夏の思い出 (翔×瀬那 adult edition)


砂沢皓様


 それは七月最終日曜日の夜のことだった。
 パソコンを開き仕事をしていた御園生櫂の部屋の戸を、誰かがコツコツとノックした。
「誰?」
「オレ」
 耳になじんだ声に相手を察し櫂が戸を開けると、彼の双子の兄たる羽村翔がラップをかけた皿を片手に立っていた。
「どうしたの? 翔。何か用?」
「櫂、桃食わねぇか? さっきみんなで分けたんだけど、まだ余っててさ」
 兄の声は、言葉に似合わず妙に覇気がない。その様子でなんとなく話したいことの内容が察せられて、思わず櫂の唇から不機嫌の吐息が漏れる。
「それだけ?」
「あ……いや、こないだ櫂が言ってた寮の夏休みのこと……も」
「…………入ったら?」
 招じ入れると、翔は机の上に皿を置き、いつもの彼らしからぬおとなしさで櫂の向かいに座った。
「仕事、邪魔しちまった?」
「……別に。いつでも中断できる事だったから」
 そのまま水を向けずに櫂が黙っていると、いつも櫂の様子などおかまいなしにしゃべる翔は不自然なほど静かだった。兄の遠慮に櫂は我知らずむっとしてしまい、そんな櫂の不機嫌を見て翔もまた、言おうとしていた言葉を胸の中に閉じこめてしまう……。みごとなまでの悪循環がおきていた。
 自分がとげとげしくしてしまった空気になんとなくいたたまれなくなった櫂はふと視線を横にやり、皿の上を見た。
 白い食堂の皿に皮をむいた水蜜桃が、少し不格好な四つ割りで乗っている。
 みずみずしい夏の息吹が薄いビニールで遮られている様は、何かを言おうとしつつ彼を気遣って困る兄の様子に雰囲気が似て、そのほほえましいたたずまいに、不機嫌がわずかに解けるのを感じる。
「……誰から」
「ん?」
「誰から送ってきたの? あの桃。昼間翔に届いていた段ボール箱の中身だよね」
「ああ……奈穂(なほ)さんから」
「奈穂さん?」
「羽村の父さんの叔父さんの奥さん」
「……略して大叔母さんって言うんじゃないの? それって」
「ばあちゃんとかおばさんとか言うと怒るんだよ。父さん達が生きてた頃は、毎年遊びに行って……今はお墓とか管理してもらってんだけど」
「で、その人がどうしたの?」
「お盆の頃に、留守番頼めないかって手紙よこしてきた。何日か出かけるんだけど、ペットや畑の世話頼める人がいないからって。でも……ほら、櫂と約束してたからどうしようかなって思ってさ」
「ふうん……」
 遊星学園の寮はお盆の頃、修理と職員の休暇で一週間ほど閉鎖になる。
 部活動も一切が休みになるため、孤児院に戻るつもりなら御園生の家に来ないか、と休み前に誘いをかけたのは櫂だった。世界中を旅している翔の恋人のもとに送ってしまうもよし、兄として過ごさせるもよしと思っていたのだが……
「翔はどうしたいの?」
 尋ねて櫂は、答えに窮した表情に兄の心理を察する。
「櫂と過ごせるのは楽しみなんだけど……奈穂さんには世話になってるし、父さん達のお墓に櫂と会えた報告もしときたい……だから、頭ん中ぐるぐるしちゃって」
 自分たちを翻弄した運命と……再会と激動を経て、それぞれに大切な相手やしがらみができている今なお、こうして兄は彼のために心を砕いてくれている。
 約束を反故にされるのが寂しくないわけではないが、それを悪く思って悩んでいると知るだけで、なんとなく満たされたような気持ちになり、櫂はくすくすと笑った。
「僕のことは気にしなくていいよ。でも翔、水落先生のことはいいの?」
「え? セナ?」
 ふいに恋人の名を出されたせいか、翔の顔がいきなり真っ赤になった。
「夏休みになったとたん、飛んで行くかと思ったのに」
「ん……でも、今どこにいるかわかんないし、全国大会終わるまでは練習気ぃ抜けなかったしさ。……優勝の報告くらいはしときたかったんだけど」
 明るい顔に苦さを隠し、しかし意識せず漏らしてしまうため息に、櫂は翔が抱える深い寂しさを感じた。
 櫂はそんな兄の不器用な恋心を、どう手伝ってやったらよいかと無意識に算段し……一つ吐いた息で己のおせっかいさに気づいて、小さな苦笑をした。


「あれ? 奈穂さん、お墓の掃除やってったのか? 朝早く出かけたはずなのに」
 羽村家と刻まれた黒みかげの墓石前に翔が立つと、照りつける午後の熱気を清めるようなひんやりとした空気が彼の頬に触れた。丁寧に雑草を摘まれ、磨きあげて水を打ち、火をつけたばかりのような長い線香と真新しい花とが備えられた墓石前には、ほんの少し前まで誰かがいた気配がある。
「隣と間違えたわけ……じゃないよな」
 周囲を見渡した翔の目に、水場から歩いてくる背の高い人影が映った。
「セナ!」
「……しばらくぶりです、翔」
「うわ……ほんとのほんとに本物のセナだ」
 数ヶ月ぶりに会う恋人に翔が駆け寄ると、目の前の影から落ちてきた小さな影がちょんと頭の上から翔の髪を引いた。
「ピピ! ピピも一緒なんだ! はは、元気だったか?」
 手のひらに降りた小さなぬくもりが、挨拶を終えて定位置に戻るのをきっかけに、翔は再びセナの姿に視線を合わせた。
 心に焼き付いた面影が、彼の見たことのない服装でそこにいる。夢か幻を見ているようで、なんだか目をそらせなかった。
「日本に帰っていたの?」
「櫂に呼ばれました。ついでに少し怒られましたよ、あまり翔を一人にさせるなと」
 セナの指が翔の耳の脇で柔らかい髪を梳くように動き、かがみ込んできた彼の唇がそっとそこに触れる。
「そっか……」
 おかえりなさい、とはまだ言わない。世界をさまよい続ける彼の旅は、まだ終わっていないのだから。だけど、自分という止まり木に彼がほんの一時だけでも戻ってきてくれたことが、翔にとってはひどくうれしく感じられるのだった。
「あ、じゃあ父さんたちのお墓はセナが?」
「はい。きみを守り育ててくれた方達なのですし。当然でしょう?」
「ありがと……セナ」
「どういたしまして」
 そうして二人、もはや物言わぬ人々の前に立つ。
 長く、長く墓石の前で目に見えぬ『何か』と胸の中で語らっている翔を背の高い影はかたわらで静かに見守り、片膝をついて深い無言とともに静かに墓石に頭を下げた恋人の横顔を、翔は言葉にしがたい感慨と共に見つめていた。
 もし、遠い過去のあの事件がなかったならば翔がここに立つことはなかっただろう。そうして同じ再会と運命を経ていても、養父母の死がなければ、セナが翔の恋人として彼らに会おうとすることはたぶん一生なかったのではないかと。
 実の両親と、櫂とセナ達と過ごす夏……養父母たちと過ごす穏やかな夏……そんな幸せも自分にはあったのだろうけど、想像するどの夏よりも今のこの時が、目の前にいるセナの存在一つで何より愛おしいと思える。
 自分に訪れた運命に悲しみがなかったわけではない。けれど、こうして「もしも」の世界を惜しまずにいられるのは、それを越えてなお幸せなのだからだろうと翔は思った。
「翔、そろそろ行きませんか? 夕立の気配があります」
 いつの間にか立ち上がっていたセナにとん、と肩を叩かれ翔はあわてて空を見上げた。高いコントラストのある空に雨雲の気配はない。
「降るの? こんなに晴れてるのに」
「向こうの山の方に積乱雲が発生しています。風も強くなってきましたし……通り雨でしょうが、一時間以内に一雨くるかもしれません」
「うん、戻ろう……あ、でもセナは……ホテルとかに泊まってたりするのかな」
「私は今朝方到着したところです。なので、もしよかったらきみのところに泊めていただいてもいいでしょうか?」
「よかったらって……悪いわけあるかよ! なぁ? ピピ」
 翔の言葉に、セナの肩の上で青い小鳥が小さく喜びの返事をする。
 明るい笑顔にわずかに影が落ちて見えるのは、晩夏の強い日差しのせいだろうか。それとも、養い親の墓前という場所のせいなのだろうか。
 別れた時よりも翔の表情はどこか大人びて深い。その凛とした潔さは、翔が自分自身にさえ感じさせないように押し込めている憂いを秘かに香らせる。
 恋人の成長を喜ぶ気持ちの裏で、苛立ちに似た微かな胸の痛みを感じ、セナは翔に見えぬよう小さく息を吐いた。


