熱の行方



 アルコールが喉を灼く。
 喉だけでなく、食道を通り、胃までくだって体を内側から灼くのだ。
 その感覚が好きだ。特に度数の強いものが良い。あまり飲みすぎると五月蝿く言ってくる奴が側に居たりもするが、ストッパーが居るということは、逆に自分で加減を気にせずに飲めるということでもある。
 しかも、いつもは適当な店で飲んでいるが、今日はゆっくり飲もうということで、ストッパーであるところの吉羅の家に来ている。しかも明日は休日。
 それこそ何の遠慮も無く飲めるというものだ。
「ペースが早いですよ、金澤さん」
「そうかあ?」
「そうです。それ、もう四杯目でしょう」
 俺が持っているウィスキーの入ったグラスを指して言う。
「数えてないから知らん」
「知らないって…自分が何杯飲んだのかぐらい、覚えておいてください」
「別に良いだろ。俺が数えてなくても、お前がちゃんと数えてんだから」
「私は、あなたの世話係じゃありませんよ」
 不機嫌そうな顔をしているが、見た目ほどそうではないのは長い付き合いで解かっている。半分は照れ隠しのようなものだ。
「解かってるって」
 俺の気の無い返事に対して、呆れたような溜息を吐く。言うだけ無駄だとでも思ったんだろう。
「……何か、つまめるものを作ってきましょう。飲んでいるばかりでは駄目ですよ」
「おお、そりゃ良いな」
 お互いそれなりに一人暮らしが長いせいもあって、そこそこの料理の腕はある。安心して任せられるというのは良いものだ。
 吉羅はキッチンに向かい、俺は変わらずに酒を飲む。
 五分もすれば戻ってきて、小皿を俺の前に置く。
「お、サンキュ。……うん、こりゃ美味いな。酒にも合う」
「金澤さんは辛口のものの方が好きですからね。酒を飲む時は特に」
「流石、よく解かってるなあ。お前ならいつ嫁に来ても良いぞー」
 まさしく至れり尽くせりな状態に、気分も良くなり、ついつい軽口をたたく。
 吉羅はそんな俺の様子に苦笑いを浮かべ、それでも軽口を返してくる。
「そうですね。私よりも年収が上になったら考えても良いですが」
「む…、ハードルが高いなあ、お前」
 こういうやり取りが心地良い。こうしてこいつと飲むのは好きだ。当然のように寛げる空気とか、何だかんだと気が利くから、何もしなくても安心して飲める。
 多分、こいつのこういう所に、俺は甘えているんだろう。
 何も話さなくても落ち着けて、話す時は自然と望んだ答えが返ってくる。
 三人がけのソファを二人でゆったりと腰掛けて、落ち着く空気に身を委ねて、ただ流れる時を満喫する。自然と酒も進むし、ツマミも減る。
 そんなだらだらと、贅沢な時間をどれだけ過ごしただろう。不意に右肩に重さを感じてそちらを見れば、吉羅がもたれかかってきていた。
「おい、吉羅?なんだ、酔ったのか?」
「ん…」
 問いかけには吐息だけが返ってくる。薄く目を開けているから、起きてはいるようだが、意識は随分とぼんやりしているらしい。それにしたって、こいつが俺より先に酔うなんて珍しい。
「どうしたんだ?そんなに飲んでないよな、お前」
 少なくとも、俺よりは飲んでない筈だ。
 しかし、聞いたところで答えは返ってこない。肩に乗せられた頭から伝わってくる体温は、酒が入っているせいか、熱い。
 そういえば、こうして飲むのも随分と久しぶりだ。此処最近、学院の建て直しのために忙しくしていて、ろくな休みも無かったと言っていた。働くことが苦になるタイプでは無いにしろ、疲れが溜まっていてもおかしくない。
 そのせいで、いつもより酒の回りが早かったのか。
「おい、吉羅、ここで寝るなよ、ベッドに行け」
「……」
 反応が無い。駄目だなこりゃ。
 寝室まで、それほど遠い訳ではない。
