その瞬間の事は今でも曖昧だった。 それは余りに突然で、僕には何の余裕も無かった。 だから、何処から始まって、何処で終わったのかすら、僕には解からない。 急に頭が掻き回されるような気持ち悪さ、体中に感じる激痛と言うにも生温いくらいの体を引き裂かれるような痛み、どうしようもない吐き気が僕を襲った。 それまで一度も感じた事の無い感覚に僕は家の中でのたうち回り、絶叫を上げた。 その時、家の中がどういう状態であったのか、両親がどんな様子だったのか、僕はさっぱり覚えていない。痛みが、吐き気が、余りにも強くて、それ以外の事など何も覚えていなかった。 僕の両親は、僕が物心ついた頃には既に不仲だった。 毎日のように怒鳴りあい、罵りあい、詰りあう。 けれど二人は離婚する事は無かった。 したくない訳ではなく、僕という存在が二人が離婚をするのに障害となっていたからだ。 世間体は一割程度。残りの九割は、二人とも僕を引き取りたくなかったからだ。小学校を高学年に上がる頃には、二人の会話の端々からそれを理解していたし、僕が二人にとって邪魔者でしか無い事はそれこそもっと以前から解かっていた事だった。 どうやら二人とも好き合って結婚した訳ではなく、政略結婚に近いものだったらしい。金銭的には満ち足りた家庭ではあったが、中身は随分冷え切っていた。そもそも互いに嫌悪感しか抱いていない二人は滅多に家に寄り付かず、外に愛人を作っていたようだったし、そんな好きでも無い相手の子供など、例え自分の子供だったとしても愛せなかったのだろう。 きっと、それが好きでも無い相手の子供でも、自分の子供なら可愛がれる人も居るのかも知れないけれど、僕の両親はそうでは無かった。 食事も着る物も、不自由する事は無かったけれど、愛情を求める事は一切出来なかった。欲しいと何かを強請れば、どうでも良さそうな顔をして買ってくれたけれど、そこには子供を可愛がる感情など一片も無かった。 僕の誕生日など覚えていないのが当然だったし、僕も小学校を上がる頃には両親にそれを主張する事もなくなっていて、僕が両親に貰った誕生日プレゼントといえば、幼稚園の頃に買ってもらった天体望遠鏡だけだった。 両親に可愛がられた記憶、抱き締められた記憶は一度も無い。 二人が僕に手を伸ばすのは、いつだって僕を殴る時だけだった。 だからだろうか、僕は随分幼い頃から、人に触れられるのが苦手だった。 別に、僕に手を伸ばしてくる人がみんな、僕を殴ろうとしている訳では無い事くらいは解かっている。だから、怖いのではなく、伸ばされた手をどう受け止めて良いか解からなくて、どうにも苦手なのだった。 例えば学校の先生、クラスメイト、近所のおばさんたち。 手を伸ばされれば自然と身を堅くしてしまい、彼らは僕の様子に敏感に気づく。 好意で手を伸ばしたのに嫌そうにされれば、気分が悪くなるのは当然で、特に幼いクラスメイト達はその辺の僕の人との違いには敏感だった。 別に苛められていたとか、そういう訳ではなくて、一緒に遊んだりしたし、普通に接したりしていたけれど、確実に何か距離が開いていた。 僕はそれに何を言うでもなく、学校の教師もそれに気づいていても特に何も言わない。恐らく面倒な事は避けたかったのだろう。 子供の頃、僕は常に独りだった。 誰にも心を許すことなく、許されることなく、両親から殴られても文句も言わない、泣きもしない、愛情も求めない。 子供が求めるべき、その殆ど全てを、諦めていた。 それでも、両親の事は好きだったと思う。幼稚園の頃に買ってもらった望遠鏡は、本当に大切にして、両親が家に居ない夜には一人で夜が更けるまでレンズを覗いたりしていた。多分その望遠鏡だけが、僕にとって唯一、宝物と呼べるものだった。 それが起こったのは、僕が小学校を卒業したすぐ後の春休みの事だった。中学校に上がる準備をしていた頃だったと思う。 