 日が落ちると、田に囲まれた一軒家は急に空気が重くなる。
 窓を開ければ虫や蛙の声がにぎやかに聞こえるのだが、気温が下がって湿度も下がるためか体に感じる空気はひやりと冷たい。
 セナは感慨深げに、浸かっている風呂の湯を指先ではじき上げた。手の中にある豊かな水が、自分は今さまよい続けているどの国でもなく、第二の故郷とも言うべき日本にいるのだなとあらためて感じさせる。
 ずっと都市部で暮らしていた彼にこんな田舎家で過ごす経験はないが、包み込むやさしい空気はなぜか懐かしい。
「セナ、湯加減どう?」
 夕飯の食器洗いを終えた翔は風呂場の入り口から中に入ってくると、風呂の縁に座ってセナの顔を見下ろした。楽しげに細々と気を遣う様子がひどく微笑ましい。
「ちょうどいいですよ。ありがとうございます」
「……さっきからずっとオレの顔見ちゃ笑ってるけど、何かオレの顔についてる?」
「別に何も。きみは案外家事が達者なのだなと思っていただけです」
 ああ、と翔は少し哀しげな笑顔を見せた。
「孤児院戻った時、『自立支援プログラム』とかそーいうのでやらされてたから。まだ、あんまりうまくねーけどな」
 翔の言葉を受けて、セナの表情もまた曇る。そんな彼の表情を見て翔がセナの顔に手を伸ばしてきた。
「そんな気にするようなコトじゃないよ。セナがオレの作った食事うまいって思ってくれたりするんだったら、それはそれでいいと思う」
 翔の左手が、いつもは髪に隠されている顔をそっとたどる。そして水に濡れた髪の際に翔のキスが降ってきた。
「……オレ、セナのこと幸せにしたい。セナを楽しい顔とか嬉しい顔にするが好きだから、家のコトとかするのは別に嫌じゃないよ」
 耳のあたりを軽く噛まれたセナの動きで、風呂の湯がたぷんと波を立てる。
「翔……」
「オレ、セナのそーいう顔も好き」
 笑顔と共に囁かれる恋人の言葉に、セナはわずかに頬を染めた。
「大人をからかうものじゃありません」
「からかってなんかいねーよ。真剣だってば」
 言葉通りの感情を伝える翔のまなざしにセナは小さく笑って、水に濡れたままの腕を恋人の首にからめると、ぐいと引き寄せた。
「わ……ちょっと! セナ!」
 タイル張りの部屋に派手な波音が立ち、それを追いかけて大きな水しぶきが跳ねた。
 セナの向かいでは風呂に引きずり込まれてずぶぬれになった翔が、膝立ちになったままもとより大きな目をさらに見開かせ、言葉もなく彼を見ている。
 セナは呆然としたままの翔の胸に手を乗せて、寄りかかるように自分の身を傾けた。
「……だったら、その顔を見せるために私は、いつまで待てばいいんですか?」
 セナの言葉を理解する数秒の間の後、翔の顔が勢いよく赤く染まるのが感じられ、セナは再び楽しげに笑った。その笑顔を見て翔が不満げに目を細める。
「セナって時々思いがけない行動するんだよなー……」
「誰にでも、というわけではありませんよ」
「うん、それはわかってるけど」
「……少しは甘えさせてください。これ以上待たされるのは寂しいですから」
 言葉を受けた翔は不機嫌さを解いて小さくうなずくと、セナの指に自分の指を絡め、セナを浴槽の壁に押しつけるようにして深く唇を重ねてきた。
 キスを交わし、当然のように行為をリードしはじめた翔の手を感じて、セナは閉じてしまいそうになる目を薄く開いた。
 濡れた服が貼り付いた翔の体は、再会の前に覚えているよりいくぶん大人びた雰囲気を漂わせているように感じられた。
 数ヶ月にも満たない間で目に見えてわかるほど変化するはずもないのだが、最初に触れあった時にはあまりよく見ていなかったからか、自分を抱く恋人の力強さを無意識でそう解釈するからか、そんな風にセナの目には見てとれる。
「セナ、目開けて。もっと顔よく見せてよ」
 翔は水の中でゆるゆるとセナの体を探りながら、快感で思わず逃げ腰になる体をもう片方の手で捕らえ、呼びかけた。
「翔……」
「オレ……あんまりやり方とか知らないから、セナがちゃんと感じてる顔見せてくれないと、わかんないよ」
 触れるたび相手に飢えていることに気が付くのに、翔の手の動きはまるでセナを焦らしているかのようにゆるやかだ。
 セナの手がもどかしさに差し入れた翔の髪をきつく引いても、翔はその水面を乱さず、ゆるやかに絡むような触り方をやめようとしない。
 翔の指がセナの後ろと中心をなぞり、唇はセナの胸をなぶる。わかっていてやっているのか、そうでないのか、翔がセナの体を揺らすごとにしぶく水が愛撫の不足を感じる肌に刺激を与え、じわじわと彼等を快感の高みに導いてゆく。
 体温の上がってきた体に触れる水は、どこかひやりとした感触を刻み、ぬくもりを求めて無意識にセナは翔にしがみついていた。セナの中心を包み込む手と、濡れた布越しに感じる翔の体温が心地良い。
「翔、あまり焦らさないでください。もう……」
 セナが訴えかけると、ゆっくりと後ろを慣らしながらセナを追い上げていた指がふいに抜かれ、セナ自身に触れていた翔の手もすっと離れた。
「あ……翔……どうして……」
 漏れる声に宿った懇願する響きに、セナの顔が恥ずかしさでかっと熱くなった。熱を持つセナの頬に、濡れて体温が低くなった翔の唇が寄せられる。
「セナ……中に入れさせて……」
 うなずくセナの呼吸にあわせて翔がじわじわとセナの中に入ってきた。ほとんど身動きできない体勢でゆっくり貫かれ動かれると、つながり合う場所から体全体を翔の存在で染められていくような感覚を覚える。
 苦しさが心の中で満たされる快感にすりかわって、吐く息もあえぎへと昇華する。
「セナ、大好きだよ」
 翔の手がセナの脚を持ち上げ、突き上げる動きが強さを増す。
「翔……ああ……もっと……強く……」
 切れ切れに聞こえてくる甘い声と体にはじく水音で翔の興奮はさらに高まる。
「セナ……セナ……。オレ……もうっ!」
「翔!」
 翔に抱きつくセナの手がぐっと強くなり、極まった力が抜けるのとほぼ同時に翔もまたセナの中に自分を解き放った。まだ激しさのおさまらない水の下……密着した腹の間でセナのものが放出の余韻にひくひくと震えているのが感じられる。
「翔……」
 呼びかけてきた唇を翔が指でなぞると、懐かしい瞳はどこか無防備な笑顔で微笑んだ。
「翔……愛していますよ」
 その言葉を受けた翔は、抱きしめている相手を確認するように指とキスで相手の顔をたどり、
「セナ、大好きだよ」
 そう言って暖かな微笑みをセナに贈った。


 セナと翔が再会した翌日の午前七時、東京の御園生邸で一つの携帯電話が大きな音で着信を告げていた。
 十秒……二十秒……かけている人間が、いいかげんしびれを切らして切ってしまおうかと思えるほどの時間の後、その主は電話を手に取った。一呼吸して二つ折りの電話を開くと、彼……御園生櫂は電話を腕いっぱい耳から離したところで着信ボタンを押す。
「はい、御園生……」
『櫂っっ! 助けてっっっ!』
 耳から離していてもなお聞こえる大声が電話から聞こえてきた。予想通りの出来事と言葉に小さく笑って櫂は電話を耳に近づける。
「おはよう。何かあった? 翔」
『セナが、セナが朝起きたらいきなり縮んだ! ……えっと……縮んだっても、赤ん坊になったとかじゃなくて、オレより頭一つ小さいくらいで……ああもうっ! オレ、いったい何をどう言ったらいいのかわかんねーよ』
 おろおろとする声に櫂は笑いが止まらない。
「何か心当たりないの?」
『心当たり? ない……と思うけど』
「本当に? それに、朝起きたらじゃなくて、朝の光浴びたら……じゃなくて?」
 言葉をゆっくり、区切るようにわかりやすく念を押すと、電話の向こうで彼の兄が櫂の言葉のニュアンスを感じて息をのむ音が、かすかに聞こえてきた。
『櫂……おまえ、何かした?』
「『何か』したのは翔たちの方じゃない? ……好きな人とのしばらくぶりの再会で『いろいろ』あったんだろうけど」
『えっと……その……』
 口ごもる声の響きに、真っ赤になって焦っている兄の様子が目に浮かぶようだった。
「心配しなくても、ちょっとした呪術魔法の結果だから三日くらいで元に戻るよ。……もっともその間に『何か』あったら、また延長になるかもしれないけどね。三日たってもダメだったらその時は責任とってちゃんと戻してあげるから、二人で手つないで遊星学園まで戻ってきなよ」
『何かって……あんなセナと何かあるわけねーだろ……』
「さあ、どうだか。あとは翔と水落先生の問題だし」
『か〜い〜…………』
「用はそれだけ? なら切るよ。こっちに戻ってる間は会議だらけで忙しいんだから」
『こら! 櫂、待ってってば! オレの話を……』
 わめく声を一方的に切って電話の電源も落とす。
「……いいよね、少しくらい意地悪したって」
 櫂はくすりと笑った。
 切れた電話の向こうであわてているであろう兄と、それを一生懸命なだめているであろう瀬那の姿が見えるような気がして、一人残る寂しさと、微かな嫉妬も紛れてゆくのがわかる。
「短い夏休みだけど楽しんできてね、翔」
 櫂は電話を置いて窓から晴れた空を見上げた。


