ヴァレンタインの惨事



 ある日、HOLD内にこんな噂が飛び交った。
 あの、桐生水守嬢が誰かに本命チョコを渡すらしい。
 それは一日にしてHOLD、HOLY内全員が知ることとなる。


「ねぇ、桐生さんの噂聞いたぁ?」
 シェリスが話し掛ける相手はもちろん劉鳳。朝からやけに機嫌が悪い。
 この調子だとその噂を聞いているのだろうと思うが、一応聞かずには居られないというのも乙女心だろう。
「何のことだ?」
「ほら、桐生さんが誰かに本命チョコを上げるって…ぇ……?」
 ばしゅっと気の抜けた音がしたかと思うと、劉鳳が手に持っていた紙コップを握りつぶしたのだ。手に持っていたブラックコーヒーは辺りに飛び散っている。
(うわぁ、機嫌わる〜い)
 乙女心としては複雑なものだ。
 相手が自分ならば嬉しいが、そうでないならば、この現状は喜ぶべきことではない…。
「だけど桐生さんが本命チョコを上げる相手って言ったら…」
 一人しか思い浮かばないのだが、やはりその話は今の劉鳳にとって禁句らしい。劉鳳がこぼしたコーヒーを拭きながら一気にただでさえ寒いのに、周りの気温が急降下する。
 それより劉鳳の頭の中は大変なことになっていた。
 劉鳳の頭の中では急速に、男性所員の顔が駆け巡っていって疑わしそうな人物をピックアップしていく。
 水守の近くに居る、他の科学技術班の男性所員、そしてHOLYの人間……。
(一体誰だ!?技術班の人間とはそんな親しそうには見えないが、それならばやはりクーガーとか、いや、もしかしてあの男じゃないだろうなッ!?)
 あの男というのはもちろんNP3228と呼ばれたカズマという名の男で、以前水守を人質にしたり、水守の乗っている車を襲ったり、以前など一時期HOLYに居た頃には水守とデートまでしたのだっ!!(水守から離れろよっ)
 そしてもちろん、自分が貰うという発想に行き着かないところが劉鳳という人間である。
 水守があの男に特別な感情を抱いているとしっかりきっちり誤解している劉鳳は、もうすでに頭の中ではその男、カズマの罵詈雑言でいっぱいであった。
(誰であろうが、俺の認めた相手ではない限り許さないっ!!)
 というのが劉鳳の結論である。
 もちろんカズマなんて男は問題外で処断されるであろう事は目に見えている。
 そして、劉鳳に認められる人間が居るのかどうかも謎である。


 一方水守嬢。
 たまたま、チョコレートの作り方なんて本を買っているのを人に見られ、あっという間に噂が流れてしまったことに気づきもしない。
 周りはその噂でもちきりなのに、本人は全く意に介さない。
 鈍いのか、それともまた別の何かなのか、それは解からないが。
 そして、彼女の頭の中には、本命以外にも義理チョコの算段でいっぱいであった。
(科学技術班の男性達と…あと、やっぱりクーガーさんにも渡した方がいいかしら?いろいろお世話になっているし…それから、あの人にも……出来たら渡せればいいのだけれど)
 もちろん、あの人というのはカズマのことである。
 確かに、いろいろ問題のある人間ではあるが、悪い人ではないことも解かっているし、何よりあの後どうしているのかも気になる。
 けれどもちろん、カズマが本命ではないのも確かなことで。
 それ以前に本命の男性が貰ってくれるかどうかが一番の問題…ということだった。
 結構な量になるだろうが、それはそれ、これはこれ。お世話になった人には義理チョコを渡さなければいけないという、何故かそういう認識が彼女には出来ていたのである。
 もちろん、本命チョコは別格であるが。
 そして、意外な人間も居るかも知れないが、彼女は料理は得意中の得意であった。
 幼い頃から花嫁修業なんて古臭いものを遣らされていた成果であろう。料理に裁縫、お花にお茶まで全て完璧にこなすことができるのも、お嬢様という身分のなせる業なのだろう。
 昔は劉鳳などにお菓子を作って渡していたものだ。
 いつもおいしいと言って、笑顔で食べていてくれた少年時代の劉鳳を思い出す。
 あの頃とは大部変わってしまったけれど、それでも好きな気持ちは変わらない。水守は精一杯の気持ちを込めて、本命チョコに取り組んでいた。(義理チョコはすでに完成済み)
 さて、其処で問題になるのが、カズマという男の今後の身の振り方である(笑)


