名前で呼んで



 唇が触れ合い、吐息が交じり合う。
 キスを交わして、金澤さんの袖に縋りつく。
「ふ……んっ…」
 何故、こんな状態になっているのだったか、と考えてみても、たった数分前のことが思い出せない。それよりも、口内に押し込まれた舌の動きだとか、抱き締めてくる腕の強さだとか、そちらの方にばかり意識がいってしまう。
 マンションの部屋の、ソファの上で。
 確か、外で飲んでいて、飲み直そうと此処に来て。
 水割りを一杯、お互いに飲んで。
 それから。
 何を、話していたのだろう。
 思い出せない。
「何、考えてるんだ」
「別に…」
 キスの合間に問いかけられて、何を考えているか、なんて聞かれたところで。
 結局、大したことは考えていない。
「こういう時に、余計なこと考えるなよ」
 また唇が重なって、次第に深くなる口付けに、思考も融ける。
 どうしても、この人のキスには、弱い。
 翻弄されるばかりで、偶にはこちらからも積極的になろうとしても、結局主導権は握られて、されるがままになってしまう。
 それが、気持ち良いのだから、別に良いか、などと考えて。
「ん……か、なざわ、さん…」
「……」
 キスの合間に名前を呼ぶと、不意に唇が離れて、一体どうしたのかと思う。
 名残惜しくて、まだ終わって欲しくは無くて、終わるにもまだ、早い。
「…金澤さん?」
「お前さ、俺の名前、呼んでみろよ」
「金澤さん?」
「そうじゃなくて…下の名前。紘人って」
「…え?」
 突然のことに、一瞬、思考が停止する。
「何故、ですか?」
「何故って……恋人同士なんだから、名前で呼んだって良いだろ。いつまでも『金澤さん』じゃ他人行儀だろうが。なあ、暁彦」
「…っ」
 ふっと、耳元で名前を囁かれて、身を竦める。
 身体が、熱くなる。
「な…っ」
「別に、難しいことじゃないだろ?ほら」
 金澤さんの手が、するりと頬を撫でて、促してくる。
 名前。
 金澤さんの、名前。
「ひ…」
「ひ?」
「ひ、ひろ……ひ……〜〜〜〜っ」
 呼ぼうと、口を開いて、けれど、どうしても、耐えられない。
「無理、ですっ」
「無理って、何で?」
「だって…」
 今更。
 ずっと、金澤先輩、金澤さんと、そう呼んできて。
 下の名前でなんて、想像した事すら、無くて。
 恥ずかしい。
「名前で、なんて……呼べません」
「……俺は聞きたい」
「…っ」
 触れるだけのキスをされて、顔を覗き込まれて。
 金澤さんが呼んで欲しいと言うのなら、できるなら、そうしたいと思うけれど。
 紘人。
 名前を、頭に思い浮かべて。
 呼ぶ自分を想像して。
 それだけでもう、駄目だ。
 顔と言わず、体中が熱くなるほどに、恥ずかしい。
 名前を呼ぶ、それだけのことが、どうしようもなく。
 今の自分の顔は、酷く赤いのだろうと、そう思うけれど、抑えようもなくて。
「………仕方ないな」
「…金澤、さん」
「今日はその、可愛い顔に免じて許してやろう」
「かわ…っ」
 何が可愛いものか、と思うけれど。
 再び合わさった唇に、言葉も、思考も呑み込まれて。
 どさりと、ソファの上に押し倒されて、その背中に腕を回して、縋りつく。
「ん…っ…ふ……ぅ…」
「まあ、名前で呼ぶのは、ゆっくり、な…」
 呼ばない、という選択肢は無いらしい。
 暁彦、とまた囁かれて。それだけで、身体が熱くなって、何もかもがぐずぐずに融けてしまいそうで。それでも、嬉しいと思ってしまう。
 だから。
 名前を呼ぶのは恥ずかしいけれど、それでもちゃんと呼べたら、この人は喜んでくれるのだろうか、と思えば。
 いつかは呼んでみたい。
 今は、どうしようもなく、恥ずかしくて。
 とても呼べたものではないけれど。
 いつか、ちゃんと。
 あなたの、名前を。


Fin





小説 B-side   金色のコルダ