九月一日、二学期を向かえ、俺はそれなりに緊張していた。 当然だろう、はっきり言って此処からが勝負なのだ。 古泉に言われたとおりに髪を整え、眼鏡をかけ、制服もボタンを一番上まで留めてネクタイもきっちりと締める。少し息苦しいが、そのうち慣れるだろう、きっと。 鏡を見て自分の姿を確認しても、最早違和感は覚えないようになっていた。古泉が言っていたのはこういう意味だったんだろうな、と何となく思う。鏡越しに自分の姿に違和感を覚えるようでは、周囲も違和感を感じるのは当然だろう。 古泉と打ち合わせした内容を思い返しながら、俺は学校へと向かった。 教室に一歩入った瞬間に、ざわり、と一瞬空気が騒いだ。 これ程までに注目を浴びるのは少々予想外だったが、それだけ変わった、と言う事かも知れない。 教室の片隅でいくつかのグループが俺を見ながらひそひそと言葉を交わし、それから好奇心の旺盛な部類のグループが俺に声をかけてきた。 「お、おはよう」 「おはよう」 戸惑いつつ挨拶してきた男子生徒に笑みを浮かべて答えれば、一瞬でその生徒と周囲の様子が一片した。まるで俺の機嫌を伺うかのように話しかけ、俺は笑みを浮かべたままそれに答える。 成る程、見た目の変化、話し方の変化というのは、ごく普通の生徒にはかなり影響を与えるものらしい。しかし、本当に古泉と練習した第一声が、学校に来て演技をする上での第一声になるとは思わなかった。 正直馬鹿馬鹿しいほどの周囲の変化に呆れながら、それをおくびにも出さずに話しかけてくる生徒を適当にあしらう。 周囲に埋没するような生徒は、明らかに自分より上位者だと判断した相手にはすぐに頭を下げるものなのだと、よく解かる見本のような一瞬だった。 それからはクラスメートの何人かが取り巻きのように俺の周囲に集まるようになった。今までの俺だったならば、面倒くさがって相手にもしなかったところだが、今はそうも言っていられない。少しでも多くの生徒の心を掌握し、選挙を前に有利に動かなければならないのだから。 クラスメート全員が今までと違う意味で俺に一目置くようになるのにも、そう時間はかからなかった。授業中も居眠りなどせず、教師の問い掛けにも速やかに答える。元々それほど頭は悪くないから、学校の授業程度なら楽についていく事が出来る。 まず身近な生徒と教師の人心を掌握する事が俺の役目だ、と古泉は言った。 実際、その通りになっている。 古泉の言ったように演技したならば、それだけで。呆れ返るほどに。 それを面白いと思うわけでもなく、所詮大多数の人間はこんなものなのか、と軽い失望を覚えるだけだった。せめてもう少し、急に変貌を遂げた俺の化けの皮を剥がしてやろうとか、対抗意識を燃やしてやろうとか、そういう生徒が居た方が断然面白いんだけどな。 なんて事を、何故か用もないのに俺のマンションまで来た古泉に漏らすと、 「余計な仕事が増えるだけですよ、それ。そもそもそういう人は、選挙戦を前にすれば嫌という程出てきますから、安心してください」 それは安心とは言わないよな。 「よく解かってるじゃないですか。だったらそういう事は言わないで、ボロを出さないように気をつけていてくださいね」 にっこりと笑顔でそう言われ、何だかんだと一番一筋縄ではいかないのはこいつだよな、とぼんやり思う。ただし、俺はこいつに選挙の事に関しても生徒会の事に関しても涼宮ハルヒの事に関しても、逆らう気は毛頭無いからあまり意味は無いのだけれど。 まあ、そんな訳で俺は完全に古泉の手下と化している訳なのだが、他の生徒たちがそれを知るよしもなく、むしろ一つ年下の生徒にいいように使われているなんて知ったら失望されるんじゃなかろうかと思うのだが、まあ俺が現状に満足しているのだから仕方無い。 知らない方が幸せな事ってのもあるもんだよな。 何しろ、学校での俺達の関係は真逆な訳だから。 そう、真逆なんだ。 何しろ、廊下ですれ違う度に古泉はわざわざ俺に頭を下げていくんだからな。 古泉の周囲にも取り巻きみたいなヤツは居るらしく、俺とすれ違う度に頭を下げる古泉に訝しげな視線を返し、何度かそれに対して問いかけているシーンも目にした。 それに対して古泉は、 「転入したばかりの頃にお世話になったんですよ」 と当たり障りのない答えを返しているのを見かけた。 