優しさと温もりと



 とある金曜日の昼休みの事だった。
 ハルヒが行き成り俺の襟を掴んで話しかけて来た。前にも似たような事があったな。
 いや、しょっちゅうか。
「ちょっと、キョン」
「何だよ」
 俺の昼のまったりした時間を奪わないでくれ、頼むから。
「そんな事はどうでも良いのよ。それより、古泉くん今日どうしてるかアンタ知らないわよね?」
「古泉?学校来てないのか?」
「そうなのよ、今日ちょっと九組に行ったら古泉くん来てないって言われて」
 またくだらん相談でもしに行ったんじゃなかろうな。
「風邪かなんかで休んでるんじゃないのか」
 機関の用事という可能性もなくは無いが、それはハルヒに言う訳にはいかないからな。
「そうだとしても、学校にも何の連絡も来てないって言うのよ?携帯に電話してもずっと呼び出し音が鳴りっぱなしになるだけだし」
「それは、妙だな…」
 古泉に限って、機関での用があっても、さり気無くハルヒに心配させず怪しまれないような気遣いは万全にするだろうし、まかり間違ってその辺にぬかりがあったとしても、ハルヒからの連絡に対して出ないなどという事があろう筈も無い。
 となれば、何かあったのは間違いないだろう。
 さてはて、それが機関絡みなら俺に出来る事は何も無いんだがな。でも機関絡みだったら尚更ハルヒに対しては慎重な対応は取るよな、などと考えを巡らせていると、ハルヒが苛々した様子で俺に掴みかかってくる。
「何落ち着いてんのよ、アンタは。アンタからも古泉くんに電話してみてよ」
「お前からの電話に出ないのに、俺からので出ると思うのか?」
「何言ってんの!二人だけのSOS団男子部員でしょ!古泉くんのこと心配じゃないの!?」
 そうがなるな。解かったから。
 いい加減谷口や国木田が興味津々な様子でこっちを見てるんだから。更には他のクラスメートにも注目されるだろうが。
 お前ほど視線に晒されるのに耐性がついてないんだよ、俺は。
 兎に角一旦教室から出て携帯を取り出し、古泉のナンバーにかけると、呼び出し音はすぐに鳴り始めた。
 が、一向に出る気配がない。
 可能性一。古泉が携帯を持って家を出るのを忘れた。(これが一番望ましい)
 可能性二。何か理由があって、携帯が手元に無い状態にある。(忘れたのとは微妙に違う)
 可能性三。手元にあるが、出られない状態にある。(一番最悪だ)
 さてどれだろうか。
 流石にこうなってくると心配になるな。ハルヒじゃないが。いくら古泉相手でも。
 何しろ訳の解からん機関に所属している訳だから、人並み以上の危険が付きまとっていてもおかしくはない。というか、そもそもハルヒが生み出す閉鎖空間で命がけで戦っているエスパー少年だったな。いや、俺も大概危ない目にはあってるんだが。
 まあ、それはそれでおいておくとして、古泉だ。
 一体何があったんだろうな。俺には想像もつかん。
「どう、出ない?」
「さっぱりだな」
「やっぱり心配よね。ねえ、放課後古泉くんちに行ってみましょう」
「…そうだな」
 止めるのもおかしいし、頷く。もしこれで現在古泉がハルヒに知られるとまずい状況であったとしてもだ、俺は責任は取れん。しょうがない。止める方が逆に機嫌損ねて閉鎖空間が発生するかも知れんからな。どっちにしろ、止めたってハルヒが聞く筈も無いし。
 まあ、そんなことを考えて同意した訳だが。
 うん、予想はしておくべきだったな。
 結果、長門と朝比奈さんも一緒に古泉の家に行く事になったのは、別段おかしい事ではない。SOS団副団長が危機的(かも知れない)状況であるとすれば、他の団員は心配するよな。朝比奈さんは当然のように物凄く心配しているし、長門も表情こそ動かしていないが、此処でついていかない訳もなく。
 結局四人で古泉宅を訪問する事になった訳だ。


 長門のマンションほど大きくはないが、それでも立派なマンションに着くと、ハルヒの先導に従い古泉の部屋を目指す。
 まずはインターフォンを鳴らしてみるが、出てくる様子は無い。
「いないのかしら?」
 ハルヒが首をかしげ、ドアノブを回すと、あっさり開いた。朝倉やコンピ研の部長氏の時はその時点でアウトだったんだけどな。いや、部長氏の時は長門が開けてくれたが、今回はその必要も無く…いや、無用心だろ、いくらなんでも。
「古泉くん、いないの?」
 ハルヒが中に呼びかけるが、返事は無い。そして俺達の方を振り返り、
「中に入ってみましょ」
 当然そう言うとは思っていただけどな。鍵も掛けずに出掛けるのは無用心だし、もし出掛けていなくても返事も無いような状態というのはただ事とは思えない。
 そうして、内心言い訳しつつも若干後ろめたい気分で中に入る。
 玄関のすぐ前は廊下になっていて突き当たりまで何もなく、その右側にドアが四つついている。一番手前はキッチンと併用のリビングらしく、その奥がトイレ、浴室、そして一番奥が寝室になっている。いわゆる1LDKというやつだ。トイレと浴室もついているし、一介の高校生が一人暮らしするには贅沢すぎる部屋だろう。