「めんどくせえなあ」
 そう漏らしながら、それでもいつも面倒を見させているのはこちらの方だ、こういう時ぐらい面倒でもちゃんと世話をして返してやらんといかんだろう。年上としての尊厳にも関わる。
 まあ、酔って絡むタイプじゃないだけ、有り難い。
「ほら、立てよ。ベッドに行くぞ」
 腕を肩に回して立ち上がる。少しふらついたものの、完全に寝ている訳ではないから、吉羅も何とか立っててくれている。これで完全に意識が無かったら、更に大変だっただろう。
 半ば引きずるようにして、寝室に移動する。覚悟していたよりは軽いが、それでも重い。
「ほらよ、っと」
 放り投げるようにしてベッドに寝かせる。酔っているんだから、多少に乱暴にしたところで気づかないだろう。
「んっ…」
 少しだけ苦しそうに息を吐いた後、吉羅はシーツに懐くように頬をすり寄せる。冷たいから、アルコールで火照った体には気持ち良いんだろう。
「いつもこんなんだったら、可愛げもあるのになあ」
 呟きながら、シーツを被せてやる。
 何だかんだといつも憎まれ口をきいてくる後輩を、それでも嫌いになれないのは、こういう瞬間があるからだと思う。
 邪魔そうな前髪を掻き分けて、額に手を当ててやると、薄く目を開いた。
「吉羅?」
「気持ち良い…」
 本当に気持ち良さそうに呟いて、微笑を浮かべる。
 確かに、普段は俺より体温が低いぐらいだが、酒が入っているせいでか今は少し熱いぐらいだ。そりゃ俺の手も気持ちよく感じるだろう。
 が、いつまでもこのままにしてたって仕方ない。
 手を離そうとすると、引き止めるようにしっかりと手を握られた。
「おいおい」
 正直俺はまだ飲み足りない。こいつを寝かせたら飲み直すつもりで居たというのに。
 もう一度腕を引くと、矢張り引き止められる。無理矢理引き剥がすことも出来るだろうが…。
「しょうがねえなあ」
 幸いと言うべきか、吉羅のベッドはセミダブルで一人で寝るには広いぐらいのものだ。詰めれば二人で寝るぐらい出来るだろう。
 手はそのままに、吉羅を跨いでスペースのある奥の方へと良く。広々というほどでは無いが、窮屈でもない。寝るには少し早い気もするが、まあ良いだろう。吉羅の整った寝顔をぼんやりと眺め、そして俺も目を閉じた。



 目を開いた瞬間、視界に飛び込んできた顔に心臓が止まりそうになる。
 状況の把握が出来ずに混乱する。
 何故、目の前でこの人が寝ているのか。昨夜の記憶を必死に手繰り寄せる。
 確か、昨夜はこの人と一緒に部屋で飲んでいたはずだ。つまみを作って、その後もゆっくりと飲んでいた。酔うほどの量では無かった筈なのに、途中でぷっつりと記憶が途切れている。
 記憶を失うほど飲んだことなんて、殆ど無いというのに。
 特に金澤さんと居る時は、自分が何を口走るか解からない状況にはならないよう、細心の注意を払ってきた。
 それがどうして。
「んー?何だ、もう起きたのか?」
 動けないまま思考をめぐらせている間に金澤さんも起きたらしい。大きく口を開けながら欠伸をする。
「まあいい、起きたんなら、とっとと手を離してくれ」
「手…?」
 言われて自分の手を見れば、しっかりと金澤さんの手を掴んでいた。
「っ、すみません!」
 慌てて手を離すと、金澤さんはにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「ほんとになあ。困ったんだぜ、俺の手が気持ち良いから離さないでーって」
「なっ」
「俺は離そうとしたのに、お前が離してくれなくてなあ…、しょうがないから添い寝してやったんだぜ?」
「何を、馬鹿な…っ」