そうすると不思議なもので、自分が支持する人間が頭を下げている姿を見ると、それに習うようになるのがごく一般的な人間の習性らしい。 次第に古泉だけでなく周囲の下級生たちもがすれ違う時に俺に頭を下げ、さらには古泉が居ない時にでも会釈するようになった。まったくもって、こうして面識の無い下級生に形だけとはいえ敬われているような人間が現状そう居るだろうか。 正直俺は三年相手にも頭を下げる気には一切ならんね。 つまるところ、これも作戦の一環なのだ。 俺の周囲と、古泉の周囲から場固めをして、それを徐々に広げていく、つまりはくだらなくも割合と効果のある作戦なのである。 何しろ古泉はかなり人目を惹く容姿であり、この学校の生徒では知らない者の居ないSOS団という訳の解からない団の副団長(夏休み前に二階級特進で昇進したらしい)であるから、その行動は常に注目されていると言っても良い。 その古泉が、上級生の中でも俺にだけ頭を下げる、というのは周囲の人間にしてみたら特異な事であり、自然俺にも注目が集まるという訳だ。 同級生と下級生には、かなり効果的と言える。下級生に頭を下げられているという状況は、俺の周囲の同級生から見ても特異な事であり、それによってまた俺の見る目も変わる、という事だ。 それによって、大した努力もなく、俺は周囲の人間と下級生に顔が知られるようになった訳だ。 全く、アホらしくて笑えてくるね。 まあ、一日中学校で演技をしているというのは、疲れるものではあるのだけれど。 そうして一日演技をして、マンションに帰れば、三日に一回の確率で古泉が居る。 お前SOS団の活動があるんじゃないのか? しかも大抵、そういう時は俺の部屋のソファで寝ていやがるんだから、お前は何をしに来てるんだと問いかけたいね。 俺も俺で、古泉を起こしもせずに、起きるまで待ってるんだから人の事は言えないんだが。 古泉の寝顔を見つめて溜息を吐く。 他の場所じゃ休むことすら出来ないのか、こいつは? そうして寝ているこいつを見て、俺がどれだけ触れたくなるのを我慢しているのかも気づいていないのが尚忌々しい。 少なくとも一定以上の好意を持っている相手が、自分のテリトリーであどけない顔で寝ているのを見て、触れてみたい、頭を撫でてやりたいなどと思うのは当然の心理だと思う。こいつがキスしたい、までになると自分の性癖を改めて考えなければならないが、今のところ其処までは行っていない。 こいつが人に触れられるのが苦手というのでなければ、遠慮なく撫でてやっているところだが、嫌なら触らないと約束した手前、寝ている間にでもそうするのは憚られる。 仕方なく俺は古泉をそのまま寝かせて、起きるまで待っているのだから最早何も言えんところまで来ている気がするな。 「…ん…」 古泉が小さく吐息を漏らす。 そうしてゆっくり目を開けていく様を見るのは嫌いじゃない。何より、起きて一番最初にその瞳に俺を映すというのは、それなりに優越感がある。 「起きたか」 「おはようございます…」 「夜なんだけどな」 溜息を吐くと、へらりと笑みを浮かべられた。 これも毎度のことだから既に慣れたけどな。 「全く、お前は本当に俺んちに寝にきてんのか?」 「そういうつもりは無いんですけど、何故か此処に来ると眠ってしまうんですよね。ちなみに、今日はちゃんと用があって来たんですよ?」 毎回用もなく来てるから今日もそうなのかと思ったぜ。 「選挙の事です。明日は各クラスで選挙立候補者の募集があるでしょう」 「ああ・・・立候補すりゃ良いんだろ?」 「いえ、その必要は無いと思います」 「しなかったら意味無いだろ?」 訝しげに顔を顰めると、古泉は笑みを浮かべる。 「貴方が自ら立候補しなくても、周囲が推薦してくれますよ。選挙に出るためにイメージチェンジしたと思われるよりも、心象は良くなる筈です」 「何だよ、確定事項なのか、それは」 「今までの経過を見た限りでは、間違いなく貴方のクラスメートは貴方こそが生徒会長に相応しいと思うでしょう」 まあ、そのために演技してきた訳だけどな。 其処まで確信に満ちた風に言われるとどうしたものかと思うぞ。 「事実ですよ。