 ハルヒが一番手前のリビングのドアを開けると、一瞬で心臓の鼓動が跳ね上がった。
 冷たいフローリングの床の上でぐったりと倒れこんでいる古泉を見れば、誰だってそうなるに違いない。一瞬その場に居た全員が固まり、次の瞬間、慌てて古泉に走り寄った。
「古泉くん!」
 ハルヒが古泉の横に膝を付き、俺は反対側に回り込んで古泉を抱き起こす。完全に意識がなく、しかし荒い息を吐いていて、顔も赤いし、肌にはじっとりと汗が滲んでいる。何より、服越しでも解かるほど古泉の体温は高かった。
 念のため額に手をやると、思わず眉を潜めたくなるほどの高熱だった。
「酷い熱だ」
「と、兎に角キョンは古泉くんを寝室まで運んで。みくるちゃんは氷枕探してきて。有希はキョンと一緒に古泉くん運んであげて。あたしは風邪薬か何か無いか探してくるから」
「解かった」
「は、はい」
 ハルヒの指示に俺と朝比奈さんは返事を返し、長門も首だけで頷いた。こういう時のハルヒの的確な指示は頼もしい。兎に角俺は長門に手伝ってもらいながら古泉を背負う。俺より長身だが思ったより軽い。まあ、軽いと言っても意識を失くした人間を運ぶのがそう楽な筈も無いのだが、寝室までなら大してきつくもない。
 兎に角古泉をベッドに寝かせる。
 一息吐きながら古泉を見て溜息を吐く。今古泉が着ているのは制服だ。一体いつからあそこで倒れていたのか、かなり疑問だ。
 まさか昨日からって事はないよな?だったら今朝か?あれだけの高熱でまさか学校に行こうとしたなんて事はないよな?というか、ああやって倒れていたら、そりゃ携帯にも出れない筈だ。
 ぐったりと意識を失っている古泉を見ながら、そんな事を考えてしまう。長門に聞けばいつから倒れていたのかさえ正確に答えてくれそうだが、何となく聞きたくない。
「氷枕、持ってきました」
「有難う御座います、朝比奈さん」
 朝比奈さんが持って来てくれた氷枕を、古泉の頭の上に敷くと、続いてハルヒが部屋の中に入ってくる。
「救急箱があったわよ。えーと、これ体温計、キョン図ってあげて」
 渡されたのを受け取り、古泉の脇に挟ませると、ハルヒはまだ救急箱の中を漁っていた。
「えーと、風邪薬はこれかしら。ていうか、古泉くんて、風邪?」
 今更の問い掛けに、はてどうなのかと思う。熱が出ている以上何かしらの病気だろうが、ただの風邪なのだろうか。
 というか、病院に連れて行った方が良いんじゃないのか。しかし、連れて行くと言ったってこの辺の病院なんぞ知らないし、運ぼうと思ったらそれこそ俺が背負っていう事になる。だが救急車を呼ぶというのは大げさすぎる気もするし。
「最近の暑さと疲労と寝不足の為に誘発された風邪。それを飲ませても問題ない」
「そう?なら大丈夫かしら」
 長門の言葉に、ハルヒもあっさりと頷く。まあ、藪医者より見立ては確かだろうから問題ないのだが、あっさり信じるのか、ハルヒ。嘘を吐くような奴でもないし、そう言い切るだけあって間違って居ないのだろうという信頼なのかも知れないが。
 その時、ピピピ、と電子音が鳴った。体温計の音らしく、古泉の脇に挟んだそれを取り出すと、思わず眉を潜める。高いと解かっては居たが…。
「三十九度六分だ」
「本当に高いわね…風邪薬だけで大丈夫かしら?解熱剤とかは無いの…?」
 そう言ってハルヒは救急箱を漁るが、それらしきものは見つからない。
「あの、それより、どうやってお薬飲ませるんですか?」
 朝比奈さんが、ごく当たり前の指摘をする。確かにそうだ。古泉は現在眠っている…というよりは気を失っている訳だが、その状態で薬を飲ませるのは難しい。
「そうね、やっぱり…」
「やっぱり?」
 一瞬ハルヒの目がイタズラっぽく光ったのは気のせいではないだろう。
「口移ししか無いでしょ」
「待て待て待て!お前がやるつもりか?というかなんでそんなに楽しそうなんだお前」
「あら、だったらキョンがやる?」
「そういう事じゃなくてだな!」
 口移しってことはあれだろ?口と口をくっつけるんだよな?ようするにキスするんだよな?なのに何でお前はそんなに楽しそうな上にやりたそうなんだとそういう事を聞いているんだよ。
「あら、普通の医療行為じゃない。人工呼吸と一緒よ」
「一緒ってお前な!」
 その前にもう少し恥じらいを持てと言っているんだ。というか、もし古泉も後でハルヒに薬飲まされたなんて知ったら、それこそ卒倒しかねないぞ。
「だから、だったらアンタがやるの?って聞いてるんじゃない。どっちにしろ薬飲ませなきゃいけないし。あ、いっそみくるちゃんに頼む?」
「駄目だ駄目だ駄目だ」
 朝比奈さんなら尚更却下だ!しかし薬を飲ませなきゃいけないのは事実だ。ていうか、やるのか?俺が?待て、何か間違ってないか?
