退屈からの脱却



 古泉一樹に電波染みた話を延々と聞かされた放課後から二週間が過ぎたが、あれからヤツからのコンタクトは一切無い。
 最早あれは夢か幻だったんじゃないかと思えてくるが、未だに俺のズボンのポケットに突っ込まれたままになっているメモ用紙がそれを許してくれない。さっさと捨ててしまえば良いのに、何となくそれが出来ないでいるのも癪だ。
 確かに俺は考えさせてくれと言ったが、それから何の音沙汰も無いというのは一体どういう事だ?本当はあれは冗談か何かで、俺を本気で生徒会長にするつもりなんかなくて、半ば真に受けていた俺をからかって遊んでいただけなのか?そう考えるとむしゃくしゃするな。
 メモなど捨てて、あいつと話した事なんて全部忘れて、いつもの日常に戻れば良いと思うのに、だ。何故かその今までやってきた日常が今まで以上に色褪せて見える。
 確かに、これまでの日常なんて退屈だと思って居たし、何の刺激も求めていなかったかと言えば嘘になるだろう。しかし、そんな退屈な日常だって俺は俺なりに楽しんでいた筈だ。
 それなのに、何だ。
 妙に胸がスカスカして、詰まらない気分になるのは、何故だ。
 思い切ってメモに書かれているナンバーに電話して、何らかの答えを出せばすっきりするとは思うのに、その答えが未だに出ていない。
 俺はヤツからの『お願い』を聞き入れれば良いのか、断れば良いのか。
 何故こんなに悩んでいるのかもよく解からない。
 兎に角俺は溜息を吐いて、どうしたらいいのかと考え、いつもの日常を繰り返しながら、頭の片隅にあのメモの事が離れないでいたのだった。
 ああ、全くどうにかしてくれ。


 そんな、どうにも出来ない微妙な時間が三週間目を向かえる、七月の暑苦しさも極まってきた頃だった。梅雨なんてものは一体何処に行ったんだというくらいに雨が降らない、形だけの梅雨入りを向かえながら、余りの暑苦しさにネクタイは完全に外し、シャツも第二ボタンまで外して俺は一人暮らしをしている高くもなく安くもない小奇麗な賃貸マンションへと帰った。
 その俺の部屋の、扉の前に居る人間を見つけて、思わず顔を顰めた。
 俺の帰宅に気付いたそいつは、にっこりと笑みを浮かべてこう言ったのだった。
「こんばんは、お待ちしていました」
 まるで三週間何の音沙汰も無かったのが嘘のような笑顔でしれっと言ってのけたのを見て、本気でこの小奇麗な顔を殴りつけてやろうかと思った。
 流石に理性がそれを押し留めて、そんな事はしなかったが。
「一体何の用だ」
 出来うる限りの不快な顔を浮かべて俺が問いかけると、更に胡散臭い笑みを濃くして、古泉が俺に歩み寄る。
「以前貴方は言いましたよね?僕が超能力者であるならその証拠を見せろと」
「…言ったかな、そういえば」
「丁度良い機会が出来ましたので、折角ですから貴方を『閉鎖空間』にご招待しようかと思いまして。お時間を戴けますか?」
 話だけは聞いていたが『閉鎖空間』か。
 確かに、実際に其処に行き、現物を見られるのならば、信じるのも吝かではないが、俺まで狂っちまった気分になりそうで余り良い気はしない。
 だが、何故だか断る気にもなれなかった。
 全く、此処のところの俺は本気でおかしい。
「解かったよ、連れてけ」
「では、行きましょう。下に車を待たせているので」
「ああ」
 もう、なるようになれ、だ。
 古泉に案内されるままに、先ほど戻ってきたばかりのマンションの自分の部屋に入ることなく、俺はまた出掛けることとなった。
 言われた通り、マンションの前には黒塗りのタクシーが止まっていて、古泉に進められるままに其処に乗り込んだ。なんと言うか、怪しさ倍増だな。
「このタクシーも機関の手配なのか?」
「まあ、そのようなところです。丁度良いですからご紹介しておきましょう。運転をされている方も機関の者で、新川さんと言います」
「宜しくお願い致します」
「あ、ああ」
 初老に差し掛かった何とも慇懃な様子の運転手が軽く会釈をするのに、俺も思わず返す。しかし、俺はまだ古泉の依頼を受けると言った訳でもないのに、こんな簡単に紹介されても良いものか?
「僕も新川さんも機関の中では末端に過ぎません。紹介したところで大きな支障はありませんよ。それよりも、今は貴方に僕や機関の存在を信じていただき、協力して頂くことのほうが重要です」
「そうかよ」
 其処までして俺に拘る必要も無いと思うんだけどな。
「そうかも知れませんね。でも、全校生徒の資料を見て、僕は生徒会長にするなら貴方が良いと思ったんです。他の誰でもなく。ならば、出来ることなら貴方に生徒会長になってもらいたい。僕はそれなりに人を見る目にも自信があるんですよ、貴方なら、絶対に僕や涼宮さんが望む生徒会長を演じてくださると、そう思ったんです」
「勝手に思うな」
「そうですね、貴方には良い迷惑かも知れません」
 くすり、と笑みを零しながら俺の憎まれ口に頷く古泉を見て、内心どうしたものかと思う。正直、こうまでストレートに口説かれて、悪い気はしない。当然だろう『俺だから』良いのだと言われて、それが何であれ嫌なヤツなんてそうは居ない。
 まあ、愛の告白だったら嫌だが、これはそういう事じゃないしな。

