細雪



『なぜならば僕は……そうですね。僕は涼宮さんが好きなんですよ』
『……正気か』

『魅力的な人だと思いますが』



 あの時そう言った古泉は古泉であって古泉ではない。
 しかしそれもまた、古泉であるのは間違いなく、そして俺はその古泉の言葉に少なからず衝撃を受けた。
 冗談だろう?
 そう考えてしまうほどには。
 何故ショックだったかなんて事は、深く考えたくない。
 ただ、この古泉は俺の知っている古泉ではないのだという、それが一抹の救いともいうべき事だったのかも知れない。だってそうだろう、俺の知っている俺の古泉は、俺をあんな知らない人間を見るような不信感丸出しの目で見たりはしないし、宇宙人やら未来人の存在はむしろ俺よりよく知ってるんじゃないかってぐらいのヤツで、俺の言葉を不審がって投げやりな答えなど遣したりはしない。
 何より、ハルヒを好きだなんて、絶対言わないだろう。
 何でか知らんが、あいつは俺とハルヒをくっ付けたがってるみたいだからな。
 決断を迫られた時、確かに一瞬、それも良いかとも思った。神様みたいな変な力の無いハルヒも、未来人ではない朝比奈さんも、控えめだが可愛らしい笑顔を見せる長門も、超能力者でもなく変な機関に属しても居ない古泉も、それはそれで良いかも知れない、と一瞬は考えた。
 けれど、その瞬間に古泉の言葉が甦った。

『僕は涼宮さんが好きなんですよ』

 それを思い出した途端に、俺は決断していた。
 長門に入部届けを返し、エンターキーを押した。
 その後もすったもんだあって、また三年前の七夕に吹っ飛ばされたり、朝倉に刺し殺されそうになったりしてから気がつくと病院で、そしてあいつの声を聞いた。
「おや」
 その、たった一言に、俺がどれほど安堵したか、こいつは知らないだろうな、と思う。
 実際天使にめぐり合ったかのような気分だった。
「やっとお目覚めですか。ずいぶん深い眠りだったようですね」
 首を動かし、古泉の顔を見て、思わず溜息が漏れそうになった。
 ああ、こいつは俺の古泉だ。
 そう思ったが、それでも尚不安で確認した。
「お前こそ、俺が誰だか知ってんのか?」
「変なことを言いますね。もちろんです」
 じゃあ、やっぱりこいつは俺の知っている古泉だ。
 戻ってきたのか。
 これ程までに古泉の浮かべる笑顔をみて安堵した事は無いのかも知れない。朝比奈さんの微笑みも天使の如く思えるが、今はこの古泉がまるで天使のようにすら思えた。
 やっぱり此処が俺の知っている世界だと思うと、尚更だ。
 その後は古泉に色々状況を確認し、現在おかれている状況だとか、俺がどうなっていたかだとかを聞きつつ、実はベッドの脇で寝ていたハルヒを起こし、その顔と声を聞いてやっぱり戻ってきたんだな、と確信した。
 俺はなんだかんだで、相当この世界が好きで、こいつらが好きみたいだな、と恥ずかしげもなく思ってしまう程には、向こうでの世界はショッキングなものだったのだ。
 そしてその片隅には、矢張りハルヒを好きだと言った古泉の様子がこびりついて離れないで居た。


