿っていけば、理事長室の前に着いた。
 音は中から聴こえてくる。
 ドアを開ければ、中には吉羅さん一人だけ。
 もちろんヴァイオリンを持っているはずもなく、吉羅さんを見つけた瞬間にふつりと音は途切れた。
「月森君?どうしたんだ、こんな時間まで居るなんて、何か用でもあったのか?」
「あ…」
 問いかけられ、そこでようやく探していた相手が見つかったのだと気づく。ヴァイオリンの音に気を取られすぎた。
「俺は、吉羅さんを探していて…」
「私を?こんな時間までか。私は修了式が終わってすぐ別の仕事があったから出ていたんだ。忘れ物をしたから偶然戻ってきたんだが、此処で会えたのはむしろ幸運だな」
 幸運、なのだろうか。
 そもそもあのヴァイオリンの音色は何だったのだろう。
「あの…此処で、ヴァイオリンの音がして…」
「ヴァイオリンの?」
「はい、それを辿って、此処まで来たんです」
 俺の言葉に吉羅さんは少し驚いた表情を見せて、それか皮肉げな笑みを浮かべた。
「…アルジェントが、余計なことでもしたかな」
「え?」
 ぽつりと呟かれた言葉はよく聞こえず、問い返せばなんでもないと首を振られた。
「それより、私を探していたんだろう、何の用かな」
「あ、はい…」
 そう、このためにずっと探していたのだから。
 緊張して足が震えるのを何とか堪えて、口を開く。
「ウィーンに行く前に、どうしても言っておきたいことが、あるんです」
「ああ」
 吉羅さんは、ただ静かに俺を見詰めてくる。もしかしたら、全部解かっていて。
「以前、音楽以上に大切なものはあるかと聞かれた時、俺は解からないと答えました」
「そうだったな」
「今は…解かります。音楽と同じくらい……吉羅さんが、大切だと思います。ウィーンに行くのは自分で決めて、それ以外の選択は今も無いと思っています。ですが…」
 それでも。
 留学を止めるという選択は無いのに。
「あなたに、会えなくなるのが、寂しいんです。誰と離れるよりも寂しくて、もっと、一緒に居たいと、そう思うんです」
 それが何より、一番素直な俺の気持ちだった。それを吉羅さんがどう思うかは解からないが、多分、伝えないままの方が後悔する。
「もっと、一緒に居たい?」
「…はい」
 改めて問いかけられて頷けば、吉羅さんは何処か嬉しそうに笑った。
「なら、一緒に居ようか」



 酷く緊張した面持ちで、月森君は私の部屋へと足を踏み入れる。
「そんなに硬くならなくても良いだろう、リラックスしてくれ」
「……」
 言ってみたところで無理なようで、表情は硬いままだ。その様子に苦笑いを浮かべて、ソファに座るように促す。
「兎に角、立ち話もなんだから、座りなさい」
「…あの、何故俺を此処に?」
 ソファに座りもしないまま、じっと私を見詰めてくる。
 彼の告白を受けて、半ば連れ去るようにして車に乗せて此処まで来たのだから、問いかけたくなる気持ちも解からなくは無い。
「もっと一緒に居たいと言ったのは君だろう」
「それは、そうですが…」
 戸惑いを隠せない様子で、恐らく私の気持ちも伝わってはいないのだろう。その事に少し溜息を吐きたくなる。はっきり言わなければ解からないのだろうか。
「私も同じように思っている。それでは理由にはならないか?」
「同じ……それは、俺の良いように解釈しても、良いのでしょうか」
「他に解釈のしようがあるのなら、教えて欲しいところだがね」
 私のその言葉に、ようやく理解したのか、頬を赤く染めて俯く。初心な反応に、いたいけな子供に悪い事でもしているような気分になる。
 勿論、するつもりで連れて来たのだが、彼自身は未だに其処までの考えは無いのだろう。