 そんなことを会話しているうちに、タクシーは街中からは少し離れた山の入り口に車を止めた。ひょっとして山登りなんてしなきゃいけない訳じゃないよな?
「大丈夫ですよ、其処までする必要はありません」
 俺と古泉がタクシーを降りると、あっさりと走り去ってしまった。新川、とか言ったか。帰るときもあっさり現れそうだな。何か食えない感じがするのは年の功、だろうか。食えないと言えば古泉もまたそうなのだが。
 古泉に案内されるまま、俺達は山の入り口を少しだけ登り、恐らくは登山者のための駐車場なのだろう、広い空間に出た。その広場の真ん中で、古泉は足を止めた。
「手を出して戴けますか」
 振り向き、古泉が自分の左手を差し伸べる。これは手を繋ぐ、ということだろうか。男と手を繋ぐ趣味なんか無いが、此処でごちゃごちゃ言っても始まらないから、俺は言われるままに手を伸ばし、古泉と手を繋いだ。
「目を瞑ってください」
 言われて目を閉じる。これは嫌だな。余計に繋いでいる手の感触が解かって。
 そんなことをちょっと考えている間に、手を引かれ、数歩、足を進めた。其処で古泉の手が離され、「もう良いですよ」と声が掛かって目を開けた。
 話には聞いていた。
 が、実際目の前にすると妙な気分だ。
 外は夕方とは言えもう真夏でまだ充分に明るかった。しかし、今は空も、山の木々も全て灰色で埋め尽くされている。
 俺の目が可笑しくなったのかと思うような光景だった。
「お前、こんなとこにしょっちゅう来てんのか」
「以前ほどではありませんよ」
 俺の言葉に笑みを浮かべながら、軽く答えて見せるが、どうなんだろうか、これは。妙に寒々しく感じるのは、俺の感覚だけの問題だろうか。
 しかし、信じられないという気分と、やっぱり本当だったのかという気分と、俺はどっちを実感すれば良いんだろうかね。俺まで頭が狂ったとは思いたくない。
 これは、現実なんだろうか、悪い夢じゃないのか。
 多少混乱しながらも、俺は表面上は冷静だった。慌てても仕方ないという事を深層意識は知っているんだろう。
「意外と冷静ですね。『彼』も此処に連れてきた時はそうでしたけど」
「ああ、あの世界の『鍵』とか何とかいうヤツか」
「ええ、彼はそれまでに色々とあったからこの程度では驚かなかったようですが」
「そういう生活は正直勘弁だな。此処からもとっとと出ちまいたいところだ」
「もう少し待ってください」
 古泉は相変わらずの笑みを浮かべたまま、空を指差した。いや、正確には空ではなく、山の頂上辺りから立ち上がった青白い巨人を、だ。
「あれが『神人』か」
「ええ。あれを倒すのが僕の仕事です」
「倒せるのか」
「それだけの能力を、涼宮さんから頂いているんですよ。動かないで、ここで待っていてください」
 そう言ったかと思うと、二、三歩俺から離れて距離を起き、意識を集中するように目を瞑った。そして次の瞬間、体から赤い光が滲み出し、全体を覆い、赤い球体のようになって宙に浮かんだ。
 そしてあっという間に神人の方へと飛んでいった。
 灰色の空間の中で、神人と、赤い球体だけが鮮烈に映る。その赤い球体は古泉一人の分だけでなく、少なくとも五人以上は居るのだろうと思える数が飛び交い、巨大な青い化け物を倒そうと攻撃している。最早どれがどれなのかさっぱりなのだが、それでも程なくして神人はその赤い球体達によって消滅し、その赤い球体は三々五々飛び散って行った。