 そして、櫂の見つめる空の向こう……切られた電話の向こうへと風景は変わる。
「翔、櫂は何と言っていたんですか?」
 電話を前に落ち込む翔の後ろから、やわらかい声が聞こえた。
 借りた携帯電話をセナの手に戻し、翔は深くため息をついた。
「……三日くらいで戻るって……で、原因は……その……昨日の……だろうって」
「ああ、きみとのセ……っ」
「お願いセナ。恥ずかしくなるからその姿であんまりすごいコト言わないで」
 唐突に相手の口を塞いでしまった指の下から、手のひらをくすぐるように小さな笑い声が漏れる。
「何がそんなにおかしいんだってば〜」
「いえ、先ほどからの焦り具合が可愛いなと思って」
 塞いだ手をそのまま相手に取られ、どうしようと思う間もなく指先を軽く甘噛みされた。
 いつもはこちらが見上げる青い瞳から誘うような瞳で見上げられ、翔の顔は一瞬で真っ赤になる。
 口から心臓が飛び出てしまいそうな心地を抱えたまま、翔は改めて子どもの姿になってしまった相手を観察した。
 髪の色も長さも、そして瞳の色も……基本的なものはほとんど変わりがない。
 だが自分より大人であったはずのその人は、時計をきっかり二十年ほども巻き戻してしまったのではないかと思うほど、全体のたたずまいが変わっていた。
 きらきらした朝の光が白い肩に影を作る。
 背の高くない翔がすっぽりと抱き込んでしまえる体格は、抱きしめるのをためらわれるほど華奢で小さい。
 ちょうど、眠る前の体格差を逆にしたらこんな感じに近いのかもしれない。
 三段階ほどトーンが明るくなった声はひどく違和感を感じさせるのに、いつもと同じ口調がその違和感を同じだけ引き戻す。
 違和感の行きつ戻りつで、なんだか落ち着かない。
 翔はぺたぺたと相手の顔を触り、じっと相手の顔をのぞきこんだ。
「……そんなに変ですか? 今の姿は」
「……変……じゃないよ。やっぱりセナだなって思うけど……」
 顔立ちは変わらない。だけど、大人っぽさが抜けた無防備な相手の顔は、いつもの薄く相手を隔てている障壁が消えた感じがして、言葉の一つ一つ、表情の一つ一つが直球で響いてくる印象があった。
「なんか、いつもよりドキドキする……」
 くすりと幼い顔が笑う。目の前の顔にはあまり似合わない、ひどくませた感じのする表情ではあったが、翔の好きないつもの笑顔だった。
「翔」
「なに?」
 細い指に顎を引き寄せられ、柔らかい唇が翔の唇に触れるだけのキスを落とす。
「セナ……」
「とりあえず、何か着る物を貸してください。後のことはそれから考えましょう」
「ん、そうだね。待ってて、昔の服置いてあるはずだから探してくる」
「はい」
 遠ざかり、戻ってくる足音を楽しげに聞き、セナは再び小さく笑った。
 田舎家のくつろぎのせいか、子どもになってしまった姿のせいか、それとも心にある重荷をおろした最初の夏というせいなのか、身も心もとても軽い。
 このとんでもない櫂のいたずらにしても、なぜか怒ったり困ったりするより先にわくわくするような感覚がある。
「まるで子どもの頃のやり直し……といった風情ですね」
 それもまた夏休みらしいでしょうかとつぶやくセナの目に、いつもより世話焼きになった気がする恋人の笑顔が映った。


 朝食後の涼しさが残る緑陰に、風を切る音が規則正しく駆け抜ける。
 竹刀を握りこむ小さな音がし……振り上げられる翔の腕と共に空気がゆっくり動く。
 美しい正眼の構えから上段に振り上げられた竹刀は、一呼吸で静から動へ転じ、踏み出される足と共に迷いなくきれいな弧を描いて振り下ろされる。
 振り下ろされる瞬間、凝縮された気合いは、竹であるはずの竹刀に研ぎ澄まされた日本刀のイメージを与える。
 右に、左に見えない敵を斬る姿に見入っていると、彼らを囲み……降るように聞こえているはずの蝉の声も、風の音も暑熱もだんだんと遠くに感じられてくる。
 縁側に座り彼を横から見ているセナでさえ、その気に呑まれそうになるのだから、試合の時彼に正対している相手が感じる気迫は、いかばかりなのであろうか。
 上げては振り下ろされる動作を二百ほど数えた頃、大きく吐かれた息と共に翔は剣を収めた。
 場の緊張感が溶け、そのとたん戻ってくる暑さと共に振り向いた少年の視線が、セナをやわらかく包んだ。
「……オレの練習なんか見てて楽しい? セナ」
「楽しいですよ。とても綺麗で、見ていて飽きません」
 きみだって私の練習や、銃の手入れを飽きもせず見ているでしょう? とセナが笑うと翔は少し照れたような顔を見せた。その顔のまま照れ隠しのように置かれていた麦茶を飲み干した翔は、竹刀を置きセナの隣に座る。
「セナ、ひょっとして暇?」
「することは探せばいくらでもありますが……この三日間はきみの側にいて、きみを見て、きみと話をしたりすることの方が私には重要です」
 だから、話を聞かせてくださいませんかと促され、翔はそのまま離れていた間の学校や仲間達のこと、剣道のこと、夏休み中の出来事などを身振り手振りを交え話しだす。
 三十分ほど蝉の声を遠くに聞きながら言葉を交わしていると、そのうち話の種が尽きたのかふと翔の言葉が止まった。何かを思い出した風情でセナを見つめる視線がゆっくり上下する。
「どうしました? 翔」
「ねえ、セナ。セナが着てるのって、オレが小学校ん時の服なんだけど……。セナってそのくらいの頃は何してたの?」
 翔の問いにセナは指を折って何かを数え、答えた。
「……多分士官学校の幼年課程にいました……ね」
「そんな小さい頃から?」
「全部の教程に習熟するには、時間がかかるものですから」
 ああ、と翔はうなずく。剣道一つ極めるにも時間がかかることを思ったのだろうか。
「士官学校ってどんな学校だったの?」
「どんなと言われても……学校としては普通ですよ。全寮制で、毎日の運動や勉強の他に武術や射撃などの教練があるだけで。でも……そうですね、着衣や装備の管理など生活面での指導が遊星学園より厳しいことと、時々寝ている時にも呼集がかかったりするので、気を抜けないのが日常なくらいかと」
「厳しいんだ……」
「それでも皆、いずれは白い翼の王家にお仕えし、国を守る存在になるのだということが誇りでしたから、厳しさもそれなりに受容していました」
「じゃ、友達と遊んだりとかは?」
 翔が問うとセナはふと言葉に詰まった様子を見せた。
「ないの?」
 まったくないわけでは……と言いつつ、セナの答えはどうにも歯切れが悪い。しばらく彼の様子を見ていた翔は突然に立ち上がった。
「翔?」
 立ち上がった恋人の手がセナの方にすっと伸び、彼を引っ張って立たせる。
「『夏休み』しようぜ、セナ」
「え?」
「オレは、自分が過ごしたのしか知らねーけど……なんか今、思いっきりセナにオレがここで父さんたちとした『夏休み』見せたくなった。オレがここで楽しかったこと、嬉しかったコト、全部セナに見せたい」
「……翔」
「ねぇ、ダメ?」
 のぞきこむ翔の瞳にセナの驚いた顔が、やわらかく微笑むのが映った。
「私が見ているのは、きみが見ていた『夏』なのですね」
 小さい手が、かがみこんだ翔の頬を包む。
 翔の記憶にあるセナの手より熱く柔らかい子どもの指だ。だけど、その指が与える守護者としての思いは変わらない。
「セナ……」
「見せてもらえますか? きみが羽村のご両親と過ごした日々を」
「うん」
「……でも、宿題は終わってますよね?」
 正面からの意外な問いに、翔は一瞬硬直する。そして数秒の間をおいて大笑いした。
「何かおかしなことを言いましたか?」
「だって……その小さなカッコで先生みたいなコト言うのって似合わねーんだもん」
「みたいなも何も、教師だったんですから、あたりまえでしょう」
 小さな手が翔の額を軽くはたき、目の前の幼い顔がらしからぬ不機嫌な表情になる。
「それで翔、宿題はどうしました?」
「大丈夫、全部終わってるよ。やってる間中櫂にぽこぽこ殴られたけど」
「それならいいんです」
 目と目を見交わし、いたずらの約束をするようにくすりと笑う。
 彼らのもとに訪れる風は蝉の声を乗せて届く。緑と青空に囲まれた庭先には、垣に高く伸びる赤い芙蓉の花と、太陽のような金色のひまわり。
 絵に描いたような『夏休み』のはじまりだった。