 その初心な恋愛に付き合える時間があるのなら、付き合っても良かったのだが、生憎とそんな時間は無い。
 彼とは言葉を尽くすより、行動で示した方が早いのかも知れない。
 ソファに落ち着く気も無いようだから、立ったまま掠め取るようにキスをする。
「な……っ」
 瞬間、顔を真っ赤に染めて、一歩二歩と後ろに下がる。
「解かりやすい意思表示かと思ったんだが、嫌だったかな?」
「いえ、そんなことは…」
 顔は赤いままだが、それでもはっきりと首を横に振る。
「だったら、君からもしてくれないか」
「え…」
「嫌か?」
「そんなことは、ありません」
 促せば、顔を寄せて唇を重ねてくる。本当に触れるだけの、一瞬のキス。
 それだけでも、真っ赤になって、緊張で体を震わせている。
「キスだけでその調子だと、それ以上するとどうなるんだろうな」
「それ以上…?」
「男同士のやり方は知らないか?まあ、どちらにしろする事に変わりは無いが」
「あ、あの…」
 本当に解かっていないのだろう。顔を赤くしたまま、伺うようにこちらを見る。
 そんな彼の腕を掴んでもう一度、唇を奪う。
「ん、ぅ…っ」
「……君から手を伸ばしてきた以上、離すつもりは無い。ウィーンに行ってしまう前に、確実に私のものにする」
「吉羅さん…」
「それが嫌なら、私の手を振り払って出て行きなさい」
 月森君は息を飲んでじっと私を見つめて、意を決したように口付けてきた。
 これが、答えなのだろう。

 寝室に移動して、ベッドの上に腰掛ける。
「…出発はいつだったかな」
「明後日の朝です」
 近づいてきた月森君の腕を引いて、キスをする。何度もしていれば、流石に少しは慣れてきたのだろう、素直に応えてくる。
 改めて見れば綺麗な顔をしている。
 会うようになってから随分経つが、こんな風にちゃんと顔を見たのは初めてかも知れない。
 だから人の顔もなかなか覚えないのだが、改める気はあまり無い。自分にとって必要な人物だと思えば覚えるのだから、問題ないだろう。
「…まあ、出発前に無理をさせる訳にもいかないからな」
「え………うわっ」
 強く手を引いて、ベッドに押し倒す。
「あの…」
「キスをしているだけでは、先に進まないだろう」
 ネクタイを解き、シャツのボタンを二つほど外す。
 こちらをじっと見詰めて固まっている月森君を見て、顔に笑みが浮かぶ。彼の視線が追っているのは、私の顔、首筋、そして肌蹴た胸元、その視線に欲が混じっているのは、この場合歓迎して良い事だろう。
「君も、ジャケットぐらいは脱ぎなさい」
「は、はい」
 慌てて月森君がジャケットを脱ぐ。脱ぎ終わるのを確認してそれを受け取り、サイドボードの上に置く。そして、こちらの一挙手一投足を注視している月森君の下肢に触れた。
「き、吉羅さんっ」
「大人しくしなさい」
 反射的に手を伸ばして押さえようとする月森君の手を振り払って、そのままズボンのベルトを外し、前を寛げる。
 まだ何の反応もしていないモノを取り出して、そっと口に含んだ。
「な、何を…っ」
 月森君は慌てて私の頭を掴むが、素直に離れる筈も無い。
「だ、駄目です、そんなところは……あっ」
 口淫を続けるうちに、次第に、反応してくるのを見て、目を細める。
 今までこんなことはしたことが無かったが、それでも自分の口で、月森君が感じているのだと思えば、意外と嬉しいものだ。
「ふ、ん…っ」
 零れ落ちそうになる声を必死で堪えて、顔を羞恥でか快感で香赤く染めている、その顔が可愛いと思う。
 いくら留学して星奏学院の生徒でなくなるとはいえ、子供相手にこんなことをしているのだから、悪い大人だと我ながら思う。
 まだ何も知らない、そんな相手に。