その耐え難い激痛は、両親に殴られても泣きもしなかった僕が叫び声を上げ、泣き喚く程だった。だから当然、両親は子供のその異常な様子に驚いただろう。 もしこれが、普通の、子供を愛する両親だったなら、当然心配し、病院に連れて行ったに違いない。 けれど、僕の両親はそうしなかった。 それに気づいたのは、漸く痛みが引いた、その時だったけれど。 暴れ、泣き叫び、のた打ち回る僕を持て余した両親は、ベッドに両手両足を縛りつけ、布で口を塞いで僕を止めた。 それに気づいた僕が感じたのは、微かな絶望だった。 例え殆ど全てを諦めていた僕でも、少しは、本当に、ほんの少しぐらいは、両親も僕を愛していてくれているのではないかと、そんな期待をやっぱり抱いていたのだ。 けれど両親は、異常な様子の子供を見て心配するのではなく、こうして縛りつける事を選んだのだ。 その時、僕の中の世界は、既に大きく変化を遂げていたけれど。 最後に与えられた絶望は、尚更僕の混乱と戸惑いに拍車をかけた。 結局僕が大人しくなっても、両親は僕をベッドに縛り付けたまま、数日そのままで様子を見ていた。春休みだったから、子供が外に出て行かなくても不審に思われる事は殆ど無いと判断したからだろう。両親がベッドに縛り付けられる僕の前で交わす会話の端々から、それを窺い知ることが出来た。 けれど、僕にとってはそんな両親の会話も、僕の中に齎された大きな変化の前ではさしたる問題ではなかった。 誰に相談する事も出来ない。 こんな事は有り得ない。 痛みと吐き気の引き換えに僕が得たものは、訳の解からない空間で、訳の解からないモノを倒す力で、その力を使わなければ、この世界は滅びてしまう。 到底、信じられる事では無かった。 両親すら信じられない僕が、友人と呼べる人一人居ない僕が、誰に相談出来る事でもなく、誰も信じないだろう事も理解できたし、僕が僕自身を信じる事が出来なかった。 僕は狂ってしまったのだろうかと何度も思った。 だから、両親に縛り付けられたベッドから開放されても、僕は外に出ることなく部屋に引き篭もるようになった。 僕は部屋の隅に蹲り、正気と狂気の間で怯えていた。 こんな常識外れの事が有り得る筈が無い。僕はそんな荒唐無稽な事を信じる頭など持って居ないし、空想だってしない。しないと思っていたのに、では今僕の頭の中にある歴然としたソレは何なのだろう。これを本気にするなら馬鹿げている、狂っている。 嘘だったとしたなら、本当に僕は、狂ったことになる。 しかし、本当だったとしても、僕は訳の解からないモノと戦う事を余儀なくされる。それは矢張り、人から見たら狂っているのと変わらない。異常だ。 しかもそれが、たった一人の少女の精神状態によって発生するモノであり、僕が得たソレもその少女から与えられたモノだなんて。 嘘でも本当でも、救い様も無い事だった。 何度、死のうと思っただろう。 その空間が発生するたび、僕はそれを感じて、忘れる事を許してくれない。部屋の隅に蹲りながらその空間が消えるのを待つ。同じように力を得た仲間が居る事を無意識のうちに感じながら、僕は動く事が出来なかった。 其処に行き認めて何になるだろう。 それは僕が狂ったと認める事になるのでは無いのだろうか。 そしてその空間が消えるとほっと息を吐き、死ぬ方法を考えた。 それでも死ななかったのは、その空間の発生を感じながらも、到底その空間が僕の行ける距離に無かったという事が大きい。まだ中学生になろうとしているばかりの子供が行ける距離など高が知れていたし、時間帯も選ばないそれに、僕がついて行ける筈もなく。 ただそれが発生した時にその感覚をやり過ごせば、普通と変わらない生活が送れるのだ。 それでも、僕はその空間が発生するたびに恐れ、部屋の隅で蹲り、外に出ることも無かったし、両親はそんな僕に何を言う事も無かった。 多分、迷惑さえかけなければどうでも良かったのだろう。 