ですから、貴方が自ら名乗り出る必要はありません」 「別に良いんだけどな、どっちにしろ選挙に出るのは変わりねーんだし」 そして推薦にしろ立候補にしろ、其処からが本番だ。実際投票までには一月も無い。 文化祭が終わったすぐ後に投票になる。浮かれた周囲に紛れて選挙活動をしなければならないのだから、割りに合わん気がするな。 まあ、今更ごちゃごちゃ言った所でどうしようもない。 それよりも、 「ところで古泉。俺は腹が減ったんだけどな?」 そう言うと、古泉は苦笑を浮かべる。 「では、何か作りましょうか。ご希望はありますか?」 「食えりゃ何でも良い」 「作り甲斐の無い人ですねえ」 そう言いながらも古泉は立ち上がり、キッチンに向かう。 俺はそれを見送り、さて冷蔵庫の中には何が入っていたかな、と頭に思い浮かべる。 古泉が俺の家に通うようになるまでは、冷蔵庫の中は殆どすっからかんで、水と酒とつまみぐらいしか入って無かったんだが、その俺の冷蔵庫の中身を見た古泉は呆れ果て、もっときちんとした食生活をしろと叱咤し、料理なんて面倒臭いと言う俺にわざわざ買い物に行き材料まで買って来て手料理を振舞ってくれたのは、さて、夏休みのいつ頃の事だったかな。 口うるさい母親のように、ちゃんと食事をしろと言われるのは鬱陶しいようでいて、心配されているのなら悪い気もしないし、何よりこいつの作る食事は結構美味いんだ。 しかも古泉は定期的に俺の部屋で寝ているから、今ではその度に食事を作らせているし、古泉もそれを承知の上でうちに来ているのかも知れない。 そして俺は古泉がいつうちに来ても良いように、食材を冷蔵庫に詰めておくようになった訳だ。 我ながら現金なもんだよな。 煙草に火をつけてふかしながら、キッチンから漂ってくる良い匂いを嗅ぐ。 匂いからすると、味噌汁と何やら炒め物でもしているようだった。和食も洋食も結構何でも作れるのが凄いところだよな、俺なんか一人暮らししてたって料理なんてさっぱりする気にならんというのに、まめまめしいというか、元々そういう性格なのかも知れない。 そして予想通り、古泉が運んできたのは味噌汁と、キャベツとニンジンとたまねぎと豚肉の野菜炒めだった。味付けは塩コショウであっさり味。 味噌汁ってのも結構味付けに人によって差が出るもんだと思う。俺の母親が作った味噌汁はこんなに美味かったかね、とかなり失礼な事を考えるが、最近マトモに会ってないから最早母親の作った味噌汁の味など古泉の作った味噌汁に上塗りされていて思い出せん。 そして古泉が作った合わせ味噌の味噌汁は俺の好みにぴったりなんだ。しかも栄養面まで気を使っているらしく、豆腐やわかめだけでなくネギやだいこんなんて切るの面倒だし入れなくても良いだろうに入っている。 「お前、ホント良い嫁さんになれるぞ」 「おや、貴方が貰ってくれるんですか?」 「行き先が無かったら貰ってやるよ」 なんて軽口も平然と交わしてしまうぐらいには、最早互いの存在に慣れてしまっていた。軽口を軽口として流しつつ、俺としては半分くらいは本気でも良いかと思ったりするんだけどな、まあ、自分の気持ちがまだはっきりと恋愛感情とは言えないからその辺は保留だ、保留。 古泉も怒りもせずに俺の軽口に付き合ってるんだから、お互い様だ。 「なあ、古泉」 「はい?」 「お前、菓子の類は作れるか?」 ふと興味が湧いて聞いてみると、古泉は小首を傾げる。うーん、普通男がやっても可愛く無いんだけどな、それを可愛いと思ってしまう俺はどうなんだろうな。 「食べたいんですか?」 「いや、聞いただけ」 「さあ、作った事が無いので解かりませんが…貴方、甘党という訳でもありませんよね?」 「ないな。作るのならどんなもんか食ってみたいと思っただけだ、興味本位で」 しかし、流石にただの料理でなくお菓子を作る男というのも、なかなかに気持ち悪い光景かも知れない。いや、パティシエとかは男の方が多いんだろうけどな。それが一介の男子高校生がやるとそれはまた別なんだよな。 「うーん、時間があれば作ってみても良いですけどね。何かと忙しいですから、そういう暇が無いんですよね」 「その割りにうちに寝に来る時間はあるんだな、お前」 「それとこれとは別ですよ」 にっこりと笑って流されたが、本当にお前、用も無いのにしょっちゅううちに来るよな。