春陽



 高校に入って一年間、その間に知らぬ者は居ないほどの有名人になり、誰もが羨望の目を向けるようになった。いつも周りに誰かしらを侍らせているその彼に、同学年の者は勿論、喩え先輩や教師と雖も彼に逆らうものは居なかった。
 それが当然の事であるように彼もそれに違和感を持つことなく振舞ったし、誰もがそれに対して不満を述べる事もなく、畏敬の念を彼に表した。彼は、この学校の帝王なのだ。それがこの学校の常識であるのだ。
 二年になってもそれは変わらず、彼の異才は既に下級生にも知れ渡っていた。二年生でありながら一人部屋を割り当てられている彼は何時もの如く周りに人を侍らせて何時もの如く高笑いをしていた。

「わはははっ!!僕に隠し事は出来ないぞ!お前、昨日僕の部屋の前まで来ていただろう?ん?」
 傍らに居た同級生に云えばびくっと肩を震わせる。
「な、な、なな、何で知って…」
「だから云っただろう。僕に隠し事は出来ないのだ!!」
 そう云ってもう一度、この学校の帝王、榎木津は高らかに笑う。榎木津には真実隠し事は出来ないのだと、榎木津自身も思っていた。何故なら榎木津には見えるからだ。その人間が隠したいと思っている事ほど、より鮮明に見えてくるのだ。
 それが何なのか榎木津自身にもよく解からないが、そういうものだと榎木津は思っている。それを人に話したことなどないし、話せばどういう反応をされるのか自分でも解かっていたから敢えて話そうとも思わない。それでも、噂は立つもので、何やら憶測が舞っている様だが、そんなものは気にしない。
「榎木津先輩、あれ、何が見えますか?」
 ふと、耳障りのいい声が聞こえて榎木津は指された指先の方を思わず見てしまう。其処に居たのはこの学校の教師である。榎木津は目を細めて、その教師を見る。
「ん?何だあれは。試験の問題用紙か?」
 其処でそう云えば声を掛けてきたのは誰だという疑問を初めて持った。自分の取り巻きは何人も居るし、いちいちその全てを覚えては居ないが自分を「先輩」と呼ぶのならば今年入って来た下級生だろう。下級生の取り巻きも居ないでもなかったが、それでもこんなに耳障りのいい声の持ち主を榎木津は知らない。声を掛けてきた人物をやっと見ればやけに不機嫌な顔をしている。何だかその顔を見て、今ひょっとして自分はこの一年に良い様に使われたのではないかという疑問が沸き起こる。
「お前、ひょっとして僕を使ったのか?」
 その不機嫌な顔の下級生に榎木津は不満気に云う。とても痩せていて顔色は青白い。まるで肺病患者のような形相にも榎木津は眉を顰めた。
「使ったなんてとんでもない。僕はただ純粋に先輩に質問をして、それを先輩が答えてくださっただけじゃないですか」
 片方の眉を器用に上げてその下級生は云う。見た目ほど不機嫌なのではないらしい。声は何処か笑いを含んでいるが、その下級生の云う事はもっともである。
「だけど、やっぱり次の時間は抜き打ちで試験があるみたいだな。あの先生は抜き打ち試験の点数に煩いから、次の授業はサボれそうにないなぁ」
「何だ、お前、サボるかどうか決めるためにそんな事を僕に聞いたのか?いい度胸をしているじゃないか」
「そうですか?それじゃぁ、先輩、どうも有難う御座います」
 その下級生はぺこりと会釈して離れようとする。何だか不遜な態度だが、自分を取り巻き、畏敬の念を込めて見てくる同級生や、自分の顔を見て頬を染めて口篭る下級生等よりはよほど面白いように思う。何だか気に入った。
「おい、君の名前は?」
 下級生の腕を掴むと、思った以上に細い。驚きに目を瞠りながら、榎木津は彼を見る。
