夕立



 期末試験も終わり、もう後は夏休みを待つばかり、という放課後。
 俺は無駄に爽やかな笑みを浮かべる男と二人、帰途についていた。
 確か、こいつが転校してきたのが五月だったから、知り合ってもう二ヶ月になるだろうか。既にこうしてこいつが隣を歩く事に違和感を感じない程度には、何度もこうして共に帰ったということになる。勿論、好き好んで野郎と二人で帰る訳はなく、俺とこいつが二人で並んでいる前には必ずうちの学校でもトップクラスの美少女三人が歩いていたのだが。
 だがしかし、今日はその美少女三人が居ない。夏合宿が決定したことにより、「折角だし、今から三人で水着を買いに行きましょ!」と夏の暑さを二倍にしそうなハルヒが威勢良く宣言し、朝比奈さんと長門を引っ張って行ったからだった。
 そして残された野郎二人は、寂しく帰途についているという訳である。
 まあ、正直言えば女性陣の水着姿は非常に楽しみであるし、其処に期待しているのだから、別にこいつと二人で帰るのも気にならない。何が起こるか解からない合宿の楽しみは、其処ぐらいしか見出せないからな。
 そう考えながら隣を歩く古泉に視線を向ける。
 俺より身長も高く、すらりとした痩身が姿勢良く歩いている姿は、その無駄に整った容姿と相俟って、すれ違った女性は年齢問わず振り返ってしまいそうなものだ。正直、最初の頃はこいつの隣を歩くのが嫌で仕方無かったな。
 何しろ、自分の平凡さを際立たせる事にしかならない。
 それが諦めの境地に変わったのはいつだったか。最早記憶にない。
 誰だってそうだろう。
 自分より背も高く、顔も良く、頭も良ければ運動神経も良いようなヤツの隣を、喜んで歩く人間が何処に居るというのか。全くもって、人間は不平等に出来ていると思うね。
 まあ、既にそんな風な考えも消えてしまうほど何度と無く隣を歩いている訳なのだが。
 正確に言えば、隣と言うのは語弊がある。古泉はいつも俺の半歩後ろを歩くのだ。正直いつの時代の妻女かと聞きたくなるね。こいつは俺の部下でもなければ後輩でもなく、おかしな限定超能力者ではあるが、基本的には普通の高校生で、SOS団的に言えば、ついこの間副団長という、明らかに俺より高い地位に着いた筈で、正しく俺を立てるような立ち位置で歩く必要は全くない筈なのだが。
 突っ込むと馬鹿馬鹿しい答えが帰ってきそうだから止めておこう。
 そうして何となく古泉を見ていたら、俺の視線に気づいたのか、首を傾げて問いかけてきた。
「何か?」
「別に」
 短いやり取りに、古泉は突っ込む気も無いようで「そうですか」と言うに留まった。それから徐に空を見上げた。
「一雨きそうですね」
 古泉につられて空を見上げれば、確かに厚い雲が頭上を覆ってきていた。西の空からは夕日というには未だおこがましい明るい太陽が照っているにも関わらず、頭上は灰色の雲が立ち込めているという状況で考えられるのは一つだけだ。
「駅に着くまで持てば良いんだけどな」
 天気予報じゃ快晴だったからな、傘なんて持って来て無いぞ。
 しかし、往々にして持てば良いなという希望的観測は、いつだって破られる運命にあるのだ。
 俺が先程の言葉を呟いた途端、ぽつ、ぽつ、と雨が降り始め、一分後には正にバケツをひっくり返したような土砂降りとなった。
 駅にはまだ距離があり、まともに歩いていけばずぶ濡れも確実で、俺と古泉は慌てて近くの商店の軒先に避難した。それほど距離は無かった筈だが、既に濡れ鼠となった俺達は、流石に店の中に入る気もせず、軒先で空を見上げる事となった。
「災難ですね」
