夢の中の幻想



 夢が忘れられなくて、だから、誰よりも傍に居て欲しい人は、もう傍に居ない。
 忘れたくても、その出来事は自分の中に深く残っていて、それを否定する事など出来はしなかった。


 圭麻は溜息を吐きつつ、学校に登校する。
 夢と現実の境目が解からなくなって来ている、と圭麻は思った。あの、不思議な石、『勾玉』を手に入れてから。
 夢の中のことなのに、現実の事のように思えてしまう。否、もう一つの現実世界なのかもしれない、あの『高天原』は。
「う〜っす、圭麻!」
 元気よく挨拶してくる少年に苦笑しながら圭麻も返す。
「おはようございます、泰造」
「たりーな。今日算数テストあるんだぜ?お前自信あるか?」
「まぁ、ほどほどには」
「あ〜あ〜、いいよなぁ、勉強しなくても出来る奴」
 泰造は溜息を吐きながら言う。圭麻はそれに苦笑するしかない。
「そんなこと言われても困りますよ」
「お前いっつもゴミ拾ってるだけじゃん、何で勉強できるんだよ?」
「取り敢えず、宿題は真面目にしてますからね。今日、国語の宿題出ていたでしょう?やったんですか?」
「うっ、それは…っ!」
 ずざっとオーバーリアクションで泰造は一歩下がる。わざとやっているのだろうが、それがかえって笑える。けれど、半分は本気で忘れていたようだ。
「なぁ、圭麻。見せてくれよ、宿題!」
「自分でしないと泰造のためになりませんよ」
 圭麻は呆れながら言う。
 いつもこのパターンで、泰造はろくに宿題をしてこない。だから成績が悪いのだろうと圭麻は思う。
 やれば出来るだろうに。
「なぁ、頼むって。な、この通り!!」
 泰造は前に手を合わせて頼み込む。圭麻はそれに溜息を吐く。
「…仕方ないですね」
「サンキュー♪やっぱ持つべきものは頭のいいダチだよなぁ♪」
 悩み事が無いのだろうかと思うほど、泰造は明るく礼を言う。圭麻は国語のノートを取り出し、泰造に渡す。
 泰造はぱらぱらと圭麻のノートをめくる。
「いつ見てもお前のノートって見やすいよなぁ、なんでこんなの書けるんだか。女じゃあるまいしなぁ」
「そんなこと言ってると見せませんよ?」
「悪い悪い。そういや、圭麻。ま〜だ、あの光る珠持ってんの?」
「え?ええ。それがどうかしましたか?」
「いやいや、こっちのこと。あ、ヤベッ、急がねぇと授業始まっちまうっ。んじゃ、圭麻オレはちょっくら図書室行ってくるっ!」
「図書室?」
「宿題出てただろ!?」
 そう言って泰造は駆け足で教室から出て行く。
「ふ〜ん、宿題、ね」
 圭麻自身はあまりその社会の宿題には乗り気ではなかった。というよりも、する気が無かった。
 嫌な事を思い出す。高天原、高天原、高天原。それは、突然の夢のようで、でも地に足着いたしっかりした感じがある。決着をつけなければいけない、と圭麻は感じ始めていた。
 日本神話。
 そんなもので、あの夢の世界が量れるのだろうか。違うと思っても何かしら思い浮かんでくるのはそればかりで。
 すぐに嫌な事と結びついてしまう。
 夢が嫌なわけじゃない。あの世界もそれなりに気に入っている。けれど、あの世界は失うものが多すぎて、大きすぎて、錯覚と共に落ちて行ってしまう。だから、嫌だった。
 壊れ始めた自然と人間のルール。
 壊れ始めた世界。
 何もかもが壊れていく。そんな世界。
 圭麻は、溜息を吐く事でその思考を追い払った。