「中禅寺ですよ。一年の中禅寺秋彦です。榎木津先輩、手を離してくださいませんか」
 榎木津はその声を聞かず、中禅寺の頭上を目を細めて見る。あまり良く見える訳ではないが、何だか厭な感じだ。どうして…。
「何だって君は」
「榎木津先輩」
 云いかけたのを中禅寺は遮る。
「其処から先は云わないでくれませんか。先輩も僕も変な誤解をされてしまう」
 榎木津が云いたい事が解かっている様な口振りに、榎木津は瞠目する。そう、先刻の抜き打ち試験の事にしたってそうなのだ。
「君は、僕に何が見えるか知っているのか?」
「予測しているだけですよ。解かっている訳じゃない。ただ、貴方の表情を見れば何が見えたかなんて見当がつきますから」
「そうか…」
 何だか、がっかりしている。この下級生になら解かるかも知れないと思ったのか。何を期待していたのだろう。今まで、気にした事など無かった筈だ。
 中禅寺は、榎木津のその様子を見て溜息を吐く。
「榎木津先輩、一つだけ忠告しておきます。貴方を畏れ敬うだけならまだ良いが、僕と同級生の人間の中には不届きな噂を流す者も居ます。軽はずみな言動は気をつけた方がいい、先輩も不本意でしょう」
「噂って、どんな?」
「それは自分の耳で知って然るべきですよ。それに、貴方の取り巻きならそんな事を承知している人は幾人も居るでしょう。それにしても、いい加減手を離してくれませんか」
 そう云われてみれば、ずっと中禅寺の手を握りっ放しだった。榎木津は手を離して中禅寺をもう一度じっくりと見る。
 ああ、やっぱり厭なモノだ。彼は、こんな厭なモノに捉われているのだろうか。
「中禅寺、それは、見ている僕も気分が良くない。あまり考えるな」
 榎木津がそう云うと、中禅寺は薄く笑みを返した。笑顔と云うよりは微笑であろう。それにまた瞠目する。やっぱりコイツは面白い、と思う。
「それじゃぁ、僕はこれで失礼します。抜き打ち試験の事を予め教えておいてあげないと、どうも慌てて試験に本領を発揮出来ない人間が居るもので」
 そう云って中禅寺は一礼すると榎木津の傍から離れていった。
 榎木津は、暫く中禅寺の腕を握っていた自分の手を見る。どうしようもなく細い手と、あの微笑が頭に残って仕方がない。
「あれが中禅寺か。一年の主席だろ?」
「あの榎木津と対等に会話するなんて、とんでもない奴だなぁ。何言ってるかなんて半分以上解からなかったけれど」
「やっぱりあの噂は本当なんだなぁ」
 ふと聞こえた取り巻き達の声に榎木津は気を取り直すと、話をしていた奴の肩をぐいっと掴む。
「何だ、あいつの事を知っているのか!?」
 榎木津に肩を掴まれ、呆然としている取り巻きの肩を、榎木津は揺らす。
「おい、答えろ!!」
「あ、ああ…何ていうか、有名なんだよ。主席で入学して来たと思ったら、授業の四分の一はサボってて、それでいて勉強の足りない教師を吊るし上げたりしてるって…」
 榎木津の勢いにたじろぎながら、取り巻きが云う。
「噂なら他にもいろいろあるだろ。しかもいつも仏頂面で可愛げがないのさ」
 他の生徒も中禅寺の噂を始める。榎木津はそれを聞いているうちに何だかどうでもよくなって、他の生徒を無視して歩き始めた。途中ではっと振り返り、榎木津は尋ねる。
「おい、中禅寺の組は何だ?」
「あ、えーと、確か三組だった筈だけれど…」
「ああ、ありがとう」
 そう云って榎木津は鮮やかな笑みを返しそのまま去っていった。



 中禅寺は溜息を吐いた。早まった行動をしたかも知れないと半ば己を呪いながら、中禅寺は目の前に座るかの有名な麗人を見る。