最初のうち、そうしてやり過ごしていたけれど、その空間の発生頻度は増して行くばかりで、中学の入学式に後三日しかないというそんな頃には、殆ど一日中その空間が出来ていた。消えれば出来、出来ればまた消える繰り返しに、本当に気が狂いそうになった。 本当に、狂ったのかも知れなかった。その繰り返しのうちに、僕は無意識にカッターナイフを握り、手首に刃を押し当てていた。 少し力を入れれば、切れて血が出る、そんな時にまた、あの空間が発生した。 びくりと身体が震え、カッターナイフを取り落とした。 まず何よりも、その時あの空間が発生した場所が、僕にとって身近な場所だったのが大きい。 この距離なら、何の問題も無く行く事が出来る。 遠いからと言い訳する事も、時間が遅いからと言い訳する事も、出来ないような時にその空間は出来てしまった。そうなれば、確かめるために行きたくなるという事が、僕自身解かっていたから、だからこそ怖れていたのに。 結局僕は、そのまま部屋を飛び出した。 何日ぶりかに外に出たけれど、外の様子など気にかける余裕は全く無かった。 その時その空間が発生した場所は、つい先日まで僕が通っていた、小学校だった。 小学校までの道程を兎に角夢中で走り、そしてそのまま勢いで入り口から入り込んだ。 息を切らし、視線を上に向けた時には、其処は一面灰色の世界だった。 夢ではなかった、嘘でもなかった。 けれどそれは、嘘だと思ってしまいたい光景だった。 見慣れた景色は全てが色褪せ、まるで今の僕の心そのもののようだった。多分、今の僕の心を覗いたら、これと全く同じ景色が見えるのではないだろうか。 「大丈夫かい?」 不意に声を掛けられ、顔を上げると壮年の男性が立っていた。 「君は迷い込んでしまったのかい?それとも…」 「あ…」 この人は、『仲間』だ。 直感的にそう思う。そしてその人もそうだったのだろう。一瞬驚いたように目を見張り、悲しげに眉を潜めた。 「君のような子供まで…。彼女は、何を考えているんだろうね」 そう呟き、 「無理して戦わなくて良いよ。今までも何とかなってきたしね」 そう言って、その人は走って行った。 僕が今までこの空間に足を踏み入れた事が無いのはその人にも解かったのだろう。初めてなのだから、子供なのだから無理はするなと、そういう事なのだろう。 けれど、恐らく彼は、殆ど常に発生しているこの空間で、ずっと走り回っているのだろう。何となく疲れが滲んでいるように見えた。 それに今回は、今までに無いくらいこの空間が大きい事が、そしてそれが更に広がり続けている事が、僕にも解かった。 僕が逃げて、蹲っている間も、あの人や、そして他の『仲間』たちはそうして戦っていたのだろう。 その場から動けず、僕が突っ立っていると、不意に青白い大きなモノが校舎の影からぬっと立ち上がった。余りにも大きなその巨人に目を見張る。 あれを、倒さなければならないのだ、ということは僕にも解かる。 けれどあれが現れた瞬間に、僕は別の事に気をとられた。 声が。 声が、聞こえた。 僕を呼ぶ、声が。 無意識のうちに、僕はその声のする方へと走り出していた。 校舎の中に入る。 土足だとかそんな事を気にしている余裕も無く、僕はそのまま中に駆け込んだ。下駄箱を過ぎ、階段を登り、僕は声のする方へと、兎に角足を向ける。 そして僕が立ち止まったのは、ついこの前まで僕が使っていた、6年3組の教室だった。 その教室の窓際で、外を、青白く光る巨人を見ている少女が居た。 「……涼宮、ハルヒ?」 あの日、僕の中にしっかりと刻まれたその名前を、無意識のうちに呟いていた。 すると、長い黒髪をもった少女が振り返る。強気な眼差し。どこか怒っているような表情できつく睨んできた。それでも、彼女がとても可愛い少女だという事はよく解かった。 「あんた、誰?知らないヤツに呼び捨てにされる覚えは無いわよ」 刺々しい言葉だったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。 