 昼近くの高い日が、並んで歩く翔とセナの足元に短い影を作る。
 ぬるい風がプールの水に濡れた髪を揺らすと、そのたびに塩素と水の匂いが立ち上る。二人を包む同じ匂いは、つながれた手に感じる熱以上に、確かに同じ時を共有しているのだと感じさせるようでもあった。
「ああ、もう……ひでーめにあったぜ……」
 翔は小さくため息をついた。吐いた息で塩素にむせ、こほこほと咳きこむ。
「大丈夫ですか?」
 くすくすと笑う小さな声が斜め下から翔を気遣うのだが、その言葉が若干の裏を含んで聞こえるのは、きっと気のせいではないだろう。
「だいじょーぶ、って……あの子らと一緒に寄ってたかってオレを沈めたのセナじゃないか。『翔兄ちゃん』って抱きついて。うー……まだ鼻ん中に水残ってる気がする。昨日からオレ、セナに沈められてばっかりだ」
「ああ、そうでしたっけね」
 見上げる笑顔は櫂が彼をからかう時のものにひどく似ている。
「そうでしたって……セナ……」
「昨夜のことはともかく……さっきのことについては、きみが悪いんですよ」
 言ってセナは不機嫌そうにふいと視線をそらした。
「オレ?」
「……小さい子たちに大もてで、誰のためにプールまで行ったのか、すっかり忘れているようでしたから」
「えーと……それって」
「翔が小さい子に『お兄ちゃん』をするのが習い性となっているのはわかりますけど、きみは私のもの……でしょう?」
 さらりと言われた言葉に、数秒の間をおいて翔が絶句した。
「セナ」
「なんです?」
「嫉妬してたんだ、あんなレオンより小さい子たちに」
「ええ。こんな体なのだから、大人ぶらなくていいのは楽でいいですね。『お兄ちゃん』と呼んだとたん、周囲から兄弟扱いされるようになったのは、案外と楽しい体験でした」
 やけにきっぱりとセナは言った。
 不思議なもので今の彼の表情は、セナとは血のつながりなどないはずの彼の義弟レオンや、翔の弟である櫂が拗ねた時のものにそっくりだ。
 こんな顔に見上げられていると、先ほどの冗談ではないが本当にセナと兄弟になったような気がしてくる。
「だからって……」
「いけませんか? 昔、翔も同じことを羽村さんにしたのに」
「あ……」
 言われて何かを思い出したのか、翔の顔が赤くなる。
「でもセナ、なんでそんな昔のコト知ってんだ?」
 翔が見下ろすと、彼を見るセナの顔がすっと『大人』の表情を作る。
「……最初の夏に一度、きみの様子を見に来たことが。人なつこいきみのことだから、新しいご両親ともうまくいっているのだろうと思いつつ、遠目で見るきみは、らしくなく神妙で遠慮がちだったのが妙に気になっていて」
 セナは苦笑した。以前『ストーカー』と評されたことを思い出したのだろうか。
「言葉には何か力があるのでしょうかね。血のつながりなどないはずなのに、きみがあの方に『お父さん』と呼びかけたとたん、ぎくしゃくしていた空気が一瞬で消えて……きみが私の知る翔ではなく、『羽村翔』になったのを感じました」
「セナ……」
 翔が呼びかけるとセナは、深刻さをかき消すような意味ありげな微笑みを見せる。
「ああ……でも、さっききみを『お兄ちゃん』と呼んだのはただの冗談です。私はきみと『兄弟』でいたいわけではありませんから」
 セナの手が軽く動いて翔を呼び、かがんだ彼の唇に柔らかいものが触れた。
「兄弟ではこんなこともできませんしね」
「こんなことって、セナ……」
「アイスの味がするキスも夏らしくていいかもしれません」
 小さな手が触れて熱くなる顔に、アブラゼミの声が妙に大きく聞こえる。しばしそのまま見つめ合った翔の顔を、「あ」と言った小さな手が突然横に向けた。
「翔、あそこにホタルブクロが咲いてますよ。野草のようですが採集してしまってはまずいでしょうか?」
 甘くなりかけた雰囲気をさらりとかわされ、一瞬の間をおいて翔は苦笑した。
「どれ? ああ、あの花なら畑の脇にたくさん生えてるよ。欲しいんなら昼メシ食った後で畑行くから、その時に取って来るけど」
「それなら二人で行きませんか? こんな体でも、草むしりくらいは手伝えますよ」
「オッケー! じゃ、早く帰るのに家まで競争!」
「待ってください翔。そんなにいきなり走りださないで……」
 後ろから聞こえてくる、いつもと違う歩幅のリズムに翔の頬がなんとなく緩む。アルバムにもない恋人の昔の姿が、ひたむきに自分を追いかけてきてくれるのが楽しい。
 今だけ自分がセナの兄になったような気がして……そして、仲間達の誰も知らない姿を独占していることが嬉しくて、翔はひどく上機嫌だった。


 夕飯時のつれづれにセナは、古い暦だと今の時期はもう秋なのだと翔に語った。
 昼の暑さを思うと彼の言葉を意外と感じるのに、こうして夜……縁側に座り空に視線をやるセナを見ていると、自分たちを包む静かな空気が秋の物であることを感じる。
「何見てるんだ?」
 声をかけると月光に照らされた指がすうっと庭の方をさした。
「あ……」
「明かりを落として、こちらへ……」
「あ、うん……」
 電気を消した翔の鼻先を、淡い緑色の光が一つ、二つとゆるくかすめていった。
「蛍だね……」
「ええ。きれいな水が豊富な町だからもしかして、と思いましたが。こんな人家の方まで来るのを見られるなんて珍しい」
「でもオレ、ここ何年も蛍なんて見てなかったけど」
「……きみを見に来られたのかもしれませんね」
 庭を見つめたままぽつりとセナがつぶやいた。
 朝と同じように隣に座っていても、月光の下で見るセナの表情は、朝よりずっと大人びて見えるのが不思議だった。
「蛍は、人の魂を乗せて飛ぶと言われます。羽村のご両親や、ロベール殿下や真理さん、そして多くの人達が、大役を果たしたきみを、ねぎらいに来て下さったのではないでしょうか」
「父さんたちが?」
「ええ」
 翔は指先を上げてまるでトンボを呼ぶように蛍を寄せようとし、そして吸い寄せられるように留まった蛍が案外と普通の虫なことに驚いている。
「なんかさあ……昼間見たらわかんない虫だよね」
「そうですね」
 手のひらの上でゆるやかな呼吸と同じリズムで明滅する光に、翔はやわらかく微笑みかけた。
「えーと、父さんか母さんか……誰かわかんねーけど……オレ、元気だから。いろいろあったけど、弟の櫂とも仲良くやってるしセナもいてくれるし、みんな親切にしてくれるし……大丈夫だからもう、心配しなくていいからな」
 翔の言葉を受けた虫は、まるで本当に誰かの魂であったかのようなタイミングで、言葉の終わりを待ってふわりと飛んだ。
「……ありがとう」
 つぶやいて蛍を見送り、セナに向き直った翔の動きが不自然に一瞬止まる。
「翔?」
 呼びかけられて、翔の頬から涙が伝い落ちた。自分を気遣う優しい声がわかるのに、流れ落ちる涙は止まらない。だが、その滴は彼の頬に触れる小さな手に拭われて、優しい慰めを受ける。
「目にゴミでも入りましたか? それとも何か悲しいことでも?」
 頬に触れる手の温かさを感じ、翔は首を横に振った。
「悲しいんじゃないよ。ちょっと、色々考えちゃって……それだけだから」
 手の甲で涙を拭い、それでも止められない涙のまま翔は笑顔を作る。
「何を考えていたのかと、聞いてもいいですか?」
「たいしたことじゃないって、大丈夫。セナが心配するようなことじゃ……」
 セナは無言で縁側から立ち上がると、少し高くなった視点から腕を伸ばし、翔の頭を抱き込んだ。
「心配くらいさせてください。きみは素直で優しいけれど『いい子』すぎる分、一人で悲しみを抱え込んでしまうのが、見ていてひどく痛々しい」
 子どもをあやすように髪を撫でると、抱きしめた胸元から、翔のくぐもったため息が聞こえた。
 言葉にしがたい悲しみや痛みと正対させる行為に、セナの心が痛む。だけど今ここで吐き出させなければ、翔は彼を気遣って一人で悲しみと向き合うのだろうと思うことの方が、ずっと耐え難かった。
 ゆっくり言葉を探す沈黙の後、翔は手を伸ばしてセナの背に腕をまわした。
「オレ、ずっと後悔してた。……ううん、『してた』じゃねーな。多分、今も後悔し続けてるんだ。オレは本当の父さんと母さんにも、羽村の父さんと母さんにも、何もしてあげられなかったんだよなあって」
「翔……」
「命かけて守ってもらったのに、たくさんかわいがってもらったのに。大切に大切にしてもらってたのに、何も返せなかった」
「きみは運命から逃げず、黒い翼との争いを終わらせたのに?」
「あれは……」
 セナの言葉に翔は何かを言いかけ、気まずそうにふっと言葉を飲んだ。
「オレさ、父さんたちに櫂やセナを紹介したかった。会えてよかったなって言ってほしかったし……こんな風に会えなくなるってわかっていたら、幸せだよって伝えて、いっぱいいっぱい『ありがとう』って言っておきたかった。心配かけたり手伝いさぼったりしないで、もっとたくさんいろんなコトしてあげたかった」
「あの方達の死は、きみのせいではないでしょう?」
 セナの胸元で翔の頭が小さく縦に動いた。
「どうしようもないのはわかってるよ。後悔している分は他の人に返すものだから……お前はちゃんと生きなきゃダメだって、師匠が言ってたし。ただ……」
「ただ?」
「お墓の前で会ってからずっと、あんまりびっくりするコトばっか起きてるから、さっき一瞬セナが消えちゃいそうな気がして、……小さいセナも、蛍も、オレの夢だったらどうしようって思った。セナにしてあげたかったことも、言いたかったこともたくさんあるのに……オレ、もう後悔なんかしたくないのに、セナがもし魂だけで会いに来てたんだったらって思ったら……旅になんか行くなってすがりついてでも止めればよかったのかなとか、そんなのを一瞬で想像しちゃって……すごく、恐くなった」
 一瞬だけセナを抱く腕の力が痛いほどに強くなり、吐いた息と共にすっと手を離して顔を上げた翔の顔は、優しい笑顔だった。
「それだけ……だから。心配させてごめん、セナはちゃんとここにこうして居てくれるのに、不吉なコト考えて」
「……すみません、翔」
「セナのせいじゃないよ。これはオレの気持ちの問題。……そーいうのが怖いくらい、オレはセナが好きだってコト」
 知らずまた浮かんでいた涙を「もう大丈夫」と言って再びぬぐうと、翔は照れたようにセナの腕に体を軽くもたせかけた。
「ねぇ、セナ」
「はい」
「セナの本当のお父さんたちや、知ってる人もあの蛍の中にいるのかな」
 答えはなかった。気まずげな沈黙が漂う。
「どうしたの? 何か変なコト言った?」
 見上げる翔の瞳に映ったのは、微笑とも苦笑ともつかぬセナの笑顔だった。
「……いるのかもしれませんが……正直、いないことを祈りたいです」
「なんで?」
「両親達と死に別れてからあまり誉められた生き方はしてませんでしたから……なんだか、叱られてしまいそうな気がして」
「そうかなぁ……オレはセナの両親なら、セナのことよくやったなって誉めはしても、怒ったりなんかしねーと思うけど」
「……だと、いいですね」
 セナの指が翔の顎に触れ、恋人のキスが唇にそっと降りてきた。そのまま子どもをあやすように頭を撫でられ、翔は問いの続きを封じられてしまった。
 深くなる夜にいつの間にか蛍は去っていて、以前ウィンフィールドで見たのと同じ降るような星空と、にぎやかなのになぜか静謐さを感じさせる虫の声が二人を包んでいた。


