いつまでも


ささこ様


「櫂…?」
 鍵を抜くのももどかしく、マンションのドアを開ける。だが明かりが点いているだけで、部屋の空気はひんやりとしているし、人の気配は全く感じられない。
 私はため息を一つつき、ジャケットを脱いだ。消し忘れていただろうかと朝の記憶をたどりながら、台所を抜けて居間に入るとテーブルの上に見覚えの無いメモが置いてある。ハンガーを取るのを後回しにして先ず座り込み、メモ用紙を覗き込んだ。
「時間が空いたから寄ったんだけど、突然だったからね、留守でした。残念。」
 完全にからかい口調の置手紙に一瞬緊張した体中の力が抜けていくようだった。私はがっくりと肩を落とす。
「はぁ……」
 仕事が終わり、まっすぐマンションに帰ってこの時間だというのは、私のスケジュールを管理している櫂ならば分かるはずだし、調べれば分かる事なのに調べないままにして無駄足を踏む彼ではない。
 どう考えてもこれは全て櫂が仕組んだことであり、忙しい仕事の合間に、私が居ないのが分かっていてわざわざここに立ち寄り、わざと私をからかうような手紙を残し、そして当然、明かりをつけたままにした事も、わざとなのだ。
「そんなに私をからかって楽しいのですか…?」
 誰も居ない部屋でぽつんとつぶやく。
 明かりが点いているのに気がついて、期待してしまったから、余計に独りきりの部屋がむなしく思える。
「ふぅ…」
 この情けないまでにがっかりしている今の私の姿が面白いというならば、私をからかう事にはそれだけの価値があるのだろう。とにかく櫂の思惑通りに一喜一憂してしまったのだから。
 私はもう一度ため息をつくと、私の全てを支配する美しい天使の、悪魔のような魅惑的な笑顔を思い浮かべた。私をからかって遊ぶにしても、せめて顔を見せて欲しい。でないと私に何の利もないではないか…。
 それでも、自分なんかより遥かに大きな責任を担って仕事に追われている恋人から今日は一日何の連絡もなく、メール一つ送れないほど仕事が忙しいのだなと、そう思うしか寂しさを慰める術がなかったのだから。
 それが忙しい仕事の合間に、悪ふざけのためとはいえ時間を作ってここまできてくれたのだ。少なくとも私の事を考えてくれたのだけは確かなのだと、そう自分に言い聞かせて…。
 それだけでも今の私は嬉しいと感じてしまうのだ。
 本当に骨抜きにされているな…とあきれるが、そんな自分も嫌いではないのだから、櫂の仕打ちに文句は言えない。いや、文句などあるはずがない。ただ櫂がいない今を寂しく感じてしまうだけだ。
「仕方が無い。今日はこの手紙で我慢しますか」
 どん底まで低く落ちた反動を使い私はゆっくりと起き上がった。ジャケットをハンガーにかけ、ネクタイをはずすとようやく一日が終わった気がしてホッとする。
 昼間の仕事は旅行記の出版に関する打ち合わせや、宣伝のための営業やパーティと、私には苦手なジャンルばかり。と言ってもなかなか信じて貰えないが、私が身に付けている処世術は必要に迫られた結果であって、元来の私は決して社交的ではないのだ。
 立場は違うが、やはり大人たちに囲まれて、彼らの言うなりでいるしか生きていく術を持たなかった子供時代を過ごした櫂がいて、理解してくれているから私もグレずにこなしているが、一日中作り笑顔を張り付かせていると、肩が凝ってしょうがない。
 昔はそれが普通だったのに……。年を取ったかなと薄く笑い、私は絵の道具をテーブルに並べ始めた。