「僕は、古泉一樹。君は、此処で何をしているの?」 「あたしは、あれを見てたの」 そう言って視線を窓の外に向けた。 青白い巨人と、その周囲を舞ういくつかの赤い球体。 「あんたは?何で此処に来たの?何であたしが此処に居るって、解かったの?」 「…声が、聞こえたから」 「声?」 「君が、泣いてる声が聞こえたから」 僕の言葉に、彼女が驚いたような表情を浮かべ、それから徐々に怒りにそれをスライドさせた。 「泣いてなんかいないわ!」 彼女が怒鳴ると、ドンッと大きな音がして地響きが轟く。あの巨人が建物を壊したのだ。 表情は怒っているようにも見えるけれど、僕にはそれが、泣くのを我慢している顔に見えて、なんとか彼女を笑わせてあげたい、と思った。 「…うん。でも、君の声が聞こえたのは、本当だよ」 泣き声が聞こえたと、主張する事に意味は無いから、兎に角僕はそう告げた。すると、また彼女は表情に怒りを浮かべる。 「なんで…」 「え?」 「なんで、今まで此処に来た馬鹿みたいな大人たちは気づかなかったのに、あんたは気づくのよ!」 怒鳴った少女を見て、思わず僕は笑みを浮かべていた。 多分、彼女は涼宮ハルヒ自身というよりも、彼女の深層意識が具現化した存在なのだろう。だから恐らく、自分の力にも自覚的だったに違いない。 そして僕には、不思議な事に、そんな彼女の考えている事が、手に取るように解かった。 僕は彼女に近づき、その手を取った。 人に触れられるのが苦手で、触れるのだって、本当は苦手だったけれど、彼女の手を握るのに戸惑いは無かった。 「僕も君と同じだから」 「…同じ?」 彼女が訝しげな表情を浮かべる。 「誰にも理解されなくて、寂しいって思ってる」 「…っ、あたしは、そんな事思って無い!あんたなんかと一緒にしないで!!」 彼女が激昂し、僕の手を振り払った瞬間に、青白い巨人が大きく動き、近くの建物を破壊した。 それに驚き、思わず窓の外を見遣り、彼女にもう一度視線を映す。彼女の怒りは、直接あの青白い巨人の動きに反映されているのだ。 「あたしは誰かと一緒だなんて嫌よ。他人に埋もれて、当たり前の世界で暮らすなんてまっぴら!」 そう言って彼女は語り出す。父親と野球を見に行った後、自分がこの世界でどんなにちっぽけな存在か気づいたこと、そして、そんな何万人、何億人と同じように暮らす事が、くだらない事のように思えたこと。 世界にたった一人、特別でありたいと。 語り終えた彼女は、怒りに任せてしゃべった所為か息を乱していた。 僕はそんな彼女を見て、口を開いた。 「違うよ」 「え?」 「君が見て欲しいのは、世界になんかじゃないよ」 そう言うと、彼女は否定するように首を振る。 「違う、違うわ。あたしは、世界に見て欲しいの、あたしが、此処に居るって!」 「…違うよ」 笑みを浮かべる僕に、彼女は、一瞬言葉に詰まったようで、それでも違うと否定する。否定しなければ、どうにかなってしまいそうだと言わんばかりに。 でも、僕は言葉を続けた。 「君が見て欲しいのは世界じゃなくて、たった一人の、大切な誰かだよ」 「誰かって、誰よ…」 彼女の否定の言葉が弱まり、問いかけてくる。それでも僕の言葉に納得した訳では無いのだろうけれど。 「君を、理解してくれる人」 多分、僕では駄目なんだろうけど。 何故だろう、不思議だった。誰かに対して、こんな風に穏やかで、暖かな気持ちになるのは初めてだったから。 きっと彼女は、僕なんかよりずっと何でも出来て、僕が想像も出来ないような力を持っている。でも、心は普通の女の子と変わらない。特別なんかじゃない。 周りは彼女を特別だと想って理解できずに居て、彼女もそんな周囲に苛立ちが隠せないのだろう。そんな彼女のもどかしさが僕にも解かった。 そしてそんな彼女が愛しいと、そう思う。 彼女は、暫く黙り込んで、それから、また僕を見つめた。 