美春様
「今日は水落先生がお休みの為、1限目の授業は自習になります。課題のプリントがあるので各自やっておくように」 そう淡々と告げる担任の言葉に俺は少々…いや、かなり落胆してしまった。 勉強自体は苦手とはいえ、やっぱり恋人の受け持つ授業ばかりは毎回楽しみにしているのに。 …正確には、教壇に立つ瀬那の姿を最前列の席で拝めるのが楽しみなんだけど。 (そういえば朝から瀬那の顔を見ていなかったな) 気になってプリントを配り始めた先生にそっと尋ねてみる。 「あの、瀬…水落先生、どうかしたんですか?」 「ああ、先刻本人から少し熱があるようだから休ませてほしいと連絡があったんですよ」 「そうですか…」 大丈夫なんだろうか。 旅を終えてすぐ、瀬那は遊星学園に戻ってきた。 もちろん俺は喜んで彼を迎えてあげた。 瀬那が傍にいてくれることが何よりの望みだったから。 そうして少しでも俺の近くにいるためにもう一度教師になることを望んでくれたけど…。 その後の処理や、アパートの入居手続きやらでばたばたしてるうちに新学期が始まってしまった。 落ち着く暇もなかったせいで身体を壊したのかもしれない。 何せ、瀬那は自分の事に関しては全くと言っていいほど無頓着な性格だ。 ちゃんと食事を摂っていればいいけれど…。 (…心配だ) 帰りに様子を見に行こうと決め、俺は手元の問題用紙に意識を集中し始めた。 学校が引けるとすぐに近くのスーパーで果物をいくつか購入し、瀬那の住むアパートへと向かう。 インターフォンを押すと、しばらくしてドアが開きパジャマ姿の瀬那が現れた。 うわ…髪がボサボサだ。 「翔、どうしたんですか」 いつもは凛としていてハリのある声が随分と擦れてしまっている。 目は虚ろでどこかおぼつかなく、熱のためか両頬はほんのりと赤く染まっていた。 俺はといえば、恋人の出迎えの第一声に盛大な溜息を吐いてしまう。 「あのねぇ…瀬那、『どうした』はないだろ。大事な恋人が病気なんだからお見舞いに来たに決まってるじゃないか」 抱えあげたスーパーの袋に瀬那は目をやり、そしてふっと柔らかく微笑んだ。 「それは…ありがとうございます。さ、どうぞ入ってください」 そう言って俺の肩に優しく手を添え、部屋に招き入れてくれた。 元々の性格の為だろうか、必要最小限の物しか置いていない瀬那の部屋はひどく殺風景だ。 良く言えば整理された綺麗な部屋なんだけど。 台所だってきっちりと掃除されていてピカピカだし…。 …まてよ? 「瀬那、ちゃんと朝から食べてるの?」 何も入っていない流し台の三角コーナーを覗き込みながらそう聞くと、少々ばつの悪そうな言葉が返ってくる。 「いえ…、食欲がなくて今日は何も…」 ああ、やっぱり…。 「ばか!一口でも何か食べないと身体が持たないだろ?!大体、それじゃあ薬も飲めないじゃないか」 「そんな大したものじゃありませんよ。今日一日休んでいれば治るでしょうし」 「そういう油断が危ないんだぜ。熱は?測ったの?」 「まだ微熱がありますけど…。それより翔、今お茶を淹れますからその辺に据わって下さい」 頼りない足取りで食器棚の方へ向かう瀬那の腕を、俺は慌てて引き寄せた。 「ああもう、そんなことしなくていいって!今日は瀬那の看病のために来てるんだから」 「ですが…」 「いいから!ほら、病人は大人しく寝る寝る!」 半ば強引に、部屋の中央に敷いてあった布団へと瀬那の身体を引き摺る。 苦笑しながらも抵抗する気は無いらしく、そのまま大人しく横になってくれた。 そんな瀬那に俺はようやく笑顔を向け、布団の上からポンポンと軽く身体を叩いてあげた。 「少し待ってて。果物とかなら食べられるだろ?食欲なくても少しくらい口にしないと」 がさがさと買ってきた袋の中身から大き目の林檎を取り出し、台所へと向かった。 綺麗に皮を剥き、一口大の大きさに切った林檎を器に盛ると瀬那の枕元まで持っていってやる。 「随分と切り方が上手なんですね」 器の中をしげしげと見詰めながら擦れた声で感心する瀬那に思わず苦笑してしまう。 「まあね。そういえば瀬那、少しは料理上達したんだろ?」 「あ…その…」 「…ごめん、余計な質問だった」 ほんの少し表情を引き攣らせたその様子を見る限り、どうやら料理の腕は相変わらずらしい。 ただの教師と生徒の関係だった頃には知らなかった意外と不器用な部分。 (―まあ、そんな処が可愛いと思えるんだけどな) 俺がそんな事を考えているなんて知らないだろう瀬那は、緩慢な動きで上半身を起こした。 ふと俺はあることに思いついた。 そして盛ってある林檎の一つにフォークを突き刺すとそのまま瀬那の口元に持っていってやる。 「翔…」 当然のことながら困惑気味の表情を浮かべる瀬那ににっこりと笑いかけた。 「ほら、口開けて瀬那」 「う…」 「開けなって。食べさせてやるからさ」 「……」 「瀬ー那ー」 瀬那はしばらく逡巡した様子を見せていたが、やがて諦めたのかおずおずと口を開いた。 その時、僅かに見えた赤い舌に思わずどきりとさせられてしまう。 俺は一瞬頭の中を過ぎった邪な思考を慌てて振り払った。 …まったく瀬那の具合が悪い時に何を考えているんだろう。 