 結姫という名前の少女に会った。
 彼女は『高天原』を救う伝説の『地平線の少女』。
 その、伝説の一部に選ばれたという。それが、此処最近の夢の全容だった。
 では、やはりあれも『現実』。
 夢なら夢で終わればいいのに、と思わずには居られない。もう、タイムリミットはきてしまった。結姫達がリューシャーに到着する前に決着をつけなければいけない。
 圭麻は憂鬱だった。眠って、高天原の世界に来てからも、それは変わらない。
 ベッドから起き上がり、外に出る。汚い空気。むわっと煙る排気ガス。でも、そんなものよりも大事なものがある。圭麻は深く考えぬまま歩き始める。考えれば足を止めてしまいそうだったから。
 そしてそのまま、リューシャーに程近い森林の前に来る。
 足が震える。夢であって欲しいと思っていたもの。森の中にあるのは、小さな、墓。そして、目の前にある、一人の人。
「どうして…っ」
 泣きそうな声が洩れる。泣きたかったのかも知れない、でも泣けない。
 現実かどうかも解からない不確かな部分で己を繋いでいるのだということはよく解かっていたから。目の前に居る人は、悲しそうに微笑む。
「どうして、貴方がオレの前に居るんですか…?」
 何が本当で何が嘘か解からなくなるほどに。それは凝り固まった自分の願望なのかも知れないと思う。
 圭麻はその人に近づく。触れようとして、一瞬躊躇する。すると、逆にその人は圭麻の手を掴んでくる。
 ―――暖かい…
 この温もりすら嘘か本当か解からない。触れる指も、温もりも、確かに感じるのに、それでもそれは嘘なのだと、何処かで解かっていた。
 だって、この人はもう居ない。
「壱夜さん…」
 自分の願望が作り出した、醜い現実が目の前にある。
 決着をつけなければいけないと解かっていながら、でもそれを決意できるほど自分は強くない事も圭麻は知っている。
 何もかも無くなり、そして、全てを失った時に、彼が居た。彼しか、居なかった。
 だから、どうしても依存して、彼が居なくなったことを認めたくなかった。そう、証拠はすぐ傍にあるのに、それから目をそらして。
 目の前にある小さな墓に刻まれている名前は「壱夜」。もう、二度と帰ってはこない人だと。
 何処かで解かっていた。
 現実と夢との間で、更にもう一つの夢があって、だから全てが解からなくなってしまった。彼の魂を此処に引き止めてしまう。それはいけないことなのに、それでも彼なしで自分は立っていられなかった。
 だけど、もうそれも今日まで。
 決着は今つけなければ。
 彼を失ったと同時に手に入れた勾玉は、その刻まれた『理』という文字とともに、強く発光し、失った筈の彼の身体を媒体にして、今魂を引き止めている。
 それは、圭麻自身が願った事。
 ―――まだ傍に居て欲しい、離れたく、ない――…。
 解かっていて、解からない振りをしていた。
 だけど、きっともう縛り付けておく事は出来ないから。
 決別しなければいけない。もう夢など見ていられないのだから、現実はすぐ其処まで押し迫っているのだから。大丈夫、一人じゃない、ひとりじゃない、ヒトリジャナイ…。
 触れた温もり。彼は圭麻を掴んでいる手に力を入れる。励ますように、元気付けるように。
 決して話さない人。会話をする事は出来なくても、それでも傍に居て欲しいと願ってしまった、自分の醜い欲。
 別れは、自分で告げなければいけない。どんなに辛くても、どんなに苦しくても。
 この人を解放してあげなければいけない。
 だから、一番言えなかった言葉を言おう。これが、最初で最後。
 たった一つ、別れの言葉を。
 そう、今の自分に出来る最上の笑顔で言おう。この人を縛り付ける事なんてもう出来ないのだから。
 そんなこと、自分がしちゃいけない。
 だから
「壱夜さん、さようなら…」
 そして、幻像は掻き消える。最後に、彼が微笑んだのは、気のせいじゃないと思う。
「ごめんなさい」
 笑ってくれるなら、大丈夫だから。
 だから、もうあの人が居なくても、自分の足で立っていかなければ。
 泣かない、泣いてはいけない。彼が困るから。彼も自分もあの時のまま止まっている訳にはいかないから。
 だから、前に進もう。
 もう、夢に魘されることなく、もう幻を追いかけることなく、前だけを見て―――…。



Fin





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