「うっ、何か寒気がすんなぁ…」
「何だ、風邪かぁ、カズマ。俺にうつすなよぉ?」
「いや、なんつーか、風邪っていうのとは違ってさ…悪寒?な〜んか嫌な予感がするんだよなぁ」
 う〜ん、と腕組みをして考えながらカズマが言う。
 君島の運転する助手席に乗りながら、カズマは腕を摩った。
「そういや、もうすぐバレンタインだよなぁ♪」
「は?バレンタイン?お前には関係ねーだろ、そんなの」
「何をおっしゃるかなぁ、毎年かなみちゃんがくれるじゃないの、俺の分まで」
「ああ、今年はお前にはやらねーように言っといたからな」
「な、なんでぇっ!?」
「てめぇにやる分なんてこれっぽっちもないんだよ、これっぽっちもなっ!!」
「お前だけ独り占めかよ!?」
「悪いか?」
「悪い!!」
「何処がだっ!!」
「君は誰のおかげで仕事もらえると思ってんのかなぁ!?」
「それとこれとは関係ねぇっ!!」

 結構暢気である。
 断罪されるまであと数日…幸せは長くは続かない。


 ところで、バレンタイン当日。
 同じ部署の男性所員には渡し終えて、あとはクーガーとカズマと劉鳳を残すのみの桐生水守。
(まずはクーガーさんに渡して…それから……上手くいけばカズマさんに渡すことが出来るのだけれど…)
 う〜ん、と悩みながらも、もし渡せなければ自分で食べてしまえばいい、と水守は考える。
「みのりさ〜ん」
「水守です!!」
「いやぁ、すみません」
 相変わらずなやり取りをして、それでもクーガーは持っている包みを目ざとく見つける。
「みのりさん、その手に持っているものは?」
「水守です。バレンタインのチョコレートですよ。はい、クーガーさんにも」
 はい、と渡すといかにも嬉しそうに受け取る。
「これは本命ですか?」
「違います」
「即答ですか…」
 ちょっとがっくりしているクーガーをみて水守はくすくす笑う。
「解かっているでしょう?」
「まぁ。それは…」
 それでもはぁ〜っと重い溜息を吐く。
「それではみのりさん、お礼に私とドライブに行きませんか?」
「いえ、結構です!!」
「また即答…」
 がっくりと項垂れるクーガーに、流石に水守も可哀想になるが、それでもあの車に乗るのは勘弁してもらいたい。
「それでは、また…」
 さっと踝を返し、水守は逃げるようにその場を後にする。


 はぁ〜っと重い溜息を吐いている人間が此処にも一人。
 今日一日ずぅっと水守のことを見張っている人間が。
 仕事は今日一日オフだったおかげで出来ることではあるのだが。
 それでも水守をこそこそ追っている間に何人もの女性(限定)に声を掛けられ、チョコレートを渡される。なんとも断りづらく、断っている暇があるのなら、受け取ってそのまま水守を追いかけたほうが早いと判断する。(つまり告白も何も聞いちゃいない)
 それを予期していてか、シェリスは昨夜のうちに渡してきたのだが…。
 手に一杯チョコレートを持ちながらも、何処かに置こうとせず、ひたすらに水守を追いかけ続ける劉鳳、その姿は滑稽ですらある。
 そしてクーガーにチョコレートを渡しているところを見て、何度出て行きたくなったことか。
「本命じゃない」というのが解かった時点でこの溜息である。
 心臓がいくつあっても足りない、とこの日ほど思った事はない。しかし、それにしても気になるのが、本命にしても義理にしても、皆手作りなのだろうか?そして、自分はチョコレートを義理すら貰えないのではないかという不安である。
 そう、こちらに来てから彼女には散々冷たくしていたし、逆に貰えなくて当然かも知れない。しかし、さっきの話の様子ではクーガーは水守の本命を知っているようであったが……。
 クーガーに聞くのもいいが、それにしても自分からは聞き辛い…。
 水守が歩き出したのを見て、慌てて追いかけようとするが、その前にはクーガーがいる。どうしたものかと思案しているうちに、クーガーがこちらに向かってくる。
 そしてついにはご対面。
「おお、劉鳳。こんな所で何やってんだぁ?」
「クーガーこそ…」
 出来るだけ平静を装いながら、劉鳳は逆に聞き返す。
 話したがりのクーガーは聞けば必ず答えてくるのだから。早く追いかけたい衝動に駆られながらも、劉鳳は必死でそれを我慢する。
「ああ、みのりさんにチョコ貰ってたんだよ、義理だけどな。あぁ、みのりさ〜ん…」
「水守だ」
「まぁいい、そんなことは」
 よくない、と思いながらもあえて口にはしない。
「それにしても、すごい量のチョコだなぁ、お前…」
 感心するのと、半分呆れるのとで、クーガーは溜息を吐きながら言った。
「いつもはご丁寧に断ってなかったか?」
「お前には関係ない」
「ははぁ〜、みのりさんに貰えないと思って自棄を起こしたな?」
「違うっ!!」
 確かにそれは不安になったがこれはその所為ではない。こんなところでクーガーと話し込んでいる暇はないのだが、それでも理由を言うにはプライドが許さない。(今更なプライドだが…)
「まぁ、そんなことはいい。それより、ずっとこのチョコレートを抱えたまま歩くつもりか?いざみのりさんに渡して貰うにもそれじゃぁ受け取れないぞ?ああ、それ以前にその所為で愛想をつかされるかもな」
「なっ!?」
(そ、そういうものなのか!?)
 本命だったらそういうものだろう。しかし、劉鳳のにぶさは天下一品、そんなことは知りもしない。
 そもそも、ずぅっと幼い頃から水守に片想いをしていたので、彼女から貰う以外のチョコなど全く興味などなかったのだが。
「そういう乙女心ぐらい解からないと、本当に愛想つかされるぞ、劉鳳」
「よ、余計なお世話だっ!!」
 かぁっと頭に血が上り、そのままクーガーの横をすり抜けて歩いていく。
「ああ、みのりさんなら多分街に出てったぞぉ、劉鳳」
 早足で歩いていく劉鳳を見てクーガーが一言。
 結局、バレバレだった。
 劉鳳は真っ赤になりながらも後ろを振り返りもせずにそのまま早足で歩いていった。