「せぇのっと……」
 翔のかけ声と共に縁側から投げ入れられた洗濯物と布団の山が、ばさばさと薄暗い板間に広がった。
 午前中の強い陽光を吸った布から立ち上る熱気が、ひんやりした空気を夏の名残の色に染める。
「にゃあん」
「こら、ノン。洗濯物踏むなよ。……ってあれ、ピピは?」
 部屋の奥からやってきた大叔母の飼い猫ノンの背中を翔が見て首をかしげる。
 ぶち猫の背中には、何がどう気があったのやら……滞在初日から始終乗せていた青い小鳥の姿がない。翔が話しかけると、猫はしっぽとひげでついと奥を示した。
「奥に?」
「んあー」
 ……言葉が通じているわけがないのに、返事をしたとしか思えないことをするのが、年経た猫の不思議なところだ。
「セナがそっちにいるのか?」
「なー」
 夕立を呼ぶ雲が、翔の背後で見る間に午後の空を薄暗く染めていく。
「そりゃ、雨降るって言ったのセナなんだから、出かけたわけないけど」
 なんか静かすぎると、翔が縁側から身を乗り出すと、布の山の頂上を我が場所と決め猫はどっかり座り込んだ。そして丸い目を細めると、洗濯物など放って行けと言わんばかりに奥の部屋に向かってあごを動かした。そしてそのしぐさを合図にしたかのように、翔の耳に雨がぱたぱたと土や葉を叩く音が聞こえはじめた。
「あ、やべっ! 窓閉めてこねーと!」
 翔はサンダルを蹴るように脱ぐと、部屋の中に走り込んだ。
 激しくなる雨に追われ家中の窓を閉めて回ると、それまで流れていた空気が見る間に暖かくよどんでいくのを感じる。……まるで見えない手に抱きしめられるかのように。
 包むような空気の感覚に恋人の腕を思い出し、翔は一瞬だけぽっと頬を染めた。
「えーと、あとはセナの部屋だけか」
 通りすがりに眠る猫を一撫でし、恋人の姿を求めて翔は奥の客間へと向かった。
「セナ……いる?」
 部屋の外から声をかけるが返事がない。待つ時間の空白に不安を感じ、翔はふすまの引き金具に手をかける。
「ごめん、入るからね」
 勢いよくふすまを開けた瞬間、翔の頬を新鮮な空気が撫で、髪を揺らした。一瞬違和感を感じてしまうほどの不自然な静けさに、胸がドキドキして落ち着かない。
「セナ……?」
 翔はぐるりと部屋を見渡した。
 薄暗い和室には雨交じりの風がゆるく流れている。部屋の隅に小さな鳥籠とひとまとめにした荷物がまだあることを見、翔は小さく安堵の息を吐いた。
 人がそこにいるのだということを感じさせないセナの気配と生活ぶりを見ていると、時々翔は不安になる。
 気配のなさは軍の訓練と長年の流浪暮らしで染みついたものだからとわかっていても、ふと顔を上げたら消えていそうな恋人はどうにも心臓に悪い。
「セナ……」
 翔は再び恋人の名を呼んで一見無人に見える部屋の中を見回した。
 不安にまた早くなる鼓動を落ち着かせながら座卓上で開かれたままになっているノートパソコンを見ると、キーボードの上で小さな影が動いた。
「あ、ピピ。よかった、ここにいたんだな。セナは?」
 翔の姿を見た青い小鳥は机の端に降りると、おじぎをするように頭を下げた。
「なに? 下?」
 小鳥と共に机の下を覗き込んだ翔の顔が、不安から一転し、ほころんだ。
「なんだ、こんなトコで寝てたんだ……。疲れてたのかな、昨日も今日も朝からあっちこっち引きずり回して遊んだし」
 座卓の下に小さな影があった。膝を抱え込む胎児に似た姿勢で、己を隠そうとするかのようにひっそりと彼は眠っていた。
「……なんか苦しそうな寝顔してるよなぁ。セナっていつもこんなだったっけ?」
 ずらした座卓の下から顔を上げた翔は、肩に乗ってきた青い小鳥に向かって首をかしげる。
 小鳥の返事を遮ったのは、部屋の中に向かって強く吹いた風の音だった。驚く翔の耳に、雨音に反応したような小さなうめき声が聞こえた。
「雨の音……?」
 立ち上がって縁側のガラス戸を閉めると、他の部屋と同じように一瞬で部屋の中は暖かさと静けさに満たされる。
 微かな音さえも大げさに感じる静寂の中で、苦しげだった呼吸の音が安らかになるのが感じられ、翔はほっと息を吐いた。
 安心したとたん急に肌寒さを感じ、翔は隣室から取り込んだばかりのタオルケットを持ってセナの側に座った。
 太陽の熱が残るタオルケットを机の下から引き出した体と自分の膝にかけてセナの頬に触れると、伸びてきた小さな手が翔の手をきゅっと掴み、覗き込んだ顔から小さな声が聞こえた。
「セナ?」
「…………で」
 唇が動くだけの微かなつぶやきだった。だが、翔にはその寝言が理解できた。