「現時点で薬を飲ませるのは推奨出来ない。長時間食事を取っていない胃が空の状態で薬を飲ませれば、胃を傷める可能性がある」
「ああ…それもそうね」
 長門の言葉に、あっさりハルヒは引き下がる。
 俺の先程の心的打撃は一体何のためにあったんだろうな。
「じゃあ、やっぱり起きるまで待つしかないかしら。あ、起きた時に何か食べられるように、お粥でも作ってあげた方が良いかしら。みくるちゃん、台所見て来ましょ」
「は、はい」
 ハルヒが朝比奈さんを引っ張って寝室を出て行く。
 全く慌しい奴だ。
「涼宮ハルヒは古泉一樹を心配している。だから何かしていないと落ち着かない」
「…そうか」
 長門が言うならそうなんだろう。
 そりゃまあ、心配だよな。
 俺は相変わらず荒い息を吐いてぐったりとしている古泉を見て、溜息を吐いた。

 ベッドに寝かせ、氷枕を敷いてやると、先程よりは落ち着いたようにも見えるのだが、矢張りそう簡単に熱は下がらない。長時間倒れていた事は明らかで、さてこの状態で一体いつ目を覚ますのか。
 長門に聞いたら目を覚ます時刻まではっきりと言い当ててくれそうなものだが。
 その長門を見ていれば、じっと古泉を見つめている。その瞳に、若干古泉に対する心配…のようなものが見える気がするのは、気の所為ではないだろう。
 何だかんだで、古泉はSOS団の副団長で、仲間だ。当然のようにみんな心配している。特に、あんな状態で倒れていたのなら尚更だ。というか、何故あんな状態で放っておいたのか。倒れるほど体調が悪いのなら、気付かない筈が無いだろう。
「昨夜、閉鎖空間が発生した」
「…昨夜?」
 まるで俺の心を読んだかのように口を開いた長門に、思わず聞き返す。
「比較的小規模のもの。原因は母親との口論」
「で、体調が悪いにも関わらず、古泉は神人退治に出たっていうのか?」
 俺の問い掛けに、長門は頷く。
 ああまったく、体調が悪い時にぐらい休む訳にはいかないのか。しかし能力者の数なんて十人居るか居ないかというところらしいから、そうもいかないのだろう。
「発生したのが昨夜の午後七時二十八分。ただし発生源が遠方にあったため、閉鎖空間の収束が確認できたのは午前二時四十六分。古泉一樹が帰宅したのが午前六時三十四分」
 で、帰ってきてそのままぶっ倒れたという事だろうか。じゃあ着ている制服は昨日からこのままか。というか、送迎は機関だろう。貴重な超能力者が体調不良だというのに何もしてくれなかったのか。これだけの高熱を気付かないというのはおかしくないのか。
 古泉の場合、それさえ気付かせなかった可能性も無い訳じゃないが。
 それで一人で家でぶっ倒れていたら世話が無い。誰も気付かないまま放置されてたらいくら元が風邪でも死ぬかも知れんぞ。
 我慢と無謀は違うのだと誰かこいつに教えてやってくれ。もし機関が気付いてて何もしなかったというのなら、今すぐにでも抜けさせてやる。無理矢理にでもだ。
「くそっ、とっとと目を覚ませ」
 気を失ったまま目を覚まさないから、余計に考えてしまうだろうが。
 ハルヒと朝比奈さんは未だにキッチンに居るようだし、長門はもうこれ以上話す事は無いようだし、古泉の心配をする以外に何もする事がなくなってしまう。
 そんな俺の言葉が聞こえたのが、先程までぴくりとも動かなかった古泉が、ゆっくりと身じろぎした。はっとして古泉の顔を覗きこむと、低く呻き声が漏れた。
「う…」
「…古泉?」
「………」
 名前を呼びかけると、ゆっくりと目が開かれる。そうして俺に視線を向け、次に長門に移し、何か話そうとしているようだが、声が出ない。
 昨夜から何も口にしていない上に相当汗をかいた筈だ。喉が渇いていて声が出ないのだろう。
「待ってろ、今水持って来てやるから」
 そう言い置いて寝室を出てリビングに行く。キッチンに居たハルヒと朝比奈さんに古泉が目を覚ました事を告げると、二人ともほっとした顔をしていた。二人はまだお粥を作っている途中のようで、俺は先に水をコップに汲み、寝室へと戻った。
「ほら、水だ。起きられるか?」
 声を掛けると、古泉は自分で身を起こそうとするが、体に力が入らないらしい。当然だろう、三十九度も熱があるのだから。
 俺はコップを一旦長門に渡して、体を起こすのを手伝ってやる。長門が何も言わずにコップを口元まで持って行ってやると、一瞬済まなそうな顔をして水を飲んだ。
「…すみません」
 まだ掠れていたが、声は出るようになったらしい。自分でコップを持とうとしたが、結局手に余り力が入らないらしく、俺が古泉の体を支え、長門がコップを持って最後まで飲ませてやる事になった。全部飲み終わったのを確認して、俺はまた古泉を寝かせる。
「大丈夫か?」
「はい、すみません、お手を煩わせて」
「馬鹿、謝るな。しかも全然大丈夫じゃないだろう」
 目は覚ましたが、熱が下がった訳ではないし、未だ何処か朦朧としているようだった。何しろ、どうして俺達が此処に居るのかという、普段なら古泉が真っ先に聞いてきそうなことさえ聞いてこないのだから、相当重症だろう。
「こんなに悪くなるまでほっとくなよ」
「はい。面目ないです」
「兎に角、安静にしてろ。幸い明日は学校も休み出しな」
 それに、一概に古泉を責められる訳でもない。多分、今これだけの熱を出しているのだ、昨日の時点でもかなり体調が悪かったに違いない。それなのに、放課後部活の間中ずっと一緒に居たにも関わらず、全く気付けなかったのは、俺達にも責任があるだろう。
 古泉が気付かせないようにしていたのは、間違いないだろうが。
 それでも、気付いてやるべきだったと、そう思うのは俺の思いあがりだろうか。
 そんな事を考えていると、ハルヒと朝比奈さんが寝室に戻ってきた。
「古泉くん、大丈夫?お粥作ったけど、食べられる?」
 ベッドに寝ている古泉は、視線だけハルヒと朝比奈さんに移す。朝比奈さんがお盆の上に湯気のたつお粥を乗せて運んできた。
「はい、有難う御座います」
 古泉は微笑んでみせるが、その笑みも何処か気力が無い。起き上がろうとするが、矢張り一人では身を起こすことが出来ないらしく、俺が支えてやると、「すみません」と小さく謝った。
 ああもう、いっそ謝るのを禁止させてやろうか。
 朝比奈さんが一旦ベッドの脇のサイドボードに、お盆を載せると、ハルヒが大きめのスプーンにお粥を掬い、ふーふーと息を吹きかける。
 待て、何かちょっと嫌な予感がするぞ。ハルヒお前何をしようとしてる。
「はい、古泉くん。あーん」
 やっぱりか。
 心なしか楽しそうに見えるのは気のせいじゃあるまい。妙にきらきらと瞳が輝いているのは薬を口移しで飲ませるとか言った時と同じだ。何だお前、古泉に気があるのか?それともただ単に世話を焼くのが嬉しいのか。
「あ、あの涼宮さん…」
 明らかに古泉の表情も戸惑っている。当然だろう。俺だったら恥ずかしくてそんな真似は絶対にしたくない。しかし、慌てた様子の古泉を見るのは中々に楽しく、まあ、これも良いかな、などと俺も考えてしまったのだが。
「じ、自分で食べられますから」
「コップも持てなかったのにか?」
「う…」
 俺の言葉に古泉が言葉を詰まらせる。何しろ今だって俺が支えて起き上がっている状態なんだからな。そうして支えているところから熱が伝わってくると、楽しんでいる場合ではないとも思うのだが、基本はお前に対する気遣いからなんだから、有り難く受け取っておけよ。
「いい加減観念しなさい、古泉君。あーん」
 駄目押しのようにハルヒにそう言われ、結局古泉は促されるまま口を開けた。ハルヒがスプーンを古泉の口に入れると、ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。顔が赤いのは、絶対熱の所為だけではないだろう。
「美味しい?古泉くん」
「はい」
 頷く古泉に更に顔を輝かせ、ハルヒがまたお粥を掬おうとすると、朝比奈さんが声をかけてきた。
「あ、あの、あたしもやって良いですか!?」
 ちょっと待て何を言ってんですか朝比奈さん!