 その一つが俺のところまで戻ってくる。
「お待たせしました」
 それ程待っちゃいない。
 あっという間だったからな。
「今日は簡単に倒せた方です。その時々によって現れる神人の数も、強さも違うのでね」
「この空間が現れるたびに、毎回こんなことやってんのか」
「ええ。そうしなければ、この世界が壊れてしまいますから」
 笑顔でそう言うが、そんな簡単なものでもないだろう。
 そうして俺達が会話をしている間に空は割れ、世界に色が戻った。
「信じていただけましたか?」
「もう、信じる信じない以前の問題だな」
「確かに、そうかも知れませんね」
 そう言いながら、長い前髪をかき上げる。表に出た白い額が妙に眩しいのは、夕日の加減の所為だろうか。長い睫が影を落とす、その瞬間に、俺は答えを出していた。
「良いぜ」
「え?」
 俺の唐突な言葉に、何を言われたのか解からなかったのだろう古泉が、きょとんとした顔で問い返す。デフォルトの笑顔より、そっちの方がまだ良いな。
「生徒会長、なってやるよ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、進学を有利にするって話、忘れるなよ」
「ええ、勿論です。約束はお守りいたします」
 その時浮かべた笑みは、少なくとも今までの何処か作られたような物よりは人間的で、何処か安堵を滲ませていた。三週間音沙汰無かったくせに、何なんだその態度は。いや、ひょっとしたらこいつは、俺が思っているよりずっと忙しいやつなのかも知れない。
 学校に行って、あのSOS団とかいう訳の解からない団体で活動をして、涼宮ハルヒという女が不機嫌になればあの灰色の空間に行って神人を倒して、それで今度はそいつを退屈させないために俺に生徒会長になれなんて言って、そして俺を生徒会長にするために、また走り回るんだろう。
 一介の高校生がするには、ちょっと多忙すぎやしないか。
 なんて事を考えても口には出さない。出したところで今こいつが言う答えなんて決まりきっていて面白くも何とも無い。
 そもそも何で俺はこいつの依頼を引き受けたのか。
 機関の話を信じられたからか、それとも進学を有利にするという話に惹かれたのか、はたまた、古泉一樹という人間自身に興味が湧いたからか。
 多分それ全部が理由なんだろう。
 ほんの少しずつの、些細な理由が積み重なって、俺は古泉の依頼を引き受けても良いと思ったんだ。
 だから、理由なんてそれこそどうでもいい。
 ただ、はっきり言える事は、今までの退屈な生活とは、暫く無縁になるんだろうな、ということだった。



「ああ、そうそう、忘れていました。これ、お返ししますね」
「今更すぎんだよ、馬鹿野郎」
 にっこりと笑みを浮かべた古泉が取り出したのは、三週間前持っていかれた煙草で、俺はそれを半ば奪い取るようにしてポケットに捻じ込んだ。
 依頼は引き受けたが、やっぱりこいつは食えない野郎だ。


Fin





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