「お前、傘とか持ってないのかよ」
「残念ながら。今度から折り畳み傘でも鞄に入れておくことにしますよ」
 そう言いながら、濡れた鞄の中から古泉がハンカチを取り出す。
「使いますか?」
「良い。お前のだろ。それにこの季節じゃ、雨に濡れたくらいで風邪なんかひかねえよ。雨が上がればすぐに乾くだろうしな」
 俺の言葉に、古泉はそれ以上ごり押しする事もなく、ハンカチで濡れた顔を拭った。しかし、その程度のものではずぶ濡れになった俺達に余り意味などなさないのも事実で、結局古泉もすぐにハンカチを仕舞うことになった。
 夕立というのは不思議な時間だと思う。
 暗雲は立ち込めているが、少し遠くを見れば晴れているし、其処から日が出ていれば意外に明るい。暗いのか明るいのか解からない時間だ。
「通り雨でしょうから、すぐに止むとは思いますが…」
「ま、止むのを待つしか無いな」
 俺は溜息を吐いて古泉の言葉に答えた。
 どうせ濡れてしまっているとは言え、雨が降っていると解かっていて濡れて駅まで行くのも嫌だ。そもそもこの季節に雨に濡れる事自体は特に嫌では無いが、鞄が濡れるのは正直困るし、服が肌に張り付くのは正直気持ち悪い。
 古泉はどうだろうかと何気なくそちらを見て、瞬間俺の思考は停止した。
 空を見上げながら雨が止むのを待っている古泉は、前述した通り、俺同様の濡れ鼠であり、制服はすっかり濡れて肌にくっついている。元々半袖の夏服では生地が薄く、その張り付いた服越しに白い肌が透けて見えるのが、何とも言えず俺の視線を引いた。
 待て、俺は何を考えてるんだ?
 もしこれが朝比奈さんとかが相手ならまだ解かる。しかし相手は古泉だ。俺より背は高くて無駄に顔の良い、いつも笑みを浮かべている怪しい超能力者だ。
 なのに俺は、その濡れた服から透けて見える古泉の肌の色から視線を反らす事が出来なくなっていた。それどころか、どくり、と心臓が脈打つ。
 髪が濡れて額に張り付いているのが邪魔なのか、古泉が少し億劫そうに髪をかき上げて露になった白い額や、濡れた髪が項に張り付いている様とか、そこから雨の雫が古泉の白い肌を伝っていく様子、長い睫が濡れて、遠くから差す光を反射してきらきらと光っている所、濡れた唇が薄っすらと開かれている様が、妙に色香を漂わせて俺の視神経を刺激した。
 ごくり、と唾を飲み込む。
 白い項に齧り付きたい、髪から伝う雫を舐めとってしまいたい、濡れた唇を貪りたい、濡れた髪に顔を埋めて、その香りを嗅いでみたい。
 そんな衝動が俺の背筋を駆け上がる。
 本当に待て。
 待ってくれ。
 俺は兎に角視線を惹きつけるそれから悉く視線を逸らし、冷静になろうと頭を回転させる。
 こいつは古泉だ。
 いつも笑顔を張り付かせて、矢鱈と解説好きで、灰色空間限定の超能力者で、ボードゲームが好きなくせに滅茶苦茶弱い古泉一樹だ。
 確かに顔は良いが、それにしたって古泉一樹の性別は間違いなく男だ。
 なのに何故だ。
 何故俺は古泉に、よりにもよって古泉に、欲情してしまっているんだ。
 認めたくない、断じて認めたくは無い。
 俺はノーマルな性癖を持っている筈で、今まで一度たりとて男を好きだと思った事は無いし、むしろ朝比奈さんのような可愛い女性が好みで、それがハルヒや長門でもむしろ構わない、少なくとも、古泉相手だなんてむしろ、一番有り得ない。
 脈打つ心臓を宥めながら、俺は兎に角自分に言い聞かせるようにしながら、それでも時折視線が古泉の方に引き寄せられるのがどうしようもなく、ああもう、俺は一体どうしちまったんだ。