 水守は繁華街を歩いていた。ひょっとしたら会えるかも知れないという希望を胸に。
 これではまるで恋する乙女…だがそんなものではもちろん無い。
 どちらかというと義理を果たす性質だからだろう。
 そして偶然か必然か、そういう時に探している相手とあったりする。
「あれ?あんた…」
「カズマさん?」
「こんな所で会うなんて奇遇だなぁ」
 カズマは笑いながら水守に話し掛ける。水守も笑顔で答える。
「ええ。今日はどうして市街に?」
「ああ、ちょぉっと野暮用でさ」
「お仕事ですか?」
「ま。そんなとこ」
 カズマは苦笑しながらも水守とほのぼの話す。カズマにとって水守は嫌いじゃない類の人間だった。どちらかというと好きだろう。
 二度も助けてもらっているし、前にHOLYに居た時も世話になったし。
「あ、そうそう、今日はバレンタインでしょう?はい、これどうぞ」
「え?俺に!?」
 カズマは心底驚いたような顔をする。
 会えただけでも結構嬉しいのに、こういうオプションがついてくるとは意外だった。
 水守は微笑んで頷く。
「へぇ、ひょっとして手作り?」
「ええ、まぁ…」
 水守は照れくさそうに頬を赤らめる。
 カズマはそれを見て可愛いな、と思う。が、しかし。