「何?みくるちゃんも古泉くんにあーんってしてあげたいの?」
「はい、やってみたいです!」
「…私も」
 長門までか!
 どういうノリだこれは。一体なんでだ。
 古泉に食べさせてやるのがそんなに楽しいか。それとも動物に餌付けでもしている気分なのか、朝比奈さんの顔は妙にきらきらと輝き、長門も興味津々と言った様子で、俺に支えられている古泉と言えばそれこそ拒否権など最初から無い事は把握しているのだろう、完全に固まっている。
 哀れ、古泉。
「うーん、じゃ、三人で順番にしましょうか。あ、キョンもやる?」
「俺はいい」
 俺まで参加したら、流石に古泉が憤死しかねない気がするからな。
 結局、古泉はハルヒ、朝比奈さん、長門の三人に順番にお粥を食べさせられるという、羞恥プレイを受けさせられるハメになった。いやまあ、ある意味羨ましくはあるが、恥ずかしいだろう、この年でものを食べさせてもらうというのは。
 SOS団の三人娘は、古泉の口元にスプーンを持っていく度に妙に楽しそうだった。古泉も何だかんだで律儀に食べるものだから、余計にだろう。
 まあ、そんなことをしつつも、お粥を綺麗に食べ終わったのは立派だろう。実は食欲なんてあんまり無かったんじゃないかと思うからな。ただハルヒの作ったものを古泉が食べないという事は有り得ないから、食欲が無くても無いなんて言えないだろうし。
 ま、それでもちゃんと食った方が良いのは事実だし、結果的には良いことだろう。
「あとは薬ね。みくるちゃん、水汲んできてくれる?」
「はい」
 ハルヒの言葉に朝比奈さんは素直に頷き、先程長門が古泉に水を飲ませていたコップを持って部屋を出て行った。五分もしないうちに水を持って戻ってきた朝比奈さんは、またサイドボードに水を置いた。
「薬も飲ませてあげるわよ、古泉くん」
「いえ、それは流石に自分で飲みますからっ」
「そんな事言わずに、こういう時は甘えなさい」
「いえっ、本当に…」
 そう言い募ろうとしている口に、ハルヒは問答無用で薬を放り込み、水を口元まで持っていく。流石に其処までされては飲まない訳にはいかず、結局大人しく飲むハメになったのだった。
 ハルヒに逆らうだけ無駄というものである。
「じゃ、あたしたちは後片付けしてくるから。キョン、古泉くんに無理させちゃ駄目だからね」
「しねーよ、そんな事」
 病人に何をするって言うんだ、何を。
 三人娘が出て行くのを見送って、俺は元の位置に古泉を寝かせる。ずっと支えたままだったし、流石に腕が痺れてきた。
「…疲れました」
「だろうな」
 肉体的というよりは、精神的にだろうが。
 でもまあ、あの三人にあれだけ心配されているんだから、感謝しておくべきだぞ、古泉。
「ええ、感謝していますよ、本当に」
 表情に疲れが滲み出ているが、それでも微笑を浮かべた古泉を見て、俺も何となく安堵したのだった。このまま熱が下がってくれれば完璧なんだけどな。
 そうしてふと時計を見ると、もうとっくに午後六時を回っている。
 あ、いかん、時間を認識すると腹が減ってきた。そして認識した途端に腹が鳴った。
 今女性陣が居なくて心底良かったと思うが、古泉にはばっちり聞こえていたことだろう。視線を向ければ苦笑いを浮かべている。
「お腹が空いていらっしゃるのなら、冷蔵庫の中のものは好きに使っていただいて構いませんよ。そのまま食べれるものというのは、あまりありませんが…」
「…見てくる」
 この際お言葉に甘えとこう。正直、家に帰るまで我慢するのはキツイしな。というか、この状態でまた古泉を放って帰る気にもなれないからな。
 キッチンに行くと、三人娘がもう殆ど片づけを終えたところだった。
「何、どうかしたの、キョン?」
「いや、腹が減ってな。古泉が冷蔵庫の中のモンは好きに使って良いって言ってたから、何か無いものかと…」
「病人に何甘えてるのよ、全く。でもそうね、確かにこれから家に帰って御飯じゃ遅くなっちゃうものね・・・でも、さっき冷蔵庫見たけど、すぐに食べられそうな物は無いわよ?」
 それはつまりあれですか、食べる前に調理が必要という事ですか。ああ、また腹の虫が鳴りそうだ。
「何情け無い顔してんのよ、まったく。もう、いいわ、古泉くんが好きに使って良いって言ってくれてたなら、今からあたし達で何か作ってあげるから!ね、みくるちゃん」
「はい、頑張ります」
 ハルヒに同意を求められ、朝比奈さんはにっこりと笑って小さくガッツポーズを作る。ああ、その動作もまた可愛らしい。
「その間にあんたは、古泉くん着替えさせてあげてよ。いつからかは解からないけど、ずっとあのままだったんでしょ?随分汗かいてるだろうから、熱いお湯で濡らしたタオルを強く絞って、体を拭いてあげると良いわ」
「…俺がやんのか?」
「あんた以外に誰が居るのよ。何なら、あたしがやっても構わないけど」
「……いや、俺がやる」
 ハルヒにやらせたら古泉の心労が増えるだけだろうからな。
 しかし、熱いお湯か…バスルームならお湯が出るよな。タオルもその辺にあるか?まあ、探してみよう。
 そう考えてバスルームに行くと、案の定タオルが置いてあった。バスルームのお湯を思いっきり熱くして、桶に入れる。それにタオルを浸して寝室まで戻った。
 俺が戻ると、古泉が視線だけで俺を出迎える。ゆっくり休んでいるようで良いこった。多分身体がだるくて動かないだけだろうけどな。
「体拭いてやる。あと着替え…何処にある?」
「其処のクローゼットに…でも、そこまでしていただくのは…」
「良いから病人は面倒見られてろ。それにハルヒ達が飯作り終わるまでにやっとかないと、俺が怒られるんだよ」
