Border Line


近江恵様


それは授業のない空き時間の出来事だった。
用事の為、廊下を歩いていた生物教師、水落瀬那が学園長室の前を通りかかった時の事、 僅かに開いていたドアの向こうからおおよそ、学校には似つかわしくない艶かしい声が漏れ聞こえる
(・・・・)
何も言うことはない。その声の主はほぼ間違いなく、公然の秘密である、学園長と同僚教師の情事。
好奇心旺盛な学生ならともかく、雇い主と先輩教師のそれを見る気も糾弾する気もない。
このまま知らないフリで通りすぎるのが大人である。
勿論、充分過ぎるほど大人である瀬那は黙って通り過ぎる、はずだった。
小さく開かれたドアの前を通った瞬間、刺すような視線に反射的に部屋の中に視線をやってしまった。
(目が・・・あった?)
学園長を組み敷く同僚教師と視線があった気がする。あの刺すような視線は間違いない。
確信はしたけれど、瀬那は立ち止まることはしなかった。

そんな出来事も忘れかけた頃、放課後、瀬那は一人の教師に呼び止められた。
「水落先生」
「はい?あ、榊原先生」
先日の事が一瞬頭を過ぎるが表情には決して出すことはない。目があったのは気のせいだろう。
その証拠にあの後もこの榊原の瀬那に対する態度に変化の微塵も見られない。
「実は先日の会議の件ですが・・・」
「はあ・・・」
教える教科は違うが、同じ学年の受け持つ担任同士、割とやり取りが多い。例の公然の秘密の件を 除けばこの榊原という男は出来る人物であることは間違いない。
「ああ、すみません、資料を数学準備室に忘れてきたようです。 あとで取りに行ってそれから またお願いします。」
すまなそうに榊原が言う。数学準備室は生物室に行く途中にある。
「どうせ、これから生物準備室に行くので途中に寄りますよ。」
瀬那がそう言うと、榊原は少し安心したように「お願いします」と言い、二人はそのまま職員室をあとにした。

「ああ、ありました。すみません。ご足労かけて」
「いえ」
受け取った資料に目を通しながら出された椅子に腰をかける。長居をするつもりはないが、思わず座って しまっていた。
そのまま資料に目を通していると瀬那は視線を感じた。この部屋には自分と榊原しかいない。視線の主は 榊原以外ありえない。
「榊原先生?」
顔を上げ同僚教師の名を呼んだが答えはない。どこか目の前の自分ではなく、その奥の何かを見極めるような そんな視線だった。
「榊原先生・・・」
もう一度呼ぶと今度は瀬那に焦点を定めた。
「水落先生、この学園に赴任される前はどこにいらっしゃったのですか?」
「えっ、?普通に会社勤めしてましたが・・・」
唐突な質問の意図が掴めず瀬那は警戒する。
「貴方には以前、どこかでお会いしていた気がする」
榊原の言葉に瀬那も懸命に記憶を手繰る。おおよそ、自慢できる過去を持ち合わせていない自分と目の前の 同僚教師との接点が見出せない。
確かにもう顔さえ思い出せない行きずりの者もいたが、それらは全て自分よりも遥かに大人であったはず。
正確な年齢は分からないが自分よりも少し年上に見える榊原がその一人であるはずがない。
「さ・・・あ、私は記憶にないのですが」
瀬那が努めて平静に言うと、榊原はさらに瀬那に顔を近づける。反射的に後ろに下がろうとしたが、椅子の背もたれが それを阻む。息さえかかりそうなな程に顔を寄せると榊原はその瞳に瀬那を映す。
「本当にどこかでお会いしたことはありませんでしたか?」
ゆっくりとした口調はどこか確信めいていたが、瀬那には本当に覚えがない。
あわされた視線を外すことが出来ず榊原を見つめ続ける自分に瀬那は違和感を感じる。
ただ見られているだけなのに身体の自由が奪われている気がするのだ。

「綺麗な瞳だ。ここに涙が浮かべばもっと美しくなるでしょうね」
そう言いながら榊原が人差し指を瀬那の唇に当てて微笑む。そこには同僚教師ではない別の何かがいる気がした。
その『何か』に瀬那は覚えがある気がするが頭が上手く働かない。
「かわいい、ですね。」
低い声は瀬那の身体を総毛ださせるが、それが嫌悪なのかそうでないのかも、もう瀬那にはわからなくなっていた。
ただ、目の前には得体の知れない『何か』と甘美な誘惑。抵抗しなければいけないと分かっていても瀬那は
視線を外すことができない。

「失礼しまーす」
甘美な攻防に終止符を打ったのは突然の訪問者であった。
「榊原先生、今日の授業のプリント全員分揃ったんで持って来ました〜」
「ああ、羽村君、君が当番だったんですね。ありがとうございます。」
一瞬前の事がまるで嘘のようにプリントの束を受け取る榊原の姿に瀬那は力を抜く。
「じゃあ、部活があるんで俺はこれで失礼します。」
「はい。ご苦労様でした。」
「では、私も失礼します。」
自分の職務を終え、部屋を出て行こうとする翔のあとに瀬那も続く。多少の不自然さはあるものの、この際それは 考えないことにする。
「それではよろしくお願いします。」
榊原も瀬那を引きとめることはしなかった。



「セナ、大丈夫か?」
今、セナの目の前には情念に捕らわれ人としての形を完全に失った榊原・・・ランがいた。そしてその中にはあの時 組み敷かれていた学園長もいる。もし、あと1秒でも翔が遅ければ自分もあの中にいただろう。
「はい、もう少しです。がんばりましょう」
共に戦う5人とはまた少し違った意味で自分はこの情念は封じなければいけないと強く思う。
隙があっても正面からでも入り込むその恐ろしいものは決して人の世にあってはならない。
そう決意するとセナはもう一度目の前の敵に照準を合わせたのだった。


END




 近江恵様のサイトで500HITを踏んだ記念に書いて頂きました、ラン×瀬那です。
 思わずどきどきするやり取りに緊張しました。翔が入ってきたときに思わず舌打ちしたのは私だけではないはず。
 来なければどうなったのか、と思わず妄想してしまいます。



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