一回お前の家にも行かせろ。 「それはちょっと…いつ涼宮さんたちが来るか解かりませんから」 そうだよな、そうなるよな。 今だって別に殆ど誰もお前のマンションなんぞ行かないくせに、細心の注意だけはどこまでも払うヤツだよな。まあ、他の面子は兎も角、涼宮と鉢合わせなんぞしたらそれこそ全部台無しだから仕方無いとは思うんだけどな、何となく不公平な気もするぞ。 「そうですね、では、貴方が無事生徒会長に当選したら、一度だけご招待しますよ」 「よし、言ったな?」 「ええ、ですから絶対当選してくださいね」 「其処はお前や『機関』の働き次第だろ」 俺に出来ることなんて限度があるんだからな。 「もちろん、そちらもぬかりなく。でも矢張り貴方の協力が一番必要ですから」 「だからしてるだろ、ちゃんと」 お前に言われたように一日中肩の凝りそうな演技してるんだからな。最早お前の前以外じゃ人に素を見せる事もなくなっちまった。 「では、今の貴方の姿を見れるのは僕だけということですね。随分希少価値があるような気がします」 「阿呆」 軽く小突くと、くすくすと笑い声を漏らす。 これぐらいの接触ならば嫌がらない、というようりは、嫌がらなくなった、だろうか。俺との接触に慣れてきたのだろう。 こうして少しずつ古泉の態度が軟化するのも、他愛ないような会話をするのも、俺は結構楽しんでいる。こんな感じの毎日が、ずっと続けば良い、と思えるくらいにはな。 そして翌日。 古泉の言った通りの展開になり、此処まで順調で良いのかと本気で疑いたくなった。ひょっとしたらうちのクラスにも機関のエージェントが居たりするんじゃないのか?だとしても名乗りでないで欲しいね、そういう知り合いは古泉一人で充分だからな。 生徒会長に推薦され、立候補する。 しかもクラス全員一致で決まったのだから凄いもんだ。実際別に会長候補なんて出さなくたって何の問題も無いというのに、一応このための会議の時間を一時間クラスで取ってしまっていることも時間の無駄と言えよう。馬鹿馬鹿しい。 しかし、こういう時間があるからこそ、こうして推薦されたりするのだから、まあ、仕方無いのかね。完全立候補制にしたら、ひょっとしたら立候補者が居ない年とかいうのがあったのかも知れんな、何となくうちの学校は暢気で怠けた空気があるからな。 俺も人の事は言えないんだが。 さらに翌日には立候補者の為の説明会があるそうで、俺は職員室に呼ばれその説明を受ける事になった。いや全く、数ヶ月前の俺なら、職員室なんて学校内で近づきたくない場所ナンバーワンだったんだけどな、説教でなく呼び出されるなんて妙な気分だ。 「明日には立候補者の説明会、さらに翌日に候補者の公示があり、其処から選挙活動が開始される事になる。投票は文化祭終了後だから、それまでの間に生徒に顔を広めておくことが肝心だな。まあ、お前なら何の問題もなく生徒会長になれるだろう、期待してるぞ」 「有難う御座います」 余所行きの笑みを浮かべて教師に礼を言う。 矢張り自分の受け持つクラスの生徒が会長になれば、それなりに評価が上がったりするんだろうかね、何となく俺より教師の方がやる気に見える。 内心は押し隠したまま、形ばかりの『優等生』を演じて職員室を出れば、小さく溜息が漏れた。それを誰にも見られていない事を確認したら、教室に戻る。 教室に戻れば、またクラスメイトの相手だ。学校にいる間は本気で休む間が無いのが嫌だな、実際日常で演技をし続けるというのは相当体力を要する。まあ、随分慣れては来たけどな。 候補者の説明会は滞りなく終了した翌日。 生徒会長の立候補者は俺と現会長が推薦した現副会長のみになるらしく、ようするに一騎打ちという体になった。 副会長以下もそれこそ大した人数が居る訳でもなく、殆どが二年生で構成された中に時折一年生が混じっている、まあ、こんなもんだろうな、というような図式だ。 ただ、おざなりでことなかれ主義の生徒会長なりに、その会長職というものには愛着を持っていたらしく、立候補者の半数が前役員やら生徒会に近い代議委員からの候補者で、むしろそちらの当選の方が有利だろうと思える状況だった。