 何か反論をしようと思うものの、実際に手を掴んでいたのは事実だ。恐らく似たようなやりとりはあったのだろう。それを大袈裟に言ってからかっているだけだ。
「でもまあ、そっちの方が普段より可愛げがあるよな。いつもそれぐらい素直だと良いのになあ」
「いい加減にしてください!」
 真に受けて反応するだけ、この人は喜ぶだけだ。解かっていても、黙って聞いていられない。そしてそれが解かっているから、この人はからかってくる。
 聞き流せればいいのに。
 昔よりもそれは出来るようになったのに、ふとした時にそれが出来なくて困る。特に今みたいに不意をついたような状況では。
 兎に角、落ち着かなければ。
「何だよ、照れなくたって良いだろ?」
「照れてません。昨夜はご迷惑をおかけしたようで申し訳ありませんでした。…もう良いでしょう、余りからかわないでください」
「…なんだよ、怒ったのか?」
 金澤さんが宥めるように私の手を掴む。
「別に、怒っていません。…今日は人と会う約束があるんです。朝から無駄に気力を使わせないでください」
 そう言って振り払い、ベッドから立ち上がろうとすると、一瞬目が眩む。まだ昨夜の酒が残っているのだろうか。シャワーでも浴びればすっきりするだろう。
 そう思って一歩踏み出したところで、腰を掴まれ、勢い良くベッドに引き戻された。
 また、心臓が止まりそうになる。
 背中に、金澤さんの体温を感じれば、尚更。
「な、にをするんですか!」
「ちょっと黙ってろ」
 低い声でそう言われ、反論する間もなく後ろから回された手が額に当てられた。
 冷やりとした感触に思わず体が強張る。
「……やっぱり。お前、熱があるぞ」
「え?」
「気持ち悪いとか喉が痛いとか、くしゃみが出るとか、そういうことは?」
「い、いえ…特には」
「じゃあ熱だけか?酒の回りが早かったのも疲れじゃなくて熱のせいか。いや、熱の原因が疲労からか?風邪じゃなさそうだな」
 ぶつぶつと呟いて唸っているが、こちらはそれどころじゃない。朝から二度も心臓が止まりそうな目にあっている。それこそ体に悪いことこの上ない。
 今だって、心拍数が常より多いのは多分熱のせいだけじゃない。
「どうした、顔が赤いぞ。って、熱があるから当然か」
 熱のせいではなくとも、今はそう思ってくれるのが有り難い。何れにしろ、腰と額に当てられた手を離さなければ。
「いいから、離してください。出掛けないといけないんです」
「馬鹿かお前。熱があんのに何言ってんだ。予定なんてキャンセルしろよ」
 早く離れようとして言った言葉は、更に力をこめて押し留められる結果となった。冷静になって考えれば当然の結果で、頭が回っていない。これは、本当に熱のせいかも知れない。
「いいから、離してください。それからキャンセルも出来ません。仕事なんです、他に悪い場所もありませんから、大丈夫ですよ」
「何言ってんだ、熱だけで十分だろ。疲れが元だろうに更に働いて倒れたらどうするんだ。過労死なんて洒落にもならんぞ」
「大袈裟ですよ。それに、それ程時間のかかる用件でもありませんから」
 何が何でも行かせない、と言うように腰に回された手に力がこめられて、心配してくれているのだと思えば嬉しくもあるが、妙な期待をしてしまいそうになって困る。
 この人の好意は決して後輩、友人に対する以上の意味は無いというのに。
「時間、どれくらいだ?」
「二時間もあれば、行って帰ってこれます」
 金澤さんは少し考えた後、腰に回していた手を離してくれた。それにほっとすると同時に、少し寂しくもある。
 贅沢な話だ。
「待ち合わせは?」
「十時です。シャワーを浴びて、もう出ないと」
「シャワー?」
 時計は既に九時前になっていて、若干焦りが生まれる。
