星月夜



 はあ、と息を吐けば視界が白く濁って、改めて寒さを実感してぶるりと体を震わせる。
 コートの上からでも、じわじわと寒さは侵食してきていて、さっきまで飲み屋で飲んで熱いくらいに火照っていた体は、真冬の夜の住宅街を歩いていくうちにあっという間に冷えていく。
「なあ、やっぱりタクシー拾ってこうぜ」
 前を、ぴんと背筋を伸ばしたまま歩く同行者に声を掛ければ、くるりと振り返る。こっちは寒くて身を縮めているというのに、こいつは寒くないのか、と思わずにはいられない。
「マンションまで、それほど歩く訳でも無いでしょう。この程度でタクシーを使うなんて無駄でしかありませんよ」
「俺より金持ってるクセにケチくさいこと言うなよ…」
 元々金持ちのお坊ちゃんで、投資顧問だか何だかをして個人でも相当稼いでいた上に、今は学院の理事長で、つまりは俺の雇い主、だ。
 使うところでは惜しみなく金を使うくせに、こういう時には一銭も払おうとしない。
 今日は吉羅のマンションから程近いところで飲むことになったから、車も置いてきた。此処はもう少し遠めの場所を指定して、運転代行を頼んで車でぬくぬくと帰るべきだったか、と若干後悔する。
「ケチも何も。あと五分も歩けば着きますよ」
「その五分が辛いんだよ、年寄りにこの寒さはな」
「年寄りって、私と二歳しか違わないでしょう」
 呆れた顔をしてそう言う吉羅の吐く息も白い。
 吉羅が振り返った拍子に思わず立ち止まってしまったが、止まっていると余計に寒いから、また歩き始める。
「二歳違いは意外と大きいんだぞ。つーかお前は寒く無いのか」
「寒くない訳では有りませんが、我慢できない程でもありませんね。それに、こういう寒い夜に外を歩くのも悪くない」
「酔狂なやつだな」
 こっちは早く家に入って温まりたいよ。
 これから行くのは俺の家じゃなくて、吉羅の家だが。もう帰るのが面倒だから泊まるつもりで居る。帰るのも寒い。しかも誰も迎える者の居ない家に一人で帰るのは侘しい。
 今度は俺が先を歩きながら、吉羅が半歩後ろを着いてくるのを横目で見る。
 当の吉羅は顔を上向けて目を眇めた。
「ほら、今日は綺麗な星月夜ですよ」
「……」
 ぽつりと呟かれた言葉に、俺も顔を上げて夜空を見る。
 満月に近い丸々とした月と、瞬く星。寒い所為で空気が澄んでいるのか、確かによく見える。
 自然とまた立ち止まってしまったが、一瞬寒さを忘れて見蕩れた。
 こういう風に空を見上げたのは、久しぶりな気がする。
「確かに、綺麗だなあ」
「だから、悪くない、と言っているんです」
 隣に立ってそう言った吉羅に視線を移せば、柔らかい笑みを浮かべていた。
 ああ、こっちも綺麗だな。
 普段、あまりこんな風に笑った顔は見せないだけに。
 確かに悪くない、と思う。
 しかし、ひゅう、と風が吹き抜けていけば、改めて寒さを思い出して、矢張り立ち止まっているのは辛い。
「悪くないけど、早く行こうぜ。流石にあんまり外にいると風邪ひくぞ」
 そう言って、ポケットに突っ込んでいた手を取り出して、吉羅の手を掴む。元々俺より体温は低いけれど、普段より更に冷たい。
「本気で冷えてるぞ、お前」
「そういえば、手袋は持って来なかったですね」
「いや、俺も忘れてたけどな」
 でも、手を繋ぐなら手袋越しよりは直接が良い。
「いくら夜で人通りが少ないとはいえ、手なんか繋いで良いんですか」
「良いだろ、酔っ払いのする事だ」
 手を引いて、歩き出す。
 じわりと、繋いだところから熱が生まれる。
 冷えた手が温まってくる。
「お前が嫌だって言うんなら放すけど」
「嫌じゃありません」
 ぎゅっと、繋いだ手に力が篭って、思わず笑う。
 まるで、放さないで欲しいとでも言うように。勿論、放すつもりも無いが。
 せめてマンションの前に着くまでは、このままで良いだろう。
「着いたら飲みなおそうぜ、寒いし」
「はい」
 吉羅が頷いて、それからまた空を見上げる。
 吐く息は白くて、月も星も綺麗だ。
 悪くない、こうして手を繋いで、歩くのも。
 普段は出来ないからこそ、今ぐらいは、酔った所為にしたって良い。
 どうせ見ているのは、月と星だけなんだから。


Fin





小説 B-side   金色のコルダ