 そう言いながら古泉が視線で示したクローゼットを探ると、言ったとおりに見つかった。確か孤島で着ていたのと同じパジャマだな。これで良いだろう。
 着替えを取り出して、古泉を起き上がらせ、服を脱がそうとすると、それは抵抗された。
「それぐらいは、自分でしますから」
 いやまあ、確かに古泉支えたまま脱がせるのは難しいけどな。俺も男の服を脱がせる趣味は無いけどな。本気で嫌だと視線で訴えられると、それはそれで何か腹が立つのは何故だろうな。
 古泉が服を脱いで上半身が裸になったのを見て、ベッドの背凭れに古泉の体を預けさせ、さっき持って来た水桶からタオルを取る。
「あちっ」
 思い切り熱くした所為か、まだ相当熱い。それを我慢して思い切り絞ると古泉の体を拭いてやる。確かに相当汗で濡れていたので、少しは気持ちよくなる筈だ。古泉はこれも自分ですると言いたそうだったが、その視線には気づかない振りをした。
 それにしても、改めて男にしては白い肌だ。妙にすべすべだし。
 などと、頭は考えなくて良い危険思想を俺に考えさせようとするのでそっと目を逸らした。落ち着け俺。何か一瞬間違った事を考えたが、気のせいだ、気の迷いだ、腹が減っている所為だ。
 よし、大丈夫だ。
 何とか上半身を拭き終わり、今度は下半身、なのだが。
「ええと、本当に、それは自分で…」
「だから、無理だろ」
 未だ体に力が入らないくせに。兎に角抵抗するのを無視してズボンのベルトを外し、脱がせる。ああ、結局脱がせちまったじゃないか。でも放っといたらいつまでも終わらん。余計に風邪が悪化しかねないからな。
 俺はもう一度タオルを桶につけて絞りなおし、足を拭いてやる。一番大事な場所は一応もう、気にしないことにしよう。熱が下がったら明日の朝にでも自分で拭いてくれ。
 一通り拭き終わると、服を着るのを手伝い、また寝かせる。スラックスをハンガーにかけ、ワイシャツや靴下は洗濯機に放り込む事にした。確かバスルームのところにあったよな。
 部屋を出る前に古泉の様子を見ると、流石に疲れ切ったのか、それとも薬が効いてきたのか、何処かぼんやりとした様子で、今にも眠ってしまいそうだった。
 いやもう、眠ってしまえ。それが一番良い。
 リビングにぶっ倒れているのは勘弁だが、ベッドの中でならいくら寝てくれても構わない。

 俺は着替えとタオルの入った桶を持って部屋を出て、洗濯物は洗濯機に放り込む。一応洗濯機の動かし方ぐらいは知っているから、洗剤を入れて回し始める。
 さて、やる事が終わるとまた腹が鳴った。
 …料理は出来ただろうか。
 キッチンに様子を見に行くと、胃を刺激する良い匂いが漂ってきた。
「あ、キョンくん。古泉くんの様子はどうですか?」
「ああ、もう寝るところだったんで、大丈夫ですよ。ゆっくり寝たら熱も下がるでしょう」
「そうですか、良かった」
 朝比奈さんがほっとしたように笑顔を浮かべた。
 本当に、これだけ心配して貰えるんだからむしろ羨ましいぐらいだぞ、古泉。
「料理の方はどうですか?」
「もうすぐ出来ますよ。御飯を炊くのは時間がかかるので、冷御飯があったのでオムライスにする事にしたんです。冷蔵庫の中を見ると感心しますよ、古泉くん、ちゃんと自炊してるんですね」
「まあ、曲がりなりにも一人暮らししてるんですからね」
 外食ばかりじゃ無駄に金がかかる上に、体にも悪いだろう。古泉のことだ、普段は体調管理もちゃんとしているに違いない。今回は悪い偶然が重なった所為もあるのだし。
「ちょっとキョン!あんたも立ち話してないで手伝いなさい。お皿出して!」
 そう言われたって、他人の家のキッチンなんてどうなってるかさっぱりだぞ。かと言って口答えしたところで無駄なので適当に皿を探し出す。一人暮らしの家に同じ皿が何枚もある訳は無く大きさのバラバラな皿を四つ出した。
 あとはスプーンか?やっぱりこれも大きさも、用途もバラバラに違いないスプーンを四つ。
 仕方ないだろう、これは。文句を言うなら古泉に言うしかない。
 まあ、ハルヒもそんないくらなんでもな文句を言う事は無く、出来上がったオムライスがそれぞれの皿の上にのった訳だ。
 ああ、早く食べたい。
 テーブルに皿を並べると、ようやく食べられるのかと期待で涎が溢れてきそうだ。まあ、そんな情けないところは見せられないがな。
 四人揃って席につくと、食べ始める。勝手に食べ始めるとハルヒが怒るから、当然団長殿の号令によって。だが、そんな事はどうでも良い。空きっ腹に女性陣の作ってくれた料理が食べられるのなら、これ以上の幸せは無い。
 美味かった。腹が減っていたというだけでなく美味かった。
 長門は当然のようにおかわりをしていたし、ハルヒも物凄いスピードで食べていて、朝比奈さんは相変わらずゆっくりと可愛らしい仕草で食べておられた。
 そして食事を終えると、これから後どうするか、という事が話し合われた。
 まあ、当然古泉が心配だが、だからと言って全員残る訳にもいかない。いや、むしろハルヒは全員で残って看病すべきだと主張していたのだが、そんなに気を使われたら、逆に古泉の心労が増えるだけだという俺の説得に一応納得し、結局のところ女性陣は夕食の後片付けを済ませたら解散、帰宅ということになった訳だ。
 そして俺は泊り込み。
 まあ、良いだろう、どうせ明日は休みだし。女性陣の誰かを古泉と二人きりで残す訳にもいかないし。俺相手なら古泉もそう気兼ねしなくても済むだろう、多分。
 兎に角そう決定し、女性陣が夕食の後片付けをしている間に俺は自宅に連絡を入れ、今日は帰れない事を告げた。夕食を準備済みだった母親に謝罪し、けれども一人暮らしの友人が病気なのだと言ったらちゃんと看病しなさいと激励やら叱咤なのやら解からない言葉を言われて、電話が切れた。