 金澤さんはシャワーという言葉にまた眉を顰めたが、これも妥協するわけにはいかない。
「アルコールの匂いをさせて会う訳にはいかないでしょう」
「しょうがねえな…」
 納得はしていないようだが、一応許してはくれるらしい。
 ベッドから立ち上がれば、またくらりと目が眩む。これも熱のせいか。
「熱計れよ」
「…帰ってきてからで良いです」
 数字を見たら余計に疲れそうだ。
 そのままシャワーを浴び、酒の匂いを落とす。リビングもあのままだが、片付けはまた後で考えよう。
 シャワーを終えて、スーツに腕を通す。それだけで身が引き締まって、幾分意識がすっきりする。熱を気にしている場合ではない。
「もう行くのか」
「ええ。あまり時間もありませんから」
「俺はここで待ってるから、すぐに帰って来いよ。寄り道しようなんて考えるな」
「金澤さんこそ、予定は無いんですか」
「無い。だから此処で休日を満喫するつもりだぜ」
「…解かりました」
 私が無理をしないかと気にかけてくれているのだろう。言い方は素直じゃないが、そういう意味だ。
「あと、車じゃなくて交通機関使えよ」
「…はい」
 本当に、心配して気にかけてもらえるのは嬉しい。少なくとも、それだけの好意は持っていてくれているということだ。
 でもだからこそ、『今』を壊したくはない。
 何も気取られぬよう、いつも通りに。
 たとえどんなに想っていても、叶う筈など無いなのだから。



 吉羅が出て行くのを見送って、思わず溜息を吐いた。
 失敗したな。
 そう思う。
 昨夜のうちに気づくべきだった。
 いくら酒を飲んでいたからって、それはこちらも同じことだ。体温が常より上がっていたのもお互い様で、それでも熱く感じたことに違和感を持つべきだった。
 さっき、一度離した手をもう一度握るまで全く気づかなかった事が、失敗だったと思う。
 気づいていたら何か変わっていたか、と問われればそれは解からないが。それでも多分、気の遣い方は違っただろう。
 最近忙しかったのは知っていたし、それも分割案を撤回したことによるものが大きい。本人は忙しさ自体を苦とも思っていないようだが、クリスマスコンサートの時など、どちらかといえば生徒の味方というスタンスだっただけに、今の吉羅の忙しさも、そのせいで熱を出したことも責任を感じずにはいられない。
 兎に角、今俺に出来ることをしよう。面倒だなどとは言っていられない。
 そしてまず吉羅が居ない間にするべき事と言えば、
「片付け、だな」
 飲みっぱなしの状態で寝ちまったもんだから、ウィスキーのボトルもグラスも、つまみの入った小皿もそのままだ。
 まずはそれを片付けて、後はあいつが帰ってくる前に何か栄養のあるものを作ってやろう。
 冷蔵庫には一通りのものが入っているし、こういう時に腕を振るわなければ意味が無い。
 頭の中で何を作るか考えながら、リビングのテーブルの上を片付け、それを終えると準備にかかる。
 まっすぐ帰って来いと言っておいたし、ちゃんとそう帰って来るはずだ。それに間に合うように作ってしまおう。
 作っている間に二時間なんてすぐに経ってしまう。

 ちょうど仕上げの段階になった所に吉羅が帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「お、お帰り。もうすぐ出来るから、熱測って座って待ってろ」
「は、あの」
「良いから。体温計は?」
「そちらの棚の引き出しに」
 言われた棚を開けてみるとすぐに見つかった。それを吉羅に渡し、ソファに座らせる。
「ほれ、ちゃんと測れよ」
「金澤さん」
「あ、冷蔵庫の中のもの勝手に使ったけど、良いよな?」
「それは、構いませんが…」
「じゃ、ちょっと待ってろ」
