一年に一度の口実



 一月ぶりに帰ってきた日本は、既にもう懐かしい感じがする。
 空気はすっかり春めいて、桜は殆ど散ってしまっているけれど、それでも感じるのは春の香りだ。
 そもそも、こんなに早く帰ってくるつもりは無かったのだ。帰ってきたところでまたすぐにウィーンに戻らなければならない。
 それでも、一日だけでも。
 会いたいと、そう思って飛行機に飛び乗ってきてしまった。
 帰ってくることを誰にも告げず、足が向かうのは吉羅さんのマンションで。
 出発する前に貰った鍵を初めて使って、中に入る。
 しんと中は静まり返って、誰も居ない。
 平日の昼間なら、働いていて当然だ。
 リビングに置いてあるソファに腰を下ろす。
 持ってきた鞄から携帯を取り出して、吉羅さんにメールを送ろうか、と考えたけれど結局また鞄に仕舞いなおす。
 今は仕事中だろうし、邪魔になったら悪い。
 ウィーンに出発する前に携帯のアドレスを教えて貰ったけれど、結局一度も自分から連絡を取った事はないし、吉羅さんからかかってきたことも無い。
 連絡しよう、と何度も思ったけれど、時差だとかまだ別れて大して経ってないじゃないかとか、迷惑ではないだろうかとか、そんなことを考えて、結局メールも電話も出来ないまま。
 それで結局、我慢できずに会いに来ているのだから、本当に、何をやっているんだろう。
 ふ、と息を吐いて、眼を閉じる。
 吉羅さんが帰ってくるまでにはまだ時間があるだろうし、少し此処で眠っても良いだろうか。飛行機の中でも仮眠は取ったけれど、あまり休めた気がしない。
 眼を閉じれば、随分静かだとは思っていたけれど、遠くに外の喧騒や鳥の声が届く。
 それが酷く安心できて、そのまま眠りに落ちた。


 次に目が覚めた時には、もう周囲は暗闇に包まれていた。
 明かりをつけて、今何時だろうと時計を見れば、もう八時を回っていた。随分と眠り込んでいたらしい。
 吉羅さんが帰ってくるのはもう少し後だろうか。
 そう考えた時、玄関のドアが開かれる音がした。途端に緊張して、何故か後ろめたい気分になる。知らない家に不法侵入でもしているような、そんな気分。
 かと言って逃げる場所もなく、吉羅さんはすぐにリビングに辿り着く。
「月森君?」
「はい」
 名前を呼ばれて、酷く掠れた声で返事をした。
 一ヶ月ぶりだ。
 顔を見るのも、声を聞くのも。
 何を言えばいいのか解からなくて、ただ吉羅さんを見詰めて。
 会いたかった。
 声を聞きたかった。
 そんな簡単な言葉すら、喉元から出てこない。
「どうしたんだ。ホームシックにでもなったのかね?」
 そんな俺に、酷く優しい声で問いかけてきて。それが嬉しくて、自然と答えが口から零れ落ちた。
「そう、かも知れません」
 ホームシックというのとは、少し違うのかも知れない。でも、吉羅さんは此処にいつでも帰ってきて良いと言ってくれた、此処が俺の帰る場所だと言うのなら、ホームシックでも間違ってはいないのかも知れない。
「今日、どうしても、吉羅さんに会いたくて。我慢出来なかったんです」
「…そうか」
 吉羅さんはただ頷いて、それから俺にソファに座るように促してくる。
「夕食はもう食べたか?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、何か作ろう。食べたいものはあるか?」
「吉羅さんが、作ってくださるんですか?」
 少し驚いてそう尋ねると、肩を竦められた。
「そんなに意外かな。これでも一人暮らしは長いのでね、一通りの家事くらいは出来る」
 それはそうなのかも知れない。
 俺もウィーンに留学してからは、自分のことは自分でと思ってやっているけれど、未だにちっとも上達しないのだが。
「それで、何か食べたいものはあるか?」
「いえ、あの……今はそれよりも、隣に来てもらっても、いいですか?」
 俺がそう言うと、吉羅さんは何も言わずに隣に座ってくれる。
「それで?」
 そう聞いてくる吉羅さんにそのまま、キスをする。何度も何度も触れるだけのキスを交わすと、吉羅さんが苦笑いを浮かべる。
「どうした、今日は随分積極的だな」
「今日は、俺の、誕生日なんです」
「ああ…そうか。おめでとう」
「有難う御座います」
 何か得心したように頷いて、祝いの言葉を告げてくれる吉羅さんに、俺も素直にお礼を言う。
 そう、誕生日だから会いたくて、それを口実にして。
 どうしても触れたくて。
 帰ってきてしまった。
 時折、ウィーンに発つ前にあった事が夢のように思えて、確かめたくて。
 もう一度キスをして、そのまま吉羅さんをソファの上に押し倒す。
「あの、吉羅さん…」
「今日は君の誕生日なんだろう、好きにしなさい」
 そんな吉羅さんの言葉と、伸ばされて頬に触れる手に促されて、そのまま理性を手放した。



「それで、ウィーンに戻るのはいつなんだ?」
 行為が終わって、気だるそうにソファに腰掛けて吉羅さんが聞いてくる。
「明日の昼の便で戻ります」
「それでは、あまりゆっくりしている暇は無いな」
「はい」
 吉羅さんに会いたくて、殆ど無理矢理日本に戻ってきた。
「次からは、帰ってくる前には一度連絡が欲しいものだがね」
「すみません、何となく、電話もメールもし辛くて…吉羅さんも忙しいでしょうし、迷惑になったら、と」
「そんなものは気にしなくて良い。忙しい時は出ないし相手をしないがね」
「はい」
 むしろ、その方が良い。
 吉羅さんの邪魔になるよりは、ずっと。
 そう言ってくれたほうが、無理をして相手をしてくれるよりはずっと良い。
「次は、連絡します、必ず」
「そうしてくれ。私も、気が向けば電話するから」
「はい」
 そっと優しく頭を撫でられて。
 そのまま甘えるように吉羅さんに抱きついた。
 きっとこんなことが出来るのは今日だけだ。誕生日だから、と自分の心に言い訳して。
 一年に一度だけのことだから、と。
 そして、一時のこの幸せを、噛み締めよう。



Fin





小説 B-side   金色のコルダ