 そんな俺の挙動不審な様子に気づいたのか、古泉が問いかけてくる。
「どうかしたんですか?」
「何でもねえ」
 そう無愛想に答えると、「そうですか?」と矢張り訝しげな顔で返される。
 当然だ、俺でもそんな言葉は納得しない。
 しかし古泉はそれ以上問いかける真似はしなかった。むしろ今はそれが有り難い。
 くそ、兎に角もう今は、早く雨が止んでくれる事を祈るしかない。
 雨が止んで服が乾けば、この妄想染みた妙な衝動も収まるに違いない。
 そして俺はそれから二十分ほど、悶々とした時間を過ごす羽目になったのだった。

 雨は三十分ほどで完全に止み、明るい日差しが差し込んでくる。
 一瞬太陽の眩しさに目を細めて商店の軒下から出ると、深呼吸する。矢張り、本当の晴れの時間というのは、夕立が降っている間に比べて格段に明るい。
 兎に角、訳の解からない衝動に支配された三十分は、実質一時間のようにも二時間のようにも思えたのだが、開放されてほっとする。
 真夏の暑い日差しが容赦なく照りつけ、肌を焼くのを感じて、この調子なら服もすぐに乾くだろうと思い古泉を振り返れば、肌に服が張り付いているのが気になったのか、いつもきっちり締めているネクタイを緩め、ボタンを一つ外して服と素肌の間に隙間を作っていた。
 その様子を見ると、矢張り古泉も一介の高校生なのだな、と実感する。しかし、隙間を作った襟の間から見える白い肌が、また俺の視界を惹きつけたのを感じて無理矢理視線を外し、太陽の差す西側とは逆方向へと視線を転じた。
 そして俺は目を見開いた。
「…虹だ」
 呟いた俺の声につられたのか、古泉も俺の見ている方角へと視線を向けた。
 雨が通り過ぎた空には、大きな虹がかかっていた。
 夕立の後に虹はつきものだ。ただ、いつ見てもあの七色の橋は目を惹きつける。綺麗だと思う。思わず見蕩れてしまう程には。
 空に掛かる大きな橋を見て、俺と古泉は其処から暫く動けなくなっていた。男子高校生二人が揃って虹に見蕩れているなどと、はっきり言って異様な光景に違いないのだが、それでも視線を逸らす事が出来なかった。
「…綺麗ですね」
 ぽつり、と小さく古泉が呟く。
 古泉の方を見れば、虹に視線を固定したまま、まだ見蕩れているようだった。そして俺は、西日を背に受けながら空を見上げている古泉を綺麗だ、と思ったのだった。
 虹を見るのとは違う感覚で。
 強い西日にさらされた古泉が、空を一心に見上げる古泉が、そのまま掻き消えてしまっても可笑しく無いほどに眩しく見えた。
 ああ、本当に俺はどうかしている。
 こんなのは気の迷いだ。
 俺はノーマルで、いくら顔が良くたって男になんて興味無い。
 なのに何故か、俺はそう言い聞かせながら、それでも古泉から視線を逸らす事が出来なかった。
 そして俺達は、虹が消えて見えなくなるまでの間、その場から動かずに古泉は虹に見蕩れ、俺は古泉に見蕩れているという珍妙な構図をずっと維持していたのだった。
 幸いだったのはその姿を見るものが他に居なかった事に違いない。
 こんな姿、学校の誰かに見られていたなら、なんと言われるか解からない。
 そして、今の俺はそれに対して何か言い訳できる言葉が思いつかない。何故なら、俺は間違いなく古泉に見蕩れていたからだ。
 何故だ。
 正直アイデンティティの崩壊は御免被りたい。
 だがしかし、その事実はまた、崩しようの無いものでもあったのだった。
 そして俺はこっそり、古泉の水着姿も楽しみにしても良いかな、などと思うのだった。


Fin





小説 B-side   涼宮ハルヒ B-side