 まあ、理解の早い母で助かると言うべきだろう、きっと。
 その後、何かあったらすぐに連絡しなさいよ!というハルヒの言葉を聞きながら三人娘が帰るのを見送り、俺は溜息を吐いた。

 さて、これからどうするか。
 取り敢えず古泉の様子を見に行ってみよう。
 寝室に行くと、案の定、古泉はゆっくりと寝息を立てていた。額に手を当ててみれば、矢張り熱いが、先程よりはマシに思えるし、表情も苦しげではない。
 さて、そうすると、もう何もする事が無い。だからと言って放っておく訳にもいかないし、俺は結局ベッドに凭れるようにして座り込んだ。身を捩って古泉を見てみれば、薄く開いた口元から漏れる息から熱気が感じられて、矢張りそう簡単には治らないよな、と溜息を吐く。
 しかし、こうして落ち着いてしまうと、何やらどっと疲れてきた。主に心的疲労な気がするが、古泉を運んだりと結構体力仕事もした気がする。
 更には隣で寝ている古泉を見ていると何故だかこちらも眠くなってくるのは、はて何故なのか。知らない、そういうもんだとしか言いようがない。
 まあそういう訳で。
 ちょっとぐらい寝ても構わないだろう。
 俺はその体勢のまま目を閉じたのだった。


 ぐらぐらと身体が揺れた。
 何だ、もう朝か。俺はまだ眠いんだが。
「…ださい。…きて…さい…」
 妹の声にしては低いな。そしてまだ身体がぐらぐら揺れている。ひょっとして起きるまでこれが続くのか。あんまり揺れていると気持ち悪くなるんだが、仕方ない、起きるか。
 そう言って目を開けた先に飛び込んできたのは、古泉の無駄に整った顔だった。ああ待て、心臓に悪いぞこれは。朝比奈さんの顔だったら大歓迎だが、起き抜けに古泉の顔を見なければならんとは一体どういう事だ。
「大丈夫ですか?こんなところで寝ていると、貴方の方が風邪をひいてしまいますよ」
「ああ…」
 古泉の言葉に、呻きのような返事のようなどちらとも言えない声を漏らし、ああそういえば此処は古泉のマンションだったかと思い出す。
「今何時だ?」
 そう問いかけると、枕元に置いていた腕時計を見せられた。そういえばこの家に掛け時計やら置時計の類は無かったな。まあ、一人暮らしならそんなものも必要無いか。
 俺だと目覚まし時計は必需品なんだがな。
 で、肝心の時間は午前二時を回ったところだ。
 ようするに草木も眠る丑三つ時、というやつだ。朝には程遠く、そして俺は軽く五時間以上も寝ていた事になる。
 少し寝るつもりが熟睡してしまったようだ。
「で、お前、熱は下がったのか?」
「随分楽にはなりましたよ。みなさんのおかげです」
 まあ、確かに、一人ではまともに起き上がる事も出来なかった状態と比べれば、自分で起き上がって俺の体を揺すれるぐらいには回復したのだろう。
 何気なく古泉の額に手を当てれば、一瞬避けるように身を竦めたが、それ以上の抵抗もせずに大人しくしていた。何なんだ、殴られるとでも思ったのか、お前は。俺は病人を殴るほど酷い人間じゃないつもりだがな。
 手から伝わってくる体温は、矢張り熱いが、先程と比べると随分マシだろう。
 油断は出来ないが一安心、といったところか。
「あの、涼宮さんたちは…?」
「ハルヒたちは帰ったぞ。俺は此処に泊り込みだ。勝手に決めて悪いがな」
「それは構いませんが、寝るのならせめて、クローゼットの奥の方に毛布がありますから、それを使ってください。貴方が風邪をひいては元も子もありません」
 どうやら本気で俺の体の心配をしているらしい。今心配すべきは古泉の方な筈だが、まあ確かにこの状態で寝入っていたのは流石にまずいかと俺も思う。言われた通りにクローゼットの奥を探すと、言った通りに毛布が見つかった。
 客用の布団が無いのはまあ、一人暮らしだから仕方ないか。
「他に何もなくてすみません」
「いや、気にすんな。寝たくなったらリビングのソファでも借りるさ。ところで古泉、ひとつ聞いてもいいか?」
「はい」
「機関はお前が風邪ひいてるの知らないのか?昨夜だって神人退治に出てたんだろうが」
「ああ…」
 それだけはどうしても聞いておきたかった。知ってて何もしなかったのだとしたら、幾らなんでもあんまりだろう。古泉は俺の言いたいことが解かったとでも言うように頷いてみせ、曖昧な笑みを浮かべた。それはどういう意味の笑みだ。
「機関は知りません。多分、気付いていないと思います」
「何でだ、あれだけの熱が出てたんだぞ?それをお前…」
「言えばすぐにでも病院に連れていってくれたでしょうね。体調管理も任務のうちですし、本来なら早急に何とかすべきところでしたし、風邪をひいたからと言って目くじらを立ててくるようなこともありません」
「だったら」
「でも、何と言うか、嫌だったんですよ。風邪をひくと気が弱くなるからでしょうかね。例え風邪をひいて、慌てて僕を病院に連れて行ったとしても、それは僕自身を心配している訳ではなくて、戦力が減る事を心配しているからなのだろうと。そう考えると、何故だか言えなくなってしまいました」
 情けないことです、と笑みに苦いものを混ぜる古泉を見て、俺は何とも言えない気分になる。
「馬鹿野郎」
「ええ、本当に」
「機関がどうだろうが知らんがな、俺やハルヒや、朝比奈さんも長門も、心配するんだよ。実際お前が倒れているのを見たときは冷や汗が出た。散々既に心配させたんだから、だからとっとと治せ」
「…………はい」
 俺の言葉に古泉がどう思ったのかは解からない。ただ、細く小さな声で頷くのだけが解かった。これ以上は言っても仕方無いだろうし、病人を苛める趣味は無い。
「もう寝ろ」
「はい」