 今にも爆発しそうな怒りを必死に抑えている男がココに一人。
(何故、何故あいつが此処に居るんだ!?)
 がやがやとした繁華街では人も見つかりにくいものだが、劉鳳は、部屋で適当に着替え、チョコを置いて、早々に街に出て、水守を探し当てた…のだが、其処で目撃したのは水守がカズマにチョコレートを渡す瞬間。
 しかも、なにやら話して頬まで赤らめている。
(まさかっ、まさか本当にあの男が本命なのか!?水守!!!)
 劉鳳の心の叫びは誰にも聞こえない。
(大体、そうだ、あの男が此処に居ること自体がおかしいんだ、そうだ、それならばっ!!)
 二人を邪魔する理由がある、とばかりに劉鳳は二人の前に出て行く。
「おい、貴様っ!何故こんなところに居る!?」
「げっ」
「劉鳳っ!?」
 出て行けば、二人とも驚いた顔をする。しかも、カズマは明らかに嫌そうな顔だ。
「何故こんなところに居ると聞いて居るんだっ!!」
「アンタこそなんで繁華街なんかに居るんだよ?」
 聞き返されればぐっとつまるが、それでもこの男よりはマシ、とばかりに言い返す。
「お前が市街に居ることよりは全然不思議はないだろう!?」
「そりゃぁそうだ。ま、市街に入る方法はいくらでもあるってことでぇ♪」
「貴様っ!!」
「ちょ、劉鳳っ!!」
 今にもアルターを出してしまいそうな劉鳳の剣幕に、水守は慌てて止めに入る。
「水守、この男を庇うのかっ!?」
「え?」
「へんっ、アンタどうせ自分がチョコ貰ってないからって妬いてんだろ?情けねぇ」
 ふんっとカズマが笑い、水守を抱き寄せれば、劉鳳はさらに怒る。
「その汚い手を放せ、毒虫がっ!!」
「図星なんだろうが、なぁ?」
 端から見れば一人の女を取り合う男二人…という図形であろうことは明白で、そして好奇心旺盛な繁華街で歩く人達は面白そうに三人のやり取りを見ているのだ。
 すでに男二人は外聞も何も捨ててしまっている。そこで慌てるのは女の方。
「ちょ、二人とも止めてっ、こんな所で喧嘩するつもりなの!?」
「俺は良いぜ、このままやってもさぁ」
「俺も構わない」
 本当に今にもアルター戦の始まりそうな雰囲気に水守はどうするべきか悩む。
 こんな所で始められては周りの人々に迷惑…それ以上に死人が出る可能性もある。しかし、今の状態では言って聞くようにも思えない。
 どうしたら止められるだろう。
「んじゃ、おっぱじめようか」
「ちょ、ちょっと待ってっ!!」
「水守、邪魔をするなっ!!」
「劉鳳、貴方にもちゃんとチョコ、あるわよ?」
「え?」
 目論見通り、劉鳳の動きがピタッと止まる。
「ちゃんと用意しているもの。今は持ってないけど…。ね?だから早く戻りましょう?」
「…………ああ」
 劉鳳は不満そうだがしぶしぶ頷いた。
 その二人の様子を見て、溜息を吐くカズマ。
「やってらんねぇな。俺はもう帰るぜ。んじゃな、チョコ、サンキュー♪」
 そう言ってカズマが去っていくのを劉鳳と水守は黙って見送った。
「それじゃぁ、劉鳳。私達も…」
「ああ」
 水守が微笑んで言うので、劉鳳はさっきまで自分がしようとしていたことを冷静に考えて反省する。
(アレぐらいのことで市街を荒らす訳にもいかないからな)
 うん、と一人で納得して、水守と二人で帰る。


「はい、劉鳳」
「ああ」
 そう言って劉鳳は受け取る。
 そして、なんだか自分が催促したような気がしてどうも決まりがつかない。
「どうしたの?劉鳳」
「いや、なんでもない」
 そう言うと水守はくすくす笑う。
「何だ?」
 訝しげに尋ねる劉鳳に、水守は微笑む。
「今日はちゃんと名前で呼んでくれたわね、それに敬語じゃないし」
「あ…ああ」
 そう言えば、それどころじゃなくて忘れていた気がする。
 結局水守にかかれば自分など形無しなのだと、実感することになっただけだ。
「それじゃぁ、今日はもう遅いから俺はこの辺で…」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 そう言って二人は別れていった。
 劉鳳の手には大事そうに水守から貰ったチョコレートがあった。


「すっげぇ…」
 カズマは感心したような声を上げる。
「どうしたの?カズくん」
「いや、今日さちょっとチョコレートもらったんだけど…」
「え?チョコ!?カズくんが?」
「そんなに驚かなくてもいいだろ?ほら、見ろよこれ…」
 そのチョコレートにはでっかく「義理」という文字。
 結構手の込んでいるショコラケーキなのだが、これでは普通なら一瞬で相手は落胆するだろう。しかし、誤解されないためには一番いい方法なのだろうが…。
「すごいね…」
「ああ、かなみも食うか?」
「うん」

 今日のカズマは、なんとか断罪されずに済んだようです(笑)


 部屋に戻ると早速チョコレートの包みを開ける劉鳳。
 ショコラケーキに、豪奢なデコレート。
 部屋にあるチョコレートの山を無視してまずそれを開けてしまう辺りなんともいえないが、とりあえずそれを見て、はぁっと息を吐く。
 水守の作るお菓子は何でもおいしい。
 その所為で甘党になったと言っても過言ではないのだから。
 そして、はた、と思いつく。
(結局、水守の本命は誰だったんだ!?)
 カズマが本命なのかどうかは解からなかった。
 そして結局どうなのだろうと、眠れないほど真剣に悩んでしまう劉鳳だった。
 そしてやっぱり自分が本命という結論に思い至らないあたり、謙虚なのか鈍いのか。
 結局報われないバレンタインだったらしい。



Fin





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