  ――……行かないで……――

 時に涙と、時に怒りと共に発せられるこの言葉を、翔は孤児院で何度となく聞いた。
 親を知らず、弟を自らの手で送り出した翔がこの言葉を口に出したことはない。ただ……幼い頃はそう言えることすら羨ましかったのを思い出すせいか、翔にとってこの言葉と言葉の中に宿る思いは誰よりもよく感じ取ることができた。
「オレはここにいるよ、セナ」
 呼びかけて手を握ると、はっとしたようにセナのまぶたが開き、視線があった。少しうつろで今にも泣き出しそうな幼い顔がじっと翔を見つめている。
「ロベール殿下……真理さん……?」
 セナは体を起こし、翔の顔に触れた。形を確認するようにゆっくりと髪と頬に手を沿わせ、細い腕からは想像もつかないような力で翔をきつく抱きしめる。
「セナ……オレは、ここにいるよ」
 手を伸ばし翔は瀬那を抱きかえした。孤児院で泣く子たちを抱く寮母達が……そして羽村の両親が自分にしてくれたことを思い出し、抱いた背をそっとあやすように撫でる。
「大丈夫? セナ」
「すみません……」
 ぼんやりとした声が抱きしめた翔の胸元から聞こえる。背にまわされたシャツを掴む小さな手に強い力がこもる。
「私は……あなた達をお守りしたかったのに……」
 ぼそぼそと聞こえてくる微かな言葉の端に翔は、セナは自分にではなく、今見ている夢で……過去の記憶に語りかけたのだと感じた。
 すべてが終わったように見える今もなお、過去の負い目からセナは抜け出せずにいるのだろうかと思ったら、なんだかふいに泣きたいような気分になり、翔は恋人を抱きしめる指にほんの少しだけ力をこめた。
「オレは、ここだよ。セナが守ってくれたからここに居るんだからね」
 胸元に感じる言葉にならない声は、セナの泣き声だと翔には確信できた。涙にも言葉にもできない深い深い孤独と後悔が上げさせる声なのだと……。
 再会の前に……後に……何度セナは夢に責められたのだろう。
 手を差し伸べたいのに、セナの悪夢の根元である過去には、この手も声も届くことはないのだろうか。
 自分の思いが胸に突き刺さる。
 目の前にある大切な人の苦しみに自分が何もできないという事実は、いつも翔を容赦なく打ちのめす。
「ねぇセナ。オレじゃダメなの? ……オレと櫂じゃ、セナがなくした人達の代わりになれない? ……セナをこっちにつかまえとくコトはできないの?」
 呼びかける声が、叫ぶように言葉を絞り出した。
「父さん達を追いかけてなんていかないでよ。オレはここにいるのに……。セナを抱きしめてるのはオレなのに、なんで……戻らないものばっかり見てんだよ」
 言葉が消え、深く息を吸って吐く数秒の静けさの後、微かな雨の音にかき消されそうなほどひっそりとした声が翔の耳に届いた。
「翔」
 うつろではない声に呼びかけられて翔の鼓動が急に早くなった。抱きしめている細い体の重みが、緊張でぴりぴりと肌を刺激しはじめる。
「……セナ? 目、覚めたの?」
「ええ……すみません」
「オレ、セナに謝ってほしいわけじゃない」
 翔の声はどこか悲しげで、叫んでいるわけでもないのに、まるで雷鳴のような印象があるとセナはふと思った。
 やかましいという意味ではない。鋭く胸の奥に落ちてくる言葉が、闇と雨雲を切り裂く白光に似ていると、そう感じられたのだ。
 だけど言葉の強さとは裏腹にセナを抱きしめる腕は、苦しさも痛みも与えることはなく、ただ触れるぬくもりの優しさだけを感じさせる。
 激しさの底にある翔らしい優しさがくすぐったくて、嬉しかった。
「……すみません」
「だから!」
 じれったさに声を荒げた翔の耳に、笑うような優しい吐息が届いた。
「すみません……あの……謝っているのではなくて、きみに感謝しているという気持ちを示すのにちょうどいい言葉が見つからないんです」
「セナ…………」
「起こしてくれて、ありがとうございます」
 セナの手がそっと翔の背を撫でた。さっきまで自分がやっていたことを返されただけだというのに、翔の頬は上がった熱を冷ましてくれようとはしなくて、なんだか自分の熱で頭が茹で上がってしまいそうだった。
 ぼうっとした頭を冷やすように、セナの声が聞こえてきた。
「こんな体になっているからでしょうかね……きみのご両親が亡くなった日の夢を……見ていましたよ。目の前でロベール殿下が……真理さんが殺されそうになって……」
「セナ……そんなこと言わなくていいよ!」
 先ほどの胸がつぶれるような感覚を思い出して翔が呼びかけると、セナは翔の背をなだめるように軽く叩いた。
「夢の話ですよ。夢だけにずいぶん荒唐無稽だったですが。……守れたのが君たちではなくご両親だったなんていう現象は、夢でしかありえないことです」
「えっ!」
 セナの言葉に予想を裏切られ、翔の腕から一気に力が抜けた。だが、セナはそれを何かの否定ととったのか、ふと寂しげな表情を見せた。
「あの方達をお守りできてよかったと思うべきだったのに……きみを失ってしまったのだと思うと、なぜか夢の中の私は、お二人の無事を喜べなかった。きみがいないという事実が苦しくて……あの方達の命と秤にかけても、どちらかしか助けられないのだとしたら、きみ達を……いえきみを選びたかったと後悔していました」
「ホントのそん時セナは、どっちを助けようとか選んだわけじゃねーだろ?」
 目の前でセナの頭が小さく縦に動いた。
「……ですが、今あの時に戻れて、どちらかを選べる状況だったとしたら……私はきみを迷いなく選んでしまう……でしょうね。きみのためではなく、自分自身のために。それがひどく申し訳なくて……そんな自分自身が情けなくて……。もしあのまま夢が続いていたのなら、本当に自分があの時、選んできみのご両親を見捨てたのだと、そう信じてしまいそうでした。だから、きみがあの悪夢から呼び覚ましてくれて助かりました」
 寂しげに微笑んでうつむくセナの表情を見、翔は昨夜からセナが言葉の端々に漏らしていた罪悪感めいた言葉の意味が、ふいに胸に落ちるのを感じた。
 意外さと、何かを責めたいような気持ちと、言葉にしがたい嬉しさとが錯綜して、翔は何を言えばいいのかよくわからなかった。
 頭のいい櫂だったらこんなわけのわからない感情もきちんと整理できるのだろうが、今はただ渦巻くあれこれに当惑するばかりだ。
 それでも……胸の中心にある思いは何を聞いても『セナが好き』だと揺るぎないのが、不思議だった。
 翔は落ちた手をセナに伸ばすと細い肩を掴み、引き寄せて胸の中に抱き込んだ。
「セナ」
「なんです? 翔」
 応えるセナの声は、いつもどこかに不安を沈ませているような印象がある。
 兄でありたいと以前セナは翔に言っていた。それを兄弟では嫌だと言ったのは翔だった。優しい思いでつながる家族であり兄弟であることよりも、痛みも甘さも分かち合う恋人の絆を願った。
 しかし家族は道を違えても家族でいられるが、恋人は別れてしまえば他人になる。相手を失いたくないと思えば思うほど、家族でないことの不安は、昨夜の自分のように重く心を圧してしまうのだろう。
 その不安を消すことは、どれだけ相手を信じていてもできはしない。セナのように、多くを失いながら生きてきた人間であればなおさらに。
 不安が悪夢を呼ぶのなら、ほんの一時たりともセナを不安にさせたくない。過去がセナを傷つけるのならその過去を癒す手助けをしたい。
 だけど、子どもでしかない自分に何ができるのだろうか。
 翔はセナを抱きしめる手にほんの少し力を加えた。
「…………翔?」
「……ずっと、一緒だから」
 自分の口から出た言葉になんとなく目をあわせづらくなってしまい、翔は言葉を補うようにセナの髪に顔を埋めた。
「兄弟じゃなくても、オレはずっと側にいるよ。セナが何を抱えていても、セナが自分のコト嫌いでいてもオレは……セナが大好きだよ。……離れていても、オレの心はレオンよりもダナイさん達よりも……誰よりもセナの近くにいる」
「はい」
「……昔のコト思い出したり、あの時こうだったらって考えて苦しくなるのはさ、しょうがないよ。でも、セナがオレのコト抱きしめてくれたみたいに……オレだってセナを抱きしめてあげられるんだから。だから……セナも苦しい時、一人で泣いたりしないで。オレがいるのを思い出して」
「…………はい」
 抱きしめる腕に力をこめると、ふいにセナのまわりの空気が柔らかく揺れた。
「セナ……なに笑ってるの?」
「……笑ってましたか?」
「あ……うん……多分」
 抱きしめた腕の内側で、小さな体が照れた翔の顔を見上げようと小さく動く。
 実を言うと、これだけ密着した体勢からは相手の顔など見えはしない。しかし、ふわりと変わった空気は翔にセナの笑顔を感じさせていた。
「……セナ?」
「いえ……幸せだなと思って」
 翔の耳元でセナの吐息がくすぐるように揺れた。今度は本当に笑っている声がする。
「……幸せになっても……いいんですね。私は」
「なに当たり前のコト言ってんだよ! セナは幸せになんなきゃダメなんだからな! セナが幸せじゃなかったら……オレだって幸せになんかなれねーよ……」
「翔……」
 しばしの沈黙の後、小さな声で呼びかけたセナは、背中にまわした手で翔の肩をとんとんと叩いた。さっきまでのあやすようなものとは違う仕草に、ふと翔の反応が変わる。
「なに? セナ」
「縁側の戸を、開けてくれませんか?」
「でも……雨が……」
「雨が、どうかしましたか?」
 セナの声に翔は一瞬の間をおき、わかったと言って明るい笑顔を見せ立ち上がった。
 ガラス戸を横に滑らせると、軽い音を立てて開いた戸から、ほの暖かい空気と共に、雨上がりの香りが流れ込んだ。
 高く昼の名残をわずかに残す青い空から、夜と昼の境目のような白い空を経て、垣の向こうの遠くに見える空は夕暮れの茜色に染まりはじめている。
「雨、やんでたんだ……」
「ええ。……きれいな色の空ですね」
 空を見つめる翔の手に、暖かい指先がそっと触れてきた。
「セナ……」
「なんですか?」
 呼びかけた翔を見上げる瞳には優しい色がある。少し悲しくて……しかしそれゆえに暖かい、いつものセナの瞳だった。
 だけど、今まではこんな瞳の時のセナが自分から翔に触れてくることはなかった。
「あ……ううん、なんでもない」
 触れた指に翔が自分の手を絡めると、小さな手は強く彼の手を握り返してきた。
 セナの変化と手の感触がなんだか嬉しくて、どこかくすぐったいような、暖かいような……そんな気分を翔は視界から胸へと広がる澄んだ茜色と共に感じていた。