 先走りが溢れてきて、随分勃ち上がって来たのを確認してその上に跨る。自分の指で後腔を情け程度に慣らした後、勃ちあがっているそれを、自分の中へと埋めていく。
「くっ…」
「き、吉羅さん…っ」
 自分が抱かれる側だと思っていたのだろう、驚いた顔で、私の手を掴む。
「……黙って、いなさい」
「ですが、あの…」
「いいから、あと、少し…っう…」
 少し慣らした程度では矢張りきつい。それは解かっているけれど、あえてそうしたかった。
 酷い、痛みだ。
 中がひきつって、裂けるような痛みを感じながら、それでも躊躇わずに腰を下ろす。
「っ…あ」
「入った、な…」
 想像以上の激痛で、こんな状態では当然月森君も快楽よりも痛みの方が強いだろう。苦しそうに眉を寄せて、唇を噛み締めている。
 こちらも脂汗が滲んで、流石に暫く動けそうにない。息を整えていると、月森君が私を見上げて問いかけてくる。
「何故…」
「なんだ、抱かれる方が、良かったのか…?」
「いえ、そういうことでは…」
 慌てて否定するところを見ると、抱かれる側は矢張り抵抗があったらしい。それでも受け入れようとしてくれていたのは、もうすぐ離れなければならないからだろう。離れる前に、一度だけでも繋がりたいと、そう思うのはお互い様、ということだろうか。
「私は…別に、どちらだろうが構わないんだ。ただ、君は明後日飛行機に乗るのに、受け入れる側をさせるのは、酷だろう」
「……だったら、俺は、どうすれば良いですか」
「どう、とは?」
「こういうことは初めてなので、どうしたら良いか…」
 それはそうだろう。初めてなのは聞かなくても解かる。しかし、これに対する言葉は残念ながら持っていない。
「さあな」
「さあな、って…」
「私も、男相手は初めてだからな」
 正直、動くのも辛いし、どうしようかと思っているところだ。こうしているだけでも、まだ辛い。
 それでも、ただ快楽を得るよりも痛みを感じたかった。一時の快楽よりも、辛くとも暫く残る痛みを。
 その方が、忘れられなくなるだろう。
「何でも良い。君の、好きなようにすれば良い」
「好きな、ように…」
 こくり、と唾を飲み込むのが見て取れた。どんなに初心でも欲はある。
 そろりと手が伸びて、私の萎えてしまっているものをそっと握り込む。ゆるゆると扱かれて、思わず腰が揺れた。
 けれど、少し動けばまた酷い痛みで体が固まる。それでも、刺激され続ければ、自然と快楽を体が受け止めていく。
「は…あ…」
「…っ、吉羅さん……少し、動いても、良いですか?」
「良い、から……君の好きなようにしろと、言っただろう」
 恐る恐るといった感じで、月森君の手が私の腰を掴む。ゆっくりと腰が揺らされて、苦痛に体を強張らせながらも、仄かに違う感覚が芽生え始める。
「う、ぁ…っ」
「くっ……吉羅さん…大丈夫、ですか…?」
「気にしなくて、良いと…言っているだろう」
「そんなこと、出来ません」
 真っ直ぐに目を見てそう言われれば、苦笑するしかない。こんな状況でもこちらを気遣おうとする、優しさに。
「本当に、大丈夫だ。少しは慣れたし、先程までよりは、辛くも無い」
 痛みが無くなったわけではないが、それでも、少しずつ体は快感を拾い始めていた。
 それに何より。
「君を、ちゃんと感じられる方が良い。だから、遠慮しなくて良い」
「吉羅さん…」
 名前を呼ばれたかと思えば、腰を掴む手に力が篭る。
 先程までとは違う強い力で体を揺さぶられて、欲に濡れた瞳が、私を射抜く。
「あ……んっ…」
 熱が、じわじわと上がって来る。揺さぶられる度に痺れるような、疼くような感覚が痛みを陵駕していく。
「ふっ、あ……あ、月森、く……んんっ」