何しろそちらの方が、圧倒的に生徒に顔が知れているからな。 そうでない立候補者はと言えば、どうにもただの目立ちたがりにしか見えず、役に立ちそうに無い。何となく、現会長の残党を残すのも癪に障るが、今更他の立候補者を立てるのも難しいだろう。 その辺は古泉も考えていなかったんだろうか。 というか、古泉にしてみれば現会長の残党がいようがいまいが、イベントに支障を来たさなければどうでも良いんだろうな…そう思えば後どうにかするのは俺の仕事か。 まあ、それは当選してからでも何とか出来るだろう。 予想外だった事の一つとしては、もう一人の会長候補が意外と俺に対抗意識を燃やしているらしいという事だろう。まだ正式に始まってもいないというのに、ここまで意識されるのは光栄と言えばいいのかね。 まあ、そんなヤツの事など、俺は全く眼中に無いのだが。 さらに翌日、候補者の公示がされたが、学校の大半の生徒がそんなものに興味は示さず、むしろ次第に近づいてきた文化祭に浮ついた気分が持っていかれている。当然俺のクラスも何がしかの事をする事になっているのだが、まあ選挙戦の事もあり、何故か暖かい空気でクラスでの文化祭の参加に関しては殆ど免除されている。 なんつーか、良いのかね、ホント。 似非ものの生徒会長候補にそこまでして貰っているのかと思うと、何となく申し訳ない気分になってくるぜ。 実際のところ、本当に学校の空気自体が選挙戦どころの話ではなく文化祭一色で、俺は殆どやる事も無かった。 ただ怠けている訳にも行かず、文化祭の準備で忙しいクラスメイトの力を借りて選挙用のポスターを書いたりした訳だが、ショボいなあと思ってしまうのは失礼だろうか。一応型どおりの事もしておかなければ、いくらなんでもいかんだろうからな。 そんな浮ついた空気が進むにつれ、今回の選挙で実しやかに妙な噂が流れ出した。 文化祭の浮ついた空気も手伝ったに違いないが、俺の立候補に対して、何やらよからぬ噂が流れてきたらしい。裏で暗躍する謎の人間が居るとか何とか…それは古泉のことか?それとも機関の構成員のことかね。 実際そういうヤツが居るだろうから、俺は否定する事も出来んのだが、知らん振りするのが適当だろうね。 スローガンを発表してみたり、一応する事はあるし、立会演説会のための原稿も細々と書き始めているのだが、どうにもやる気が減退気味になってきていた。 それを学校の連中に見せたりはしていないが、理由は明白だ。 最近古泉がうちに来なくなった。 俺に関する噂を聞く限りでは裏で色々何かしているんだろうが、最近古泉に会っていない。廊下ですれ違うくらいはするが、会話はしていない。最早文化祭まで一週間程になった頃の話だ。 それが俺のやる気を完全に削いでいた。二週間ぐらい会わないことなんて、それこそ夏休みの最後の方もそうだったし、夏休みに入る前もそんなもんだったというのにだ、たった一週間古泉の顔を見ていない、それだけで何ともおかしな事に、俺は調子を崩していた。 人には知られない程度に、だが。 そんな訳で、文化祭の準備も免除され、する事もない俺は放課後になり、しかし、古泉が居ない家に帰るまでに一人の時間を作りたくて屋上へと向かうと、古泉とすれ違った。 しかし、いつもなら俺の姿を目線で確認すると一々わざとらしく礼をするのが、今回はそれが無い。まあ、隣に居る相手を考えれば当然だろう。SOS団というふざけた団体のもう一人の男子団員が側に居て、面倒くさそうに話しかける古泉の言葉を聞き流している。その間に古泉はちろりと気づかれないように俺に視線を向けたが、すぐにまた相手との会話に戻った。 「お前はよくそう、ハルヒに付き合えるよな、つーか、また面倒なことを…」 「これくらいで済むなら安いものじゃないですか。それこそ涼宮さんがUMAを探そうと思ったら、」 「ああ、はいはい。その話は聞き飽きた。それよりは確かにマシだろうよ。だからってな、朝比奈さんをあんな風に困らせるのは正直どうかと思うぞ。あいつはもう少し他人の迷惑を考えるべきだ」 「確かに、朝比奈さんは災難としか言いようがありませんが、貴方だって次に朝比奈さんがどんな衣装を着るのか楽しみにしているのじゃありませんか?」 「うっ…それは…」 反論できずに言葉に詰まっているところまで会話を聞き取れた。 