「あたしのこと、嫌いじゃないの?」 「どうして?」 「だって、あんたに変な力与えて、あれと戦えって言ってるのは、あたしなのよ」 そう言って青白い巨人を指差す。 けれど、僕は首を横に振る。自然と笑みが浮かんで、彼女の手をもう一度握った。 「嫌いじゃないよ」 「…でも、みんな嫌だって思ってる。迷惑だって」 「確かに、戦うのは嫌だと思うし、出来るならしたくないけど、君のことを嫌いだって思ったことも、憎いって思ったことも、僕は一度も無いよ。…僕は、君が好きだよ」 本当に素直に、その言葉が出てきた。 そしてそれは、真実だと思う。彼女が好きだと思う。愛しいと思う。 「…あたしに、同情してるの?」 「違うよ。…うん、一番近いのは、同調、かな」 「同調?」 「言ったよね?僕も同じだって」 笑みを浮かべて、今度は彼女を抱き締めた。彼女は抵抗せずに腕の中に納まっている。背は殆ど変わらないけれど、その温もりが胸に満ちてくる。 「…誰にも理解されないのは、理解しようとしてくれないのは、寂しいよね」 本当に、本当に寂しいと、きっと言葉にする事が怖いんだと、そう思う。 それを言葉にすると、余計に寂しくなるから。 「僕は、凄く寂しい」 「…うん、寂しい」 彼女も、ぽつりと呟く。 ぎゅっと抱き返してくる腕が、嬉しい。 僕達はとても似ていると思う。寂しくて、誰かに見て欲しくて、でもそれを言えなくて、自分自身でさえもそれが解からなくなって。 「僕は君が好きだよ」 もう一度呟く。 「君が本当に、君が望む人を見つけるまで、僕はずっと君だけを見て、君だけを想ってる」 「……本当に?」 「うん、約束」 体を離し、小指を立てると彼女が指を絡めてきた。 多分、彼女がそういう人を見つけても、僕が彼女を大切に想うのは変わらないだろうけど。 「絶対、約束よ。破ったりしたら許さないんだから」 「破らないよ、絶対」 僕が笑みを浮かべると、彼女もほんの少し、笑みを浮かべた。 その笑顔が見れたことが嬉しくて、涙が出そうになった。笑っていて欲しい、ずっと、ずっと彼女には。どうか、今だけでなく、ずっと彼女が笑っていられますように。 いつか、現実の彼女が、そんな風に笑える日が来ますように。 ふわりと、彼女が浮き上がり、透けていく。 「いつか……君に、会いに行くから」 「うん、絶対だからね」 「絶対」 最後に彼女が満足そうな笑顔を浮かべて消えていった。 彼女のぬくもりもまだ、腕の中に残っているけれど、ほんの少し、やっぱり寂しかった。 愛しいと、こんな風に誰かを想うのは初めてだった。 こんな風に誰かを、無条件に慈しみたいと想うのは。こんな想いは、一体何と言うのだろう。 彼女は僕に、生きる意味を与えてくれた。 彼女のために生きる事が、僕の意味になった。彼女の笑顔が、僕の幸せになった。ほんの少しの時間の、幻のような邂逅だったけれど、それまで僕が感じていた絶望は消えてなくなり、ただ失う事の無いたった一つのものを見つけられた幸福と、ほんの少しの寂しさだけが僕に残った。 窓の外を見ればまだあの青白い巨人が建物を壊している。 僕も行かなければ、と思った。 さっきよりも、随分勢いは弱まったように思えた。 力の出し方は、何となく解かる。 目を閉じて、意識を集中した。 青白い巨人を倒して、それから。 あの巨人を倒して、灰色の空間から抜け出した後、僕はまた、あの壮年の男性と会った。 彼の話に拠れば、彼女に能力を与えられた人たちはみんな『機関』に属しているらしい。彼女に力を与えられた後、彼らは集まり、『機関』を発足した。 彼は僕に『機関』に入らないかと言った。 そして僕は、彼にお願いをした。 三日後の、入る筈だった中学の入学式に、僕は出席しなかった。 僕は、両親の居る家から、外に出たから。 両親は取り立てて反対はしなかった。僕を邪魔だと思っていたのだから、むしろ歓迎していたに違いない。