 小さな恋人を抱きしめて眠る最後の夜、不思議な感覚を覚えて翔がふと目を開けると、入り込んでくる月光の下で、自分の胸の上に乗っているセナと目があった。
 腹の上をまたぐようにして座り翔を見下ろすセナの様子は、これが夜中でなく、さらに相手が本当の子供だとしたら無邪気ないたずらと判断できるようなものだ。……しかし、セナはこんな姿でも翔の恋人で、時は深夜。
 さらに気が付いてみれば翔のパジャマのボタンは全開にされて、アンダーシャツも胸元近くまでまくり上げられている。
 素肌に触れている手の熱さに、なんだか煽られてしまいそうだった。
「……なに? どうしたの、セナ」
 夢なのだろうかとかすれた声で尋ねると、月光に照らされた顔がにっこりと微笑んで近づき、翔の耳に囁きかけてきた。
「抱いてください、翔」
 聞き返そうと体を起こしかけたとたん、首に細い腕が絡み、夢ではない証拠のようなセナのキスが降りてきた。今の見た目に似合わない官能を呼び起こすようなキスに翔は、目の前にいる相手が見た目通りの年でも、それに似合う過去を持っているわけでもないことを思い出す。
「きみが欲しいんです……ダメですか?」
 胸が痛くなりそうなほど切ない懇願に、翔の視線が微かにためらいの形で動く。
「だって、何かしたら明日、体が戻らなくなるかもって櫂が……」
「私はそれでもかまいませんよ」
 あっさりとした即答に、翔は思わずセナを見た。彼をからかっているような表情ではない。
「……セナの体、小さいから無理矢理したら壊れそうだし」
 翔の言葉にセナはくすりと笑った。
「いいですね……いっそ壊れるくらい抱いてみてください」
 セナは抱きついていない方の手で翔の肩から上着を落とした。現れた鎖骨の上を小さな指がたどり、やわらかな唇が張りつめた皮膚を噛むように愛撫する。
「他にためらう理由は? 翔」
 翔の喉元をセナの髪がくすぐった。甘い問いを投げかけられて、下腹部に熱が溜まりはじめるのを感じる。触れている体にその熱を感じ取ったのか、セナが嬉しそうに笑う。
「……それとも、このまま私に襲われる方がいいですか?」
 服の隙間から入り込んだ手が翔をからかうように煽る。どうやら何もしないで引き下がるという選択肢は、セナの中には存在しないようだ。
「……翔」
 本当にダメかと問う真摯な瞳に、翔の心は決まったようだった。
 翔は体を起こすと片手でセナを引き寄せ、深く口づけた。
「あ……」
 甘い声に誘われるように、もう一度のキス。そしてもう一度。
 セナが繰り返されるキスに酔わされているうちに、少しぎこちなさの残る翔の手が、一つ一つ確認しているようなゆっくりさで相手の服の下に指を這わせはじめた。
 翔の手がセナのズボンを脱がせ、シャツをたくし上げながら背をたどると、首筋に抱きついている手が急に力を強くした。
「翔……」
「あ、ゴメン。痛かった?」
 相手の困ったような顔を見て翔は、驚いたように手を放した。つられて落ちるシャツが背に触れて、セナの体がぴくんと跳ねる。
「セナ……痛いんじゃなくて、ひょっとして感じてる?」
「そうみたいです」
 翔は再びセナの背に触れた。背骨の上を、腰のあたりから触るか触らないかくらいの強さで撫で上げ、密着する胸元は唇で軽く噛み跡を付ける。
「なんか、こんな形でセナを見るのは、はじめてな気がする……」
 笑う翔の吐息がセナの胸で踊る。いつもの体格差ではあり得ない体勢なだけに、新鮮さを感じ興奮するのだろうか。
 だがそれはセナも同じで、前の時はわずかに遠慮した己の重さを揺るぎなく支えられる感覚のせいか、前よりもずっと簡単に体が快感に開いていくのを感じていた。
 強すぎる快感から無意識に逃れようとするセナの腰を支える手が、背の愛撫と同じほどゆっくりと腿から双丘を撫で、受け入れる場所をほぐそうとする。
「セナ……。このまま……いい?」
 切れ切れに投げかけられた問いにセナは小さくうなずくと、翔の首に両手をまわし、寄りかかるようにして少し腰を浮かせた。
 翔は左手でセナを支えたまま手を伸ばして、布団の脇からセナが持ってきたとおぼしき潤滑剤を取ると、少し苦心しながら指に取ってなじませた。
「きつかったら言ってくれよ、セナ」
「あ……はい……」
 呼吸の間合いをはかり、差し入れた指は予想よりすんなりと入った。それでもいつもとはやはり体の勝手が違うのか、慣らす指を多くするとセナは苦しげに息を吐く。
「翔……」
「苦しいんならやめとく?」
 翔の問いにセナは首を左右に振った。
「大丈夫ですから……。きみを……ください……」
 ほんの少しのためらいの後、翔はセナの中に自分自身を押し込んだ。
「あ……っ、翔……翔っ!」
 セナが感じているであろう苦しさを爪が食い込んでくる肩に感じ、痛みを続かせぬよう翔は一息にセナの腰を引き下ろす。
「う……っ……ふうっ」
 目を閉じたまま安堵するように吐かれたセナの息に、翔は自分の選択の正しさを感じた。覚えているよりずっときつく狭いセナの中の締め付けに、無理にでも動かしたくなる己を抑え、セナを抱きしめてその呼吸に自分の呼吸を沿わせる。
 膝の上におさまった体は、思っていたよりもずっと軽くて……しかし何のセーブもせず抱きついてくる力は、予想よりもずっと強い。
「セナ……好きだよ」
 緊張に震える腿の裏を翔の手が撫でると、まだ息は荒いものの、きつく閉じられていたセナの目が開かれるのが感じられた。
 一呼吸ごとにセナの手からすうっと力が抜け、細い指が血のにじんでいる翔の肩を、いたわるように触っている。
「すみません……大丈夫……ですか?」
「え? 何が?」
「爪を……」
 申し訳なさそうな声への返答は、やさしい笑顔と甘いキスだった。髪を梳き、頭を撫でられる指の心地よさに、受け入れる緊張で冷えたセナの体が内側から熱くなってゆく。
「あ……」
 腹の辺りを撫でていた翔の手が、セナの高ぶりを感じてわずかに驚いた顔をする。
「体小さくなってても、こんな風になるんだ……」
 翔の言葉を聞き、ああ……と言ってセナが微笑んだ。
「出ないけど、気持ちよければ勃ちますよ」
「確かめたの?」
「それくらいは常識の範囲内です」
 むっとしたようにセナが翔を睨む。しかし包み込む手の温かさに酔う表情では、あまり効果がない。
「翔……」
 呼びかけてセナがのぞきこむと翔の顔が急に赤くなり、セナを支えていた手にぐっと力が入った。
「ごめん、セナ」
「え?」
「その顔色っぽすぎ……ガマンできない」
 翔の手がセナの膝裏に伸び、強引に細い体を揺すり上げる。ガマンできないと言いつつそれでも一言断ってから動く恋人の律儀さにセナの顔がゆるむ。
 溶ける気持ちがつながりあう場所からの快感を導く。宙に浮いたような体勢の不安定さが怖いのか、翔の腕にしがみつくセナの力がさらに強くなる。
 しがみつかれる強さは心を許した証のように感じられて、翔は体に感じる快感とは別に、満ちてくる嬉しさを感じていた。
「セナ……感じてる?」
「ええ……翔……。止めないで……もっと私を満たしてください……」
 譫言のようにセナの唇から言葉が漏れる。お互いの名前を呼び交わし、すがりつくように唇を触れ合わせると、それだけで溶け合ってしまいそうな心地になる。
「翔……翔……もう……イってしまいそうです」
 荒い息に混じる甘い懇願に、翔の動きがさらに激しくなる。
「セナ……一緒に……!」
「翔!」
 体の中に熱いほとばしりを感じ、セナの意識も飛んだ。
 荒い息がおさまり、快感の余韻にしびれる体がもとに戻るまでの間、密着している肌から恋人の鼓動を感じ……セナも翔も言葉にしがたい幸福感に満たされていた。