 吉羅が言いたいことも聞きたいことも何となく解かってはいるが、そんなものは後で良い。
 さっさと作り終えて、テーブルの上に料理を並べる。基本的に食べやすくて、胃に優しい、プラス栄養のあるものを、と考えて作った物だ。
 味だって悪くないはずだ。
「熱はどうだった?」
 聞くと無言で体温計を差し出してきたので、それを見る。
「38度3分…。お前、平熱いくつだっけ?」
「35度4か、5くらい…でしょうか」
「相当辛いだろ、これ」
 平熱との差がありすぎる。吉羅の額に手を当てると、矢張り相当熱い。これは本当に早く休ませないと。
「なんにしろ、食って薬飲んで寝るこったな。ほれ食え」
「…頂きます」
 多分言いたいこともあるんだろうが、全て飲み込んで食べ始めた。俺も食べよう、朝から何も食ってない。
 元々それほど量も多くなかったから、すぐに平らげる。吉羅の方も食欲が無い訳では無いらしく、ちゃんと全部食べきった。
「美味かったか?」
「はい」
 聞けば素直に頷く。
 元々口数の多い方ではないが、今は更に口数が減っている。それだけ疲れているということだろう。
「あとは薬だな。体温計と同じ棚で良いんだよな?」
 こくり、と頷く。それを確認してから、その棚の引き出しを開ける。いくつか風邪薬の常備もあるようだが…解熱効果のあるものじゃないと駄目だよな。そもそも風邪って訳じゃなさそうだからどれくらい効くか解からないが。
 あまり考えても仕方無い。効能に解熱が書いてあるものを選んで水と一緒に吉羅のところに持っていく。
「ほら、飲めよ」
「…すみません、何から何まで」
「良いんだよ、こういう時は素直に甘えろって」
 ぽんっと軽く頭の上に手を置く。吉羅は嫌がるそぶりもせずにされるがままだ。
「ほら、着替えて寝ろよ」
 薬を飲んだら後は寝るだけだ。
 言うと頷いて立ち上がる。瞬間、ふらついたのを支えてやると、申し訳無さそうに謝った。
「すみません」
「だからいいって」
 そのまま支えて寝室に向かうと、ベッドの上に座らせる。随分とだるそうだ。また熱が上がっているのかも知れない。
 これでよく出かけられたもんだ。
 ほぼ俺の言われるがままになっているのもその所為だろうが、それが何となく面白い。
「せっかくだから、着替えも手伝ってやるよ」
「…っ、いいです、それは自分で出来ます」
「何言ってんだ。歩くのだってふらついてたくせに。遠慮すんなって」
「遠慮じゃなくて…っ」
 流石に抵抗する吉羅に、何となく楽しい気分になって、ネクタイを外しにかかる。吉羅は俺の手を振り払おうとするが、どう考えたって俺の方に分がある。
 何とか逃れようとする吉羅と、そのまま脱がせようとする俺は、そのままベッドに倒れ込む。ようするに俺が押し倒したような格好だ。
 此処で冷静になればよかったが、全くおふざけ気分が抜けなかった。
「ほらほら、観念しろよ〜」
「ちょっ、ふざけないでくださいっ!」
 不意に手が脇腹を掠めるとびくりと面白いぐらいに体が跳ねた。そしてやっぱりそれが面白くて、しつこく其処をくすぐり出す。
「か、なざわさ…っ、ちょっと、ふざけ、すぎ…っ、です!」
「ははは〜、お前はそもそも笑顔が少ないんだ。素直に笑え〜っ!」
 明らかに病人にする事では無いと解かっているが、敏感な反応が面白くて止められなかった。
 だから、その先も完全に調子に乗ったおふざけだった。
「金澤さ……、ん…っ」
 唇を押し付けるだけのキスだ。
 吉羅の方にしても、嫌がってみせるか、怒るか、せいぜいどちらかの反応だろうと思っていた。
 だから、つ、と目尻から零れた雫を見て、心底、慌てた。
「うわ、悪い!ちょっとした冗談だ、な?だから泣くな!」