 年も明け、やり残した宿題をやったような気分で新学期を向かえ、俺は部室でのんびり古泉とボードゲームなんぞをやっていた。
 ハルヒは何やら朝比奈さんと長門を連れて何処かに出かけている。
 しかし、そんな状態でも、ちらちらとあの消失世界の影が見え隠れしているのは、軽くトラウマにでもなっているのかも知れない。特に古泉といると酷い。
 そもそも、何で俺はあんな言葉をあそこまで気にしてるんだと自分を問い詰めたい。いや、問い詰めたら嫌な考えに至りそうだから考えたくは無い。
「なあ、古泉」
「はい?」
「お前、ハルヒのこと好きなのか?」
 つるっと、本当につるっと、何でかそんな事を口走っていた。ついさっき、あの瞬間、俺に別の何かが乗り移っていたとしか思えない。
 古泉はと言えば驚いた様子もなく良い笑顔で答えた。
「勿論好きですよ?」
「な…っ」
 マジか本気か正気か、いや、それ以前にやっぱり実は元の世界に戻ってなかったとかそういうオチでは無いだろうか。
 そんな俺の動揺など微塵も気にした様子など無く、焦る俺を不思議そうにみやった。
「どうしたんですか、先ほどから」
「いや、別に…そうか、お前がハルヒを好きだったとは驚きだな」
「そうですか?それほど意外なことでも無いと思いますけど。涼宮さんは大変魅力的な方ですし」
 お前のその褒め言葉は聞き飽きた。というかなんか聞きたくないぞ。古泉のハルヒに対する好意なんて聞きたくない。
 いや、何で聞きたくないのかと聞かれれば困るんだが。
「充分に好意を抱くに値する方だと思いますよ。勿論貴方や長門さん、朝比奈さんにも同じ事が言えますが」
「…ん?」
 何か、おかしくないか。
「それとも、僕が涼宮さんを嫌っているように見えたのでしょうか?でしたら非常に心外ですね」
「……ちょっと待て、古泉」
 噛み合ってない、何か噛み合って無い気がするぞ。
「はい?」
「お前の言う『好き』っていうのは、この場合、広義において『好意』を示す相手に対する『好き』ってことか?」
「何だかわざと回りくどく遠回りな表現をしているような気がしますが、まあ、そういうことですね」
「恋愛感情では?」
「僕が涼宮さんに?」
「そうだ」
「それはありませんよ」
 またもやさらっと、言ってのけた。
「僕にとって涼宮さんはそういう対象ではありませんよ。…ひょっとして最初からそういう意味の質問でしたか?」
「そういう意味の質問だ」
「だからあんなに慌ててたんですか?心配しなくとも、涼宮さんに関する事なら僕があなたの脅威になる事はありませんよ」
「いや、別にそういう心配をしている訳じゃなくて」
「じゃあ、なんなんですか?」
 それに答えろというのか、俺に。正直俺にもよく解からんのだけどな。そういう意味じゃないのは間違いない。
 あえて言うなら、気になった理由はもうあれしか無いだろう。
「長門が改変した世界のお前が、ハルヒを好きだって言ったからだよ」
「…そうなんですか」
 それにも驚いた様子が無い。
 一体コイツは何を言ったら驚くのか、誰か教えてくれ。
「まあ、それも有り得ないことでは無いでしょうね」
「えらくあっさり納得してるな」
「だって、改変が行われたのは一年前までなのでしょう?つまり、それ以前は矢張り僕は機関に所属し、神人を倒していた訳で、当然涼宮さんのことも知っていた訳です。その全てを忘れていたとしても、矢張り会えば何かしら既視感めいたものは感じてもおかしくは無い、そしてその感覚を恋愛感情に置き換えたとしても何ら不思議ではありませんよ」
「じゃあ、改変世界のお前がハルヒを好きだっていうのは、既視感が齎した勘違いだってのか?」
「別に其処までは言いませんけど。そもそも恋愛感情なんて曖昧なものは、ある意味で全てが勘違いとも言えます。そんな事を言い出したらキリがありませんよ」
 古泉の言っていることはもっともだが、何だか釈然としない。
「じゃあ、今のお前がハルヒを好きだと思うことだって、無いとは言えないじゃねえか」
「全く無いとは言えませんね。でも、限りなく低い可能性ですよ」
 其処まで言える自信はどっから湧いてくるのか、是非聞いてみたいね。
 しかし、そうして古泉の気持ちを確認して、ほっとしている自分にも気づく。何でほっとしてるんだ、俺。そもそも古泉がハルヒを好きだろうが誰を好きだろうが、俺には関係ないはずだ。
 なのになんで、こんなに気にしてるんだろうな。
 いや、解かっているのに、解かりたくないだけなんだ。
 考えたくない。
 だから、考えないようにして、俺はまた古泉とボードゲームを再開した。