また涼宮が何かやらかそうとしているらしいな。 それで最近顔を出さないのか、と思ったら何となくほっとしつつも、もやもやとした気分が俺の肺を満たした。 古泉が涼宮を優先させるのは当然の事だし、それが解かっていて俺も古泉の言う事になんだかんだと従っている。なのに、なんだろうなこの気分は。 妙に苛々するのは、煙草不足だろうかね。 結局その後、俺が古泉と会ってマトモに話すことが出来たのは文化祭当日だった。 此処最近古泉が忙しかった理由はそれで自然と理解できた。映画なんぞ撮っていたとはな。一応見に行ったが、あの集団と一体化するのは正直言って自己嫌悪以外の何者でも無いし、映画の出来自体はまさしく高校生の自主制作としか言えないレベルのものだった。 ストーリーも何もあったものじゃないし、つーか、結局最後までよく解からんが男にだけは受ける内容のように思えた。 朝比奈みくるが主演ってあたりがな。 古泉の劇を見に行ったが、どうにもそのまま古泉な役だな。ハムレットのストッパード版らしい。俺はハムレット自体は読んだ事は無いがストッパード版の「ローゼンクランツとギルデスターンは死んだ」は読んだ事があるんだよな。 捻くれ者だから本家のハムレットは読む気がしないんだ。 つまるところメインの古泉は、そのまま古泉のような役柄であり、嵌り役と言えよう。しかし、このクラスのヤツはどうにも古泉が好きらしいな。嵌り役とはいえ、普通にハムレットをやっていればいいものを、わざわざ一般の高校生に知名度の低いストッパード版にするくらいだ。 映画も撮ってこの台詞も覚えにゃならんとしたら、相当大変だっただろう。 一瞬古泉と目があったが、アイコンタクトにもならなかった。まあ、仕方ない、大勢居る前で俺だけを見ている訳にもいかんだろう。 その後体育館で涼宮ハルヒがライブでボーカルをやったとまた噂が流れ、俺が古泉に会ったのはその後の事だった。 殆どイベントも終わり、祭りの後の倦怠感に満ちた空気が流れ始めた頃に、偶然廊下で古泉と会った。幸い、周りに誰も居なかった事もあり、人気の無い教室で二人話す事が出来た。 「何だかゆっくり話すのは久しぶりですね」 「そうだな」 古泉の声が、言葉が、俺の中に染み込んで来る。 ああ、こんなに俺は古泉に餓えていたのかと、実感する。 廊下で会った瞬間から衝動が湧いてきて仕方が無い。触れたい、抱き締めたい、キスしたい。たった二週間程度、会わなかっただけでこれ程までに餓えるものなのか。 それ以前に、やっぱり俺はそういう意味で古泉が好きだったのか、とこの段階になってようやく気がついた。 隣に居るだけで、その柔らかい髪に触れたい、滑らかな肌を撫でてみたい、薄紅色をしたその唇に口付けたいと、自覚したとたんに衝動が湧き上がるから不思議だ。 「劇も、見に来てくれたんですね」 「ああ。SOS団の方のあのわけの解からん映画も見たぞ」 「あれですか…いろいろあれも苦労したんですよ」 そう言いながら、会っていなかった期間にあった事を語り出す。また、荒唐無稽な話だが、公園に季節外れに桜が咲いたというのは俺も聞いていたし、実際映画にもそんなシーンがあったから、事実そういう事なんだろう。 「お疲れさん」 「ふふ、彼のおかげで事なきを得ましたけどね」 「でもまた、これからが大変だぞ」 「生徒会選はこれからが本番ですからね」 笑ってはいるが、若干疲れが滲んでいるようにも見える。 しかし、逆に俺は萎え気味だったやる気が嘘のように戻ってきているのも感じた。我ながらかなり現金なもんだ。 「まあ、絶対に当選するのは俺だけどな」 「楽しみにしていますよ」 くすりと笑みを浮かべる古泉に、俺は声をかけた。 文化祭が終わった今日くらい、ゆっくりしたって良いだろう。 「古泉」 「何でしょう?」 「今日は、俺んちに来い。寝るだけでも良いから」 古泉は一瞬きょとん、とした顔をした後破顔して頷く。 ああもう、本当は抱き締めたいんだよ、今此処で。でもまだ触れないと約束しているからそれを全力で抑えてるんだ。とりあえず今は、側に居るだけで良いから。 いつか、もっと触れられる距離まで、こいつの側に行きたい。 出来れば、早い方が良いんだけどな。 Fin |