 あの会話で彼はいたく中禅寺をお気に召したようで、行き成り一年の教室にやって来て中禅寺の前の席に座ったのだ。ああ、本来その席に座るべき級友がどうしたらいいか解からず戸惑っている。しかし、中禅寺にもどうする事も出来ない。榎木津がどういうつもりでこの教室に来たのかがよく解からない。
 榎木津はこの学校の帝王である。逆らう者など誰もいない。本人にもその自覚があるようで、だからこそこうやって構えていられるのだろう。否、帝王でなくても彼の行動は変わらないのか、彼だから帝王足り得るのか。どんな風に考えたところで現状は変わらない。
「榎木津先輩、一体何の用です?」
 中禅寺から声を掛けてきた事で榎木津は笑みを漏らす。そう、その声が聞きたかった。その、低くよく通った耳障りのいい声。それが第一印象。そして、自分が教室に入って来た時に読んでいた本を持つ細い、痩せ過ぎた腕、そして体躯。
「中禅寺、僕のものにならないか?」
 教室がざわめき、中禅寺も一瞬面食らったような顔をする。それから見る見る顔を顰め、溜息を吐いた。
「榎木津先輩、そういう誤解を生む云い方は止めてくれませんか?」
「何を言うのだ中禅寺。これ以上今の僕の心情を表した言葉があるものか。僕の友人になれ、中禅寺。君と対等で居られるのは僕だけだし、僕と対等で居られるのも君だけだ」
「――榎木津先輩、貴方は自分というものをよく弁えている」
 中禅寺の言葉に榎木津は更に笑みを深くする。
「そうだよ中禅寺、僕はよく弁えている。対等で居られなければ友人ではないし、対等でない以上友人と呼ぶ事は出来ないのだよ」
「その誘いを拒絶する気は有りませんよ。友人になるのだって構わない。ただ、貴方のものになる事は出来ません」
「ふむ、まぁ、今の所はそれでもいいか。ああ、そうだ中禅寺、君は一年の学年主席らしいね?」
「ええ、そうですが?」
 榎木津が含み笑いを漏らしながら問い掛けた事に、中禅寺はいぶかしみながらも頷く。榎木津はなんだか嬉しくて仕方が無い。何がこんなに嬉しいものかと思うが、何より自分の言葉は中禅寺にダイレクトに伝わる。まだるっこしさが無いのが気持ちいい。
「中禅寺、君はこの学校の伝説を知っているかい?」
「伝説?」
「何だ、耳の早そうな君でも知らないのか。『入学試験を主席で合格してその年一年間主席で有り続けた者は伝説を生むという伝説』だ」
 榎木津の云った言葉に中禅寺は呆れたような顔をする。それを見て榎木津はくすくすと笑う。確かに、何ともおかしな伝説だろう。
「それで?先輩は一体どんな伝説を残したんです?」
「ん?それは秘密だよ、中禅寺。当ててごらん」
「突拍子も無い事である事は想像がつきますよ」
「考えてくれ、中禅寺。僕の事がもっともっと気になるように。予測出来ない事を予測するのは楽しい事だと思うだろう?それを考え続ければ僕の事をずっと考え続けるという事だ」
「まったく、趣味が悪いですね」
 中禅寺は溜息を吐く。榎木津は笑う。
 もっと、もっと、自分の事を気にしたらいい。片時も忘れる事のない程に。計算づくでする事に、何ら問題は無い。中禅寺は望んでそれに嵌るだろう。
「中禅寺、君はどんな伝説を残すだろうね」
 榎木津は笑いながら立ち上がる。中禅寺は仏頂面の眉間の皺を深くして云った。
「僕が主席を逃すという事は考えないんですか」
「君の噂を聞く限りは有り得ないね」
 榎木津は教室の出口に向かいながら云う。中禅寺のこれ見よがしに深い溜息が聞こえてきて、今度は声を立てて榎木津は笑った。









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