 それから二十分だか三十分だかした頃にハルヒが一度顔を出し、
「今日は解散!」
 そう言ってまた走って何処かに行ってしまった。
 やれやれ、まったく慌しいことこの上ないね。
「帰りますか?」
「そうだな」
 古泉の言葉に頷き、部室を出る。
 廊下に出れば思わずぶるっと身震いしたく成る程の寒さだ。小さな電気ストーブとはいえ、あるだけかなりマシなんだと改めて実感する。
 何しろ今は冬まっさかりの、一番寒い時期だからな。こりゃ、早く家に帰って温まるのが吉だ。
 窓から外を見れば、空は曇っている。何かこの時期は曇っていようが晴れていようがあまり変わらない気分になる。何となく、全体的に暗くくすんでいる気がするな。
 はあ、と白い息を吐き出し、古泉が鍵を返してくるのを待ってから、何が悲しいのか、男二人での下校となった。
「今日は相当冷えますね」
「ああ、全くだな。俺は日本から冬という季節が無くなってくれないかと真剣に思うぜ」
「このまま地球温暖化が進めば、何れは無くなるかも知れませんね」
「その前に日本が無くなってるぜ、それ」
 南極だか北極だかの氷が解けて日本が海に沈むなんて話があるからな。冬がなくなるぐらいに地球温暖化が進めば、とっくに日本なんて海の底だろう。
「だったら、冬の無い国に行く方が余程手っ取り早いですね」
「日本語圏以外で生活出来る自信がまったく無いがな」
「それは我侭というものですよ」
 それぐらい解かってるさ。言ってみただけだ。
 不意に、思わず目を瞑りたくなるくらいの風が吹き、目を閉じ、足を止める。ただでさえ寒いのに、風が吹いてきたら尚更寒いじゃねえか。
 目を開ければ細かい雪がちらちらと風にのって降り始めてきた。
「…雪か」
「道理で、冷え込むわけですね」
 呟き、古泉が空を見上げる。それにつられて、俺も空を見た。灰色の雲から次々と雪が落ちてきている。積もりそうなそれではなく、細かく、すぐに解けてしまいそうな雪だ。
「細雪、というのでしょうか」
「あー、そうか。何か雪はどれも雪、って気がするけどな」
「少し急ぎましょうか。大雪という訳ではありませんが、このままでは濡れてしまいます」
「そうだな」
 駅までまだ距離があるし、ゆっくりしていると更に降ってくる可能性もある。急いだほうが良いだろう。そうして足早に駅を目指している間も、細雪は降り続けていた。
 そうして歩きながら、隣にいる古泉の様子を伺う。
 不意に、夏のあの、夕立の日の事を思い出した。
 あの日も、ハルヒたちが先に帰り、古泉と二人で下校したんだった。
 あの日と今日では随分違う。季節も、服装も、多分、俺達の関係だって、この半年の間に少しずつ変化してきているんだろう。
 けれどきっと俺は、どれだけ年をとっても、あの夕立の日のことは忘れない気がする。あの、消失世界の事が忘れられないのと同じように。
 多分あの時、俺の中の何かが確かに変わったのだ。
 それが何なのかは、未だ深く考えたくは無いが。
 隣を歩く古泉は、駅への道を急ぐ事に集中しているのか、面白みの無い笑顔を浮かべては居ない。白く吐く息が尾を引くように後ろに流れ、寒さの所為か頬が少し赤くなっている。
 本当に、あの時とは全然違う。
 けれど、俺の中を揺さぶる何かは、同じように思えた。
 寒さに身を竦める古泉を抱き締めたいという衝動。冷え切っているだろう頬を俺の手で暖めてやりたい。そんな、ノーマルを自称する人間としてはどうしようもなく問題があるような事を考えているのが、一番問題だ。
 あの夕立の日から、そういう事は度々あって、まあ、その衝動にも耐性がついてきてはいるのだが。
 古泉限定なのが如何ともしがたいというか、しかし他の男相手にそれを感じても問題がある気がしてならない。
 そんなことを考えながら古泉のスピードに合わせて歩いていたら、駅についた。
 濡れた、というほどではないが、着ているコートは湿って少し重くなっていた。しかし外を見ても傘をさしているような人はあまり見れない。
 天気予報でも雪が降るなんて言ってなかったしな。
「暫くは止みそうにないですね」
「やれやれだな。傘も持ってないってのに」
「全くです。しかし、コンビニなどで買うほど降っている、という訳でもありませんしね」
 中途半端だ。
 なんと言うか、まるで今の俺みたいだね。
 雪を見ながら、そんなことを思う。
 何に中途半端なのか、というのはこの際突っ込まないで欲しい。
 深く考えたくは無いのだ。
 そうして思考を遮断していることこそが中途半端と言えるのかも知れないが。
 古泉にいつもと変わったところは見られない。変わったのはむしろ俺だけなのかも知れないが。

 いつかは、考えなくてはならないのかも知れないが。
 今のこの状態も、俺は気に入ってるんだ。
 だったら、気にしないでいられるうちは、それでも良いだろう。
 まだ、もう暫くは。


Fin





小説 B-side   涼宮ハルヒ B-side