 古泉は素直に頷き、ベッドに横になった。
 そうだ、病人は素直なのが一番だ。素直に苦しいなら苦しいって言えばいい。
 そうしたら、俺に出来る事なら何だってしてやるさ。
「何か、欲しいものはあるか?」
「いえ、特には」
「そうか」
 何もないなら、これ以上出来る事は無いな。
 そう思っていると、古泉がふふ、と含むような笑い声を漏らした。何だ一体。
「いえ、貴方が珍しく僕に優しいので、嬉しいと思ったんです」
「…病人に冷たくする程、俺は冷血漢じゃないつもりなんでね」
「ええ、解かっています。でも嬉しいと思ったんですよ」
 そうかよ。
 そんな事で嬉しがるなんて、俺は普段お前にそんなに冷たくしていたか?まあ、確かに他の女性陣に比べれば差はつけていたかも知れないが、男と女で比べれば女に優しくするのは当然だろう。俺にしてみれば、お前に対しては男相手にする中では格段に気を使ってやっていると思うんだがな。
 何て事は考えても絶対口には出さないが。
「もう良い。寝ろ、ホントに」
「ええ、そうします」
 くすり、と笑い声を漏らして、古泉が頷く。
 全く、人が優しくしてやればからかいやがって。だから優しくする甲斐が無いんだ、お前は。などと言いつつ、嬉しそうにしていた古泉を見れたのが嫌な訳では無いんだけどな。というか、それはそれで、良いものが見れたというべきなんだろう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 俺が呟いた言葉に古泉がそっと答えて、目を閉じた。
 古泉は目を瞑るとじきに寝息を立て始めた。病人は寝るのが一番だ。
 しかし、逆に俺はさっきまで眠っていた所為か、目が冴えてしまっている。結構な時間寝てたしな。何の気なしに古泉を見ていれば、まあよくよく整った顔をしている。
 睫も長けりゃ肌も白い。しかしその白い肌も、熱の所為か少し赤くなっていて、そのためなのか何なのか、妙に艶が増している。男に艶って何だとも思うのだが、仕方ないだろう、そう思っちまったんだから。自分でも気持ち悪いが。
 だが顔が整っているのは事実であり、妙に艶っぽく見えるのは熱の所為だ。荒く息を吐いているのとか、肌に汗が滲んでいるのとかも、全部熱の所為だ。
 時折睫がぴくりと揺れて、それが何とも言えない気分を俺に味合わせた。
 そうして何だかんだで古泉の顔に見入っている自分に気づいたのが、二十分後くらいの事だった。待て、俺。正気に返れ。
 くそ、顔でも洗って目を覚ましてこよう。ついでに頭も冷やそう。
 そう思って洗面所に行くと、そのまま頭から水を被った。ああ、冷たくて気持ち良い。頭も冷えた。うん、さっきのは気の迷い以外のなにものでもない。当然だ、いくらツラが良かろうが、あいつは男で、しかも俺より背が高くて、成績も良くて運動神経も良い、はっきり考えて男としてムカつきしかしないヤツなんだから。
 まあ、SOS団員として、何だかんだで一番隣に居る時間の長かった奴ではあるし、風邪をひいたら心配ぐらいするが、それだけだ。
 よし、冷えた。完璧冷えた。戻ろう。
 古泉が寝ている寝室に戻ると、相変わらず寝ているようだ。
 それに何となく安心していたが、古泉の吐く息の熱っぽさが若干上がっているように思い、額に手を当てた。体温が上がっている。今何度くらいだろうか。先程まで熱が下がっていたのは、薬のおかげか。眉を潜めて、古泉の頭の下に敷いている氷枕に触れると、すっかり温くなっている。此れでは意味が無い。代わりになるような物が無いか探してくるべきだろう。
 冷えぴたとか、そんな類のものは無いのかね。それが駄目なら冷たいタオルを頭の上に置いてやるのでも良い。兎に角何か探して来ようと立ち上がろうとすると、くいっと服の裾が引かれてそちらを見れば、古泉の手が握りこまれていた。
「古泉?」
 問いかけると、薄っすらと目を開ける。熱で潤んだ瞳が、ぼんやりと俺を捉えて口を開いた。
「…―――、此処にいて…」
 呟かれたのは、誰かの名前と、その言葉で。しかしそれが誰の名前かということまでは聞き取る事が出来なかった。ただ、俺の名前では無かったように思う。そもそも俺はこいつに名前で呼ばれた事なんてないからな。古泉の熱で朦朧とした頭は、俺をその誰かと勘違いしているのだろう。
 その事に、何処か物悲しいような、苛立たしいような気分にさせられ、そして俺は、結局その場から動く事が出来なくなったのだった。それは、酷く珍しい古泉の懇願するような口調の所為だったのだろう。病気は人を気弱にする。
 そう、呟かれたのが誰の名前かだなんていうのは、ほんの些細な事でしかない。
 ただ、俺が側に居る事で安心するのなら、側に居てやるしかないだろう。それが古泉の求めている人物と違ったとしても。
 結局俺はまたその場に座り込む。俺の裾を掴んでいた手を離し、俺の手に絡ませると、古泉の熱が伝わってくる。何でも良い、早くよくなれ。
 お前はいつもの調子で笑ってるのが、一番良いんだからな。
 そう言ったのが聞こえたのか、潤んだ瞳をこちらに向け、古泉は安心したように微笑んだ。
 しかし、そうなるともう此処から離れる訳にもいかない。本当は氷枕を換えてやった方が良いだろうし、汗を拭くためにタオルでも持って来た方が良いに違いない。けれどこの、握った手を離す気にはどうしてもなれないのだった。
 離したら、何処か夢うつつに居る古泉がどんな表情を浮かべるのか解からないが、それにしたってもし、縋るような、気落ちするような顔を見せられたら、多分俺は罪悪感でどうにかなりそうな気がするからな。
 そんな可能性は少しでも排除しておくべきだろう。そうに違いない。