 それこそ慌てて吉羅から離れ、自分が一体どんな体勢だったか思い至り、何をやっているんだ、と更に慌てる。
 泣き顔を見ていられなくて目をそらす。
「俺は向こう、片付けてくるから、着替えとけよ!」
 逃げるように寝室から出てドアを閉め、その場に座り込む。
「何やってんだ、俺」
 学生時代ですら、ふざけてもキスなんてしたことは無かったというのに、魔が差したとしか思えない。
 そして泣かれたのもショックだった。
 今まで、吉羅の泣き顔なんて一度も見たことが無かったのに。
 それほど嫌だったのかと思えば、それはそれで流石に凹む。
 まあ、自業自得だが。
 ……本当に、何をやってるんだろう、俺は。



 何が起こったのか、解からなかった。
 あの人が、ふざけていたのは解かる。だが、それにしたって、どうして。
 冗談、悪ふざけ。
 あの人にしてみれば、あのキスもその範疇なのだろう。
 ゆっくりと身を起こして、口元を押さえる。唇の感触を思い返して、かっと体が熱を持つ。
 ぽとり、と涙が膝に落ちて染みを作った。
 まだ、涙は止まらない。
 ぐいっと袖で涙を拭う。けれどまたすぐに溢れてくる。
 止まらない。
 解からない、どうして止まらないのだろう、泣いてしまったのだろう。
 いつもの悪ふざけと同じように受け流せばそれで良かったはずなのに、それが出来なかった。
 きっと、熱のせいだ。
 熱があるから、冷静な判断が出来ないだけだ。
 そうでなければ、おかしい。
 悪ふざけでも、キスしてもらえて嬉しい、なんて。
 そしてそれ以上に、苦しくて痛くて、仕方が無いなんて。
 早く、止めなければ。あの人は片付けてくると言っていた。着替えておけと。だから、また戻ってくるだろう。
 着替えれば気分も変わるだろうか。
 ふらつく足で立ち上がり、着替えを取り出す。涙で視界が霞む中、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。

 服を脱いで着替えても、気分は変わらなかった。涙も止まらない。
 熱は、上がったような気がする。
 そのまま、ベッドに倒れ込む。冷たいシーツの感触が気持ち良い。
 でも止まらない。
 止まらない、止められない。
 あの人が戻ってくる前に何とかしなければならないのに。戻って来てもまだ泣いていたら、流石におかしいと思われるだろう。
 気づかれるかも知れない。
 けれど、何度拭っても止まらない。涙腺が壊れてしまったようだ。
 金澤さんの前で泣いたことなんて、今まで無かったのに。学生時代も、姉さんが死んだ時も。
 泣いたことなんて、無かったのに。
 こんなことで。
 その状態のまま、暫く呆けていると、ドアが開かれた。金澤さんが戻ってきたのだ。
 駄目だ、こんな状態の顔を見せる訳にはいかない。慌ててドアから顔を背ける。
「吉羅?もう寝たのか?」
 金澤さんがこちらに歩いてくるのが気配で解かる。駄目だ、来ないで欲しい。
「吉羅?」
 肩に手を置かれ、思わず体が跳ねた。これでは、起きていると言っているようなものだ。
「おい、吉羅。こっち向け」
 ぐっと肩を掴まれて、振り向かせられる。泣いている顔は、隠しようが無い。
「吉羅、お前」
「何でもありません」
「何でも無いって」
 必死に顔を背けようとしても、肩を掴まれたままでは隠しきれるはずも無い。顔を見られないように腕で隠そうとするが、その腕も掴まれる。
「本当に、何でもありませんから。…見ないで、ください」
「吉羅っ!」
「熱のせいです、だから…っ」
「おいっ」
「だから、何でも、無いんです」
 必死の言い訳は、逆に何かあると言っているようなものだ。解かっていても、言わずにはいられなかった。