そんな俺の様子に瀬那が気づいていないのが幸いだった。 口内に含みゆっくりと咀嚼する瀬那の顔が次第に緩んでいく。 「おいしい?」 「はい、とても」 そう言って笑顔を見せる瀬那に俺はもう一欠片取って差し出す。 すると今度は抵抗することもなくそれを口に含んだ。 そうして俺は最後の一個までまるで親鳥の様にその口に運んでやっていた。 すっかり器を空にした後、薬を飲んだ瀬那を布団に横にさせ、俺は後片付けをするために立ち上がろうとする。 と、不意にくい、と袖口を引っ張られた。 見下ろすと、布団から半分だけ顔を出した瀬那が何か言いたげな目で俺を見つめている。 「何?まだ何か欲しいものある?」 顔を覗きこんで問いかけると、瀬那は僅かに首を横に振ってみせた。 「瀬那?」 「あの、片付けはいいですから…それより…」 言いにくいことなのか語尾が消え入りそうになっている。 俺は笑って瀬那に囁きかけた。 「遠慮しないで何でも言えよ、こんな時くらいさ」 そうすると瀬那は照れたような、そして普段よりも何処か幼い表情で俺を見上げ言葉を発した。 「…ここに、いて下さい」 「え…」 「傍に…いてくれるだけで良いんです。私が、眠ってしまうまで…」 「…瀬那」 ああ、もう…。 「翔…」 そんな顔で…。 「駄目…ですか?」 そんな可愛いセリフ言われたら…。 「…駄目なわけないだろ」 俺は今にも暴発しそうな感情を必死で抑えながら枕元へと座り直した。 そして俺の袖を掴んだその手をそっと握り、額にかかった瀬那の長い前髪を優しく掻き揚げてやる。 「ここに居るからさ、安心してゆっくり眠っていいよ、瀬那」 俺の言葉に瀬那は嬉しそうに微笑むと静かに瞼を閉じ、やがて穏やかな寝息をたて始めた―。 「う…んん」 心地よいまどろみから徐々に私の意識が覚醒していく。 ゆっくりと瞼を開き、ふと自分の手に感じる温かな感触に視線を泳がせる。 もうあれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。 部屋の中はすっかり暗くなっていて、目の前の存在を確認出来るまでしばらくの時間を要した。 「あ…翔…?」 まさかずっと傍にいてくれるとは思わなかった。 私の顔のすぐ近くに翔の寝顔がある。 まだ幼さが抜けきらない、それでも以前と比べて随分と精悍さが増した恋人の寝顔。 そして…。 「…ずっと、手を握っていてくれたんですね」 私の手よりも少し小柄な翔の手の温もりが心に染み渡る。 私より一回り小さな身体…、けれどその心は私の全てを包み込んでくれるほど大きく、そして温かい。 昔、彼の母親に誓った「双子を守る」という気持ち。 それは今でも変わらない。 でも―。 (きっと、守られているのは私の方でしょうね) もはや自分の方が翔から離れられない。 少しばかり情けない気はするが、そんな私の弱い心さえ翔は受け止めてくれる。 私はこの上ない幸福感に包まれたまま、そっと重ねられた恋人の手を握り返した。 「ん…」 僅かに身じろぎをし、翔の目がゆっくりと開いていく。 少しの間ぼんやりとした顔をしていたが、やがて私と目が合うと優しく微笑んでくれた。 「ああ瀬那、起きてたんだね。ごめん、うっかり眠りこんじゃった」 「いいえ、私の方こそずっと付き合わせてしまって…」 「いいんだよ、俺が瀬那の傍にいたかったんだから。それより気分はどう?」 私の額に手を当てながら翔がそう訪ねてくる。 「随分良くなったみたいです。今夜一晩休めば明日には学校に出られますから」 「そっか。熱も引いたみたいだね」 「翔。それより時間は大丈夫なんですか…?」 そう言いながら壁に掛けてある時計に目を向ける。 薄暗い部屋の中でよくよく目を凝らすと、もうとっくに寮の門限時間は過ぎてしまっていた。 「…すみません。私から立花先生に事情を…」 申し訳無くてそう告げると、彼は大丈夫だよと笑いかけた。 「瀬那が寝ている間に立花先生に遅くなるって連絡を入れておいたんだ。訳を話したら快く許可をくれてさ、理解のある先生で良かったよ」 その言葉に思わず吹き出してしまう。 翔との関係を感知されることに少々戸惑ってしまうが、とりあえず今は感謝しておこう。 もっとも、それよりも恐ろしいのは櫂にこのことを知られてしまうことだが…。 私の為に翔に門限を破らせてしまったと聞こうものなら、一体何を言われてしまうことだろう。 明日学校で彼と顔を合わせることが少しばかり恐ろしくなりながら、反面苦笑してしまう。 (すみません、櫂。君の大事なお兄さんをもう少しの間だけ私に独占させてくれませんか…?) つい心中でそんなことを願いながら、私は翔へと目を向ける。 翔は息がかかってしまうくらい顔を近づけ、そっと囁きかけた。 「まだ寝てていいよ、俺ももう少ししたら帰るから。明日学校でゆっくりと話そう」 その言葉に私は笑って頷き、そしてもう一度目を閉じる。 繋がれていた手はそのままに、額にふわりと翔の唇が触れるのを感じながら、私の意識はまた穏やかな眠りへと導かれていった。 Fin 病気ネタは王道ですが、だからこそ素敵です。 何だかんだと幸せそうな二人が良いですね。 |