 突然、玄関のドアがガチャリと開いた。
「鍵をかけてないのか。無用心だなあ」
 その声に全身が反応する。
「櫂!?」
「ただいまー」
 そう言いながら櫂は、玄関に出迎えに出ようとした私を待たずにあがって来た。
「どうしたのさ。変な顔をして」
 疑問符で話しかけながら、しかしクスクスと笑う櫂は全てを承知の上のいたずらっ子のような表情をしている。
「櫂、君は…」
 言葉を捜す私に持ってきたコンビニの袋を押し付ける。
「その調子じゃ、手紙を読んでないね、最後まで」
「最後まで…?」
「ほら、よく読んで」
「…読みましたよ」
 櫂の言う意味が分からないまま、覚えてしまった手紙の文面を諳んじる。
「時間が空いたから寄ったんだけど、突然だったからね、留守でした。残念」
 どう読んでもそれ以上でもそれ以下でもないと思うのだが…。
「…ですから私はてっきり君はもう帰ってしまったのだと…」
「表には僕の名前が無いだろ?」
 櫂がにんまりと笑う。
「…表…?」
「そう。ほら、ね」
 そう言いながら得意げにメモ用紙をひっくり返す。
「コンビニ行ってご飯を買ってくるよ。一緒に食べよう。櫂」
「………」
「手紙には差出人の名前がなければ、誰の手紙か分からないだろ?」
 してやったりの表情だ。私はすっかり嵌められた事が悔しくて、言い逃れを試みる。
「そんなことを言っても、私の留守にここに入れるのは合鍵を持っている櫂だけですよ?」
「勝手にはいってきた泥棒かもしれない。今だって鍵が開いてたじゃないか」
「それは……てっきり君が来ているのだと思って……」
「思って? だから鍵は開けたまま?」
 少し意地悪な口調に私は頬が染まるのを感じた。確かにどう言い繕っても、鍵を閉めなかった理由にはならない。
「違います。君ではなかったので、がっかりして……うっかり忘れていました」
 ためらいながら、それでも正直に答えると、櫂は私の頬に手を添えた。
「セナ。もっと自分の魅力を自覚して欲しいな」
「魅力…ですか……」
「そうだよ。そうでなくても出版界なんて、変人の巣窟にいるんだからね。いつセナの魅力に参った奴らが危険なストーカーになるかわからないんだから」
「櫂…」
 あまりにも自分勝手な美しい笑顔に頭が痛くなる。
「私は好きで変人の巣窟に居るわけではありませんよ。君がいいと言ってくれさえすればすぐにでも出版界から引退します。…それに例えあの方たちが変人でも、わざわざこんなところにまで来やしません。そんな暇などない時間に追われた人たちばかりですから…」
 そう窘めてはみたが口では櫂に敵わない。理論や正論がの話ではなく、とにかく勝ったためしがないのだ。出来る限りは反論を試みるけれど、無駄な足掻きだと自分でも半分以上は諦めている。
「相変わらずだね。そんなセナも好きだけど。あんまり心配かけないで欲しいな」
「………」
 やはり今日もさらりとかわされて、次の言葉がでてこない。だが櫂の瞳にじっと見つめられて、身体が熱くなったのだけはハッキリわかる。
「いいね。鍵くらいちゃんとかけて」
「……わかりました」
「うん」
 渋々了承する私にご褒美のキスが降りてきて、私の気持ちはますます高まった。
「櫂…」
 と甘い声で誘ってみる。けれど櫂の気持ちはまだまだ私の保護者モードで、漂いかけた甘いムードも一瞬だけ。テーブルに広げかけた絵の道具を見るなり再び小言が飛んでくる。
「セナ。また夕飯を抜かす気だったのか? 食事はちゃんと取るように、いつも言ってるだろ?」
「………」
「セナ、聞いてる?」
「……はい、聞こえてますよ」
「じゃあちゃんと返事をしてよ」
「わかりました。…すみません、君がいなくてあんまりがっかりしたものですから、少し気晴らしをしようかと……」
「そう言って朝まで描いてたりするんだろ」
 櫂の口調は疑問の挿む余地なく断定的だ。
 十以上も年下の恋人に何もかもすっかり読まれているのは情けないが、真実なのだから仕方ない。それに…決して嫌ではない。
 むしろ自分の全てを愛しい恋人が理解して、それでも変わらぬ愛を注いでくれる喜びの方がずっと大きいのだ。
「さあ、早く片付けてよ。せっかくコンビニで温めてもらったのに」
「櫂が一人でコンビニへ?」
「なんだよ。僕だってそのくらいするさ。……まだ二回目だけど」
 少し照れた顔が年相応に可愛らしい。が、見とれているとそれに気づいた櫂はますます顔を真っ赤にして、私を追い立てた。
「さあ、お茶をいれてよ。早く!」
「お湯は沸かしてないんです。冷たい飲み物でいいですか? ビールかチューハイか…」
「アルコールは嫌だ。息が臭くなってキスが不味くなるから」
「……ではウーロン茶に」
「うん」
 本当に櫂には敵わない。さらりと言われて、カッと頬が熱くなり、手渡す時に触れる指にさえ感じてしまうのに。このまま自分に注がれる櫂の視線を意識しながら食事だなんて…。
「あの……」
「なに?」
 躊躇いがちに声をかけると、弁当のフタを開けようとセロハンテープと対決していた櫂が顔を上げた。
「隣に…座ってもいいですか?」
「いいけど……」
 訝しげな顔をしていたけれど、私は構わずさっさと櫂の横に席を移動した。
「狭いんじゃない?」
「そこがいいんですよ」
「そう?」
「櫂と触れ合えるのなら、もっと狭い部屋に引越ししたいくらいです」
「…変なの…!」
 怒ったような、半分照れたような声の櫂に、私は構わずに肩を寄せた。
「櫂」
 耳元にささやくと櫂は真っ赤になって私を咎めた。
「早く食べろよ! じゃないと帰るから!!」
「すみません」
 慌てて弁当を広げる。
「何を笑ってるの?」
「いいえ。何でも。ただしあわせだなと思いまして」
「ばか」
 私は狭いと文句を言う櫂も決して自分から離れようとしない事が嬉しくて。いつまでも櫂に寄り添っていた。



  おわり




 ささこ様のサイトで1000HITを踏んで書いていただきました、櫂×瀬那小説です。
 櫂に振り回されている瀬那が良いですね。
 瀬那のめろめろぶりが素晴らしいです。



小説 B-side   頂き物 B-side