 どんな顔で、自分を見ているのか知りたくなくて、目を瞑る。掴まれていない方の腕で涙を拭おうとすれば、その手もまた止められた。
 次の瞬間、何かが伝う雫を拭い取る。
 指、じゃない。
 金澤さんの手はそれぞれ、私の腕を掴んでいる。
 思わず目を開けると、金澤さんの顔が間近にあって、舌が、溢れる涙を舐め取った。
「なっ、な、に…っ」
 何が起こっているのかわからないまま、金澤さんを押しのけようとするが、そもそも状況の把握が出来ていないために余り力が入らない。そうでなくても熱の所為でふらついているような状態では無理だっただろうが。
「や、めて、くださいっ」
 避けようとして顔をそらしても、そちら側が舐められるだけだった。
 もう、本当に訳が解からない。
 零れる涙を舐め取る舌は頬を辿り、目尻を吸って、また頬を辿って、唇に触れる。
「んっ…ん…っ!」
 今度は、触れるだけのものとは違う。舌が、唇をなぞり、口の中へと入ってくる。顔を逸らして逃げようとしても、そのまま追いかけられ、舌を絡め取られる。
「んぅ……ん、ん…っ」
 解からない、もう、何がどうなっているのか、さっぱり解からない。
 どれほどの間そうしていたのか解からないが、ようやく唇が離れた頃には、息がすっかり上がっていた。
「…止まったな」
「……え?」
 ぽつりと呟かれた言葉に、金澤さんを見れば、酷く優しい目と視線がかち合った。
「涙」
「あ…」
 確かに、止まっている。余りの驚きと、混乱のせいなのかも知れないが、確かに。
 でも、涙を止めるためだとしても、やりすぎだ。
 どうして、こんな。
「お前さ…」
「は、」
「俺のこと、好きなのか?」
「っ!」
 完全に不意打ちだった。
 そもそも、今日起こったこと全てが不意打ちのようなものだが、それでも、そんなことを聞かれるとは思わなかった。
 だから。
 隠す余裕なんてものはなかった。
 自然に、顔が熱くなる。今までに無いくらいに、酷く赤いのだろうということは、鏡を見なくても解かる。
 それが熱のせいじゃないなんてことも、この状況では明らかだった。
「…マジか」
 聞いておいてこの人は、驚いた顔をしてそれでもこちらの顔をまじまじと見つめてくる。
 見ないで欲しい。
 視線を避けるように顔を背ける。
「いつから?」
「……」
「まさか、学生の頃からか?」
「………」
 沈黙が肯定になってしまうことは百も承知で、しかし、言い訳も嘘も思い浮かばなかった。
「……ほんとに、マジかよ」
 言葉だけで、どう思っているのか悟ることは出来ない。だが、顔を見ることも出来ない。そこに浮かぶのが嫌悪だったら、きっと堪えられない。
「吉羅、こっち向け」
 そう言われても、素直に向ける筈が無い。
「吉羅」
「……」
「こっちを向け。吉羅」
 それでも、何度も呼ばれれば、逆らえない。
 ゆっくりと、顔を金澤さんの方に向ける。
 其処に浮かんでいたのは嫌悪ではなかった。
 しかし。
 複雑な感情が、滲み出ていた。
「お前のことをそういう風に考えたことは無い」
「…はい」
 それは当然だろう。男同士で、学生時代からの付き合いのある相手を、普通は、そうは見ない。私の方がおかしいのだ。
「でもな、嫌じゃないんだ。だから少し、考えさせてくれないか」
「か、なざわ、さん」
 これは、都合の良い夢では無いのだろうか。そうでなければ、一体何だ。
「俺は、お前のことをちゃんと考えたい」
 また、視界が滲んで、涙が溢れる。それもまた、舌で舐め取られて、熱が上がった。
 この熱は、一体何処へ行くのだろう。
 きっと、冷めることの無い、この熱は。


Fin





小説 B-side   金色のコルダ