 実を言えば寝るのはリビングのソファでも借りようかと思っていたのだが、仕方ない。取り敢えずクローゼットから引っ張り出した毛布を被り、ベッドに凭れかかりながら、古泉の手を握り続けた。
 仕方が無いだろう、他にどうしようもないんだから。
 結局、俺はそのままの体勢で、朝まで過ごす事となったのだった。


 ふと気付くと朝だった。
 カーテンの隙間から漏れた光が一瞬俺の視界を焼いたが、すぐに気を取り直し、古泉の様子を見る。握った手はそのままだが、顔色も大分よくなっているし、これなら大丈夫だろうと安心する。
 それにしても、俺もまた少し眠ってしまっていたようだった。
 中途半端な体勢で寝ていた所為か、身体がギシギシと傷む。ゆっくりと手を離したが、それに対しての反応は無く、それはそれで少しだけ寂しい気もした。
 一度立ち上がり大きく伸びをすると、首を回し、肩を回した。ゴキゴキと音が鳴る。
 嫌なもんだな、これ。年くった気分になる。
 額に手を当てて熱を測れば、まだ微熱程度はあるものの、随分下がったようだ。後でちゃんと熱を測らないと、などと考えながら、一度欠伸をすると、インターフォンの鳴る音が聞こえた。
 枕元に置いてある古泉の腕時計を見れば、まだ朝の七時半である。一体こんな時間に朝っぱらから何の用だ、と思わないでもないのだが、何となく予想もついていた。
 そして、予想したとおり、玄関の扉を開けた先に居たのは、ハルヒ以下、SOS団の三人娘達であった。昨日の様子からしても、今日も来るだろうなとは、何となく思っていた。
「キョン、古泉くんの様子はどう?」
「今は気持ち良さそうに寝てるよ。熱も大分下がった」
「そっか」
 ハルヒは安心した様子で笑い、朝比奈さんもほっとした様子を見せていた。長門は、表情の変化は感じられないが、若干眉が上向きになったのは気のせいでは無いだろう。
「みくるちゃん達と買い物行って来たの。古泉くんの為に栄養のつくものいっぱい作ってあげるんだから。ね?」
「はい」
 ハルヒの言葉に、朝比奈さんもはっきりと頷いた。
 その様子が微笑ましく、ついつい口元が緩む。
 三人は上がり込むと早速キッチンを占領した。俺はする事も無いので、古泉の居る寝室に戻り、救急箱から体温計を取り出した。
 それを脇に挟み、測り終えた合図の電子音を聞き終えるとそれを取り外し温度を見た。
 三十七度四分。
 昨夜に比べたら大分下がった。古泉の平熱は知らないが、まあ、微熱と言っても良い程度にはなっただろう。今日一日ゆっくり寝ていれば、明日には完全に下がっているに違いない。
 そして今日一日は、ほぼ確実に主に女性陣による、甲斐甲斐しい介抱が古泉を待っているに違いなく、それにいちいち恐縮する古泉の様子も簡単に想像でき、それを考えるだけで思わず口元に笑みが浮かんだ。
 そうさ、お前には心配してくれるSOS団の仲間が居るんだからな。
 風邪をひいたときは、機関には連絡しなくても、俺達にはするべきなんだ。
 そうしたら、いつだって駆けつけて手厚く看病してやる。お前だってSOS団の誰かがそうなったら、同じようにするだろう。
 そう心の中で語りかけていると、古泉がゆっくり目を開いた。
「よう、おはよう。気分はどうだ?」
「おはようございます、随分、よくなりました」
 古泉がゆったりとした笑みを向けて微笑む。まだ少し気力には欠けるが、いつもの笑みに近づいただろう。月曜には何の問題も無く学校に来ているに違いない。
「朝っぱらからご苦労なことに、ハルヒ達も来てるぞ。お前に栄養のつくもの食べさせるってキッチンを占拠してる。良かったなあ、美少女三人に心配してもらえて」
「本当に、勿体無いです」
「後で礼を言って置けよ」
「ええ。そうですね。そうします」
 そう言った顔は何処か嬉しげだった。
 ならば良い。それで良いさ。良いことだろう。
「有難う御座います」
「ん?」
「貴方には、特にご迷惑を掛けた気がするので」
「別に、気にすんな。こういう時はお互い様だろ」
「……有難う御座います」
 もう一度礼を言われ、今度は返事の代わりに額を小突いた。
 一瞬目を瞑った古泉の表情が、いつもより少し幼げで、ああ、そういう顔は良いかもな、と思う。良いんじゃないか、病気の時は、少しくらい子供っぽくなったって。もっと我侭になったって。誰も責めたりしないぞ。
 恐縮しているよりも、ああして欲しいこうして欲しいと我侭を言ってくれた方が良いね。得にハルヒや朝比奈さん辺りなら大喜びで世話を焼くさ。
 ほら、その証拠に。
 ハルヒの元気な足音が近づいてくる。
 ひょっとしたら料理が出来たのかもしれないな。
 ドアが開いたら、いつものように笑ってやれ。そうしたらハルヒは安心して、お前に飛びつくかも知れないな。それも良いじゃないか。
 俺は止めたりしないぞ。何なら一緒に抱き込んでやったって良い。
 それぐらいには、俺も安心してるんだ。
 だから、ちょっとぐらいの『困った』は我慢すると良い。
 俺達はそれ以上の優しさも、温もりも出来る限りお前に与えてやるから。病人相手の大サービスだからな。お前だって、困った振りして本当は嬉しいんだろう。
 こうして、俺達と過ごせる時間がさ。
 今日は一日世話を焼かれて、そして月曜になったら、元気に学校に来て、いつものように部室で顔を合わせてボードゲームでもする。
 いつもの日常に戻る。
 だから、今はほんの少しの些細な非日常を、お前も満喫しておくと良いさ。
 誰も、責めたりなんかしないからな。


Fin





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