 朝を待つ浅い眠りの中で翔は、青空と群れ咲くひまわりの夢を見た。
 空気が光をはじくようにきらきらとしているのは、足元の葉に降りた露を蹴り上げて歩くせいだろうか。さわやかな風がひまわりの葉と花を揺らし、翔の顔に落ちる影もまた揺れる。
 ひまわりの林を抜けた先に、草原が広がっていた。そして青空と溶け合う緑の中心には、ここ数日ですっかり違和感のなくなってしまった幼い姿のセナがいる。
「セナ?」
 翔が空を見る小さな後ろ姿に呼びかけると、セナは振り向いた。ただ、振り向いた顔はいつものどこか寂しげな表情ではなかったので、その明るい笑顔に翔は少し驚いてまばたきをした。
 翔の驚いた顔を見てセナはくすりと笑い、その笑顔のまま近づいてきた。そして両手を広げて翔を正面から一度だけぎゅっと抱きしめると、翔の肩に手をかけてジャンプし、彼の首筋に飛びついてきた。
 抱きつかれた勢いで翔は背中から草むらに倒れ込んだ。視界が一瞬で草原の緑からセナの髪と青空の色に入れ替わる。
 頬と体にセナの温もりや髪の感触、確かにそこにいるのだという重みを感じていると、ふっとそれらが遠ざかった。
 翔の胸の上にセナが手を着いて体を起こし、彼の顔を覗き込んでいる。
『ありがとう』
 小さな声が囁き、降りてきた唇が翔の額に触れた。青空と太陽を背にした笑顔は、強く咲き誇るひまわりのようでなんだかまぶしい。
 触れられた場所から伝わるいとおしさに、翔の胸は満ち足りて暖かくなる。
 何かを言いたくて去っていく姿に手を伸ばし……そこで翔の夢は途切れた。
「翔、朝ですよ。起きられますか?」
 宙に伸ばしていた翔の手を握る手の大きさと、囁かれた声の低さにびくっとして、翔は跳ね起きた。
「セナ……」
「おはようございます、翔」
 眠る前の姿が夢であったかのように、見慣れた姿の恋人が翔の隣で微笑んでいた。長い指がやさしく翔の額に触れ、髪をかき上げたそこにセナの唇が降りてくる。
「もとに戻ったんだ……」
「ええ」
 昨夜のことを思い出したのかほっと息を吐く翔に、心配させてすみませんでしたと言って、セナはいつもの笑顔を見せる。
 やさしい笑顔とおだやかな声には、影深く風涼しい晩夏の光がよく似合う。子ども姿の時にはひどくませて見えた表情や口調も、この姿だと違和感はない。
「戻らない時の言い訳は考えていましたが、きみのご親戚の方にあの姿を見られなくてよかったですよ。今日の午後、お戻りになるのでしたよね?」
「あ……うん。セナは……奈穂さんには会わねーで帰るんだったよな」
「はい。今はまだ、お会いしない方がいいように思いますので」
 顔を見ていたら泣いてしまいそうな気がして、翔はセナの胸に頭を寄せた。何も言わず頭を撫でていてくれるセナの手に、ほんの少しだけ心が安らぐ。
「今度はどこ行くの?」
「とりあえずは今の下宿先に戻ります。アルバイトですが、仕事の契約がありますからね。それが終わったらまた別の国へ……。南の方に行ってみようかと思っています」
「そっか……」
「翔は寮の休みが終わったらすぐ戻るのでしたよね」
「……剣道の練習あるし。全国は終わったけど、今度は新人戦とか別の大会びっしり入ってるからさ。……明日孤児院寄って挨拶して、一晩泊めてもらったら学園帰ってオレの休みも終わり」
 お互いの予定を一つずつ確認していると、本当に夏が終わってしまったのだなという気持ちが、じわじわと押し寄せてくる。せっかく会えた恋人との別れが近づいているという、その実感が。
「次、いつ会えるかな」
 翔の問いにセナは答えず、詫びるようにただ翔を抱きしめる腕の力を強くした。
「……セナ?」
「手紙を……書きますから。メールも……電話も」
「うん。楽しみにしてる……でも、声聞くと会いたくなっちゃうから、電話はたまにでいいよ」
 明確な答えを渡せなかったことを怒っているのだろうか……とセナが思う沈黙の後、ふうっと大きく吐かれた翔の息がセナの胸に触れた。
「翔?」
 無言を案じたセナの声を受けて翔の頭がすっと持ち上がった。上げられた顔には、いつもの笑顔がある。
「食事作って来る。出る支度できたら教えてくれよ、駅まで送って行くから」
「……わかりました」
 勢いよく立ち上がり着替えて台所に行く翔は、セナの方を振り向かなかった。
 いつもよりゆっくりと作られた朝食は、彼等が過ごしたここ数日間と同じ内容で、待たされた時間の割に簡素なものだ。
 しかしいつもより丁寧に作られたことを感じさせるそれは、作っている間の翔の心境を思わせて、客観的にはよいであろうはずの味を重く感じさせる。
 朝食を持ってくる間も、青い小鳥を交えて食べる間も、支度を整えて家を出、駅に向かう道の間も翔はほとんど無言だった。
 何かを言おうとして顔を上げては、うまく言葉を紡ぎ出せずに飲み込んで止め、ため息のような吐息と共にその気持ちを吐き出す。
 その繰り返す行動を見続けるセナは、いっそ何か恨み言の一つも言ってくれればいいのにと思ってしまわずにはいられない。
 それでも言葉を促すには、翔のまとう空気は恨み言などとは遠いもので、何を言えばいいのかを迷わせる。その積み重ねが互いの沈黙を呼んでいるのだった。
 人気のない駅のホームで電車を待つ二人の目に、向かいの土手に咲くコスモスの花が映る。残暑の光の中、秋風を受けて揺れる花を見つめたまま、翔はぽつりとつぶやくように言った。
「……ケガとかしちゃダメだからな」
「翔」
 呼びかけられて翔はセナを見上げた。明るくはないが、悲しみを抑えているようでもなく、ただ静かな笑顔がそこにはあった。
「病気とか、テロとか……旅してるとなんか色々あるだろうけど……気をつけて」
「……翔」
「ちゃんと待ってられるからさ。オレのことは心配しないで」
「…………はい」
 責められるより許される方が痛い、というのは本当なのだなとセナは翔の言葉を聞きながら思った。
 そうして胸の奥に鈍い痛みを感じてはじめて、翔を置いていくはずの自分の方こそが彼と別れたくないと、そう考えていることに気付く。
 そんな気持ちを読んだのか、翔がふとセナに抱きついてきた。
「ありがとな、セナ。オレ……セナと過ごせて楽しかった」
 包み込むぬくもりにセナの胸中に走る痛みがやわらぐ。寂しさや辛さではなく、幸せであったことを数えればよいのだと教える翔の言葉に、救われる思いがした。
「翔、私も……きみと過ごせて、とても楽しかったです」
 ありがとうとささやく言葉が耳に降り、羽根のようなキスが翔の額に触れた。
 見上げる翔の瞳に、秋空を背にした恋人の笑顔が見える。
 切なさが残るまなざしのせいか、セナの表情は夢の中で見たものほど明るくない。
 しかし、彼のためだけにある笑顔は、翔が知るどの姿よりも綺麗で……翔はその姿をとても愛しいと思った。


「……翔、ひょっとしてまだ怒ってるの?」
 呼びかける弟の声に翔は、はっとして顔を上げた。さっきまで向かい合わせで話をしていた櫂が、いつの間にか触れるほどすぐ近くで彼を見下ろしている。
「まったく……急に黙っちゃってさ。帰り際会った時は、後遺症見られなかったからそのまま行ってもらったけど、水落先生のことやっぱり心配だった?」
 櫂の言葉を耳の中に通しながら翔は窓を見た。暗い夜を背にした半開きのガラス窓には、見慣れた自分の部屋が映っている。
 机の上には櫂が持ってきた土産の菓子と、二人分のマグカップと、ガラス瓶に活けられたコスモスが並んでいて、この部屋のもう一人の住人が戻ってきていない空白をその存在感で補っていた。
 ああそうか、ここは学園の寮の部屋で、あの別れからもう三日も経っているのだ……と翔は大きく息を吐いて、自分の胸中に残る『過去』の空気と『現在』の空気を入れ換えた。
 セナとは駅で話した後何事もなく別れ、翔もまた予定通り学園に戻った。
 来週には夏休みも終わり、またいつもと同じ日常が訪れる。一週間にも満たない夏のことなど記憶の底に埋めてしまいそうな、セナのいない長い長い日常がはじまるのだ。
「翔……?」
 おそるおそる櫂が呼びかけてくる。先ほど東京から戻って、顔を合わせ開口一番に謝ってきたというのに、まだ気が咎めているのだろうか。
 翔はくすりと笑った。
「なにしょげてんだよ櫂。らしくねーな。オレもセナも気にしてないって言ったのに」
「だって翔があんまりおとなしすぎるから……」
 櫂は翔の笑顔を確認すると、元の位置に座った。身内ならではのくずした仕草に翔は、二人で過ごしていた時のセナのくつろいだ姿を思い出す。

 笑った顔……はしゃぐ姿、嫉妬する顔……『子どもの姿』だからこそ隠さないでいてくれた数々のセナの姿が、胸の内で夏の光と共にきらめいている。

「最初はびっくりしたけど案外おもしろかったぜ。櫂とレオンの他に弟がもう一人できたみてーでさ、櫂と昔遊べなかった分まで遊んだ気がする」
「『弟』が『もう一人』……ね」
 小さく肩をすくめて息を吐くと、不愉快そうに区切って櫂はそうつぶやいた。
「どうしたんだ? 櫂」
「なんでもない。とりあえず、あんな事はもうしないから安心して」
「そうか? ……オレはもう一回くらいなら、歓迎してもいいけど」
 誰も知らない在りし日の姿を見られたという嬉しさ、いつも守られるばかりだった人を守れる己を誇らしく思っていた時間が、なんだか惜しい気がする。
 翔がそう言うと、櫂は罪悪感とは違う不機嫌そうな顔をして「それでも、もうしないから」と繰り返して話を切った。
 半分開けた窓からひやりとした風が入り、二人の髪と机上の花を揺らす。
「風がだいぶ冷たくなってきたね」
「もう、夏も終わりなんだな」
 翔は椅子から立ち上がり、窓辺に行った。うるさいくらいに聞こえてくる虫の声は、セナと並んで聞いたものと同じ種類のはずなのに、まるで違ったように感じる。
 窓の外には、コスモスの藪が月光を受けて揺れている。
 遠い空の下にいる恋人を想い、去りゆく夏に別れを告げ翔はそっと窓を閉じた。

                                    −end




 砂沢皓様のサイトに掲載されているものの、アダルトバージョンを頂いてきました。
 何度も書いてください書いてくださいとおねだりし続けた結果にこのような素敵なものを頂きました。
 有難う御座います。



小説 B-side   頂き物 B-side