 腕を掴んで引き寄せられて、キスをされる。それに応えながら、少しずつ、自分でも腰を揺らす。
「ん…っんん…は…」
 慣れていない、不器用だがそれでも熱の篭った口付けは、体を高ぶらせるには充分だった。
 それは、多分、お互いに。
「吉羅さん…もう…っ」
 切羽詰った声でそう囁いて、引き抜こうとするのを押し留める。
「良いから、このまま…」
「ですが…」
「中に、出してくれ…このまま…」
「っ」
 囁き返せば、それまでより更に激しく揺さぶられて、奥深く熱が注がれるのを感じる。
「うっ」
「ああ…っ」
 体内に注がれる熱を感じて、ぞくりと背筋を快感が駆け抜ける。そして自分も達した事に気づいて、ひっそりと自嘲する。
 それでも、それが幸せなのかも知れない。
 目を閉じて、重い体を横たえて、それでも悪くない、と感じていた。



 ただぼんやりと、隣で眠る吉羅さんの顔を見つめる。
 今でも信じられない。昨夜、吉羅さんを抱いた、なんて。それでも、確かに今こうして隣で寝ているのだから、夢でも幻でもない。
 キスした感触も、触れてきた手の温もりも、中の熱さも、全部確かに覚えている。
 生々しいほどに、はっきりと。
 思い返しただけでまた体が熱を持ちそうで、思考を止める。
 これから離れなければならないのに、想いは募るばかりで、本当に離れて平気でいられるのだろうかと、そう思わずにはいられない。
 後悔している訳ではないけれど。
「暗い顔だな」
「起きて…」
「ついさっきな」
 赤い瞳が、ひたりとこちらを見つめてくる。その目を見るだけで、心臓が跳ね上がる。
「起きてすぐ目にする顔がこう暗いというのは、気分が良いものではないな」
「…すみません」
 それはそうだろう。
 本当なら、もっと幸せで良い筈だ。両想いだと解かって、恋人同士、ということになったはずなのだから。
 明日、離れなければいけないのでなければ。
 そんな風に悩む俺を見て、吉羅さんは深々と溜息を吐いた。
「離れなければならないのを解かった上で、君は告白してくれたんだろう?」
「それは…そうですが」
 けれど、想いが叶えば尚更、離れ難い。行かないという選択肢はないのに、それでも離れたくないと願ってしまう。
「行くんだろう、ウィーンに」
「…はい」
 頷く。
 解かっている。
 それなのに。
「見送りはしない。動けそうもないしな」
「あ…大丈夫、ですか?」
「大丈夫…とは言えないが、こうなるだろうことぐらいは解かっていて私がしたことだ。君が気にする必要は無い」
「…はい」
 俺にも責任はあると思うのだが、吉羅さんはそれを認めないだろう。
 自分からしたことだと言って。
 昨夜もずっと、気にしなくて良いと、俺に言っていたのだから。
「そういえば…君は、昨日自宅に連絡は?」
「あ、いえ……今は自宅に両親も居ないので。お手伝いさんも夕方には帰ってしまいますから」
「そうか、なら良いんだが……流石に無断外泊をさせる訳にはいかないからな」
 そう言う吉羅さんは、すっかり理事長の顔だ。
 昨日とは、全然違う。
 そこでふと思い出した。
「そういえば…」
「何だ」
「昨日、聞こえたヴァイオリンは何だったんでしょうか」
「ああ、それか」
 あのヴァイオリンの音が聞こえたから、俺は吉羅さんを見つけることが出来た。
 どう考えても弾き手の居ないヴァイオリンの音色、それがなんなのか、本来なら有り得ないことを、見つけてそれを話した時も、吉羅さんはすんなり受け入れていた。
「吉羅さんは何か、知っているんですか?」
「あれは……私の心の中で流れている音、らしい。私には聞こえないが、学院自体が私の楽器みたいなものなんだそうだ」