その証拠に数日後、呆気なく両親は離婚してしまったと人づてに聞いた。 一応僕はまだ父の庇護者に入っているらしいけれど、そうして家を出てから一度も、両親とは会っていないし、今後も会う事は無いだろう。 両親が僕を要らないと思っていた事は今更で、でも不思議と、余り気にならなかった。 僕の中には既にもっと大きな存在が居て、彼女の存在は決して揺らぐ事は無かったから。 彼女は僕を必要としてくれていて、僕も彼女を必要としている。 その確信は、僕にとって何にも変えがたい財産だった。 しかし、その事を、彼女とのあの、幻のような邂逅を、『機関』の人たちに話す事は無かった。何故なら、彼らにとって彼女は『神様』だった。 確かに、世界を変えるだけの力を持っている彼女は『神様』に等しい力を持っているのかも知れないけれど、僕にとって彼女は、普通の少女だった。意地っ張りで、寂しくて、可愛い、普通の女の子だった。けれど、それを『機関』の人たちに言う事は出来ない。 それは彼らの思想と相反する事だからだ。 彼らにとって『神』は横暴であり絶対的だった。そして自分達は『神に仕える者』だという認識だった。そして、僕もその一人の筈なのだ。 その『神』が僕の存在を頼る事などあってはならない。逆はあっても、それはあってはならない事なのだ。それが事実ならば尚更、彼らにとって都合の悪い事に他ならない。 けれど僕は、『機関』を抜ける事も出来ない。何より中学生の子供が一人暮らしをするには無理があるし、『閉鎖空間』が発生した時に僕が其処に向かうには、どうしても大人の協力が必要だった。免許も持てない年の僕が其処に行くには、専属でその場所まで連れて行ってくれる運転手が必要だったのだ。 僕はあそこに行かなければならない。 彼女を今でも変わらず想っている事を伝えるために。少しでも彼女の怒りや悲しみを理解するために。少しでも彼女の孤独を癒すために。 彼女の心の中で、僕は戦いたかった。 あの、幻のような邂逅以来、僕が『閉鎖空間』で彼女と会う事は無かった。 けれど時折、僕は彼女の存在を感じたし、そんな時、僕が戦闘に出れば何故か『神人』の動きが弱まった。 確証は無いけれど確信はあった。 僕と彼女はその『閉鎖空間』で確かに繋がっていた。 直接会う事は出来なくても、彼女の心の中で、僕は彼女に会う事が出来た。 何故、彼女をこんなにも愛しいと感じるのだろう。 それまでの僕には考えられないような事だった。 出来るだけ人と関わるのを避け、人に触れられる事が嫌だったのに。 多分それは、僕と彼女が似ていたからだろう。似ていたけれど、決定的に僕達は違っていたから。そして彼女は、僕に生きる意味を与えてくれたから。 彼女に必要とされている限り、僕は生きていける。生きている意味がある。 逆に必要とされなければ、その瞬間に僕の生きている価値など無くなってしまうのだ。 それほどに、僕にとって彼女の存在は大切だった。 明確な理由は語れば語るほど意味がなくなるもので、だから曖昧な感覚しか伝えられないのがもどかしい。簡潔に表すのなら『好き』だというその一言しかなくなってしまう。 でも、それで良いのかもしれない。 僕達の繋がりは、彼女にその力がある限り、決して切れる事は無い。僕は彼女の想いを直接感じ取り、彼女もまた僕の想いを感じる事が出来る。 それが自覚的か無自覚かの差だけの話だ。 彼女に出会えなければ、僕はとうの昔に自殺していただろう。 例え、彼女に力を与えられる事が無かったとしても、僕は結局生きる目的も意味もなく、死んでいるのと変わらない生活を送っていたに違いない。 だから今、僕は『幸せ』だと言えた。 周囲の人々に嘘をつきながら、それでも僕は彼女のために生きられるのが『幸せ』だった。 あとは約束を果たすだけ。 いつか必ず、彼女に会いに行くと約束したから。 きっとその時は、彼女のほうから僕を見つけてくれる。 そう確信していた。 Fin |