「吉羅さんの、心の中…?」
「ああ、アルジェントがそう言っていたから、まあ恐らくそうなんだろうというぐらいのものだがね」
 アルジェント、とはリリのことだろう。吉羅さんはファータが見える体質なのだと、確か日野に聞いたことがあった。
「そんなものが聞こえるのは日野君くらいのものだと思っていたがね」
「日野…ですか」
 吉羅さんからその名前を聞いた瞬間に、何か胸の中にもやっとした感情が広がる。
 嫉妬、なのかも知れない。
 ファータを通して、吉羅さんと繋がりを持つ日野に対しての、嫉妬。もしかしたら他にも、俺の知らない吉羅さんをしっているのかも知れないと。
「ああ、彼女はファータと相性が良いらしいからそのせいだろうと思うが。君の場合は、アルジェントが余計な気でも利かせたんだろう」
「リリが、ですか?」
「どうも私と君のことに口を挟みたがっていたからな」
 もう今の俺には見えないが、どこか懐かしい気持ちになる。
「全く、余計な事だがね」
「余計なんて…」
 もし、あのヴァイオリンの音が聞こえなければ、吉羅さんと今こうしている事も無かったかも知れないのに。
「もし、リリが気を利かせてくれたのだとしたら、俺は、感謝したいです」
「そうかね、私は首に鈴でもつけられた気分だ」
 ヴァイオリンの音が聞こえれば、何処に居ても解かってしまうのだから。そう言って苦笑いを浮かべる吉羅さんに、自然と俺の表情も緩む。
 憎まれ口のような事を言っても、確かにリリとの間に、信頼があるのだろう。
「リリが、羨ましいです。俺の知らない吉羅さんを、色々知っていて」
 絶対に切れることの無い、繋がりがあって。
「…昨日の私の顔は、君しか知らないがね。そもそも、あんなことは君以外にはしない」
 俺の気持ちなんて、きっと吉羅さんにはお見通しなのだろう。真っ直ぐに俺を見る瞳が何もかも見透かしているような気さえする。
「月森君」
「はい」
「君が必要だと思うのなら、ウィーンでもどこにでも、好きなところに行きなさい」
「吉羅さん…」
 真っ直ぐに俺を見据えたまま、吉羅さんは言う。
「ただし、何処に行っても、必ず、此処に帰ってきなさい」
「帰る…」
「そうだ。私は手に入れた以上、君を手放すつもりは無い。何処に行っても必ず此処に、私のところに帰ってきなさい。私は何処にも行かないから」
 その、吉羅さんの言葉を、何度も何度も反芻してから、頷く。
「はい、必ず」
「そこの、サイドボードの引き出しを開けなさい。この部屋の合鍵が入っている」
 言われてそこを開ければ、確かにカードキーが入っていた。
「吉羅さん、これは」
「君がいつでも帰ってこれるように、これは持っていきなさい」
「あ…」
 その言葉に、思わず泣き出しそうになる。
 鼻の奥がツンとして、それでも、懸命にそれを堪えて。
 搾り出すように、口を開く。
「ありがとう、ございます」
 結局掠れた声になって、泣きそうになっているのも、吉羅さんにはお見通しだろう。
 吉羅さんが、此処で待っていてくれる。
 それが何より嬉しくて、此処に帰ってきて良いのだと、そう言って貰えたのが嬉しくて。
 酷く優しい目をした吉羅さんの手が、そっと俺の腕を引いて。
 その意図に気づいて、寝たままの吉羅さんにキスをする。
 離れてしまうのも、寂しいのも、何も変わった訳ではないけれど。
 それでも。
 こうして、待っていてくれるというのなら。
 きっと、寂しいだけじゃない、その先に幸せもあるのだと。
 そう、信じられるから。


Fin



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小説 B-side   金色のコルダ